加筆により究極真理肉迫編!真のお父様が語られた「天のお母様」の正体!その真相様相! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事末部より

 

亨進様は、統一信徒の背信を、生命を供えて贖った興進様への、さらなる金氏と幹部どもの不信仰を蕩減する使命を担うアベルです。栄進様と国進様は、孝進様の崩壊した家庭を蕩減復帰する使命を担うカインです。この、とんでもなく重大な使命を担った二人を、カインアベル一体の勝利へと導く母子協助の基準を立てた康賢實様も、どれほど偉大なのかということです。

 

さあ、ここまで説明して、いよいよpeaceさんの「『初夜』ですか。姜賢實女史といつ初夜を過ごされたというのですか? 」という大愚問に答えましょう。

 

peaceさんは原理講論のキリスト論で解説する通りに、真のお父様を人間メシヤと信じているのでしょう。私たちと何ら変わりのない人間であり、人格完成すれば自分も同等になると考えているのでしょう。しかも、韓氏オモニの影響で、真のお父様は原罪を持って生まれたというのですから、なおさらです。霊界の事や、霊人と地上人の関係など、一切無頓着なのでしょう。

 

霊人はなぜ再臨協助することによって、地上人と共に成長するようになるのでしょうか。それは地上人と共に、肉身の五感と霊人体の感性を共有して、心情における実感を共有するからです。

 

その上で、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストが真の愛を実感し発動する様子は、個性真理体の私たちにとって想像もできないような真の愛が展開する次元です。そのキリストと相対する真のお母様の次元がどのような世界になるのかは、次回の記事で解説しましょう。

 

  *****

 

今まで無視していたpeaceさんのコメントを突然に取り上げたのは、読者の皆様が、亨進様と国進様におけるカインアベル一体が、具体的にどのような路程を展開し、何を勝ち取ったのかを明確にできる入り口が開かれるものだからです。また、カインアベルが勝利するためには、勝利へと導いた母子協助が無ければなりません。その母子協助の勝利が、康賢實真のお母様に何故あるのかを見極めるために、とても良い批判のコメントだったからです。

 

もちろん、peaceさんに理解してもらおうなどとは、これっぽっちも思っていません。読者の皆様方の理解が、少しでも進むようにと思っています。夜の神様と真のお父様が、サタンに悟られぬように秘密裏に進められた本質的摂理ですから、理解するのに骨が折れるかもしれません。ですが、最後までお付き合いいただければ、目の前の霧が晴れるように覚醒し、心の眼に天一国の様相が見えてくるでしょう。

 

先回記事において、次のように締めくくりました。

 

「さあ、ここまで説明して、いよいよpeaceさんの「『初夜』ですか。姜賢實女史といつ初夜を過ごされたというのですか? 」という大愚問に答えましょう。」

 

夜の神様は真のお父様と康賢實真のお母さまが初夜を迎えなくても、すでに亨進様とヨナ様が、三代王信俊様の生命を授かるために結ばれた時に、四大心情圏を完成しています。

 

このことを理解するには、重生・復活・永世の三段階祝福を経て、何ゆえに完成基準に立てるのかを知らなければなりません。

 

また、そこに真のお父様が、【自叙伝】出版記念式のみ言で語られたという、「天のお母様」という意味を理解するためにも必要なことです。

 

真のお父様を、原罪を持って生まれた人間メシヤとしてしか信じることが出来ないpeaceさんには、とてつもなく理解できないことでしょう。まずこの「天のお母様」というみ言には、アベルカイン一体の基台を立てられず、真のお父様をキリストとして迎えることのできない統一食口への、痛烈な悲しみが込められています。

 

peaceさんが引用したみ言を、まず、掲載しましょう。

 

天のお母様に会ってみましたか? ここにいるこの人(文鮮明総裁)​​は、天のお母様を本に収めようと、神様を解放し、太平聖代の環境をつくって戴冠式をしてあげました。神様の結婚式をしてあげたのです。神様の独り子の息子、娘が結婚(小羊の婚宴)したのなら、天のお父様は一人で暮らしますか? お母様がいないではないですか! 神様の血筋がないではないですか! 血筋がなくて息子、娘が出てきますか? 適当にしてそのようにはならないというのです。​​​​」

 

peaceさんは「韓氏オモニ」が主張する「天の父母様」を意義付けるために、必死で真のお父様のみ言を探したのでしょう。だから、短絡的に「天のお母様」を神様の妻としての存在だと受け止めてしまうのでしょう。

 

このみ言には、次の内容のみ言が続いています。「天のお母様の存在」とは真逆の事、つまり、「神様の相対はいない」と語られています。

 

  **引用開始**

 

ですから、よく聞いてください。それゆえに、絶対的神様が独りで審判場に座り、善なる人は天国に送り、悪なる人は地獄に送ることは出来ません。神様には闘争の概念がありません。闘争がどこから出てきましたか?神様から出てくることはありません。それは堕落ゆえに出てきたものです。争いというものがありません。

 

そのような意味で、絶対者の影になるとか、相対的条件を備えて、神様が動くとき、姿自体を見ることはできなくても、その影だけでも見ることができ、その何かについていく影を見て対することのできる世界で、神様と語りながら暮らし、一緒に相談して喜んで暮らすのです。神様は、喜怒哀楽も知らない神様ですか?頭の悪い神様ですか?ろくでもない神様ですか?喜怒哀楽の主人が神様です。

 

わたしは、(人間始祖の)堕落によって一番悲しい神様になったことを知っている人です。そのような意味で聞いてみてください。絶対の付帯条件が何かと言えば、唯一です。唯一になってこそ、絶対の概念を立ててあげることができるのです。絶対が主体概念ならば、唯一というものは相対概念として受け入れてあげなければ、神様の前に相対はないということです。

 

よく聞いてください。ですから、絶対者は唯一者が支えてあげなければなりません。その次に、変わる世界の中です。「人心は朝夕変」であり、「山色は古今同」と言いましたが、山色にも劣る人間です。ですから、不変、変わる世界に不変の属性が必要なのです。その次には、瞬間ではなく永遠だというのです。ですから、絶対の前に付帯条件として神様の囲いをつくってあげるものは、唯一的概念であり、不変的概念であり、永遠の概念ですが、絶対と唯一は離すことができません。

 

  **引用終了**

 

驚くべきことによく聞いてください。ですから、絶対者は唯一者が支えてあげなければなりません。と語られています。まず、「神様には相対はない」と断言された上で、「唯一者が支えてあげなければなりません。」と語られています。

 

「神様には相対はない」という表現の前に、「絶対が主体概念ならば、唯一というものは相対概念として受け入れてあげなければ、」と語られています。つまり、唯一というものを相対概念として受け入れれば、相対が現れるということになります。

 

ですから、唯一者とは最初から神様と共にあった唯一者ではなく、神様が相対概念をもって創造された唯一者ということになるでしょう。では、その唯一なる存在が「天のお母様」なのでしょうか?

 

そうではありません。神様に相対する唯一者は、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」となるキリストの事であり、真のお父様のことです。このみ言には、2009年6月1日の「自叙伝」出版記念大会において、「キリスト」ではなく人間メシヤとしての自叙伝しか、表すことのできない悲しみが込められたみ言であったことを知らなければなりません。

 

真のお父様のみ言は、そのまま聞いても、なんとなく意味が受け止められますが、心の眼を開いた上で、もっと詳しく解読してみましょう。まずは、次のみ言です。

 

「絶対者の影になるとか、相対的条件を備えて、神様が動くとき、姿自体を見ることはできなくても、その影だけでも見ることができ、その何かについていく影を見て対することのできる世界で、神様と語りながら暮らし、一緒に相談して喜んで暮らすのです。」

 

夜の神様の御姿は、見ることも触れることも出来ません。しかし、その影があるというのです。これには、原理講論の知識からでは計り知ることも出来ない、深い意味が込められています。「影」という言葉で私たちが真っ先に思い浮かべるのは、光に照らされて反対側に伸びる影ではないでしょうか。しかし、「影」の意味には幾つもあって、その中に目に見える物の姿や形」という意味があります。(例文:どこへ行ったのか子供たちの影も見えない。)つまり、見えない神様が姿形を現した様相を「影」と表現しているのです。

 

さらに、その次のみ言を確認してみましょう。

 

「わたしは、(人間始祖の)堕落によって一番悲しい神様になったことを知っている人です。そのような意味で聞いてみてください。絶対の付帯条件が何かと言えば、唯一です。唯一になってこそ、絶対の概念を立ててあげることができるのです。絶対が主体概念ならば、唯一というものは相対概念として受け入れてあげなければ、神様の前に相対はないということです。

 

「絶対が主体概念」とあります。また、「唯一が相対概念」と語られています。このように考えてみれば、「絶対」は夜の神様の「本性相」のことであり、「唯一」とは夜の神様の「本形状」と見ることができるのです。

 

そうすれば、「絶対」とは夜の神様の「本性相」であり、絶対的な夜の神様自身の事です。そして「唯一」とは、夜の神様の「本形状」のことなのです。なぜなら、「唯一」の「一」とは、形状の個体として現れて、初めて確認できるものだからです。「唯一」となって、初めてその「一」に対する相対が現れ、また相対があっての「一」なのです。

 

絶対者としての夜の神様の本性相からの意志によって、その相対である本形状の働きにより、形状を持った相対が現れるとき、初めて夜の神様は唯一の神様と表現できるのです。

 

そのように思考展開するとき、現れた夜の神様の相対とは、夜の神様そのものの「影」だということです。つまり、神様そのものの姿形を持つ「キリスト」なのです。そのキリストは決して女性ではなく、男性格主体の存在です。

 

そのキリストは、夜の神様の本性相が本形状の働きによって、個性真理体としての「キリスト」として顕現するのです。このことが理解できると、二代王様は真のお父様と同様の真理考察から、次のみ言を語っていることが理解できるのです。

 

  **2021年3月23日キングスリポートより抜粋引用**

 

 しかし、キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。

 

 人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。

それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。

 

 三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。 

 

 それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。

 

 ですから、原理講論の内容だけを見ると、我々はメシアに対する低いキリスト論を持っているのです。メシアを神として見なかったのです。女性から生まれた人としては見ましたが、神としては見なかったのです。

 

 お父様が夜の神、昼の神の神学の内容を明らかにされた時、お父様はそのキリスト論を昇格させられたのです。

 

 「いや、お父様はメシアなので特別だ。ただの人間ではない。お父様は神から来られたのであり、夜の神から来られたのだ。創造以前の神から来られた。」ということです。

 

 つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられたということなのです。

 

  **引用終了**

 

神様ご自身をそのまま個性真理体として、姿かたちを顕現するようになった方が「キリスト」です。その夜の神様とキリストとの関係性は、創造前から夜の神様が、本性相と本形状の授受作用で存在していた関係性を、天宙規模で拡大した三位一体システムで存在しているのです。本性相が夜の神様そのものであり、本形状がその働きによって、本性相そのものを顕現させた存在がキリストです。ですから、夜の神様とキリストは、本性相と本形状の関係として、創造前から一緒におられたと言えるのです。

 

神様の影となれるのは、キリストである真のお父様であり、そこに「天のお母様」など入る余地もありません。

 

それでは、真のお父様はどんな内容や事柄を指して「天のお母様」と語られたのでしょうか。次のみ言にヒントがあります。

 

「その次に、変わる世界の中です。「人心は朝夕変」であり、「山色は古今同」と言いましたが、山色にも劣る人間です。」

 

これが「重生・復活・永世の三段階祝福」に、密接にかかわってくるのです。この関りを知ることによって、キリストの真相が、心の眼において見えるようになって行くでしょう。

 

さて、何をもって「天のお母様」と呼ばれているのか?

 

「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のシステム、つまりお父様のもとに連動しているシステムによって、真の愛のもとに主管されている宇宙全体を、真のお父様は女性格対象の「天のお母様」と呼んでいるのです。そのことについて、次回の記事で明らかにしていきます。

 

 

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