日々、
『放送』という場所で
よく調べもせずに
私見を話すコメンテーター。

真偽見境なく
感情論のみを
押し付けるコメンテーター。

適当な嘘と

『政治的な意図をもった演出をバレないようにやっている』

と喋ったコメンテーター。

常日頃、
正確な真実を
知らせるわけじゃなく、
『雰囲気』だの『空気』だの
相手の背景を伺いながら
秤にかけていたコメントは、

『示しをつけた』

ということでしょうが、
自ら暴露した『報道の演出』に
言及はなかった。

“オレらすげーだろ?”
ですよね。



ジャーナリストは、
嘘をついたら

【信用は戻らない】

のです。


これは
世界の共通認識です。


私たちの国は、
失敗を許された人間や、
スネに傷のある人間は、
誰かの言いなりになりがち。

公共の電波を使って撒き散らす
いい加減な演出デマ放送は、
私たちに直接不利益が及ぶから

厳しくでたほうがいい。

後でお詫びをすれば
何を言ってもいいわけではない、と番組制作者たちと作ってきたけれど、

ここは
『何を言ってもいい』
みたいな場所です。


仮に
取材した上での誤報であれば、
必要以上の謝罪を求めず
訂正だけで
いいのかもしれませんが

今回は、
取材で確認した『裏付けのある事実ではなかった』というデマと、テレビ放送番組の局員ディレクターとして、日頃より『意図を匂わせない』ように、真意をステルスにして『演出して放送してきた』という、生放送での自白であって、

実は『誤報』でさえない。

裏付けのない憶測情報を軸に、侮辱行為、毀損行為、情報誘導、情報操作を公器の場で使っていた『報道の演出』を、テレビ局員ディレクターをやってきた演出側からの、本人によるカミングアウト。

この怖さが
まだ伝わっていない。


『誤報は謝罪しなくてもいい』

という
番組内で訂正すれば済むという特権さえなくなる可能性さえあって、報道、情報を扱うメディア側の人間こそ、今回のテレビ局員による発言は毅然と踏み込んで、正確に報道しなければならない事案。

それが真の公益性

『情けは人の為ならず』

だからです。

他人の不正は嫌うのに、
自分たちが得する不正は大歓迎、という意識だから、演出を使った不正確、不公平、不公正、『3つの不』が、朝っぱらから流されていたのです。


正確に伝えなかった
私の裁判報道含め、実際には大勢の方々が『情報の真実性』に強い疑いがあることは気付いていますが、

説明責任という義務は、
どこかへいってしまいました。

放送の任務を理解しながら、
意図して匂わせなかった過去の演出放送は何か、また、どのコメントか、どの企画か、どの番組制作に何の意図を加えて演出していたのか、

あの発言はここに、
『説明責任と義務』
がありますが、

ガン無視。

“オレらすげーだろ?”
ですよね。



意図があったり、
誰かへの悪意を形にした、
そのことを
認識している組織や人物ほど、

『意図はなかった』
『記憶にない』『無視スルー』

と逃げ回る者の姿を
私たちは
日常的に目にします。

好き放題やって、
適当に発言しておきながら、『実態は隠す』が当たり前になっているのです。

堂々と暴露しながら
肝心なところを言及しないのは、意図が匂わないように加工された『報道演出情報』が、引き続き『放送される』ということを意味していますよね。



権力の監視に切り替え、
日々被害者の声を伝え、全力で弱者を救済する果敢な姿勢、公益性が高く頼もしいワイドショーもある。

一方、

未だにまともな放送が苦手で、
無差別な侮辱を情報にして、毀損行為を繰り返しては不利益を与え、誰のためにもならない無意味なワイドショーがある。

同じ
テレビ放送のワイドショーでも、
絶賛される『救済番組』、
進歩しない『舌禍番組』。

視聴率が必ずしも
『放送内容の評価』が対象ではないことまで、今回、可視化したのではないでしょうか。



テレビ放送には
放送責任と義務があります。

・番組企画会議
・承認決定
・事前確認
・放送審査

が必要な
特殊な情報媒体なのです。

『あの発言で謹慎10日、番組内で席換えした』という、校則レベルのような?難解なスタンスを新たに見せていたけれど、巧みな演出をしても、

ジャーナリストは嘘をついたら
【信用は戻らない】のです。