知識だけで
この世界は
映像、紙芝居、フィルム、一枚絵、写真、絵本、映画、テレビの番組等のような
どこかから映し出されたものを
実は観ているに過ぎないと言うことに気付いたら
その観ているのがそもそもの自分である
それを頭で
情報や知識だけで知ると
知ってしまうと
ここに生きている自分
今地球にいて
私として存在している
この私すらも
ここに居なくて
その私すらも私でないとしたら
そう思うと
何のために生きているのか分からなくなりそうだ
人は体感や感覚で実感できていないと
どう言うものか
本当の意味で認識出来ない
だから分からないものは分からないし
自分の存在自体がそもそも虚ろで幻なのなら。。。と
空虚や虚無を感じるだろう
この世界が愛で満たされていて
既に何もかもが沢山用意されている
でもこの居ないと言うこと
幻と言うこと
これを知るだけだと存在意義が揺らぐ
何故なら人は自分を人として思って生きてるし
私だと思って生きている
それは確かだし
嘘でも偽りでもない
けれどそうではないのだとしたら
今生きているこの私すらも私でありながら私でない
居るけど居ない
じゃあ私は一体なんなの?となるのは当然で
人が私だと思って生きているものがそうではない
幻想を幻想ではなくより臨場感を味わえるものとして、本物であるように見せるため、リアルな体験、体感させるためにあるスパイスのようなもの
どれも本当であり本物であることには変わりないのに
それは生身の人間としては
でもそうでない部分では本物ですらない
生身の人間としている自分は自分でないし
そうだとしたらその自分すらもなんだかよく分からないものになる
感情も私ではないし
この感覚も
考えるこの思考すらも
自分でないと言うのなら
じゃあなんで生きているのだろうかと
自分を見失う
だって私は私ではないのなら
じゃあここに居るこの人は誰なの?とね
魂のやりたいことをやる為にいると言われるけど
それでもなんの為に居るのか
なにゆえに存在しているのか分からなくなる
私である必要なんてないから
唯一無二と言うけど
初めから居ないなら
居ても居なくても同じではないかと
この世界は全て幻で
私はどこにも登場していない
主人公すらいない
ただの幻を本物のように感じて
自分を認識して
自分だと思ってるけど
その認識すら
幻と言われたら
生きる意味を見失って
何も感じなくなってしまいそうだ
自分を確立するものが全て無
自己の否定とも言えて
何にもなかった
でも確かに存在しているこの人はどちら様なのか
人からしたら意味が分からないし
確かに生きてるのに
存在してるのに
してないと言われるものだから
混乱するんだ
消されたような感覚になるかもしれない
でも存在すらしてないなら消すも何もないよなとも
けれど間違いなく生きていて
私が居ること
人して今存在してること
それもまた変わらない
この事実はある
この世界が幻であろうと
この視点や捉え方が❝どこ❞からで
きっと感じ方や見方が変わるのだろう
ここが人にとって
とても難しく感じるように思う
私なんかはその観ているそのそれそのものすらも私と呼べるか分からないし
私として生きているけど
そうでないただ傍観している誰か
でもその誰かは私なんだろう
けどその誰か(私の本体とか本質と呼べる何か)が私(と言う人間)を通して
この人間と言う媒体を用いて
人と言う経験しながら魂と言う本質の希望を叶えにやって来ているのだと思われる
その本質と呼べるそれすらも私の本質なのかと疑問に思ってる
だからか?
無感情と言うか
本質そのものに何も感じない
好きも嫌いも
怒りも悲しみも
喜びも楽しみ(愉しみ)も
源とか根源とか全体意識とか
そう言われたり、そのように呼ばれる何かについても
漠然とただ何かが在るのだろうなと思うけど
在ると思うその何かの中は
有と無があって
終わりも始まりもどちらもありながら
未知も既知も共存してる
でも未知すらも知っているような
全部あるのだから
そう言う感じで矛盾したように思えるものが矛盾しながらも矛盾せずに存在してる
でも頭での理解で留(とど)まっていて
体感と言う感覚でなければ何も分からない
それは真の理解とは言えない
言葉と言うのは時に
あらゆるものを伝え
それを知らせる
でも先に知っても
人として生きているから
知識だけ先行しても
その他の部分ではついて行けずに
どうして良いか
分からなくなる
いくら知識で分かっていても
理屈ではないことがある
百聞は一見にしかずで体験しないと何も分からない
感覚は想像することが難しい
体験して初めて知ることだから
それが経験として積み重なり考え方の幅が広がる、様々な捉え方ができるなど応用が可能になってよりその人自身に深みが出るのだろう
だけど理屈だけ知っていても何も分からない
何もかもが幻と知った時に自分の中にあったのは
虚無でなくとも充実感もなく
そこにあるのは
ただの無
心があたたかくなることもなければつめたさもない
ただ在るだけ
そして
この(人間をやっている)私自身が
源や根源、全体意識に思うことは
何がなんだか分からない何かが
というか
その何かすらも存在できるのが
ここ(この何とも言えない世界)
どことも言えない
ところで
何もかもがただ在ること
(そしてここは)
なにもかもがゆるされた場
それは確かで
そして思う
ただ在ると言うその中でそれに愛を見出す
それができること
それはもしかしたら
すごく尊いことなのかも知れないと
それを感じられること
それこそが
その何かが
もしかしたら
この源や根源等と称される何かが
知りたかったこと?とか勝手に思ってる
だって私には
その何かに
何も感じられないし
何も見えない
そもそも仮に見えたとしても
そこに何かを見出だせるのかすら分からない
何故なら
何か見たとして
それが私という存在しないけど存在している存在の想像から具現化された創造であることも否定できないから
私はこの手の話に詳しくははなく
なんとなく思うことを書いてるに過ぎないから
決して鵜呑みにすることなく
必ず自分で考えてください
ただ人として生きていようと
そうでない何者かであろうと
他は本人以外の
誰かになれない
他人を演じることは出来てもね
そういう
誰かになれない世界の中で
何を見るのか
そこに何を感じるのか
それは全体として存在しても
別にあるのだろうか
それとも同じなのだろうか
全体意識の中でも個々人がいる(個々として存在している)のか
私が居なかろうと
それでも私として存在しようとした意識はいて
それは全体として存在していようと
私であることに変わりないのか
それとも?と言う意
私であることに変わりないのなら
見るものは個に委ねられる
その場合は(根源等と呼ばれる)何かが見せるものについて
その見ていると認識してるそれそのものは何を見ている?
と言う疑問が湧くんだ
それとも個でありながら同じものを見、感じるものなのか
どうなんだろう?
だってそれが何かが見せるありのままのものだと
誰が判断し
誰が決めるのか
それは誰にも分からないし
(自分自身の)想像が創造されてないとどうやって分かるのか分からないから
でもそもそも
そこに
自分自身が居るのかも分からない
だから全体意識の中にも個はあるのか?と言う疑問が出てくる
見えない世界って不思議だけど
時に虚無さもある
何かを求めても何も無いかも知れなくて
でもあるかも知れないと言う矛盾
けど人が思うものとはもしかしたら異なるものがそこにはあって
それが揺るぎない真実だったとしたら
中には絶望的な感覚を持つ人もいるかも知れない
愛と呼ばれているもの
その認識もあやふやな気もして来たし
人を含めた全ての生き物(存在)にとって
魂にとって
優しい世界だから
優しさをそのように表現しただけかも知れない
そもそもその優しさも
何を優しさと呼ぶのか
優しいと言うこの言葉も
今の私には謎のワード
あらゆるものが揺らめいて
はっきりしない
けど私は人だから
やっぱり有るなと
その存在を感じてる
確かに実感してる
それがたとえ幻だったとしても
でもその視点は
私でありながらもこの私(自分を人として思って人として生きる)ではない部分からのものだから
それはそれ
私は私で
生きようと思う
追記
だから逆に
感情や感覚があること
何かを想えること
考えられること等
それらはとても尊く貴重かこととも言える