まずはショーマネからの出発!
 

 やっとの事で入社が出来ましたプロダクション。私の入社した事務所は、歌手3名と芸人の大御所1組のタレントマネージメントの他、ハコ屋と呼ばれる業務もしていました。

 私が、入社時にはもういらっしゃらなかったのですが、事務所のタレントとしては、日本テレビの「全日本歌謡選手権」そうです、五木ひろしさんや八代亜紀さん出身のオーディション番組の、初代チャンピョンである“胡浜三郎さん”や“レコード大賞新人賞を受賞した”三善英史さん“たちが所属をしていて、私の入社時は、レコード大賞受賞者の「愛と死を見つめて」の”青山和子さん“、レコード大賞新人賞を受賞している「逃避行」の”麻生よう子さん“、新・必殺からくり人の主題歌を歌っている”みずきあいさん“、お笑いのヴォーイズのレジェンド”灘康次とモダンカンカン“というメンバー。アッ、モダンカンカンに私と同じ1978年にメンバー入りした川田恋さんは、現在も現役で、ヴォーイズ協会の理事をしている。(ちなみに)

 今時ハコ屋と言っても解る方が少ないと思いますが、歌手や芸人さん達は、営業と呼ばれる仕事が一番の収入源になります。当時は夜の世界で、グランドキャバレーやナイトクラブが、連日ショー行っていましたので、そこのショーのキャスティングをするのが、ハコ屋の仕事でした。
 私の事務所も系列会社が経営する大箱を3か所手配していたので、そのショーの現場マネージャーという事が、タレント担当になる前の私の最初の仕事となりました。

 では、ハコのショーマネジャーの仕事とは、
 1) 使用する楽屋の準備
     ※清掃、おしぼり手配、水分の手配等
 2) 私のいたハコには、フルバンドがいましたので、バンドとの

    音合わせの立ち合い
 3) 音響、照明担当者との打ち合わせの立ち合い
 4) 専属MCとの打合せ立ち合い

 上記のような事をします。この事は、その後私がタレントを受
け持つようになった時に、大いに役立ちました。

 ショーを確認した後は、その日のショー内容や演出を翌日上司に自分なりの感想としてレポート提出で報告します。このショーを見るポイントという事は、今でも私には役立っています。

 このように最初の半年間は、ほぼ毎日ショーの勉強に明け暮れていました。その他は、タレント車での送り迎えが主な仕事でしょうか。

 では、当時どのような人が、ショーで来ていたでしょう。
 俗にいうキャバレー回りのタレントさんとしての歌手の人や、セクシーダンサー、お笑い芸人の方々等々が、日替わりでやって来ました。でも、当時でもビッグの歌手の方が入る時は、私の緊張はマックスに達していました。
 私の中で、歌謡ショーとして一番勉強になり、お客さんとのやり取り等で最高だと思っていたのが、“中尾ミエさん”でした。
 その他にもいまはビッグになっていますが“瀬川瑛子さん”
“小柳ルミ子さん”なんかも。
 お笑い系では“ケーシー高峰さん・ツービート・片岡鶴太郎さん・綾小路きみまろさん・はたけんじさん・東京コミックショー・ユートピ”等々。
 ケーシーさんと東京コミックショー以外は、まだ売れてはいなかった時代です。東京コミックショーは、めちゃくちゃ面白かったです。
 楽屋でしみじみとたけしさんと話し込んだことが有るのですが、それは、私にとっても大切な思い出です。
 まぁ、ハコ屋の担当ですから、出演者の方々も年齢が若くてもそれなりに対応して頂いたことは、事実なのですが。
 
 15日前後から仕込み担当の課長が、スケジュールを切り出すのですが、その前時期の月の前半辺りは、色々な事務所のマネージャーが売り込みにやって来ます。
 当時は振込というよりも集金でしたので、末日にもマネージャーさん達が来社します。(私も色々なところに集金行きました。)
 その時の課長との会話のなんと面白い事か。今は大きな事務所になっているところも数多くあります。やはり、その時からその方々は面白かった。(すいません、凄かった)

 事務所は、11時出勤で23時までの勤務時間でした。ショーは1日2回のステージです。楽屋の清掃が終わる頃がだいたい23時という事です。

 入社して最初の3か月は、グループ会社の寮に住んでいました。私達のプロダクション用に1部屋あり、“麻生よう子さん”の現場マネージャーの先輩と同部屋です。
 この寮、門限は有るのですが、私達プロダクション社員は仕事の関係で時間が不規則なるので、門限は有りませんでした。但し、入り口のカギは閉められてしまうのに、カギは預けられていません。私たちの部屋は2階でしたので、先輩が午前2時過ぎに帰ってくる時は、下から窓に小石を投げられて、それから私がカギを開けに行くというパターンでした。ケータイ電話が無い時代は大変です。
 という事は、通常は私の方が遅いのですが、朝の段階で先輩に帰りが遅いと言われている時は、帰られるまで寝られないという事です。
 また、私は11時出勤なので、10時くらいまでは寝てられたとしても、先輩が早く出る時は、私も起きるというという事にもなります。
 しかし、地方へ行く早出の時は、駅までタレント車で向かい、送った後、車を社に戻す作業があるので、私も一緒についていくことになるのですが。
 この寮生活は3か月続きました。その後、自分で独立し、初めてお風呂付の部屋に引っ越しをすることが出来ました。
 2度目の東京での一人暮らしとなります。この時から10年間、仕事は変わりますが、ずっと東京で一人暮らしです。

 この時私が心に誓ったのが、住む部屋のステイタスは落とさない。という事です。収入が上れば、良い部屋に住める。だから頑張る。これが私の目標となりました。
 最初の中野のアパートは、6畳・キッチン2畳、バス、トイレ付45,000-で始まり、4回引っ越した10年後には、歌舞伎町で、6畳洋室、6畳和室、12畳のLDK、2畳分の広さのバス、それにトイレが別で付いていて120,000-の家賃迄なっていたのでした。
 もう一つ私が立てた目標が、30歳までに結婚できなかったら、家を建てよう!という事でした。
 結局その目標は達成出来なかったので、29歳で家を建てる事になったのですが。年間家賃も高額になっていましたし。

 さぁ、次回は半年が過ぎ、タレントさんの現場に付いた頃のお話を……。