yamatoのブログ


みなさんご存知の沢田貴博選手(中央)

今年43歳。


いつもチームは助けられます。


私が一番印象に残っているというよりも一番助けられたのが

昨年の12月25日(日)

東日本トップクラブリーグ チャレンジマッチ<熊谷>

対常総クラブ戦。

この試合に負けるとトップクラブ降格の試合でした。


それ以前に

人数がそろわず、[棄権]のところまでチームは追い込まれてました。


直前の試合棄権は、チームとして

関東協会からのペナルティーが大きく

それは、新潟アイビスの消滅をも意味するものでした。


シーズン途中、沢田さんは、怪我を負い<マンダラ東京戦で>

このチャレンジマッチには出場不可能だったのにもかかわらず

怪我をおして出場してくれました。


責任感とかチーム愛とか、そんな言葉ではかたずけられない

大変な行動でした。


チームの恩人です。


沢田さんのプレーは、ご存知のとおりですし、私が説明するところではありませんが

ほんと幅広くチームに貢献してもらっています。


だれがなんと言おうと新潟アイビスのレジェンドは、沢田さんに間違いありません。



突然の訃報にどうしていいのやら。


神丸は、5月26日早朝 車にひかれ亡くなりました。


お父さんが無くなったあと、お母さんを助け

がんばって

お母さんの為に家を買ってあげ


仕事では、正義感強く東日本大震災のほんとの直後、福島に誰も行きたくないところ

率先してフォローに行き、


約束の時間に寝坊してしまうお茶目なところもありましたが、


ほんといい奴でした。


毎秋は

トップクラブの帯同レフリーを何度も頼み、私と一緒に自家用車で熊谷や首都圏の会場

に行く事が多かった。

その社中、ラグビーのルールや、レフリー界の事、プライベートでは家族の事、将来の事


彼との語らいが楽しかったです。


下の写真は、去年マンダラ東京戦で帯同レフリーに一緒に行ってもらった時、

劇的勝利したあとに、神丸に撮ってもらったものです。


ほぼ誰も勝てないだろうと思って望んだ試合。

登録メンバー22人も組めない状態で

望んだ試合。

ラグビーは近年、15人というより22人で行うスポーツ。


リザーブがいないということは、人数負け、体力負け、試合にはほぼ勝てません。

新潟アイビスはそんな中、クラブ員のがんばりで勝利することができました。


あんな感動した試合はありませんでした。


彼は、私にとって勝利の[女神]でもありました。


あー、なんで、なんで死んでしまったの

また話したいよ、会いたいよ。


5月6日の群馬選抜戦

日本協会レフリーの河野さん交えて、東海大先輩の[工藤さん]の

話を

3人でしたのが最後になりました。


天国で新潟県のラグビーを見守ってて下さい。






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私はこの人の事を忘れない。

まもなく4回目の命日が来ます。


乙川さんは、

2007年5月2日に癌のためになくなりました。


世の中自ら命を絶ってしまう人もいますが
乙川さんは最後まで癌に立ち向かった方です。


私が今の会社にい続けているのも乙川さんの影響です。


2007年2月の朝の事です。

当時、乙川さんは私の後ろの席でした。


具合がそうとう悪く、振るえる手で書類を書いていました。

ずいぶんと今日は咳き込むし、大丈夫だろうかと心配してると
乙川さん、

[細野 悪いけど病院連れてってくれないか]と頼まれ、

私は、車でがんセンターまで送りました。


その車中、

乙川さんが[細野朝忙しいのに悪いな]、

[俺、仕事好きだっけさ・・・迷惑かけてすまんな]、

[俺、物欲もないしさ、仕事が本当に好きなんさ、悪いな]

と言ってきました。


すばらしい人間味を実感しました。


その後乙川さんは、長期の入院となってしまい、私はちょうど今頃の4月にお見舞いにいきました。


奥様もいて、仲むつましく、乙川さんご自身も体調が良いみたいで、

私は、このまま癌が治ってしまうだろうと思うくらいでした。


その後私は仕事の悩みを打ち明け、

奥様と一緒に考えていただき、乙川さんが[細野さんならやれるっけさ]なんて言ってくれて

自然に自信をつけて頂きました(その後仕事の成果が出ました)


そして5日後、乙川さんは急変してしまい息を引き取ってしまいました。


今思えば、あの5日前のお見舞いは、乙川さんが病室に呼んでくれたのかなとは思います。

私のことを心配してくれて。。


今こうして生きてられるのも乙川さんのおかげだと思っています。


乙川さん、また5月2日にお会いしましょう。