それはある日突然、何の前触れもなく俺に備わった。
俺に雷が落ちたわけでもなく、誰かとぶつかったわけでもない。
ましてや魔法使いが現れて、俺にこれを授けたわけでもない。
セットしておいたケータイのアラームが鳴り、2階にある自分の部屋を出て、階段を降りる。
「おはよう」と声をかけてきた母さんの方を見向きもせず「おはよう」と返し、洗面所に向かう。
顔を洗って、タオルで拭く。
鏡には、いつもどおり冴えなくて地味な俺の顔。
何も変わらないいつもの朝だった。
朝ごはんが乗ってるダイニングテーブルを一目みやる。
相変わらずレパートリーがない朝食にうんざりしながら、トーストされた食パンにかじりつく。
母さんがコーヒーを持ってきながら、「そのパン美味しいでしょ!
駅前に出来た高級食パン屋さんのやつなのよ。
エザキさんがわざわざ買ってくれてね。」と自分の手柄のように言う。
それを聞いて、
「へー」
と、我ながらつまらない返事をした。
そんな俺を見た母さんは、がっかりした声で
「もっと感動してよね。
それ一斤1000円もするんだから。」と文句を言った。
正直、確かに美味しい。
でも、ここで「美味しい」と言ってしまったら俺の舌はたかだか1000円で感動してしまうということになる。
それは、俺のプライドが許さなかった。
まあ、意味不明すぎるプライドだと自分でも思うけど。
「もう一枚食べる?」と母さんが聞く。
「いや、もういいよ。」
コーヒーを飲み干して、椅子から立ち上がる。
ふと母さんを見ると、母さんの顔がピンク色のモヤに包まれて、輪郭がうっすらとしか認識できない。
昨日、オンラインゲームをしすぎたか。
目が疲れて霞んでいるのかな。
目を擦ってもう一度母さんを見る。
ピンク色のモヤは晴れていなかった。
「何よ、人の顔ジロジロと見て。」
母さんのその一言でハッと我に返った。
「いや、何か目が霞んで…。」
「ゲームのしすぎでしょ。
たまには勉強のしすぎで疲れてみなさいよ。」
余計なことを言うんじゃなかった。
俺の通う学校は、家から徒歩とバスで30分程度の距離にある。
しかし、今日の30分は昨日までのそれとはまるで違った。
とにかく、ピンク色のモヤがあちこちに発生しているのだ。
ピンク色のモヤには濃淡があり、顔のパーツが認識できるくらい薄いモヤの人もいれば、モヤが濃すぎて輪郭すらはっきりしない人もいた。
日常の中の非日常に混乱し、俺はまだ夢の中にいるのではないかとすら錯覚した。
でも、運転手のミスでバスが路肩に少し乗り上げた時に舌を噛んだ。
その痛みは、どう考えても現実だった。
バスを降り、学校へ向かう。
その道中、俺はますます困惑した。
吹奏楽部のマドンナが、隣のクラスのギャルが、生徒会副会長が、みんな顔にピンクのモヤを纏っていた。
やはりバスに乗っていたとき同様、モヤには濃淡があり、吹奏楽部のマドンナは薄いモヤ、生徒会副会長や隣のクラスのギャルは、顔の認識が出来ないほどの濃いモヤを纏っていた。
ここで気づいたのは、女子にはモヤがかかっている奴もいない奴もいるのに対し、男は誰一人としてモヤがかかっている奴がいない。
この違いは何なんだ。
まるで小学生の頃に流行ったあるなしクイズみたいだ。
訳がわからなさすぎて、俺の思考回路にもモヤがかかったようにすら感じる。
ゲームのしすぎで寝不足なのかと授業中に睡眠を取って回復を試みたものの、目が覚めてもやっぱりピンク色のモヤは晴れていなかった。
昼休み、屋上から見える雲一つない快晴の空とは打って変わって、未だ晴れない謎のピンク色のモヤに辟易していた。
訳がわからず、飯を食う気にもなれない。
箸がなかなか進まずにいると、一緒にいた田原がニヤニヤしながら、俺の卵焼きをさっと奪い取っていった。
「あ、おい。」
「何ボーッとしてんだよ。
エロいことでも考えてんのか?」
「飯の最中にエロいこと考えるほど、俺は女に飢えてねぇんだよ。」
「よく言うよ。
こないだ階段下で水沼さんのパンツが見えて密かに喜んでたの、俺がわからなかったと思うなよ。」
「…でかい声で言うなよ。」
そういえば、田原にはこのピンク色のモヤは見えるのだろうか。
いや、見えていたらこいつはもっと大騒ぎしているだろう。
俺だけが見えるのかとか、俺が変なのかとか、そういう心配や不安は一切しないお気楽野郎なのだから。
「あ、あいつ知ってる?
Eクラスの仙堂真奈。」
俺の気持ちをよそに、田原はそう言って中庭を指差した。
「知らん、なんだよ。」
俺は、田原の指差す方向を見もしないで言った。
「あいつさ、ああやって一人で中庭で本なんか読んでてさ、如何にも非モテ女ですーって感じなのに、実は裏ではめちゃくちゃやってるらしいぜ。」
「何情報だよ、それ。」
「いやいや、まじまじ。
まあ別に可愛くもないけど、やらせてくれるんならやりてぇよなぁ。」
「お前、キモすぎ。」
「そんなこと言って、俺よりエロいことに興味津々のくせにカッコつけるなよ。」
「俺は、お前みたいに節操がないエロじゃねぇんだよ。」
と言いつつ、非モテを取り繕った非貞操女がどんな顔なのか気になって、田原に気づかれないようにそっと中庭を見下ろした。
そこでは、顔を判別出来ないほどの濃いピンク色のモヤが、うちの学校制服を着て難しそうな本を読んでいた。
ああ、そういうことなのか。
このピンク色のモヤは性経験の有無を判別するもので、やればやるほどモヤは濃いピンクになるってことなんだろう。
でも、そんなことを知ったところで俺が女とやれるかやれないかはまた別の問題なわけで。
俺は地味でモテないし、それゆえに女に興味がないフリをしてるという自覚もある。
そうは言ってもぶっちゃけエロいことへの興味はそれなりにあるし、出来るなら経験したいと思っている。
だけど、俺のこのスキルは目の前に立つ女が経験があるかないか、その経験が多いか少ないか知ることが出来るだけ。
何の役に立つんだよ。
一晩寝れば治るかと思ってはみたものの、朝一番で見た母さんの顔にはガッツリピンク色のモヤがかかっていた。
…どうでもいいけど、母親の経験人数を把握するってきついもんがあるな。
輪郭がぼんやりとしか見えないとか、まじかよ。
家を出て、バス停に向かう。
時間通り学校に向かうバスに乗る。
今までと何も変わらないはずなのに、ピンク色のモヤのせいで、気もそぞろになっていて、ふわふわ浮ついているのが自分でもよくわかる。
よくよく考えてみると、周りの女の性経験がわかる能力なんて面白いかもしれない。
経験人数なんて人に大っぴらに話せないような秘密を簡単に知れてしまう面白さもいい。
田原の言う通り、経験人数が多い奴に声を掛ければ、ひょっとすることもあったりして。
嬉しさと可笑しさを堪えるように、俺は少し大袈裟に咳払いをして校門をくぐった。
教室へ入り、ドアの近くにいたクラスメイトの何人かに適当に挨拶をする。
すると、そのうちの一人が「今から緊急で全校集会だってよ。」と嬉しそうに教えてくれた。
「まじかよ。数IIの授業潰れるな。」
「体育館集合だってよ、急げよな。」
「おー、サンキュー。」
俺は、自分の席に鞄を放り投げると体育館へ向かった。
体育館に向かってブラブラ歩いていると、後ろの方からうちのクラスの女子達の声がした。
「みくる、体調は大丈夫なの?」
俺はそれを聞いて少しドキッとした。
水沼さん、今日は学校来れたのか。
水沼みくるは、俺が絶賛片思い中のクラスの女子だ。
テニス部のキャプテンで、身長が小さくて華奢なのに全国大会に出場するほどの実力があるらしい。
ショートカットに近いボブで、細くてしなやかな黒髪がいつもさらさらと揺れていて、それを見るたびに俺は胸が少し苦しくなる。
笑うと眉尻が少し下がって、ハの字になる。
薄い唇から覗く八重歯が可愛い。
俺が学校に来る理由の8割が、水沼さんだ。
「うん、今回は何かきつくてさ。
でも、昨日一日中寝てたからもう大丈夫。」
「最近テストだの模試だの忙しかったもんね、ストレスも溜まれば体調にもくるわ。」
「ほんとめんどくさいよねー。」
女子同士の会話は、オチも面白味も意味も全くないからかなり苦手だ。
でも、水沼さんの声を朝から聞けるのは嬉しかった。
水沼さんとの距離を縮めたくて、少しゆっくり歩いてみた。
すると、歩く速度を緩めすぎたのか、水沼さんと一緒にいた女子の一人が「早く歩けよー!」と俺の背中を平手でぶっ叩いた。
「いってーな」と文句を言うために思わず振り向きそうになって、慌てて前を向き直す。
今、俺がここで振り向いたら水沼さんの経験人数を知ってしまうことになる。
俺はそんなことにこだわらないけれど、ピンク色のモヤが水沼さんにかかっていたとしたら…。
それが顔の判別が出来ないほどだったとしたら…。
まあ、水沼さんに限って、そんなことあるわけねぇよな。
水沼さんってモテるけど、水沼さんを狙ってる奴等全員と何かあるわけないし。
そりゃ、何人かと付き合ってるだのなんだのって噂は聞いてるから、モヤが全くかかってないとも思わないけど。
でも別に俺、そこまでそこにこだわりがあるわけでもないし。
流石に好きな女のそこを許せないほど、器小さくないし。
この一瞬で、いつもは使わない頭をフル回転させて、いろんな言い訳を自分に押し付けた。
水沼さんを見ないようにしながら。
しかし、そんな俺の努力は実らなかった。
俺が道を塞いでいるようにしていたのが気に入らなかったのか、俺の背中をぶっ叩いた女子が水沼さんの腕を引っ張って、「はいはい、通してー!」と言いながら俺の前へ押し出てきたからだ。
俺の鼻先を水沼さんの髪の匂いが掠めていく。
甘いわたあめのような匂いがした。
ーーーーーピンク色の。
水沼さんの顔には、あのピンク色のモヤがかかっていた。
細くてしなやかにさらさらと揺れる黒髪も、笑うと下がる眉尻も、薄い唇から覗く八重歯も、俺の好きな水沼さんの姿は、ピンク色のモヤが濃くかかっていて何も見えなかった。
「もう、やめなって。
ごめんね?」
ピンク色のモヤが俺に謝る。
ああ、うん。
そうか、そうだよな。
水沼さんモテるんだから、そりゃそうだろ。
ってかそもそも、俺水沼さんのこと何も知らないしな。
どんな男がタイプで、どんな男と付き合ってどんな男とセックスしたのかとか、別に知らねえもんな。
水沼さんが経験人数多くたって、俺には何も関係ないことだもんな。
でも、何も見えないほどモヤがかかってるって経験人数どんだけ多いんだよ。
もしかして、彼氏以外の奴とやってたりすんのかな。
そしたら、俺のこと好きじゃなくてもワンチャンやらせてくれたりするのかな。
そういう女って意外とこっちが強気でいけば簡単に落ちるってこないだ田原が言ってたような気がするし。
まあ、そんな貞操観念皆無の女とか俺から願い下げだけど。
そんな女を彼女にしたら、絶対苦労するもんな。
でも、やらせてくれるならやっとかなきゃもったいないよな。
一限目開始のチャイムが鳴った。
全校集会が始まるため、まだ廊下にいた生徒達がドヤドヤと小走りで体育館に向かう。
俺を追い越していく女達の顔にはピンク色のモヤがかかっている奴もいれば、かかっていない奴もいる。
でも、もうそんなのどうでもいい。
俺がこのスキルを手に入れたのは、今こうするためにあったんだ。
「水沼さん。」
俺は意を決して水沼さんに声をかけた。
「え?何?」
水沼さんと呼ばれて振り返ったピンク色のモヤが答える。
「水沼さんってさ、誰でもやらせてくれるの?
そしたら、俺もやらせてよ。」
そのとき俺を追い抜いて行った薄いピンク色のモヤがかかった女が言った。
「やばい、こんなときに生理になっちゃった。
トイレに行ってる時間あるかなぁ。」