自分を空っぽにすること!殺すこと!によって獲得する無限の愛の能力とお父様の勝利権! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事末部より

 

霊的世界の事は、上から指示されることはありません。自分の自由意志で選択するのです。上からの指示や、上からの認定を待つ者は、天一国から遠ざかります。

 

だから「霊的権限」が何を意味するかも、自分の自由意志で選択するのです。

 

  *****

 

2024年4月13日「天宙平和統一天一国勝利日本大会」において、二代王様が語られた「自分を空っぽにする」という意味としての「ケノ-シス」について語られました。私たち王王妃が「お父様の勝利」によって戦う事を現実のものとするために、とても重要な内容です。

 

そこで、先回記事に続き、二代王様が「ケノ-シス」について語られた部分を引用します。

 

  **天宙平和統一天一国勝利日本大会:二代王様み言抜粋引用**

 

 日本の、何代何代何代というものがありますね。刀を作る人なら何代もの間、子々孫々。茶の湯なら千利休から何代何代。これがどれほど重要ですか。子々孫々、車を修理する仕事を3代5代の間やった。それも人々は尊敬するではないですか。

 

 なぜなら、子々孫々受け継ぐために次の世代は何をしなければならない?次の世代は死ななければなりません。次の世代が望む夢などを捨てなければなりません。そしてお父さんの夢に従わなければなりません。お父さんが望むので。

 

 お父さんの御意がお父さんの王国が成し遂げられるように。マタイによる福音書6章33節に「神の王国と義を求めるものは与えられるであろう」

 

6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 

 だからキリストの中に入るようになれば、キリストとの関係はどのようになりますか?私たちが死にます。聖書の言葉で、3つの存在物になります。

 

 神様が生きておられる聖殿、手足。手と足は自分たちの好き勝手に行きますか?違いますね。主人が望むところに行ってこそ、良い手ではないですか。主人が導いた方向に行ってこそ良い足です。

 

 だから、使徒パウロは「ケノーシス(kenosis)」と言いました。ケノーシス(kenosis)は、自分を空っぽにすること、殺すこと。キリストが生きて自分はなくなる。

 

 だから、自由意志があるので韓氏オモニは、正しくやれば完成のまことの母になることができて、堕落したらバビロンの淫婦になってしまう。お父様のカインとアベルとお父様の代身者、後継者、相続者がどんなに言っても、韓氏オモニは自分の意思としてそれを選択、初めて自分で選択しなければなりません。

 

 どうして?お父様が生きておられる時はお父様が選択されるので従えば良いです。これからはお父様が霊界に昇天されたために、初めて自由意志で決定しなければなりません。初めて。

 

 主を選択するのか、愛を選択するのか、お金と物質を選択するのか。パワー。

 

  **引用終了**

 

二代王様は心にキリストを迎える為に、自分を無くし心を空っぽにするという意味で「ケノ-シス」を用いています。心を空っぽにして、キリストを心に迎えると、つまりは臨在していただくと、どのような事が起こるのでしょうか。

 

私たちが心を空っぽにすると、キリストが臨在してくださる聖殿となり、天一国を成し遂げる為の手足として用いてくれるようになると、二代王様は語っています。

 

その理解の上に立って、キリストが「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の存在であることと重ね合わせると、「ケノ-シス」の本当の意義が見えてくるのです。

 

使徒パウロがピリピ人への手紙や、コロサイ人への手紙で書いているのは、神様とイエス様における「ケノ-シス」です。

 

「ケノ-シス」とはネットで調べると、次のような意味が説明されています。《キリストが人間と一体化するために自らの意志で行なった神性の放棄》

 

オックスフォード・リビング辞典では次のように説明されています。《キリスト教神学:キリストの神性放棄。受肉において、キリストが少なくとも神性の一部を放棄したとする概念。》

 

使徒パウロが「ピリピ人への手紙」の中で書いた「ケノ-シス」の意味は、神性の一部を放棄したと受け止められる内容です。

 

ピリピ人への手紙2:6~8新共同訳

2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

ピリピ人への手紙2:6~8口語訳

2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

 

「神と等しい者であることに固執しない」と書かれていますから、これを「神性の一部の放棄」とみなしているのです。しかし、おなじ使徒パウロは、「コロサイ人の手紙」において、「いっさいの神の徳が、かたちをとって宿っている」と書いているのです。

 

使徒パウロによる「コロサイ人への手紙」の聖句から、「ケノ-シス」に関する部分を取り上げます。

 

コロサイ人への手紙 第1章

1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 1:18そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。 1:19神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 1:20そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

 

コロサイ人への手紙 第2章

2:9キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 2:10そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

 

「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相が理解できると、コロサイ人への手紙で書かれた「ケノ-シス」の意味が正しいことが分かるのです。

 

夜の神様はイエス・キリストの生心に臨在され、霊的五感と肉的五感を共有しています。夜の神様はイエス様の体に入り、人間としての制限が加えられるように思えるのですが、そうではありません。イエス様を通して地上界の情報を得ながら、その情報をもとに活動する時は、永遠普遍の夜の神様として活動し、聖霊を通して地上界霊界のあらゆる人間に働きかけることができるのです。

 

だから、イエス様の地上界の人間としての能力に限定されるものではなく、神霊と聖霊を通して、摂理的にかかわるすべての人間、および万物に働きかける事が出来るのです。

 

それが、キリストにおける「聖父・聖子・聖霊の三位一体」としての能力という事になるのです。このキリストとしての能力が、最大に働くためには、キリストが心に臨在する者たちの、アベルカイン一体の基台が必要になるのです。キリストが臨在するとは、お父様の聖霊が私に臨むことによって可能になります。

 

つまり、お父様の聖霊とは、夜の神様の霊であるとともにキリストの霊です。三位一体ですから、お父様の聖霊と私が相対することによって、夜の神様とキリストの意志が、私の無意識世界から浮かび上がってくるようになるのです。そうして私と「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストとの授受作用が始まり、それは夜の神様が最終的に受け取る情報となって、聖霊の発動を可能にするのです。

 

「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストが、最終的にサタンに打ち勝つには、原罪を持って生まれながら、キリストによって罪をあがなわれた者たちの、自由と責任で勝ち取った勝利権をもって戦うのです。

 

私たち王王妃はお父様の勝利によって闘い、自らの勝利となって相続した時に、その祝福家庭の勝利こそが、最終的にサタンを屈服させるのです。

 

最終的に夜の神様も心を空っぽにし、キリストも心を空っぽにし、祝福家庭の一人一人も心を空っぽにし、「ケノ-シス」によって立つ時、その空っぽの心情に、どこにも存在していないのに、確かにそれぞれの心情に燃える力である真の愛が、三位一体の源泉となって同じ方向性をもって無限のエネルギーとなるのです。

 

そのエネルギーの無限の力こそが、神様が真の愛に絶対服従して生きたいと願った動機の原点なのです。

 

神様は真の愛に絶対服従して、私たちを愛することによって生きるのです。キリストもそうであるように、私たちも真の愛に絶対服従して生きるのです。

 

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