汚いことしてきた連中は 
真実が広まることを恐れ、

監視されていることを
嫌い、
キョロキョロしています。

小汚さを隠そうと
一見、小綺麗に見せるけど

バレています。

金欲しさに人を騙したり、
加害者なのに被害者にすり替わり、ウソを付いて欺いた者の逃げ隠れは、

一時的なもので、

子や孫の代になって
真実や証拠等を
公然に報告されても
仕方がないですよね。

『つい立して隠し、相手を悪者にしてしらばっくれれば、誤魔化せる』

誤魔化せないですよ。


『侮辱罪』『名誉毀損罪』

の厳罰化が話題です。

他人に過度な干渉で深入りしたり、執拗に介入する人がいますが、なぜ無関係な立場で貶して関わりを持とうとするのか。よく調べもせず、どうして一方的に自己中心的な物差しで他人を断定し、他人を評価し始めるのか、疑問に思う放送、SNSを見かけることがあります。

『顧客吸引力』

売上げ、フォロワー数等の
数字獲得に繋げる
自己利益のためでしょうね。

これは
ネット上の書き込みだけでなく
『報道』でも同じ認識です。

記事を掲載する、
放送をする、また
掲示板やSNSで発信することは、

『公道、広場』

と同じです。

公共の場で公然と
プライバシー侵害する表現や、
誰かの社会的評価を低下させる、意見、私見を世間に知らせる表現は、

街の交差点や広場、公道等で大声で演説したり、ビラを撒く行為と同じことです。


『責任の所在』
はどうでしょうか。

例えば、

記事の責任は、
発信者の署名、筆者の記載の有無で異なるのではないかとする議論があります。

署名がある記事は、
発信者に責任があり、
また、署名がない記事は、
発信媒体(会社)の責任か?
という疑問がありました。

その答えは、

署名の有無ではなく、
記事を書いた者の
『立場』によります。

どんな記事にも必ず、
制作、文筆した人物がいて、
その編集、表現には

責任が伴います。

テレビ番組放送の場合の責任も
同等です。


公然で個人を馬鹿にしたり
名誉や信用を傷付ける自由など
認められていません。

本来、
表現の自由は

『権力の監視』

に使うもので、
その立場にある人の不正行為を批判するためのものであるのに、履き違えた解釈で使う『ならず者』がいます。

そして、

『批判』と『誹謗中傷』
は簡単に見分けがつきます。


批判は、
正確な事実に基づいた
客観的論理に対して、

誹謗中傷は、
正確な事実と異なり、主観的に個人の尊厳を侵害し、感情をあおるワード、侮辱的な演出がなされた表現です。

公然で個人を罵倒して
傷付ける権利など、誰にも認められていないから、謝罪と賠償が請求されるのは当然です。

それは、
権力者が相手でも
同じです。

例えば、

『政治家』を批判しても、その『個人』や『私的生活』『プライバシー』を罵倒したり中傷したりすれば、 一線を超えた犯罪です。

犯罪意識が欠落し
自己中心的な判断をする
ならず者ほど
『表現の自由』
をほざき、主張しだすのです。


では、

インターネット、SNSではない『誹謗』や『中傷』はスルーできるのでしょうか。


ネット上の書き込みによる
個人への中傷を問題視して、メディア報道による個人への中傷を放置していますが、

ネット上の書き込みを
法律で規制するのなら、

『間違った報道』

も同じです。


『報道の自由』『知る権利』

は、特権を享受しようとする側の、都合のいい言い訳の解釈で使う人がいますが、

メディア報道は、
視聴者や読者、閲覧者に、公正で正確な情報を『提供する立場』が大前提です。

そこに
真実性、公共性、公益性が
あるのかを
責任者の立場として
誰が判断したのかが重要です。

特に放送メディアは、

【放送法】に照らし合わせて、全番組の放送内容を承認、管理する基準を今一度、見直す運営の責務があり、

番組内容の企画、
制作段階で細かく確認し、
放送の承認を得た放送内容が、

番組の収録や生放送に
問題なく進行しているか、
プライバシーの配慮、
デリカシーに
欠けていないかを
制作、管理する責務は、
各番組の独立性から

各番組責任者が
負うものです。


たったひとつの
間違った情報や、あえて誤認識させる放送、プライバシーを抉る報道は、

何の落ち度もない企業、
個人が、取り返しのつかない甚大な社会的制裁を受けてしまう、デジタル情報社会、その社会的責任は極めて重いと、

私が裁判経験で得たことです。


『情報のリテラシー』

難しい内容のテーマですが、
情報社会にいる私たちは、
避けようがありません。

情報を受け取る側は、
情報メディアへの知識を共通認識して、メディア情報の受け止め方、扱い方の理解を深め、万人が『言葉に責任を持つ』べき情報社会の転換期です。

受け取る側が
不正な情報を信じて
他者に伝聞してしまったなら、

情報を出した側は
誤解を与えたことを謝罪し、
公正な情報に
繰り返し訂正してほしい。

信じた側は
訂正された公正な情報を受け取り、既に投稿した内容を謝り、削除する。

情報を出す側、受け取る側
どちらも情報の扱いは同等で、
『適切に対処する』その前提で

自由に
『表現』できるのです。


報道した自由の、その内容に
『正確さ』『公正さ』『配慮』があるかは全くの別モノで、信じるも、疑うも、受け取らないのも、

受け取る側の『自由』です。

自分一人の中で
思い浮かべたり、想像する『個人の思想』は自由ですが、情報のリテラシーとは、自分の思想を他人へ発信した時点で、

『責任』

が生じるのです。