《つれづれなるままに》
【楠木正成公との御縁メモ】
いつものようにキーワードが繋がりだします。。
壱岐対馬を調べていると。。
まさかの"楠木正成"。。
"壱岐守・対馬守"に任命されたとのこと!
島では領民とともに開墾をしたり、
元寇により朝鮮半島へ連れ去られていた
日本人を救う御尽力をされたのだとか。
素晴らしい方ですね。。
この数行で書いてしまうのは申し訳ない程、
ご功績はとても大切な意味に繋がってゆくようです。。
あまりに広く深いテーマなので
大切な予感のまま、ここで留め置きます。
さて。個人的に
楠木正成公といえば。。
菊池氏の御縁から
少しだけ繋がらせていただいた人物でした。
(↑そうなんです!昨年の【八大龍王ツアー】の
熊本から、菊池氏が現れて以来、
物凄く濃い"菊池氏"へのライトワークを
続行させていただいていますが、、
*熊本でのミラクルの1つはこちら↩️
《つれづれなるままに》
【太宰府への誘い(夢の御告げー2)】
https://ameblo.jp/hoshinomille/entry-12434274486.html
菊池氏は後醍醐天皇❣️の皇子の"懐良親王"(かねなが)とも、九州にて太く繋がられているのでした。。(ちなみに。。このお二人は、重要なキーポイント"太宰府"と"高良山(久留米)"の地とも深い所縁があるのですよ💧。。)
そして、今回は、正成公とも。。
多々良浜の戦いでは南朝側の御二方、
楠木正成公と菊池氏は
共に戦ったようです。
つい先日、御案内いただいた田無神社には
なんと楠木正成公の石像が❣️
田無神社の楠木正成公の石像の前では
光の共鳴の際に、菊池氏との関わりを
お話させていただきました。
南北朝時代、
博多合戦での"菊池氏"の忠義を
楠木正成公が後醍醐天皇に進言され、
不遇だった菊池氏はやっと労を報われ
肥後守に任命されたとか。
さらに、兵庫の湊川神社には、
350年の時を経て水戸光圀が
楠木正成の墓を立て、
その際、楠木一族の17名と共に
"菊池武吉"の名も刻ませたとか。
(武吉は逃れられるにもかかわらず
湊川の戦いに敗れた楠木兄弟と
自ら望んで共に自刃したとか)
菊池氏も歴代ドラマティックな豪族ですが、
楠木正成公との関わりにも、ジーンときます。
さて。田無から濃くなってきた
この流れで 正成公を調べて行くと。。
"楠木正成"
鎌倉時代末期から難波宮時代にかけての
最も有能な武将であり商人であり発明家。
大塔宮・護良親王を奉じて
鎌倉幕府打倒に大きく貢献。
大塔宮・護良親王❣️ (もりなが)
鎌倉宮に祀られている、
後醍醐天皇の悲劇の皇子ですね。
(*懐良親王(かねなが)とはまた別の方ですよ〜)
実は私は。。
護良親王(大塔宮)が幽閉されていたという
鎌倉宮には、
思い掛けず昔から御縁があることに
2年くらい前に気付きました。。
その後、後醍醐天皇の他の皇子たちへも
光をお届けするようになり。。
インスタ 鎌倉宮 20170225
https://instagram.com/p/BQ-MTnOjf2-/
インスタ 鎌倉宮 20190605
https://instagram.com/p/ByZGq59nlMO/
さらに。。
2月に私が御案内いただいたばかりの
奈良の 信貴山朝護孫子寺❣️
(こちらは、虎・2・毘沙門天・ムカデ・
聖徳太子・空海と、その後もリンクしまくり💧)
なんと、《楠木正成公御誕生の折、
なかなか子宝に恵まれなかった(正成公の)母君が、
信貴山朝護孫子寺の毘沙門堂に百日間詣を行い、見た夢に金色に輝く鎧を着た人が口の中に飛び込んで来て、その後男子が産まれたことから、その子は神の子、多聞天の化身とされ、正成公は幼名を多聞丸と名付られた》とか。
《四天王の一尊である毘沙門天の異名は多聞天。憤怒の相の甲冑(かっちゅう)姿で、左手に宝塔、右手には宝棒を持ち、仏法を守護する。
》とのこと。
ちょっと脱線ですが。。
三面大黒天は 大黒天・弁財天・毘沙門天で
その瓦が 四天王寺にもひっそりあったりします。
他にも何かと
毘沙門天と虎がでてきます💧
今日、映画「清須会議」を観ていたら。。
柴田勝家と羽柴秀吉の張り詰めたシーンで
襖絵に"虎"❣️ いずれ戦で闘う二人。
毘沙門天さんは
勝利の神様ですからね。。