みなさんには、いつか必ず会ってみたい人っていますか?
私にとって、その人はまさに、細谷雄一先生でした。
高校2年生の時、「歴史認識とは何か」という本を読んで、その著者である細谷雄一という人物を知りました。歴史的事実とは何か、という問いに対して、“歴史とは 客観的な事実というよりも、それを作成した者による歴史認識が色濃く反映されるものであること” を私に教えてくれたのです。そこから、「慶應に入って細谷先生から習う」という私の目標が生まれました。
AO入試の面接試験の日、廊下で面接室に案内される直前、部屋で待っている教授がもし細谷先生だったらどうしよう…と緊張と期待が膨らむなか、ふいに自分の前を通り過ぎて行く細谷先生に気づいたら釘付けになっていて、遠ざかっていく背中をぼーっと目で追うことしかできなかったあの時。
そしてその約2年後、ゼミの入会試験、再び面接室の前で、やっと細谷先生と話せるんだ…!と熱い思いを噛み締めたのがもはや1年前。
そして今私は、細谷先生も教鞭をとられたことがあるフランスのパリ政治学院に留学をしています。
あ、紹介が遅れました、16期の大木まり子と申します。16期の皆様、ブログの提出が遅れ、大変申し訳ございませんでした。フランスから、深く、お詫び申し上げます。Je suis désolé.
というふうに、思い返すと、何かを学びたい、というモチベーションにはいつも細谷先生が関係していて、改めて、細谷ゼミに在籍させてもらっていることに感謝したいなと、そしてそのチャンスを掴むために努力してきた自分を褒めたいなと思うわけです。
ここまで読んだみなさんは、恐らく、やべぇ細谷信者がいる、とドン引きされているのではないかと思いますが、私が細谷先生に憧れているのは、決して先生の思想や主張を盲信しているからというわけではなく、細谷先生の人となり、人間性を尊敬しているからなのです。
歴史や政治を語る人というのは、自分の確固たる信念や主張をもっていて、難しい、理屈っぽい、なんか怖い。
こんな漠然としたイメージというか偏見というか、私にはあったんですけど、細谷先生はその対照なんですよね。
いかにコントロバーシャルな議論をしていても、細谷先生の雰囲気は常に余裕感、口調や表情もおおらかで、敵を作る話し方をされないんです。それでいて、主義主張ははっきりとされていて、何が言いたいのか真っ直ぐ伝わってくる。かっけぇなぁっていつも思いながら聞いています。
この余裕感、おおらかさはどこから来るんだろう、先生のようになるにはどうすればいいのか、と、ゼミを受けていた時は疑問に思っていました。
そしていざ、自分が留学に来てみて、細谷先生の人となりが、異国を渡り歩き、多様な人々と交流してきた経験に依拠しているのではないかと、誠に勝手な分析の結果、分かったような気がします。
そのきっかけは、私の滞在先である、アラブ系ムスリムのホストファミリーとの会話でした。
ある日、ホストファミリーが私に尋ねてきました。
「日本はディクテイターシップよね?」
………え???
そして追い討ちの一言。
「中国と変わらないでしょ?」
数秒間固まってしまったのですが、ハッと我に帰り、
「違うよ、日本は民主主義だよ!」
と言い返しました。
ホ「でもあなたたちは政府に反対できないんでしょう?だって運動を起こすことが禁止されているから」
私「禁止されてないよ、ちゃんと表現の自由がある」
ホ「じゃあなぜ運動を起こさないの?」
私「それは……運動を起こそうとしないから」
ホ「あなたたちは日本の政治に満足しているということ?」
私「そういうわけではないけど…」
ほぼ毎日政治の話をして、四六時中デモが起きているフランスで、私が日本を民主主義国家だと胸を張って言える説得力はありませんでした。
それでも、日本は独裁国家だと思われることにとてもムッとしたし、日本について何も知らないのに決めつけるなよ!って思ったんです。
しかし、実は私も彼らに同じようなことをしていました。
ある時私はムスリムのホストファミリーに対して、
「イスラム教はジハードという概念があるから、戦いを正当化しやすいのでは?」
と聞いたら、彼らは、
「それは私たちの宗教ではない。多くの人はイスラム教徒をテロ集団だと誤解しているけど、私たちはテロリストではない。」
と教えてくれました。
あぁ、私もよく理解してないんだな。
結局、どんなに国際関係を勉強していても、その国や宗教、文化がどういうものなのかを理解するためには、そこに存在している“人々”に目を向けなければいけないのだな、と。
ホストファミリーと話していて、とても心に残ったセリフがあります。
You need to see our culture not with your eyes and heart but with our eyes and heart.
自分の目や心ではなく、彼らの目や心に映っている世界を見ること。
これは、細谷先生が大切にされていることなのではないかと思うのです。
歴史や政治はそれを語る者の意識が反映されていることを忘れてはいけない。
だからこそ、語っている人物がどのような時代に生まれて、どのような社会環境で生きてきたのかを知る必要がある。
ゼミでは、課題図書を読み解く時、その内容のみに限らず、それを書いた人の背景まで視野に入れて議論をしています。
分かりやすいイデオロギーや国家という大きい単位だけが独り歩きをして、世界を知った気になってしまうけれど、本当に世界を知るためには、そこに住んでいるミクロな人々と会話を交わすことで、彼らが自分たちと何ら変わらない同じ人間であることを知り、理解したいと思う心が必要なのではないかと。
異なる環境や文化、そして人々を理解できる懐の深さと、他人に流されず自分の意見をしっかりともつ厳格さ。
この一見相反するような二面性が、細谷先生から感じていたものの受け取り方と発し方の正体なんじゃないかなぁなんて。
細谷先生のようなかっこいい大人になるために、私はゼミと留学を通してこの二面性を養いたいと強く感じています。
とまぁ、 「細谷雄一氏になるには」 なんていう大それた題を掲げて置きながら、半ば自分語りで終わってしまいました。
でもきっと、細谷先生に習えば誰しも、こんな大人になってみたい、という淡い夢を抱くに違いありません。私たちが細谷先生になる道のりは、まだだいぶ長そうです。
最後に、このような学び多い日々をおくれている今があるのは、細谷先生から習った知識と、私を明るく送り出してくれた心優しい16期のみんな、そして細谷ゼミという帰る場所があるからです。
留学を経て受けるゼミは、行く前とまた違った景色を私に見せてくれるでしょう。
新たに迎える17期のみなさんと会えるのを楽しみにしながら、私も今を頑張りたいと思います。
それでは、また会う日まで。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
À bientôt!!!