オスプレイ岩国に強行搬入されました。
オスプレイ全国で低空飛行カラー作戦、7ルートに? で書いたように
10月には*安全性が確認されたと*いいテスト飛行に。
この事故が多発しているオスプレイ導入で1977年の悲惨な事件が
1クローズアップされてます。
原発と同じだなと思いました。
事故原因の検証がおざなり、安保で揺れて7年後、
何より日米同盟国の最重要事項だったんでしょう
それ優先の影に隠されました。
みなさまはご存知でしょうか?
横浜米軍ジュエト機墜落による母子死傷事件事件の詳細はこちらで
この時の米軍、国対応もお粗末でした。
まず自衛隊が助けたのは軽傷のパイロット。
厚木基地の司令官も見舞いに来たが
被害者の家族に会う事を拒否されている。
防衛庁(当時)の下部組織、横浜防衛施設局
の職員が事故当日から病院に来ていたが
被害家族へのあいさつ、謝罪など無く、
そのうえ何の手助けもしなかったのである。
このあと、横浜防衛施設局が国の対応窓口となる
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この本は以前横浜の学校が教材として使い、国会でも問題になったそうです。
安全だと嘘で塗り固めた放射能教育の教材はいまだ続行中なのに、
アメリカと自衛隊を非難するとすぐ、感情バイバスにに触れるようです。
この事件の詳細知り(いろいろな反論含め)
読んで怒りと涙でいっぱいになりました。
事実は事実、ジェット機が落なけれな今穏やかな日常でお孫さん
抱いてしたでしょう。
幼ない3歳と1歳の我が子を無残に焼かれ本人も重度のやけど、
地獄のように辛い硝酸銀の薬浴過酷な60回に及び皮膚移植、
呼吸器をやれる声を出せなかった母親が装置により声を取り戻し、
溜まりに溜まってた怒りを爆発させ被害を訴えると、母親を精神病扱いをし
精神病院に強制転院させ鉄格子の中無念の死を遂げたとありました。
今で言ううつ状態なんでしょうか。31歳の若さです。
横浜の「港の見える丘公園」のフランス山にある「愛の母子像」
「あふれる愛を子らに」と書いてあるだけで、20年間
何の説明もありませんでした。
像設置から碑文設置まで約21年の歳月が費やされたのは・・
「寄贈者 土志田勇 昭和60年1月 17日 山本正道作」
この寄贈者はこの本の著者被害者の父親です。
- 「あふれる愛」を継いで―米軍ジェット機が娘と孫を奪った/土志田 勇
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http://www.pen.co.jp/syoseki/syakai/0507.html より
あの時、米軍の飛行士2人は無事に落下傘で降り、
何の罰も受けずにアメリカに帰りました。
(沖縄もそうですよね事件起こして)
後に別の被害家族がパイロットらを刑事告訴したが
不起訴処分、日米地位協定に基づき
米兵らの公務中の事件事故は米側に
第一次裁判権があるためだそうです。
米韓地位協定の刑事分野における改訂は今年5月に
なされたのに未だ日本はです・・・・
米軍は事故2時間後には現場入りし、
周辺から一般人だけではなく日本の警察や消防を締め出し
、証拠のエンジンなどを持ち去るだけの事をした。
このときの米兵士たちは、まるで遠足気分のように
はしゃいでいて、中にはVサインをしてカメラに
収まる者もいた(この写真はいろいろな本に掲載されていますと)。
それどころか、海上自衛隊のヘリコプター
は米軍飛行士の救助を真っ先にやり、
あなた方を救うはずの日本の救急車は
一番後に来たといわれます。
和枝さんは体の皮膚の八割近くも焼かれ、
全国の1000人以上の人から 皮膚の提供の申し出
を受けて60回もの手術を繰り返し、何とか
命をとりとめました。しかし、最初は
隠されていたわが子の死を知った悲しみを
想像すること はできません。
パパとは離婚することになり(諸説理由があり)、
土志田姓に戻ったママは当然のこと ながら、
米軍に対して無力な国を強く批判します。
無念のうちに事件の4年後に死亡、
残された年老いたご両親の慟哭、
お父さんは六〇歳を過ぎてから娘さんの意思を
引き継ぐように福祉関係の資格を取得し、
社会福祉法人を立ち上げ、知的障害者を
支援する授産施設、ハーブ園、保育園
の開設に力を尽くしたそうですが、
2008年一月三日に八十三歳でお亡くなりに。