新しい風景と感動を運んだ
東京五輪、パラリンピック。

挑戦する
無限大の可能性、
画面からも伝わる
心意気、

アスリートが魅せた夏。


『限界なんて誰にもない』


そう思わせてくれた夏。

この夏、東京に招致した
五輪、パラのおかげで
様々なことを知りました。


良いことも、
悪いことも。


残念ながら
常識を最も必要とする場所、
サポートする一部が、
実は一貫性、透明性が
全く存在しない

非常識を常識にした
『異常』だった事実。

またひとつ
目が覚めました。


アスリートの笑顔とは裏腹に、
コロナ禍でのスポーツ観戦をテーマとする議論はなく、納得感が得られないまま、なし崩しにされました。

甲子園の応援団含め、全国から何十万人が球場に訪れたか数字は出ていた。運動会、修学旅行、学校行事よりパラ観戦の方がなぜ安全安心なのか、各責任者からの言質をはぐらかされたまま、進められました。


なし崩して、はぐらかす。


出された情報は正確だ、
と疑いもなく無思考で
受け入れると、
取り返しがつかないなと
大勢が気付き、

なるべく
見ないようになってしまった
放送視聴。


今年、初めて
ネット利用時間が
それを上回った統計発表。

ここ数年で
次々と露わになった機能しない
自浄作用、横入りに
諦めがつき、

粗悪な情報が延々流され続け、それが文化になっている恐ろしさを想像するようになった、

私たちが知った夏。


『周りが言ってる』
『考える方がおかしい』

という『ゼロシンキング』で
国民全体を無思考にさせる。

『本当らしい』
『そうらしい』
『○○のようだ』

根拠のない憶測が
クセになり、
事実が存在しない、
誰が発言したかさえわからない

ソース元を示さず
展開する怖さ。

実態のない全体論。

わからない憶測、
害悪、悪影響は
もうたくさんですよ、
ということ。

冷静な客観的事実より、
雰囲気、空気だけで
同調を起こす不確かさ。

そうやって悲劇に進んだ
あの時と同じ文化。


今夏も同じこと。

社会を批評するなら、
正確に、慎重に、丁寧に
論じられる人が 
登場しなければならない。

『わからない』

と口にして、調べもしない人がいつまでも批評しても意味がなく、情報の確実な裏付けをしてから議論しないから、推測の『野次』しか垂れ流さていない薄っ平さに、大勢が気付いてしまった。

情報を扱う、その人物の
人間性、人格が、
より重要になる。

肩書きは立派でも
実のところ、よくわからない人物も登場し断定的な情報は信用していいのか、そもそも疑義がある。

番組が放送法に触れた事案の時、『再発防止に努める』と視聴者との約束を公言したのなら、自浄努力して真面目に取り組む具体的な姿勢を形で示すべきで、火消しに奔走し、場当たりで自爆する繰り返しが信用を喪失し、嫌悪感を深く刻み、期待しなくなり、遂に楽しめなくなった。


健康、生活、将来に関わる
時事的な情報を必要とする時代に、自ら信用を落とし、自らの非を受け入れない一定数が制作して流してしまう、危険性。

責任逃れでシラけさせ、
野次放送が独占し、
おかしな
プロパガンダの影響を
真に受けてしまう恐れ。

台本だったとしても、

『発言者』
『発言させた制作者』

に生じる社会的責任。

『自由』と名が付くものには
『責任』が伴い、
そもそも
デマ、ガセ、ウソ、
ねつ造、改ざんに
『自由』や『公益性』はない。


冷静で迅速な対応が
最も必要な非常事態に

『野次の域』
『憶測の域』
『感情の域』

今誰もが求めている
安心安全な情報が届かない。

情報の要は
必要性、速報性、正確性なのに
ほとんど得るものがないから
倍速、早送り、スキップ。

新型コロナ関連の情報が
約一年半
日々繰り返されているのに、
伝わらない緊張感。

私たちが知った夏。


緊急事態宣言中、
正確な危機感を伝えられない映像こそ、視聴者への裏切りで

情報の悪影響が
瞬時に拡がるデジタル社会では、
裏切りの責任は重くのし掛かる。

だから

無理に頼ることなく、
信用ある情報源、
納得できるメッセージは
自分で探す。

無責任に流した
一方通行のデマを
自らタブーとして扱い、
丁寧に訂正しない
火消しに奔走の放送スタンス。

発信には責任が問われ、
デマすら双方向で確認し、
誤情報を正確に暴いて解決する
ネット配信。

折れない心を
メッセージに乗せた
東京オリパラの夏、
確かな情報の選択、

私たちが知った2021夏〆