わたし的、テレビ番組の歴史 5

1964年 その1

「東京オリンピック」で

1年が過ぎて行ったような

我が家にも事件が2つ

一つは私自身の事です

 

 1964年の日本は、アジアで初の開催となる「第18回東京オリンピック」で、日本中は沸き立っていました。

 オリンピックに合わせて、10月1日に「東海道新幹線」の開通、3日には柔道のメイン会場だった「日本武道館会館」開館 等々。1月29日から行われた「第9回冬季オリンピック・インスブルック大会」11月8日からの「東京パラリンピック」と1年中オリンピックでした。

 

 その他にも、4月1日から日本人の海外渡航自由化になり、観光目的でパスポートがハック、気象庁富士山レーダー完成、新宿駅に日本初のコインロッカー設置

 ”カルビーかっぱえびせん””森永ハイクラウン””ロッテ・ガーナチョコ””不二家ネクター”などが、発売されました。シンザンが三冠馬になったのもこの年でした。

 流行語で、「カギっ子」や、赤塚不二夫漫画の登場人物・イヤミがするギャグ「シェー」などが。シェーは学校でも大流行でした。

 

 また、11月9日に自民党第5代総裁になった佐藤栄作がそのまま総理大臣になり、1972年まで政権を担当していました。私の小中校は、ほぼ佐藤総理の時代でした。

 4月28日にあの「平凡パンチ」が創刊。実は私は、20年後にフリーライターをしている時、本誌に原稿が掲載されたのではないですが、日本一原稿料が安いフリーライターという事で取材を受け、記事が掲載されたことが有りました。

 この年の映画界・音楽界・出版界を全て征したのが、大学生の河野寛(コウノマコト)さんと、軟骨肉腫に冒されて21年の生涯を閉じた・大島みち子さんの3年間の文通が書籍化され、前年の12月25日に発売された「愛と死をみつめて」でした。

 まず正月明け1月14日に、ラジオのニッポン放送・ラジオ劇場で、まこと役・山本 學、みち子役・北沢 典子で、ラジオドラマが放送されました。

 テレビでは、TBS東芝日曜劇場で、4月12日と19日に前後編として放送。石井 ふく子、橋田 寿賀子のゴールデンコンビで、マコ・山本 學、ミコ・大空 真弓で。放送後1年間で4回も再放送された人気ドラマとなりました。その後もテレビドラマとしては、何度か違う出演者で放送されています。

 次に音楽界でも。プロデューサーの酒井 正利がベストセラー本を歌にしようと考え、書店で出版直後の原作本と出会いました。若い素人の往復書簡という体裁に新鮮な魅力を感じ、著名のベテラン作詞作曲家でなく、あえて若手作家が曲を作ることで素直に表現できると考え、大矢 弘子(当時レコード会社に詩を投稿していた大学4年生)に作詞、土田 啓四郎(新進作曲家)に作曲を依頼しました。歌手は、12歳でコロンビア全国コンクール第1位となった青山 和子(当時18歳)を起用。7月5日に日本コロンビアよりシングルが発売されます。その曲は、この年70万枚以上を売り上げ第6回日本レコード大賞を受賞

 映画では日活が、マコ・浜田 光夫、ミコ・吉永 小百合で9月19日から公開。配給収入のトップは、東京オリンピックの記録映画だったのですが、この作品は、35日間の長期公開も有り、47,500万円でドラマ作品の中では断トツでした。(主題歌は吉永小百合で、青山和子版とは違います。)

 ちなみに、私が最初に会社員として入社した芸能プロダクションでは、青山和子さんのアシスタントマネージャーを務めていた時代も有りました。いつもショーで青山さんがこの歌を歌う時は、目に涙を浮かべながら、そして観客も同様に……。本当に歌の力を感じる曲でした。

「愛と死をみつめて」は、160万部の売り上げを上げ、1964年の年間ベストセラー第1位になりました。

結局1964年は、「東京オリンピック」と「愛と死をみつめて」の時代だったような………。

 レコード売り上げは、まだオリコン設立前なので資料によっては、坂本九の「明日があるさ」「愛と死をみつめて」がどちらかが1位となっています。

 

 私の一大事もこの年に起きていました。幼稚園を卒業し、小学校に入学となる年でしたが、ナント!

 小学校入学のための身体検査で、私は「小児結核」という病気にかかっている事が発見されてしまいました。大変です。当時は、結核はまだ死を覚悟する病気でした。すぐに入院という事になりました。前年に交通事故に遭い3か月の入院をしましたが今度は………。

 入院の時、病院の廊下を病室まで、大声で泣きながら手を引っ張られて行ったことは、今でも鮮明に覚えています。

まだ6歳なのに、私は2度も死にかけたという事でしょうか。

 結局、私の入院は半年間とでした。ですから私は、幼稚園の卒園式と、子供を持つ親が一番楽しみにしているという、小学校の入学式に参加していません。3月から8月まで入院していました。

 母親は、雨の日でも毎日見舞いには来てくれました。当時は分かりませんでした、今思えば感謝しかありません。

 退院して普通に2学期から学校に通ったのですが、後から聞いた話ですが、これは大変な事だったそうです。本当ですと、丸々1学期分休んでいるので、出席日数の関係で進級できないのですが、父母と学校がとの話し合いの結果、1年生だから何とかなるだろう、とそのまま進ませて入れていたのでした。本来なら私は小学校からダブりだったのです。

 入院していた病院が大きな病院だったので、院内学習で小学校1年相当の勉強をしていた事も助かりました。

 

 我が家でも大変事が起きました。

 我が家の白黒テレビは、父親が私の誕生を記念して購入した。という事は前にも書きましたが、今度は……。

 この年、我が家にはカラーテレビが入りました。今迄の4本足の白黒テレビは違い、デンとした大型の箱タイプで、茶の間が突然狭くなったような感じです。

 父親曰く、私の小学校の入学祝と、半年の入院から無事に生きて退院できたお祝いと、東京オリンピックをカラー放送で観たいという父の希望と、三つの意味合いで無理して購入したようです。

 1960年からカラー放送は始まっていましたが、当時カラーテレビの普及状況は、正式な数字的なものは無く、資料によれば、1966年が0,3%の普及率だという事でしたので、物凄く珍しい幸せな家族だったかもしれません。

 

 実際の番組ついて書く前に、時代と我が家の事が長くなってしまいました。すいません、番組の事は次回に……。

 子供の頃に、私が一番好きだった番組も、1964年から放送開始しています。

 但しこの年は、自宅でテレビを観られるようになったのは退院してからなので、ご紹介できる番組も少ないかもしれません。

 こちらも、ごめんなさい。