私のヒストリー 58

初めての広報の仕事

今度は制作するのではなく

発注側です

 

 それまでの私の仕事は、発注を受けて広告を作る側でしたが、今度の広報という仕事は、発注側という初めての仕事となりました。

 私が就職した組織は、一般企業ではなく、当時どんどんシェアを伸ばしてきた、美容外科の広報部というところでした。

 

 私の勤めた病院は、全国展開をしていて(当時15院)、本部には、人事部・総務部・薬剤部・経理部そして広報部と5部署有り、本部で働いている事務系の人数が30名くらい、ドクターも30名くらい所属していて、看護師は全国で100名くらい働いている、業界ではトップクラスの美容外科でした。

 

 私の所属した広報部は、元看護士さんの院長の奥さんが責任者でいて、実際に仕事をするのが、ベテランの先輩と、私より若い男女が各1名の5人体制ですが、4人が仕事する、という感じだったでしょうか。

 入社暫くして、この奥さんは妊娠をなさったので、現場を離れました。

 私は仕事上はちょっとしかご一緒しなかったので、殆ど分からなかったですが、先輩の話を聞くと、広告制作はしないが、パーティーとか代理店からの招待とかの派手な事は好きだったようです。

 結局、この奥さんが現場を離れるので、欠員補充の募集で私が合格できたようです。

 

 まず、私は所属してから、どうやったらこの広報部で自分の存在意義を見出せるかを考えました。

 出稿広告は内部で制作していました。そして、代理店から出稿用の媒体として雑誌のプレゼンを受け、部内でOKとなると広報部で院長に対して稟議書を書き、了解を得たものに広告出稿をするという形です。

 院長の広告出稿方針として、原則雑誌のみで、TVですとか独自イベントを行う、何かのスポンサーに付く等の展開はNGなっていて、100%雑誌と、独自の書籍だけへの広告出稿となりました。例外として電話帳に出向していましたが、これも紙媒体です。

 

 大雑把にいうと、出稿媒体の雑誌選びだけが仕事のような感じでした。

 

 働き始めてすぐに仕事の流れとポイントは解かりました。では、私は慣れている広告制作をやることにしたのか。

 広告の制作は、若い二人に任せることにして、私が取り組んだのは、発注している媒体の効果面をリサーチし、適切な発行物かを調べることに力を入れました。

 今までは、代理店からプレゼンが有れば、そのまま出向していたらしいのですが、きっちり検討するという事です。

 もう一つが、事務所内では他の部署は院の運営に携わっているのですが、広報だけは実際に実務運営には携わっていないので孤立しそうなところを、各部署との仲をよくするような立ち位置をとることを考えました。これはお店をしていた経験から、他人と仲良くなれるポイントを知っていたからかもしれません。

 

 私が働き始めてから暫くして、広報部のメンバー構成がだいぶ変わりました。

 トップだった奥さんの代わりに、美容外科の老舗である銀座にあった病院の広報責任者の方がヘッドハンティングで加わり、先輩はそのままで、若い男性が退職し、新たに2名の新人が入職し、人事部から移動で男性1名が加わり、総勢7名のスタッフとなりました。

 いつの間にか私はサードのポジションで、実務系の責任者となっていました。

 新しいリーダーは、この業界に古い方で、各出版社の担当とも顔馴染みという事もあり、最初の出版社への挨拶周りには、私も一緒に連れて行って頂きました。1回だけですが。

 

 院では美容外科の他、男性用の形成外科、途中から美容歯科も加わり、地方院も増え、どんどん発展をしていきました。

 

 広告の制作は若手に任せていましたので、私は独自の媒体判断の数字的システムを作り、日夜良い媒体探しを考えるように、常に数字と睨めっこの状態でした。

 

 まず私の年頭の仕事は、色々な媒体へ広告出稿の予算振り分けが最初の仕事でした。これはいつの間にか私一人の仕事となっていました。

 当時院の年間広告予算の規模は、○億円という金額でした。これは凄いと思います。美容外科業界でも2番目の規模と聞いたことが有ります。但し1番手は、当院の3倍は広告予算を使っていたらしいです。

 年間○億円の割り振りですから慎重に慎重を重ねました。今からでは考えられない事です。(金額は内緒です)

 これだけ広告予算を握っているのだから、代理店から接待攻撃を受けただろうと、想像されてしまいそうですが、院長先生とそのご両親である事務長さん、次長さんの方針で、代理店とその様な関係になることは完全NGでしたので、正直全く美味しい事はありませんでした。

 代理店の担当者と極々稀に飲みに行ったとしても、大衆居酒屋で私も料金は払っていました。

 

 代理店として10社以上が広報部には出入りしていました。それぞれ得意の分野の雑誌があり、月々レギュラーの出稿の他、その分野で新刊が出ると売り込み来る、という感じです。

 当時はバブルの時代でしたので、色々な新刊雑誌が発行され、だいたい広告料が100万円くらいなら、安い広告だと、金銭感覚が無くなって来てもいました。

 

 院が開院した時、まだ美容外科には代理店も積極的にアプローチが無かったとの事で、会員当時のスタッフが、電話帳でア行から順番に電話を掛けていき、やっと取引OKが出た代理店を採用したとの事で、その時の代理店が私が入職した時も1番の取引額で、だいたい年間1億円くらいだったと思います。

 唯、担当者が女性で、長い間院に出入りしていたので、ちょっと保守的であり、昔のように院長の奥さんを攻撃する方針が強く、あまり私とはうまくいっていなかったことは有りました。

 

 美容外科の広告と言っても、基本はビフォーアフターの変化を見せるだけで、別に変わった作り方も無く、どこで優劣をつけるかというと、その出稿量で、「沢山広告を出せるという事は、それだけ利用する人が多いのだから、安心ではないか。」という気持ちになって頂けるように、色々な雑誌や、他の媒体に広告を打つようにしていました。

 私は、フリーペーパー方面に自信が有ったので、全国のフリーペーパーに出稿展開を多くしました。勿論私なりの審査は厳しくして……。

 横浜のフリーペーパーにも当然出稿しました。但し先方は、代理店と通しているので、発注者が私だとは思っては居なかったでしょうが。

 

 次長さんの考えで、「美容外科にいらっしゃる方は別に患っている人ではないので“患者様”とは言ってはいけない。」というルールが有りました。“お客様”という考え方です。

 私は、美容外科は医療ではなくサービス業だと思っていたので、大切なお客様に対して、どのように発進したらよいかを、考えていました。

 

 私は、制作と発注を全て広報部だけで行っていました。私が入職した時は、ビフォーアフターの写真は、プロのカメラマンに撮影してもらっていたのですが、その後、人事部に入職した男性が、カメラを趣味にしていたという事もあり、写真も内部で撮影した方が表現がしやすいと、広告系は未経験でしたが、広報部にスカウトし撮影の担当になりました。その為、撮影用の部屋と、カメラの他、照明機材も揃え独自のスタジオを作りました。

 これで、広告関係は全て広報部内部での制作となりました。

 

 私は来る日も来る日も出稿媒体のチェックで数字と睨めっこの日々を送っていました。今も数字を見ることは好きです。何かを語ってくれます。

 

 結局、広報と言っても紙媒体への広告出稿の手配だけだったので、正直に言うと私には目新しい勉強的な意味は、だんだん薄れてきました。

 

 唯、この院での仕事をしていた時期に、私の人生において一番面白かった出来事と言っても過言では無い事と、もう一つは大変で悲惨だった出来事が起こりました。

 次回はそのどちらかを書きたいと思います。

 

 そうえば、女性タレントも院に訪れる時も有りました。その時は、私たち広報部の担当となります。秘密の……です。

 名前は出せないですが、タレントケアのお話もちぃっとだけ後で……。