先回記事末部より
私たちは、イエス様の十字架について学んできました。イエス様を十字架で殺した罪は、連帯罪として全人類が背負っているものです。
第二章 堕落論 第四節 人間堕落の結果(五)罪
第三には、連帯罪というものがある。これは、自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪をいう。例えば、祭司長と律法学者がイエスを十字架につけた罪により、ユダヤ人全体がその責任を負って神の罰を受けなければならなかったし、全人類もまた、共同的な責任を負って、イエスが再臨なさるそのときまで、苦難の道を歩まねばならなかったが、それはこの罪のゆえである。
この時、私たち一人一人は、イエス様を殺したと同時に、神様をも殺したのです。イエス様の流された血は、神様の血でもあったのです。
このように私たちは、堕落の根本から、神様とキリストの前に悔い改めなければならないのです。
二代王様による聖霊の役事を受けたからと言って、私の心にキリストが立ってくれるわけではありません。
原理講論のキリスト論の「人間メシヤ」解説によって、強固な信仰となっていた偶像崇拝への悔い改め無くしては、心にキリストを迎えることは出来ないのです。そして、アベルを真のお父様の代身としてきたアベルカイン観の、愚か極まる偶像崇拝への悔い改め無くしては、お父様の聖霊が臨んでくださることはありません。
*****
私たちは真のお父様を、「人間メシヤ」として慕い、責任者をアベルと見て、真のお父様の代身として受け止め従ってきました。それは、キツネやタヌキを偶像として崇める事よりも、石ころや木片を拾ってきて信仰の対象とするよりも、サタンにとっては痛快な食口の姿勢だったのです。
ですから、統一教会そして家庭連合時代の、自分の信仰姿勢を、一人一人が心底悔い改めてこそ、天一国の本質世界が見えてくるはずです。
イエス様を十字架に架けた事実を、先回記事において、悔い改めてくださった方はおられるでしょうか。今回の記事では、真のお父様が再臨主として公生涯を出発させる前の、日帝時代の1944年10月から、1945年2月までの出来事として語られているみ言を引用します。
あなたの体に、真のお父様の血と共に、夜の神様の血も降りかかっていることを思いながら読んでみましょう。
**み旨の裏道より抜粋引用**
真の御父母様の生涯路程 1 第六節 解放直前の最終準備
三 京畿道警察部での受難(一九四四・一○~一九四五・二)
日警の苛酷な拷問
先生は学生の時にも、監獄の出入りを当たり前のようにした人です。また日帝の拷問台の前で、図太く振る舞った人です。そのような歴史が多い人です。日本人たちに、たくさん拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。若者たちを捕まえて、焼きごてを当てたりしながら拷問をすれば、服のままで大便をしながら、自分がしていないことまでも、「した」と言ってしまうというのです。
日本人が悪いことをしたということを、すべてよく知っているのです。私は、監獄暮らしもしました。日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされた人です。
全四肢に死亡の血が回るほど、また血が何杯もあふれ出るほど、むちでたくさん打たれました。日帝時代には、軍靴を履いた足で腹を蹴られる拷問も受けました。二人が左右から手をつかみ、二人が上から踏むというのです。そうすれば腹の皮がどのようになりますか。破れますか、張り裂けますか。それで便所に行って、一度座ってから立ってみなさい。それは、どんなにつらいことでしょうか。
先生は日帝を滅ぽすと言ったために監獄に入れられて拷問を受けましたが、一番つらいことは何かといえば……。一度やってみなさい。角材を持ってきてここに置いて……。日帝時代には軍隊で履く革靴があったのです。鋲を打ってカツカツと音がするその革靴で踏むのです。それは、やられてみない人には分からないのです。
日帝時代に、先生はどんなに監獄に入れられて、飛行機の拷問をされ、電気の拷問をされても、びくともしませんでした。「打て、こいつら! 打て! お前の棒が強いか、私の決心が強いか、ためしてみよう」と、そのような闘いをしてきたのです。監獄に入っていき、一日中たたかれ拷問される立場にあっても、板の破片に縛りつけられ、ねじ曲げて絞られる時にも、「こいつら、やってみろ、こいつら」と思いながら、耐えたのです。
血を吐く場で、十本の指から血を出す場でも、これが十個の国家の血に代わり、十個の民族の血に代わる祭物として捧げることができるならば、どんなに栄光だろうかと祈祷しました。
日帝時代、私が十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れることができない拷問も受けました。それを十二時間も受けながら、奇跡的に生きて出てきました。殴られて後ろにばたっと倒れ、死ぬほど血が流れ出ても、「打ってみろ! その棒が折れるか、私の骨が折れるか」と、耐えたのです。
一度は十四時間も取り調べを受け、拷問をされ、はって二十メートルも行くことができないほどになって、何度も気を失っては覚める、そうした過程がくり返されても、私は口を開きませんでした。
拷問を受ける心情と祈祷
日帝時代に監獄に行って、血と涙が入り乱れる拷問を受けながら出した悲鳴は、人類への神様のみ旨が成され得る頂上の場を追求しながら出した声でした。その悲鳴の頂上に上がることができなくては、不平を言うことができないのです。
父と本音を吐露できる立場で「父よ!」と呼びながら、「神様! 私の血は昔の先祖たちの血とは違います。裏切りの心情を抱いて、神様を恨む中で血を吐いて倒れ死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家と世界人類に同情してください! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげられるようにしてください! 私を先に立たせて、彼らの生きる道を開いてください!」と、血を吐きながら祈祷してきたのが先生の道でした。
「ぶん殴れ、私が大韓民国を愛する愛国心が大きいか、お前が日本を愛する愛国心が大きいか」、そのようにしながら、とても意義深い戦いをしたのです。先生が監獄に入った時は、日本の帝国主義時代でした。それで、その時、先生は国を裏切る逆賊の立場に立たずに、かえって監獄に入ったことを感謝しましが)゜私が救いを受けるより、私一人が死んで国の恨みが解け、国が解放されるならばどんなにいいだろうかと考えたのです。これが統一教会の伝統的思想です。
日本の監獄に入ったゆえに、私は韓民族の悲惨さを知りました。日帝がどんなに悪いかということを監獄に入って知りました。監獄に入って拷問を受けて、血を流す過程で同志たちと共にありながら、初めて韓国の悲惨な姿を知るようになったのです。このような民族を誰かが解放しなければならないという義務を感じたことも、監獄に入ってからです。監獄は、先生にとって偉大な先生になりました。復帰摂理路程において、誰も触れることのできない基礎を築くことのできる一時だったというのです。
**引用終了**
日本民族の背負う連帯罪として、本当に悔い改める者が現れてこそ、「六マリア」の摂理的真実は明らかにできるのだと、お父様の聖霊は伝えてくるのです。
その上で、真のお父様が完成・完結・完了された、本当の蕩減復帰摂理が浮かび上がり、天一国の基盤が見えてくるというのです。
お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓