勝手な低評価を与えられ
創作された印象を
強く植え付けられた


歴史上の人物。


今も昔も
書き記された内容を
鵜呑みにしないよう、
その人物について
深く考えます。


人ひとりの人生、
人間の一生を、

簡単に評価するなど
できるわけがないと
思います。


現代人の考えでは
到底読み解けない
複雑な真実、

武士の世、その時代背景、
戦国時代だったことに
思いを馳せる人物。


父、武田信玄公亡き後、
家督を継いだ大将。

その姿は

カリスマの父を
越えるかのように
賢く、強すぎた故、
真逆の評価を残された
武将のひとりです。



おぼろなる
月もほのかに 雲かすみ
晴れて行くへの 西の山のは





武田勝頼公

不運な名将の
辞世の句、

何度も
読み返してしまいます。


やがて霞も晴れ、
月は西の山の端へと行く。乱世を戦った壮絶な人生の時間を静かに見つめた姿が浮かびます。


前政権、父、信玄公の
負の遺産を押し付けられ、時代に合わせた政策にしようにも、信玄公の重鎮、側近らに反発され協力を得られず、思うように実行できませんでした。

父、信玄公が
あまりにも
偉大な存在過ぎて
家督を継いだ勝頼公は
度重なる家臣の裏切りにも
遭いました。


武将大名は
身内に注意を払い、家臣の動きに用心した時代。代替わりとして受け継ぎ、我が身を護る礎をいかに盤石にするか。

どんな時代に生きるにしても、
必要不可欠な


『護り』


いつからか疑うこと自体を
『良くないこと』
と教育されるようになり、現代に生きる私たちは、身近に忍び寄る悪事への用心深さ、警戒心を忘れがちです。

今一度、

『疑心』

はこの国で生きる
自己防衛の基本だと
肝に銘じ、

隙を突かれないよう
心することが
歴史からの教えです。


勝頼公は
信玄公の四男で側室である諏訪御料人の子、諏訪家の名を継いだのち、跡目のいない武田家の期限付き後継者になってしまいました。


『正当な跡継ぎではない』


という部分も、
武将として
色々が邪魔しました。


数々の戦で
結果を求められる中、
想定外の高い結果を残し、
織田信長公、徳川家康公にも一目置かれ認められた事実があるにも関わらず、それでも後世、評価されなかったのは何故か。


信玄公を越える活躍、
高い評価を受け入れない、
家臣、重鎮、側近らの

強い妬みが
垣間見えます。

武田家に残る
『甲陽軍鑑』では、

『強すぎたる大将』
と評される一方で、


『武田家が滅んだのは、
勝頼のせいだ』


と低評価が伝えられていますが、

人の功績を
強い妬みで評価せず、
難癖を探し、受け入れない
認め合うことができない
身内の嫉妬心や裏切りで
内部崩壊していったと
考えるのが自然です。


戦国の世の栄枯盛衰。


父・信玄公の、
生前の政策に原因があったのではないかとする資料も残っています。例えば信玄公は上杉家と対抗する中で、北条家との断交を行う等、歴史を動かす場面での大きな決断は後に重くのしかかりました。

また武田家の継承は、
息子の勝頼ではなく
幼い孫の信勝公を
なぜか後継に指名、

勝頼公は
あくまで陣代、
後見役という中継ぎ役に
させたこと。


これらの継承の措置や判断は、
武田家に大きな影響を及ぼしたと考えられています。


父亡き後、

当然周りは舐めてかかり、離れたり、失脚させていく勢力が生まれるのは他の武家でもみられる妬み活動、歪みの傾向です。


信玄公が、
自分の重鎮に
勝頼公を託せば
武田家の結果は
違ったはず。


今に伝わるもの、
功績や事実を正しく伝えず

『武田家を滅亡させたのは
勝頼公だ』

とする情報こそ、

誰が描いた意図かと
改めて考えさせられます。

愚臣、腹心のある側近ほど
せっせと
改ざん記録に勤しみ
残していくのです。


汚名を着せられ
語り継がれる
多くの偉人たち。


ひとりでも多くの
汚名を読み解き、
史実の真実に迫りたいと
思っています。


諸説あるにせよ、

残された言葉の中に
その人物の真意、

『人間の叫び』

が宿っているから。


武田家、
武田勝頼公は武勇高く
評価されるべき

『名将』です。