歴史探偵 諏訪欧一郎の事件簿 ~織田家の先祖たち~ 第八夜 | 李厳さんの独り言

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神崎「先生、毎回思うのですが…」

諏訪「うん?」

岩田「いつも一週間以上経ってから、ブログ更新しているのは、調べておるからかの?」

諏訪「いや、違う。 すでに史料はまとまってるよ」

ケン太「だったら、とっとと更新しようよ」











諏訪「さて、今回は(織田備後守敏信)についてだね」


神崎「前回、敏信は織田家の歴史を考える上で『踏み絵』と…」


ケン太「どゆ事?」




諏訪「その前に、敏信の家系図を明示しようか」


【織田伊勢守(岩倉系)家系図Ⅰ】
敏信━信安━信賢


ケン太「…あれ?」


岩田「何か…気づいたかの?」


神崎「いや…、信安と信賢親子は、信長の若い頃の人たちですよね?」


諏訪「そうだね」


ケン太「でも、信安の父敏信の『敏』って…」


諏訪「そう! まさにそこが問題なんだ!!


ケン太「うわっ、ビックリした」





岩田「江戸期の織田家系図を見ると、全て(敏信は大和守敏定の子で信安の父)という位置づけになっておる」


【織田伊勢守(岩倉系)家系図Ⅱ】
敏定━敏信━信安━信賢



神崎「『敏』は、父とされる大和守敏定から譲られた…という解釈ですね」


諏訪「ところが『敏』の偏諱は、先代の主君斯波義敏の一字だから、勝手には譲りにくい」


ケン太「主家を蔑ろにする行為だから?」


諏訪「そう。 しかも敏定が明応四年(1495)に没した時、斯波義敏はまだ存命だ」




岩田「さらに前々回にも書いたが、斯波義敏は家中に嫌われておったから…」


神崎「あえて『敏』の字を隠居の義敏から貰うとも考えにくいと?」




ケン太「…すると織田敏信は、斯波義敏から直に一字拝領した世代だと?」


諏訪「うん、まずは敏信が斯波義敏から『敏』の一字を受けられる時期を考えてみようか」


享徳元年(1452) 斯波義敏、義健の跡を継ぎ斯波家総領となる
長禄三年(1459) 長禄合戦に敗れ、子の松王丸に家督を譲る
文正元年(1466) 斯波義廉から家督を奪い返す
文明七年(1475) 越前で朝倉孝景に敗れ、京に送り返される
(この頃より、子義良が前面に出てくる)



岩田「ついでに、義敏の子斯波義良の略歴も書こうかの」

文明四年(1472) 元服して、『義良』を名乗る
文明十五年(1483) 清洲に入城
文明十七年(1485) 家督を継ぎ、『義寬』を名乗る





ケン太「という事は…

義敏から『敏』を受けられる期間
1452~1459、1466~1475
義良から『良』を受けられる期間
1472~1485


…という事だね」




諏訪「もっとも、政敵斯波義廉の『廉』の一字を残している斯波家中が見当たらない事から…」


岩田「義廉が斯波家総領だった時代に元服した人も、後に改名した可能性はある



神崎「いずれにしても、1452~75年辺りが、『敏』の一字を拝領できる時期なんですね?」






諏訪「もう一つ、ヒントがある」


ケン太「へ?」


岩田「万里集九という禅僧の詩集『梅花無尽蔵』では、文明十七年(1485)、清洲の敏信宅に呼ばれた際の記録が残っておるが…」



尾之清洲城備後敏信第犬追物、八日、犬巳超縄箭各飛、長保髯検見有天機、勿論遠近疏南北、八以前三百疋時…




諏訪「ここで万里集九は、敏信に『』…すなわち長い頬のヒゲを特徴として見ている」


神崎「…って事は、あまり若くなさそうですね」


諏訪「仮に30歳なら1456年生、無論それ以上なら『敏』の一字を受けられる世代だね」







ケン太「…ちなみにさ」


諏訪「うん?」


ケン太「息子の信安はいつの生まれなの?」


岩田「よく判っておらん」


神崎「えっ?」


諏訪「だがヒントはある」


ケン太「ヒント?」


諏訪「ああ、後に信安の子信賢が、旧家臣筋だった山内一豊を頼って土佐に行き、同地で没した時、慶長十六年(1611)で享年78歳だったとしている」


ケン太「って事は…え~と…え~~と…」


神崎「天文三年(1534)生。 信長と同年ですね」




岩田「それの父じゃから…信長の父織田信秀らと、さほど変わらない可能性があるの」


諏訪「もう一つヒント。 蜂須賀正勝の家臣稲田植元の正室は信安の孫だが、寛永十八年(1641)まで生き、96歳で没している」


ケン太「って事は…え~と…え~~と…」


神崎「天文十五年(1546)生。 武田勝頼と同年ですね」




岩田「ケン坊は計算が遅いのぅ」


ケン太「う、うるさいな…」


諏訪「1534年生の嫡男と、1546年生の孫娘がいるとなると…」


岩田「1500年代の一ケタ世代(1500~1509)辺りじゃろう」


諏訪「参考になるかは不明だが、江戸末期に刊行された『尾張名所図会』では、信安は天正十九年(1591)に、85歳で没したとあるね」


ケン太「って事は…え~と…え~~と…」


神崎「永正四年(1507)生。 大内義隆と同年ですね」




岩田「ケン坊…、算数は計算機に頼ってばかりじゃから、そうなるんじゃぞ」


ケン太「う、うるさいな…」







神崎「う~ん、1485年に頬髭生やした敏信と、1507年に生まれた信安が…親子…」


ケン太「歳の差ありすぎでしょ」


岩田「江戸時代の人も、そう考えたんじゃろう」



諏訪「だから、例えば【寛永諸家系図伝】などは、敏信を敏定の子にして、信長の祖父信定と兄弟…という扱いにしたんだろうね」



【寛永諸家系図伝・織田家系図】
久長

敏定
┣敏信━信安━信賢
┗信定━信秀━信長






ケン太「そろそろ、前回の話に戻ろうよ先生」


諏訪「そうだな… 織田敏信は織田弾正家の人間だとしたら…

【織田弾正忠系図】
直信━○○━良信━信定━信秀━信長


…の、○○の部分に入るか?だが…」


ケン太「入るの?」




諏訪「入らないと思う」


ケン太「ありゃりゃ…」



諏訪「直信が、仮に病中の常松に侍った織田弾正なら、1400年代の一ケタ生まれになる」


神崎「信安のほぼ100歳上ですね」


ケン太「敏信は、直信とも信安とも歳が離れすぎている存在なんだね」


岩田「敏信・信安親子も、50歳ほど離れている事になるが、それが2代続くとは思いにくいの…」


神崎「って事は、良信と兄弟という事ですか?」


諏訪「だが、斯波義敏から一字『敏』を拝領している以上、嫡男でなくてはおかしい」



ケン太「敏信生きているのに、弟の良信が嫡男とは考えにくいよね」


諏訪「一応、弾正忠家を廃嫡された兄…という考え方は、できるかもしれないが…」






岩田「…敏信の戒名はどうなんじゃ?」


諏訪「ああ、忘れていた。 敏信は『龍潭寺殿清巌常世大居士』という名で葬られている」


神崎「『清巌』…、弾正忠家に間違いないようですね」


諏訪「ちなみに法名は『常世』だけど、史料によっては『常也』だったり『常巴』だったりするが…」


ケン太「するが…?」


諏訪「単なる字の書き間違いらしく、系図ではどちらか判らずに、『世』とも『巴』とも読める文体で書いていたりして、当時の人の苦悩が窺い知れるよ」


ケン太「まったく迷惑な家系だね、織田家って…」





岩田「一応、推定ながらの系図も掲載しておこうかの?」


諏訪「そうだね」


【織田弾正忠家系図(推定)】
直信

○○
┣敏信━━━━信安━信賢
┗良信━信定━信秀━信長





ケン太「大体、見えてきた感じかな?」


諏訪「そうだな… 次回で一旦、このテーマは締めようか」



~続~