(長文になりますが、霊性日本史の真髄ともいえる部分です。)
即身仏は東北地方に多く存在し、衆生済度(生きるものすべての救い)を真剣に願った僧が自らの死をものともせず、土中に生きたまま籠もり、ミイラと化したものだ。その功績ゆえに、彼らの名はすべて「空海」の「海」の字を与えられている。即身仏について、多くの宗教家や歴史家は、空海の説く「即身成仏」を誤解してしまった結果だと述べる。宗教史という観点で見たらそのように判断できるが、霊性史の観点から見ると、即身仏には日本の歴史さえ動かしてしまった深い意義が感じ取れる。
即身仏の方々を紹介する前に、即身仏がどのような修行を得て行くのかを、簡単に掲載する。
一、生前に徳を積み、善行を積み重ねる。
二、弟子たちから尊敬され、信者からも厚い信仰を集める
三、雪深い湯殿山に籠もる荒行の「山籠修行」に入る。湯殿山は雪に閉ざされる山深い場所として知られるが、冬季も年中行衣一重だけを身にまとい、火の使用は不可。
四、千日単位で繰り返される「千日行」。行の間の下山は許されず、修行期間は三年、六年、九年に及ぶこともある。
五、何十年にもおよぶ五穀断ち、十穀断ちの「木食行」。穀物を絶ち、木の実などで命をつなぎながら、体の脂肪や水分などを極限まで落としていく。
六、生きながら土中の石室に入定。深さ3mほどの穴の中に石室を築き、節を抜いた竹筒の先だけを地上に出して呼吸を確保。その状態で埋められる。
七、「土中入定」後は食事・水分を一切摂取せず、人体には毒である“うるし”を飲み、体への防腐効果を施す。
八、蓮華座で鐘を鳴らしながら、己の身と引き換えに衆生救済を一心に祈願しながら読経を続け、己の悟りを開き、土中にて息絶える。
九、三年三カ月後(千日後)に、土中より掘り出される。
十、衣を着せられ厨子に安置され、即身仏として祀られる。
このような過程を経て即身仏となるのだが、即身仏を志しながら、途上で息絶えたり、土中で腐敗してしまった修行僧も数多い。湯殿山の山中には、即身仏を志した僧侶たちが数多く眠っているのだ。
それでは次に、日本の即身仏の記録を見てみよう。*印が山形の湯殿山系即身仏。
人名 享年 入定年 寺名 所在地
弘智法印 八十二 貞治二年(一三六三) 西生寺 新潟県
弾誓上人 六十三 慶長十八年(一六一三) 阿弥陀寺 京都府
*本明海上人 六十一 天和三年(一六八三) 本明寺 山形県
宥貞法印 九十二 天和三年(一六八三) 貫秀寺 福島県
舜義上人 七十八 貞享三年(一六八六) 妙法寺 茨城県
心宗行順法師 四十五 貞享四年(一六八七) 瑞光院 長野県
全海上人 八十五 貞享四年(一六八七) 観音寺(菱潟全海堂) 新潟県
*忠海上人 五十八 宝暦五年(一七五五) 海向寺 山形県
秀快上人 六十二 安永九年(一七八〇) 真珠院 新潟県
*真如海上人 九十六 天明三年(一七八三) 大日坊 山形県
妙心法師 三十六 文化十四年(一八一七) 横蔵寺 岐阜県
*円明海上人 五十五 文政五年(一八二三) 海向寺 山形県
*鉄門海上人 六十二 文政十二年(一八二九) 注連寺 山形県
萬蔵 ? 弘化四年(1847) 萬蔵稲荷神社 宮城県
*光明海 ? 嘉永七年(一八五四) 蔵高院 山形県
*明海上人 四十四 文久三年(一八六三) 亀栄山明寿院 山形県
*鉄竜海上人 六十二 明治元年(一八六八) 南岳寺 山形県
仏海上人 七十六 明治三十六年(一九〇三) 観世音寺 新潟県
なんと「空海」の「海」の字を与えられた即身仏が山形に八体もあるのだ。山形盆地の南の米沢に明海上人、西の白鷹に光明海、北の朝日村・酒田市にその他の上人たち、そして東の山寺には最澄の精神を受け継ぐ不滅の法灯が燃え続けている。
「宗教の陰湿な歴史」「信仰の狂信的な焔」「異常で野蛮」・・・・。そんな表現をする歴史家も多い。しかし、即身仏ができた時代の日本全体の心霊の次元は、今とはまったく違うのだ。何よりも、人間がサタンに翻弄されていたがゆえの、あまりにも悲しい神側の切り札であった。
紀元八〇〇年代、桓武天皇の時代に最澄は国に公認された僧であった。その最澄が、無名の立場から唐にわたり高野山を開いた空海に密教を学ぶために弟子入りする。天界の願いは最澄と空海が力をあわせ、理趣経を手がかりに即身成仏の真の意味を解き、さらに万民にわかりやすく体系化することであった。文字を学ぶだけでは理趣経の奥義は悟れぬ、と考える空海では、万民がわかりやすく体系化するということはありえないことであった。そこには最澄の能力が必要であったのだ。しかし、二人はその理趣経のことがもとで決別してしまう。その失敗により、最澄の天台宗と空海の真言宗の行方は、魔も気にかけることもないほどに凋落した山岳宗教の地へと託される。出羽三山である。
二人の決別から時を巡ること八百年、徳川が豊臣に勝利し天下を取ることによって、地上の誰一人として気付くことなく、聖徳太子当時の三者の分裂による失敗が元返された。つまり、聖徳太子と山背大兄王の立場に立つ徳川家康と秀忠が政権を掴んだのだ。すると時を経ることなく、空海と最澄の失敗を元返そうとする出来事の端緒が開かれる。
一六三〇年に羽黒別当となった天宥が、月山・湯殿山・羽黒山の三山を統一して、それまでの真言宗を改め天台宗に改宗し、上野寛永寺末にしようとしたことに始まる。凋落の一途を辿る羽黒修験の勢力を挽回しようと、家康・秀忠・家光の三代の将軍の帰依を受け、政務に参与するまでになった天海僧正を頼り、天海が秀忠の命で開山した東叡山寛永寺の末寺に、羽黒修験を据えたのだ。天台である寛永寺の末寺になるためには、改宗が必要であった。最澄・空海のときは、空海に最澄がへりくだる形で弟子入りした。その逆に、空海を象徴する羽黒別当の天宥が、最澄を象徴する天海僧正の寛永寺の末寺になるのだ。
しかし、湯殿山を中心とする四ヵ寺が天宥の意に逆らって、真言宗を改めて天台宗になることを拒否し、四ヵ寺は羽黒山と別の存在であると主張した。以後、天台となった羽黒山と真言を主張する湯殿山の間で、百六十年間も紛争が続く。湯殿山の四ヵ寺は羽黒側と対立を深めるほどに、弘法大師(空海)開祖で大日如来の修行成就・即身成仏の霊地であるという主張を強めていく。このような弘法大師信仰の高揚の中から、大師の「即身成仏義」と即身仏が結びつき、志願するものが現われるようになった。命の供え物を神が要求するわけではないのだ。サタンに対して、自己の欲望よりも神と人類のためにすべてを捧げるという決意を証明してこそ、サタンの支配から離れることができ、天軍の活動舞台が広がるのだ。それは、この時代の心霊状況から言えることであり、心霊が高まった現代では命よりも心情を証しすることのほうが尊い。
そしてもうひとつ語っておくことは、魔は人々の邪念の総和をもって一人の人物をたて、混乱と分裂の淵に落としいれようとする。たとえばヒットラーのように・・・。神は一人の人の超越的な愛の心情の勝利を持って、全体の勝利とみなし恵みを与えようとする。
一六三三年発令の鎖国により、キリシタンの殉教が途絶えて以降、一六八三年本明海上人の即身仏に始まり、一八六八年明治維新の年に鉄竜海上人が即身仏となるまで約百八十年の間に、山形だけでも八体の尊い命が供えられた。また、即身仏として形を残すことができなかった、数知れない方々の志が捧げられている。空海の説いた真言宗は、キリスト教の奥義を秘めたものであることを考えれば、即身仏はキリストの愛を、我が身に具現化しようとしたものであると言える。
上記のような内容を踏まえて考えれば、即身仏となった僧たちの、空海も信じた弥勒仏への信仰と民衆の幸福のために捧げた犠牲の心情は、サタン軍を退け、天使たちの活動舞台を作ったことになる。つまり、空海と最澄、そして泰範に代わる使命者を、過去の歴史の失敗を元返すために再び立てることができる霊的な土台ができたのだ。空海・最澄・泰範を指導した天使たちと同じ系列の天使が、西郷隆盛・勝海舟・坂本龍馬を指導し、明治維新へと突入していくことになる。
江戸時代には全国のほとんどの仏寺、神社は形骸化していた。出羽三山でも同じである。羽黒別当天宥は宗教家というよりも実務家であった。信仰を極めるというよりは、出羽三山の存続のために簡単に改宗してしまう。保身のための画策に明け暮れる。聖徳太子、山背大兄王、空海、最澄の魂を背負う天使の降り立つ足場がどこにも見出せなくなっていた。そんなとき、即身仏を志した人たち・・・・、人足や農民など、貧しく、無知な大衆の中から、哀切な事情を辿り、霊験を得て出家した人たちのけなげな心に光明を見出したのだ。
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