マリアの信仰によるキリストの受胎と聖婚を成就する摂理! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事重要部分より

 

タマルの信仰による胎中転換で胎を復帰した摂理を記した部分

 

 それゆえタマルのように、サタン世界の女性として天の夫を迎えるべき根本のエバが現れて新婦の装いをし、世上から見て非原理の形を通して、命を惜しむことなくみ旨の継承を求めて準備する女性を立てることが、後の復帰摂理における目的なのである。タマルはその実体を象徴する一つの存在となるがゆえに、神の愛する血統的な代を受け継ぐ第一の祖先となるのである。

そしてここには、イエスが来てこのような一人のエバを取り戻し、神のみ旨を成就することの暗示が隠されていることを知らなければならない。そのエバは、タマルのように父の懐に入るための努力として、世上から天に移されていく一つの行路があることを表示しているのである。
 また、ユダは神を象徴する存在として表示され、タマルは再び取り戻さなければならない一人のエバの表示であり、その表示がすなわちイエスのみ旨の中心となるがゆえに、タマルの行動は、イエスの先祖の血代を継ぐものとして、原理上、許諾されたみ旨となるのである。タマルが夫となるべき存在を顧みずに舅の懐に入っていったように(創世記38章11~14節)、エバとなる存在も夫となる存在から離れて神の懐に帰ってこそ、神がサタンから再び取り戻す様式が完成して根本復帰を成就できるため、このような表示となったことは事実である。

 

バテシバの信仰によるサタンからのエバの位置復帰を記した部分

 

 次にバテシバを調べてみよう。人間の世上では容認できない非行から生じた一人の存在、すなわちバテシバが恩赦を受けた理由も同じところにある。
 サタンがエバを奪うとき、夫である神を顧みずに奪った。これを原理によって再び取り戻す存在として立てられたのが夫のいる女性バテシバであった。すなわちダビデ王は、忠臣であるウリヤを第一線に送り出して死に至らしめ、彼の夫人を奪ったのだが、そのダビデ王としたのがソロモンの母親バテシバだったのである。

このようなバテシバがどうしてイエスの先祖になり、また栄光の王ソロモンの母親になったのかということの根本意義は、ダビデ王は神を表示し、ウリヤは天使長ルーシェルを表示し、ソロモンは自ら取り戻そうとする栄光の主イエスを表示していたということである。イエスが来て神と共に果たすべき使命は、ウリヤの妻バテシバをダビデ王が奪ったように、サタンの妻のような立場にいるエバを取り戻すことがその使命の根本でありみ旨の中心だったため、このようなイエスのみ旨成就を表示したのである。
 ダビデ王は、ウリヤを殺すことによってサタンをこのような立場におくというみ旨を表示する一人の存在であったがゆえに、神はダビデ王を愛し、その子を栄光の王ソロモンとしたのである。このようにしてエバを取り戻すことでみ旨が成就し、イエスが栄光を享受するという根本意義があったため、神はこのような非公式的存在をイエスの先祖たちの母として立て、イエスの使命を象徴的に示したという中心意義があったのである。

 

このタマルとバテシバによる蕩減復帰摂理を理解していただいた上で、イエス様の家庭に起こったこと、また、弟子のユダとの間に起こったことを見ていくと、キリスト教徒たちが二千年をかけて作った「霊的億マリア」の偉大さが身に染みるようになるのです。

 

  *****

 

まずマリアの、イエス様に対する受胎と聖婚についての記述を見ていきます。

 

第二章 第一節復帰摂理の表示となったイエスの先祖の血統より

マリアの信仰によるキリストの受胎と聖婚を成就する摂理を記した部分を引用

 

 イエスがこの世に誕生するとき、神は処女マリヤから誕生するようにされた。これもやはり、サタンが神から処女のエバを奪って堕落させたため、神も約婚したヨセフを一人の相対とし、そこからマリヤを取り戻して第二次アダムのイエスを誕生するようにしたのである。すなわち根本のアダムとエバが堕落したとき、事実上、未成婚の立場でサタンが奪ったがゆえに、これを原理によって取り戻すかたちをとるため、神はヨセフとマリヤを対象として処女が受胎するようにしたという根本意義があることを知らなければならない。
 こうして神は自ら霊的に取り戻したため、イエスは肉的に再びその根本原理を復帰しなければならないみ旨をもっていたが、マリヤがそれに順応しないことによってそのみ旨が未成就となり、イエスの前に難題が生じ始めたのである。それゆえ、イエスは肉身をもって一人のエバを取り戻すため、新しい路程を選ばざるを得ない立場に立ったのであり、その路程が三年の公生路程であった。したがって、イエスにとってマリヤは神のみ旨を中心として重大な怨讐的存在となったのである。
 イエスが母親に「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ福音書二章四節)と言ったのは、マリヤが神のみ旨を成就できなかった存在であるため、このような言葉で相対すべき存在だったからである。

 

原理原本では、マリアの信仰によるキリストの受胎と聖婚を成就する摂理について、具体的な内容は書かれていません。そこで、そのことについて具体的な内容を、1996年4月に真のお父様は語られています。その「救援摂理史の原理観」と題されたみ言から引用します。長いですので、今回の記事では引用するだけにして、次回の記事で解説します。

 

  **1996年4月16日「救援摂理史の原理観」より引用開始**

 

 神様の初愛を独占できるひとり子イエス様

 ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ1:31)、ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないというのが当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言いながら、絶対信仰で神様のみ意(こころ)を受け止めました。

 

 マリヤは、親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが、神様の能力によって妊娠したヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ1:42~43)とイエス様の懐胎を証ししました。

 

 このようにして神様は、マリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦は、マリヤを自分たちの家にとどまらせました。イエス様はザカリヤの家庭で懐胎しました。

 

 エリサベツとマリヤの間柄は母側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったことを、国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。有史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中にサタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占できるひとり子が誕生するようになりました。

 

 当時の法によって容認されるはずもなく、また常識でも考えることのできないことを、マリヤが成し遂げなければなりませんでした。3人がすべて霊的に感動し、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じて従わなければならなかったからです。

 

 神様の息子がたとえ着地したとしても、サタン世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要です。神様は、ザカリヤ家庭の3人にその基盤になってくれることを期待されました。3人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。

 

 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ1:56)と記録されています。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは、互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は、最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。

 

 少し過ぎて、ヨセフは、マリヤが子女を妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか。愛する婚約者のマリヤが、自分とは何の関係もない状態で3か月間どこかに行き、帰ってきたときには子女を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然のことでした。その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか。もし明らかにした場合には、一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。

 

 マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが「自分は知らないことだ」と言ったならば、またどうなったでしょうか。ヨセフは、神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは、婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。

 

 マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係に心情的な距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。こうしてイエス様は、私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、またヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。

 

 イエス様の孤独な3年路程

 メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには、実体の新婦を迎えなければなりません。アダムと兄妹のように育ったエバを、天使長が偽りの愛で堕落させたことを、根本的に復帰すべきイエス様です。

 

 したがって、アダムに代わり神様の息子として来られたイエス様は、天使長型人物の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の振る舞いをする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような土台がみな崩れてしまいました。

 

 もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下、初めにもった絶対的な信仰をもち続けていれば、状況は全く違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは3か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、この上ない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従っていたはずです。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしていたはずです。

 

 しかし、不幸にも、ザカリヤも、エリサベツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証しただけであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失って人間的な考えに流れたとき、イエス様が願われた新婦を迎えることを助けるはずは絶対になかったのです。

 

 次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係でなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありません。ですから、彼らは、イエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心をもちました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。

 

 しかし、現実はそれを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンは、これを条件として彼らに侵犯するようになりました。

 

 イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエス様を守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)も、すべてサタン側になってしまいました。

 

 人がサタンの侵犯を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。これにより、マリヤまでイエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。

 

 カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2:4)と言われたみ言も、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを叱責する心情が表出されたものです。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ12:48)と言われたみ言も、このような基準から理解しなければなりません。

 

 イエス様は、母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエス様の出家でした。

 

  **引用終了**

 

次の記事で、イスカリオテのユダを取り上げながら説明を加えます。

 

 

お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村