しゃーーー!!
ほしてぃーです!!
ゆめのば。の保護者さんや子どもたちとの交流会も全国で行っています!
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教育に対する俺の『想い』
ゆめのば
「仁塾 塾長 島崎 仁」
「拓進スクール 塾長 高崎 拓也」との出逢いについて
「ゆめのば」の塾生や保護者様には
一度で良いので読んで頂きたい内容です。お付き合いください
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俺が中学生の時に、父が経営する会社が倒産した。
毎日のように、父と母が大喧嘩をしていた。
父はサラ金からお金を借りていたため、毎日にように催促の電話がかかってくる。
夜中、家に怖い男が2人で来て「でてこい!」ってことも頻繁にあった。
俺は3人兄弟の長男。父が、次男の弟に暴力を振るのに耐えきれず
ある日、木刀で父に立ち向かった。
父は包丁を取り出してきた。警察にご迷惑をかける事件が起きた。
その後、夜逃げ。離婚。
母に「智、お母さんの料理で何が1番好き?」と聞かれ
何も知らずに「お好み焼きかな!」と答えた。
母は、お好み焼きの修行に出て、店を開いた。
みんなでかなづちを持ってコンコン。手作りの店。店名は俺が決めた。
「一発逆転」
特に、店名について説明することもないかな(笑)
女手ひとつで母は、3人の子どもを大学まで送り出した。
俺たちのために、365日休まず母は働き続けた。
3人共社会に出て、母もようやく自分の自由の時間が楽しめる、そう思った矢先の病。
癌だった。医師から余命半年と言われた。この世に神様なんていないと思った。
そこから母は病と戦い続けたが、余命宣告を受けてから3年後にこの世を去った。
59歳だった。
母は、沖縄が大好きだった。
老後は沖縄でカフェでもやりながらのんびり過ごしたいと言っていた。
俺の夢の1つは、母に一軒家を買ってあげることだった。
残念ながらそれを叶えることはできなかったが、
沖縄の海が一望できる素敵な場所で、母は眠っている。
ただ、母の最大の強みは、チカラになってくれるお客さんや親友がたくさんいたこと。
本当にたくさんの方々に支えて頂いた。
その「支え」がなければ、俺に限らず兄弟3人とも、周りの友達が当たり前のように受けている教育を受けることはできなかっただろう。
俺は母の人脈により紙一重で救ってもらえたが、経済的理由で塾に通うための教育費を払うことができない家庭は日本中にたくさんあるだろう。
子どもは家も親も選ぶことはできない。
各家庭の様々な事情による経済的理由で、やる気があっても塾に通えない子どもたちがたくさんいる現実。
これが、ゆめのばを「無料」にした大きな理由の1つである。
さて、次に島崎(島ちゃん)・高崎(拓也)との出逢いについて話そう。
俺は、小学校のときから「学校の先生」になるのが夢だった。
その夢は中学生になっても高校生になっても変わらなかった。
高校の時に奨学金を借り、私立大学は当然選択肢にはなく国立大学への進学を目指した。
福島大学教育学部数学科に入学してすぐに、学校の先生になるための大きなプラスの経験ができると思い、アルバイトで塾講師を始めた。
1クラス20名〜30名のクラスを必死になって指導した。
大手の塾であればどこでも実施している「生徒アンケート」というものがある。
「この先生の授業はわかりやすいか?」
「この先生の授業はやる気になるか?」
などといった質問に対して子どもたちが数字をつけるシステムだ。
初めての生徒アンケート、ドキドキの発表だった。
結果は、全国で300人以上いる講師の中で下から2位。
その日に、その教室の社員に呼ばれ「星野、お前はこの仕事向いていないから辞めなよ」って言われた。
死ぬほど悔しかった。
ここで負けるわけにはいかない。俺は絶対に学校の先生になる。
自分の大学寮の部屋にホワイトボードを取り付けて、教授にビデオカメラを借りて自分の授業をビデオに撮って研究した。
浪人生を装って大手予備校に通い、カリスマと呼ばれる講師の授業を研究した。
大学の授業を聞かずにその日の授業の予習をして、1番はやく教室に行って授業の練習をした。
ほどなく、生徒アンケートでは誰にも負けないレベルにまでなった。
大学時代は塾講師漬けの毎日だったわけだが、1個下で同じ教育学部に入ってきたのが高崎拓也。
当時から、お互い惹かれるものがあった・・・と俺は勝手に思っている。
2人でよく朝まで教育について語りあった。同じくらい麻雀もしたな(笑)
拓也は麻雀がめっちゃ強くて、アルバイトで稼いた給料をたくさん持ってかれた。。。
そろそろかえしてもらおう(笑)
ずっと学校の先生を目指していた俺にとって、待ちに待った教育実習が大学3年のときにあった。何十人もの教育実習生が福島大学付属中学に行くのだが、とにかく目立ってしまった。
目立つと言っても、ワイワイ騒いでの目立ちではない。
自分のここまでやってきたことが、どこまで学校という教育の現場で通用するのか。
それを本気で試したかった。
日が変わる時間まで指導書を作り、実習生の代表授業担当にも選ばれ代表授業をやらせてもらった。
しかし、思いっきり学校の先生に煙たがれた。どんだけお前目立ってるんだよって、面と向かって言われた。
この教育実習を終えて、学校の先生になることが俺にとって幸せなのか??という疑問を抱いた。
拓也に相談をしたら、拓也は「サトシさん、絶対に塾講師の方が向いてるって!!」と即答した。
自分の中では教育実習を終えた時に決まっていたのかもしれない。
最後に同志である拓也に背中を押してもらいたかっただけなのかもしれない。
「学校の先生になる」という夢を捨て、当時、ひたすら夢中になっていた塾という世界で誰よりも上手な授業をして生徒たちを引っ張り、たくさんの子どもたちを笑顔にしようと決めた瞬間だった。
その後、東京の中学生なら誰もが知っている超有名進学塾に就職。
早稲田・慶応・開成といった有名高校に合格させると社員にポイントが付き、ポイントで給料やボーナスが決まる仕組み。
電卓打ってポイントを計算し、ポイントが足りないと生徒の志望校を平気で変える現場を見て耐えきれず、1年で辞めた。
一応、夏合宿のときに生徒アンケートがあって、そこで1位を取って辞めてやった感じ(笑)
その後、縁あって群馬県最大手の塾に就職。
最初に配属された拠点で塾長をやっていたのが、島ちゃんこと、島崎 仁だ。
その当時の俺は天狗だった。どこいっても「すげーすげー」と言われていたから。
そんな俺にとって、島ちゃんとの出逢いは衝撃的だった。何百人といる社員の中でダントツの授業力はもちろんのこと、子どもたちを本気で叱る姿、今まで見たことない教師だった。
「この人には勝てない・・・」と、初めて感じる感覚に陥った。
島ちゃんの下で働いたのは3ヶ月だけだったが、たくさんのことを学ばせてもらった。
すぐに別校舎に配属になったにもかかわらず、なぜかその後も島ちゃんとはずっと交流が続いた。
数年後、島ちゃんは独立し「仁塾」を立ち上げ、順調に拠点を増やしていった。
ところが社員の不祥事があり、それを機にそれ以上拠点を増やすことを辞めてしまった。
一方、拓也は大学卒業後、地元、福島の南相馬に「拓進スクール」という塾を開き、子どもたちの指導に尽力を尽くしていた。
そう、「東日本大震災」までは。
拓也の地元は、福島原発のすぐそば。
震災で子どもたちは全国バラバラになってしまい、そこで塾を継続することができなくなってしまった。
俺が大学を卒業する日、「いつの日か一緒に塾ができるといいな」と言ってギュッと握手したことが、こんな形で実現するとは。
複雑な気持ちであったが、俺たちは余震のない、関西、兵庫の加古川に塾を作った。
関西という新たな地で、たくさんの子どもたちと出逢うことができた。
その後、まぁいろいろあった(笑)
またこれは追々話そう。
拓也は南相馬に戻り、地元の子どもたちのために1から塾をスタートさせた。
俺は勉強の苦手な子どもたちのための塾「カラーズ!」を開校。
前職の社長にウソ・デマをネット上に書かれまくり、苦労した。
出る杭は打たれるとはよく言われることで、まだ俺は未熟なんだと自分に言い聞かせた。
そんなことに負けてたまるか!と、自分を奮い立たせて頑張った。
1年後には地域最大級の生徒が通う塾にまで成長できた。たくさんの保護者様の支えがあったからだ。どれだけ感謝しても感謝しきれない。素晴らしい保護者様ばかりで救われた。それは昔も今も変わらない。「カラーズ!」は自分の「宝」である。
そろそろ、教育に対する想いについて話をしたい。
「15歳の受験」で俺が1番大切にしているのは
合格・不合格よりも、どれだけ「本気」になれたかどうか。
一生懸命になったその経験が、いつの日か夢を叶えるときの大きなチカラに変わることを俺は知っている。
たくさんの教え子たちが、卒業して社会に出てそれを実証してくれている。
だからこそ、中途半端な受験を絶対にしてほしくないし、俺の生徒にはさせない。
俺が鬼のように厳しいのはそういうことだ。
俺は子どもたちによく言う。
「後悔するような受験ならしないほうがいい。これだけ努力して、これでもダメだったら、
仕方ない!後悔もしない!と受験の当日に胸を張って言えるくらい努力をしろ!」と。
15年の人生の中で、1番の一生懸命を見せてくれと。
そう願って、命をかけて毎年子どもたちの指導をしている。
このような自分の想いに共感してくれる子どもたちや保護者様がたくさんいらっしゃるのは本当に幸せなことだ。
しかし近年、家庭の収入減少や、保護者の離婚など、経済的な理由から塾を続けることができなくなるお子さんが多くなっている。この状況をなんとかしなくてはならない。
経済的理由で塾に通えない現状が、そのまま学力格差につながってしまう日本の教育を変えなくては、子どもたちが一生懸命に自分の夢に向かって努力できる環境が整わなければ、日本に明るい未来はない。という危機感を抱きつつ何もできずに月日が流れていってしまった。
2015年春、大学時代の旧友であり、学校の先生をやっている仲間からのSOSをうけ
俺はある離島に住む数人の中学生とその地で出逢った。
その島には学習塾がなく、学校で学ぶ以上の事を、子どもたちが学びたいと思っていてもそれを叶えることが難しい状況。
全国学力調査テストの結果も、その島の中学生の結果は散々なものだった。
勉強に自信が持てない、だから子どもたちは自分の夢をしまい込んでしまっているように思えて仕方がなかった。
生まれた場所や環境に関係なく、島の子どもたちにも頑張ることの楽しさを感じてもらい、一生懸命に何かに取り組む経験を生かして、自分の夢を自分の手で叶えてほしい。
そこから、島の子どもたちを救うために何かできないだろうか、と悩んだ。
『本気で』頑張りたいと思っている子どもたちが、金銭的理由や生まれ育った場所がネックとなり、静かに夢をあきらめてしまう現状を本気で救いたい。夢の実現のためのチカラを伸ばす場所をつくりたい。
しかし俺一人では難しい。
もしかしたら、同じ志を持って教育にずっと向き合ってきている島ちゃんと拓也なら、と思い声をかけた。
2人の答えは即答で「やろう」だった。
誰かがやらなきゃいけない。
でも今の塾業界の人間ではきっと誰もできない。
ならオレたちがやろう。やるしかない。
そして、
中学生専門オンライン学習塾「ゆめのば」が生まれた。
これから「ゆめのば」に出逢ったことで、たくさんの子どもたちの笑顔がうまれるように精一杯頑張っていく。
本気で日本の教育を変えてみせる。