考察はする
やっぱりいくら幻の現実とかそう言われてもな
この世界は幻想であるとかさ
そういう風に言われているし
きっと自分自身の本質的な部分からすると
この世界は本来の自分がいるところとは違うだろうから
本当じゃないとか、本物じゃないとかそう伝えられていても何らおかしくはない
おかしくはないんだけれども
でも正直なところ体験していることはどうしたって幻ではなく本物だし
それはやっぱり現実であって偽物ではない
作られたものでもなく本物
これは自分が現実を作るとかそういう意味の作るという意味ではなくて
作り物の世界という意味の作る
だから幻とか幻想とかそっちの意味ではない
どの視点でこの世界を見るのかによってこの世界の捉え方というものは変わる
それは至極当然のことだと思うし
そこに対していろんな人が様々な解釈をしてたくさんの考え方が発生するのも頷ける
だって全く知らない世界だもんね
自分自身の本質的な部分は覚えているというか知っているけど
人間として生きている側からすると何も覚えてないし初めましてだから知らないんだよね
仮にいろんなことを知ったとか、思い出したとしてもあくまでも人間として理解できる範囲でしか理解してないから
それ以外のことはもう範囲外でさ
人間が人間として理解できる許容範囲をはるかに超えていることだと思うんだ
そういうことをどうやって人間でもわかるような言葉で表現するかってなった時に
そもそも人間の頭で理解するには難しいことなのに
それに加えておそらく言葉による制限が起きて
ほら言葉ってさ形にはするし、形にするのが得意だけど、その内に含まれているものだけは伝えづらいじゃん
しかも人間に分かりやすいように形作られてることが多い
だから結局その形で覚えるし、形で貰うから表面的なものになりやすい
さらにはそこに様々な人の意味付けが加わって多種多様な話が出来上がる
つまり解釈と言うこと
どれも正解だしどれも正解ではないかもしれない
全部間違ってるかもしれないしどれも間違っていないかもしれない
どちらにもなりそうだし
どちらでもないし
どちらでもありそうな
すごーく曖昧ではっきりしなくてどっちにも転ぶしどうとでもなりそうでもある
結局その人次第でいかようにでも変化するもの
なんかそういう捉え方を私はスピリチュアルにしている
人間として理解できる範囲で知識として受け取れるもの、その中で確かに人はスピリチュアリティな存在なんだろうなとか、そういうスピリチュアリティな側面からこの物質次元を見た時にこの世界は本物のように見えていて実はそうじゃないんだよってそう思えることは想像にたやすくはないけど
それでもやっぱり人間だからこの世界で体験したこととか経験したこと
それらは幻だとか幻想だとか、言葉ではそのように表現したり文字で確認したりしてそうなんだろうなって思いながらも
それでもなお、やっぱり人間だからさ
そう(幻だと)は思えないよね
だって体験してることとかは本物だし
自分が経験したことが全部事実のように思う
そういうものだよなって思ってる
二元性のスピリチュアルと非二元の精神世界の話とどっちの話も耳にしていると
どちらに対してもそうだねって思ったりするし
どちらに対しても疑問に思うこともある
と言うかあくまでもさ
どこまで行ったって人間である私は人間だし
だけどスピリチュアルティの存在である私も確かにいるし
どっちの私も本当なんだよね
私のさ
大人のいやいや期ならぬ
なんでなんで期とかなぜなぜ期はいつまでたっても終わんなくて
次から次へと疑問が出てきちゃう
人としての私はすごく知的好奇心は旺盛なんだと思う
様々なことが気になってしょうがない
どうしてそうなるのか、なぜそのように言われるのかなど人間だからこそ出てきてしまうのかもしれないけど
すごい気になっちゃうんだよね
気になっているその理由(原因)はもしかしたら自我とかそういう部分かもしれないけどね
それが本当に自分自身がやりたいことなのか
それとも自分自身の人間としての部分
思考とかそういうものがやらせて欲しいとか
そういうのを探求したいんだとか
そんなふうに思っていて
これが私が本当にやりたいことなんですと思わせているって言うこともなきにしもあらずだけど
どっちにしろ自分であることには変わらないよなと
まるで根源的な自分が自分自身の本体であるかのように
本来の自分とそうじゃない自分がいて今はそうじゃない方の自分が働いているような
なんでか(スピリチュアル系って)そういう話し方をされるのがすごく多いなと思って
でも結局のところ人間として生きている私であれ、自我(エゴ)であれ、私には変わんないよなど
ちなみに自我とエゴって同じなの?
時々なんか自我とエゴを同時に話されると別のものとして話してるのか、結局同じものだけれども同じものだから同時に一緒に話してるのか
よくわかんないんだよね
何にせよそういう人間として人間たらしめるものや自分を自分として確立させているものをなんでか否定というかさ
もしくは否定しないまでも、それは自分自身じゃないって言ってるような?
それがね、なんかよくわかんないんだよね
だってそれも自分じゃないの?って思うんだ
でもそれはまるで本来の自分ではないかのように話される
本質的な部分で言ったらそれは本来の自分の姿とは言い難いのかもしれないけど
でも自分であることには変わらなくない?と思うんだよね
だけど別のものとして話してる感じがすごいあって
私もよく根源的なとか本質的なとかそういう表現をするから
なんかすごく自分でも矛盾してるとは思うんだけどさ
どれも自分と言うか自分だし、別に分かれているものじゃないよなっていう感じもあって
だけど本質の自分で生きるということがいかに素晴らしいかとかさ
別に人間としての自分自身と本質の自分自身を比べているわけではないけれど
けど結果的にはそうなっちゃってるところあるよね
だから本質の自分で生きようとする流れが生まれてるし
そうすることが良いと思ってるところがあるような?
どっちを選択したって構わないって言いながらも、その最終的にあるものはその本質の自分で生きるという選択をすることがベストだっていう、もうそうだと決まってるような流れ
いや、実際そうなんでしょうけどね
なんかその言い方が私の中ではすごく引っかかる
ハイヤーセルフで生きるとかさ
ハイヤーセルフがどうのっていう話がすんごい多くて
そのハイヤーセルフっていうのがよくわからないんだよ
自分自身をサポートしている今の自分よりもちょっと次元が高いところにいる自分自身らしい
ソシャゲ(ソーシャルゲーム)で遊んでいるからかもしれないけど喩えで言うなら自分自身の上位互換みたいな雰囲気?
ゲームのキャラクターの性能がどうのとかそういう話じゃないからね?
霊的に成長している自分自身みたいな感じなのかな?
詳しいことははっきり言ってわかんないけども
その自分自身が自分のことを教えてくれるとか
この(ハイヤーセルフと言う)自分自身になって生きるとか
なんでそんな感じなんだろう?
スピリチュアルとかそういう世界観をよくわかってないから出てくる考えなのかもしれないんだけど
ハイヤーセルフというもう一人の自分自身がいる
これってどういうことなんだろう?
人の精神ってはっきり言ってどうなってるのかわかんないけどさ
場面場面によって性格を切り替えたり
人によって接し方を変えるとかは誰しもあると思うの
学校の先生の前と友達の前と家族とでは自分自身を使い分けていたりとかするじゃん
全ての人に対していつでも同じように接する人もいるけど
例えば中世とかの貴族社会で爵位によって対応の仕方って変わってると思うの
そういう感じのに近い?
でも別にそれって自分の中にたくさんの人格があるわけじゃないし
人によって性格をコロコロ変えて接してるわけでもないじゃん
中にはそうやって人によって態度をあからさまに変える人もいるけど
そういうわけじゃなくてそれはTPOに合わせて変化させてるだけであって
ごくごく自然なことだと思うの
それによって雰囲気とか話し方とか変わるし
人は感情があるからその感情によってもだいぶ変わるじゃん
怒ってる時と悲しい時と同じ人だけど全く違う人にも思えたりするし
そんな感じで人間って様々な側面があって
同じ人なんだけど同じ人の中に違う人のような側面を見たりするじゃん?
そういうのもあるから人の精神的な面ってどうなってるのかまるでわかんない
人によって外側に分かりやすく出てくるものであれば、まだその人の状態とかで機嫌がいいなとか判断しやすいけど
でもそうじゃない部分もあるじゃない
なので意識領域なんて本当にわかんないよね
どんな風にどんな世界が広がってるのかなんて
だからはっきり言ってよくわかんないんだけどさ
よく聞くそのハイヤーセルフっていうの?
それが何なのか謎なの
もう一人の私って言われても
ん?ってなっちゃうんだよね
ハイヤーセルフの有無とか知らないしさ
そもそもそれって人間だけにあるのか
それとも神様とかにもそういうのがあるのか
それで言ったら人間はよく見えない存在からサポートを受けてるとかいう話を聞くじゃん?
見えない存在には見えない存在のサポートがついてるのか?
それとも見えない存在は見えない存在で、自分一人だけで単独で頑張ってるの?とか
見えない存在のサポートっていうのはこの物理次元で生きている生き物だけにあるのか
でもそれは人間に限って?
植物とか動物とか虫とか木とかでその他自然のもの、その他の自然のものというのは例えば水とかね火とかああいうものにも何らかの存在がついててサポートしてんの?
それとも人間のみ?
なんてね、考えちゃうわけ
今はねハイヤーセルフがついている生き物は何と何だみたいな話じゃないから
それは一旦置いとくんだけど
そのハイヤーセルフっていうのが謎なんだよ
高次の自分っての?
だってそもそも私ずっと書いてきてるけど
どれも自分だと思ってるの
エゴ(自我)にしろハイヤーセルフ自身にしろ
結局自分であることには変わらない
だから確かに自分自身なんだけれども
人間として生きている自分自身と切り離されていると思ってなくて
切り離して話してる意図はないのかもしれないけど
なんかハイヤーセルフと人間の私とかさ
本質の自分と人間としての自分とかね
まるで自分とそうじゃないものみたいな感じで話が進んでいくのがなんか腑に落ちなくて
これどういう風に理解したらいいんだろうなと思ってる
だって自分じゃん
別に分離されてるわけでもないし
それぞれが別個に存在してると思ってないから
結局人間として生きている自分自身をハイヤーセルフだと思ってないってことだよね
だけどハイヤーセルフとしての生き方が良いと思ってる
人間として生きている自分自身にとっても良いことし、個として生きている魂にとっても良い状況だとおそらくそういうことなのではなかろうかと思っている
だからその行き方を提唱?(推奨?)してるし
そうして行かない?って聞いてるんでしょうね←私にはそのように聞こえるのでそう解釈してる、もちろん違う考え方があってもいいと思うし異なる考え方があるのは当然だと思う
それが実際に自分自身が望んでいることなのではなかろうかみたいな感じで話されている
ただそういうことを話している本人じゃないし、スピリチュアルもよくわかってないということもあって
どういう経緯でそうなったのかは分からないけど
でもスピリチュアルとか精神世界の話をしている人たちはそういうところを目指してるというか
それをやりたいと思ってるしそれをやることが素晴らしいと思っている
なんならそれこそが自分自身の魂が望んでいることと思っている
でも魂を望んでいることと人間としての自分が思っていることは違うとか
何でかわかんないけどそういうことが起きてるんだよね
なんでなんでしょうね?
それをいつも大体、自我(エゴ)のせいにしているところがあって謎
ただ実際この自我(エゴ)が原因となってたりすることも多いからそういう考え方になるのは致し方ないのかもしれない
でもなんか不思議でしょうがないんだよね
言いたいことは何となくうっすらわかるけど
それでもなんか腑に落ちないんだよな
さっきも書いたけど人間として生きている自分自身はハイヤーセルフじゃないってことだよね?
確かに
人間は人間だからね
生身の肉体を持って生きている時点で、確かにハイヤーセルフっていうものが肉体を持ってないものであるなら全然違うと思う
だけど私の中ではハイヤーセルフも自分自身だから
こうして生きているこの私もハイヤーセルフと変わらないんじゃないかと思っちゃうわけ
というよりもうすでにハイヤーセルフだけど自分がそうだと気づいてない
ってかね、ハイヤーセルフに限らず何で自分が二人いるような状態になってるの??
あなた方は何を言っているのだろうか?とか何を伝えたいのだろうかと理解しようとすればするほどわけがわかんなくなってくる
生きている自分とエゴ(自我)とかさ
しかもその自我は自分が自覚してない感じで存在してるような?
自分にとって恐れとか不安とかそういうものを出してくる存在として存在しているのが自我あるいはエゴと呼ばれるなんか自分の中にある側面?
私はそのように受け取ってるんだけどもしかしたら解釈が違うかもしれない
というよりスピリチュアルで話されているその自我とかエゴとかがよくわかってないからね
ただ話を聞く限りだと自分自身が何かを始めようとする時にそれをこうなったらどうしようとか、こうなってしまったらとか不安とか心配でいっぱいにして止めるとか
基本的にネガティブなものとして伝えられていることが多いなっていう印象
そして本人(生きている私)は本当はそれを望んでいない
本当はチャレンジしたいけれどもそういう恐怖感が止めてくる
そして諦めてしまったりする
それって全部自分のエゴとか自我とかそういうものなんだと
これはあくまでも一例で他にもいろいろあるけど
人様に迷惑をかける行為とか
それこそスピリチュアル的な話で言ったら神社とか聖域って呼ばれる場所を我慾でもって穢すとか
なんか利己的になってるとか
そういうような話も出てきたり
それってもはや何か時々思うのは自我と言う心理学とか哲学的な意味でのエゴというより、自己中心的なっていう意味のエゴイストの略のエゴと混ざってるような気もしなくもないような??
それとも自己中心的な意味合いのエゴと自我って呼ばれるエゴは共通してる部分とかあるのかね?
どこかしら重なってたりするのかな?
あるいはスピリチュアルで話されている自我(エゴ)と呼ばれているものは心理学とか哲学とか一切関係ないのか
何を指しているのかよくわかんないけど
なんかそこから躓いちゃうんだよね
そこに対して疑問を持つ人っておそらくいたとしても少ないんじゃないのかなと思う
なんとなく全員が全員こういう反応しないとは思うんだけどさ
そんなところ気にしないよっていう人が多いのかもしれない?
そういう細かいところを気にして先に進めなくなってしまうのはもったいないとかね
別にそこは言うほどに重要じゃなくない?とか
そんなにそこにこだわる必要ないよね?って感じがなくもない
もっと大事な部分って他にあるのでは?と
なんとなくそう思ってる人が多いんじゃないのかなと
あまり話題にされないし
ってことは気にしてる人が少ないのかもって
そもそもそういうところを見るっていうこと自体が変わってるのかもしれない?
ただ私はなんか気になっちゃうんだよね
私なんかは自分自身なのであれば
そのまま今の自分自身がハイヤーセルフじゃダメなの?と思っちゃうんだよね
物理的な話じゃなくて精神的なエネルギーとかそっちの意味で話してるとは思うんだけど
人間として生きてる自分自身はもうすでにハイヤーセルフでよくない?
高次の自分がどうのとかさ
なんかエゴとか自我とかさ
自分自身をいっぱい増やされてるような気分で
なんでそんなに自分自身の中にたくさんの自分のいるような感じで話すのかな?と
だって全部自分自身になるのなら
それぞれに名称をつけてこれはこうです、こっちはこうですって話されると
まるで自分の中に違う自分がいるみたいな気分になっちゃってさ
よくわからなくなってるのに
そこにさらに加えて全部自分だって言うんだもん
それで余計によくわからなくなるの
そうなると私にとっては
今生きている私って何なの?ってなっちゃうんだよね
別に全員本物だしどれも偽物ではないんだけど
今いる私って作り物なのかな?とか
ハイヤーセルが本当の自分だったとしたらじゃあ今の私は何なの?と
私って何のために生きてるの?みたいな気分になっちゃうの
そういう意味で言ってるのではないだろうけど
なんかそんな気分に陥っちゃうんだよね
第一そんなにいっぱいいてもね
普通にいたっていいんだよ、いたらダメってわけじゃないけど
結局自分だって言うなら
私一人でよくない?
自分一人だけでよくね?と
だって今この時、この瞬間を生きているのは私しかいないし
私は私以外の何者でもないじゃん
どこかに自分ではない私がいるかもしれないけれど
でもそれはその私のものであって
今こうやって何かを書いたり、思ってることを綴っている私とはまた別
私だけれども私ではない誰か
私の中にはそういうものの見方があって
だからどうしてもね
どういうことなんだろう?ってなっちゃう
だからハイヤーセルフとかよくわかんないんだよね
全部自分自身の中に答えがあるのであれば
ハイヤーセルフはどうとかそういう別の自分自身をわざわざ用意しなくてもよくない?
だって自分じゃん
結局のところ最終的に全て自分自身になるんだったら自分(私1人)でよくない?
別にハイヤーセルフの方が人間をやっている自分よりもすごく器量が良くて、精神的にも成長していてとか自分とハイヤーセルフを比べてるわけでもないんだし
結果的に自分自身なのであればそのハイヤーセルフっていうのも
というよりハイヤーセルフそのものが私にとっては幻のように思えてしまう
そういう存在がいてほしいとかさ
願望というよりもしかして本当に
そういう存在がいるのかもしれないけれども
でもこの場合はね
なんで存在してるんだろうとか
どうして人間としての自分自身だけだとダメなのかとか
誰もダメとは言ってないけどさ
でも人間って完璧ではないのは分かってんだけどさ
間違いとかもするしね
そういうものなんだけれど
でもそれは物理的な話であって
精神世界の話を持ってくるのであれば
目に見えない部分でもだけど
物理的な面でも人間って完璧で素晴らしいものってことになってるじゃん?
実際は何の不足もないし完璧であるんだけど
ただ人間として生きている本人が思ってる理想と自分自身の今現在の現状に対して比較が起きて自分で自分自身を評価して難癖つけてる
いっぱいバツつけて
これができなかったダメ、あれがやれなかったダメって自分で自分にダメ出しばっかしてる
そのままでいいとは思ってなくて
絶対に向上しなきゃダメとかね
絶対に成長しないといけないとか
別に無気力になれとかさ
学ぶことをやめろとかそういうわけじゃないんだけど
向上心を持つこととか、日々成長していかないと良くないっていう
強迫観念みたいなところとかを時々感じなくもなくて
ルーティーンとかもだんだん義務的になってきたり
それをやらないとこんなことが起きてしまうとか
これを忘れてしまったことによってうまくいかなかったんだとかさ
そうなってくるともはやもうそれはさ
自分を安心させるものとか落ち着けるものではなくて
自分自身を縛り付けたりとか
ただそれをやることで不安を解消できるから
その恐れから来るものになってる
楽しくてとか、自分の気持ちが落ち着くからとか、やりたいからやるというより
これをやらないとうまくいかない気がするとか
自分で自分に脅しをかけてるようなさ
なんかそういう風になってしまってたりすることもなきにしもあらずで
でもそれだと本末転倒じゃん
自分で自分にさ、謎のまじないをかけてるみたいな?
そういう思い込みでね
苦痛になってしまったら意味がないから
それって自分の本意じゃないと思うし
それはなんか違うなって思うわけ
何にせよ
くどくどと書くのは私の悪い癖なんだが
自分でも読み返して何が言いたいのかわかんなくなる時がある
ただこの時何を思っていたのかを全部書こうとするとこんな風になっちゃう
とりあえず自分自身のことを悪く言いたいわけじゃないっていうことと
人間ってこういうことをやりがちだよねっていうことをメモしたかったんだろうなと
自分で読み返してても時々わかんなくなるからさ←本日2度目
とりあえずハイヤーセルフと生きてる自分自身
これって本当何なんだろうなっていうことをただ言いたかっただけ
ハイヤーセルフが本当の自分なのであればじゃあ生きてる自分は何なのかと思うし
ハイヤーセルフも今生きてる自分も本物なのであれば私1人でよくないかと思う
さらには全部自分の中に答えがあるというのであれば
ハイヤーセルフそれそのものが、もしかしたら自分が作り出した幻影かもしれないよねとも
何でも知っている自分がいて
そうやって教師のように自分のことを教えてくれる
ナビゲーションシステムじゃないけどそういうものを自分で作って自分に用意したとか
人間っていろんなこと忘れちゃってるから
そういうの思い出すためのシステムの一つとして自分が自分に用意する
だからある意味では自分が作り出しちゃった幻想なのかと?
でも自分が作り出したものだから自分であることは間違いないし
それはシステムであろうとね
なんなら自分の根源的な部分を知っているから自分の中に答えがあるって言うここにも繋がってくることにもなる
そういう解釈もできなくもない
なんかスピリチュアルとかそういうもので話されている精神世界の話を
もっとより現実的なところに結びつけて解釈しようとすると
なんかこんな感じになっちゃうよね
そもそもみんなすごいんだよな
なんかハイヤーセルフって聞いても素直に受け入れられるのがすごい
それは高次の自分ですよって言われてそのまま納得できるんだもん
それはあなた自身なんですよって言われたら何それじゃなくて
そうなんだって
普通に腑に落とせること
じゃあその自分に聞けばいいのか!ってただそう思う
そういう風に素直に受け入れられる
それがすごいと思う
納得できちゃうのがね
私なんかは何でかわかんないけどさ
ハイヤーセルフって呼ばれるものと
自分自身に問いかけるって言うここが別になっているように感じちゃうし
自分自身が全部答えを知っている
そうなのであれば別にハイヤーセルフとか関係ないやって思っちゃう自分がいる
まさかのね
そもそもハイヤーセルフも自分自身なら
今こうして生きているこの(人間をやってる)自分自身もハイヤーセルフと変わらないのではないのかと
ただその状況とか状態とかなんかよくわかんないけどさ←例えば体を持ってるとか持ってないとか、精神的な部分の成長?とかさ
そういったものが違うだけなのでは?と
結果的に自分にとってどうにかなるっていうことだから
まいっかでいいのかもしれないんだけど
どうせなるようになるんだし
最終的に私がやったねって思うような状況になるのでしょうから
何も悩むことはないんでしょうけど
なにぶん気になっちゃうんだよね
その気になることに対して私が付き合ってるっていう感じもしなくもないけど
これをやらないとなんか私の中ですっきりしないんだよね
そう思わせているのがもしかしたら自我とかそういう思考の反応なのかもしれない
人間を人間たらしめるためのもの
そういうものがこれはあなたですよと
こういうのがあなたなんですって私に思わせて
じゃあ私はこういうことをやりたいんだと
そこに注力するようになってる
そしてそれは確かに人間の私にとってプラスになる
だって面白いもんね
すごい興味深いような内容だと思うし
そういうところから自分自身でいろんな経験をして
知識とか探究を深めてさ
より人生を楽しむっていうこともできるけど
でもあくまできっとそれはもしかしたら人間としてのは私かもしれなくて
なんならもっと言えばそれは個(魂)しての私かもしれないの
だけどそれは本当に自分自身の本質が求めていることなのか?っていうと何とも言えない
そもそも魂が何を望んでるのかとか
魂から生きるとか
魂に従って、魂に沿ってとか
このワードが私の中では全然しっくりこなくて
ほとんどの人は魂で生きたら幸せだとか
魂で生きることを目的にしてる
ただ私はなんでかね
魂で生きる感がないんだよな
というより魂と私って同じじゃないの?と思ってたりするんだけど
ただスピリチュアルの中では人間として思っていることと魂が思っていることとはまるで違うって言うし
何で違うんだろう?ってずっと思ってる
これもまたハイヤーセルフとかと同じように不思議でしょうがないんだよね
それこそ自我とかエゴとかで生きてるっていう話になるのかもしれないけどさ
わからない
そもそもそういう風になんか分かれちゃってるのがわからないのよ
どうして別のものになってるんだろう?っていう感覚がずっとある
そしてそれ(魂と人間の自分自身が思ってることは一致してないこと)は普通の事っぽいし?
なんかそういうものだよねって
そう認識してるし理解してる人が多いなって思う
わかんないんだよな
どういう解釈したらいいのかが本当にわからなくて
魂って自分の本質って言われてるじゃん
だったら何で自分の本質じゃない私になってるんだろうって思う
魂も自分自身なら
自分が思ってることと魂が思ってることって何で一致してないんだろうって思う
だからそれって本当に私なの?っていう気分になる
疑問ばっか出てきちゃって
躓きまくって先に進めない
ずっとそこで立ち止まって
これはどういうことなんだろう?とずっと考えてる
頭がおかしくなりそうだけど
でもなんか解明できそうな気もしなくもないような?
どこからそういう気分とか気持ちが湧き上がってくるのかはわからないけれど
いずれはわかるのではないだろうかと
そんなことを思っている私がいて
ずっとどういうことなんだろうっていうこととただただ向き合ってる
だからスピリチュアルとかの話を聞いても
意味不明なの
全部が全部ではないけれど
私の中では理解できてない部分があって
絶対100%理解できてる状態じゃなきゃいけないってわけじゃないんだけどさ
でも私は知りたいって思ってるから知ろう思う
わかんないけれども自分であれこれ考える
それが答えなのか答えじゃないのかなんて関係なく
意味があろうとなかろうと
単純に一生懸命考えたとか
そこの問題に自分なりに向き合ったとか
結局のところ自分が満足したいっていうだけだと思うの
今のところ自己満足のためにやっているとも思えなくもない
ただ自分が自分にとって何をやりたいのかって思った時に
私はその疑問をとにかく解消したい
他の人は何も思ってないかもしれないけど私にとっては疑問で
そこに対して疑問を持つ私の方が変なのかもしれないけれど
でも私がそれをやりたい
ならそれをやろうっていうそれだけなんだよね
これは無意味なことかもしれない
何もわかんないかもしれないし
余計に謎が深まるばかりになることも考えられなくもない
でも何かを行ったっていうこの事実は自分の中に残るし
何にもわかんなかったけれども私ちゃんとやれることはやった
自分自身で自分なりに考えてみて腑に落とせなくても
でも自分自身がきちんと自分に対して向き合ったことは消えないから
それは私にとってプラスになるといえば プラスになるもんね
だからそれでもいいかなと
そういう無駄みたいなことをやるのが
何気に面白いのかもしれないし
だから多分ね
輪廻転生とかあるじゃない?
それで言ったら私相当な変人だと思う
なんとなく自分で自分の魂に対して思うことは
お前相当な変態だろうって思う
かなり変わってるよね?と
めっちゃひねくれたものの見方するし
全然違うところ見てるよね?っていつも思う
問題というか
問題なんてないんだろうけど
私の魂っていうのかな?
もしかしたらこの肉体(ご先祖たちから受け継がれたDNA)も含めてかもしれないけど
何かしらの癖みたいなものはあるのかも?
自分が知らないところでね
自分自身が実際に今世生きてきて
自分で体験したことによりできた思考パターンとか
過去からの経験とかそういうものによって作り出された癖みたいなものとか思い込みとか
というものは自分でも気づいたり認識することでどうにかできるけど
そうでないところはもうどうしようもできないよね
ただ自分の中にある個性の一つとして受け入れてくしかないし
なんでこういう風に考えちゃうんだろう?って思っても自分でもどうしてもわからない事ってあるから
だから何かしらの自分が今まで経験を積んできたこと
今の自分ではない誰かだった時とか
そういう部分での影響をどこかで受けているのかもしれないし
ただどういうわけだか分からないけど
なぜだか精神世界のことを知ることになり
その上で自分なりに自分を分析した結果
何か自分でもわからないことが起きていることも十二分にあるなと
この今の人生で全く関係ない部分で影響を受けていることも否定はできなくないかなと
ただ自分ではない自分が何かやらかしたこととか
そういうことが今の私の人生に影響を与えているとかなんかそういうよくわかんないのは無視だけどね
だって自分じゃない自分のやらかしたものをなぜ私がやらなきゃいけない?
そもそもそれはその時の私のものであって私じゃないし
例えばあなたは過去世ほ中世ヨーロッパでこれこれこんなやらかしをしました
それが今のあなたの人生に影響を及ぼしています
こういう話があったとするじゃん
そうなんだって思ったとしよう
でもこれどうやって解決するの?
第一、中世ヨーロッパ なんてもう行けないじゃん
行こうと思ったって行けないから
その時の自分に何か注意するってできないし
さらに言えばそれは私じゃねえ
それを全く違う自分に託すっていうその感覚がわからん
ご先祖のカルマを背負ってるとかさ
カルマっていうのが何を指してるのかがわかんないけどさ
大抵カルマというこの言葉を用いて話されることはなんかよくないものなんだよね
何なんだろうね?これ
で、ご先祖がそれを子孫にやらせる
この感覚がわからんのよ
普通そんなことするかな?
変な話おじいちゃんやおばあちゃんが孫に我々の尻拭いをしてくれって言ってるようなもんだからね
ホント口悪いけど
マジでクソすぎない?そんな祖父と祖母
母方でも父方でもどっちでもいいけどさ
自分たちがやったことを孫になすりつけるの?
ご先祖とか言ってるけど
言ってることはそういうことだよ?
血族のやらかしをその一族の誰かがやるみたいな
何なんだよ、そのわけのわかんないの😰と思ったりする
でそれを信じてるし、そうだと思ってたりするじゃん
それがまた怖いしさ
だけどその一方で
ご先祖たちはあなた方の幸せを願っているとかさ
幸せ願ってるならカルマなんてなすりつけんじゃねえよって思うし
なんなら(言ってることとやってることがめちゃくちゃ矛盾してるから)商売として生まれたものとも思えなくもない
カルマっていう商品を用意して
そこにいろんな理由付けをして
付加価値じゃないけどそれでもって代金をもらう
何て言うの?
そういう特殊な能力がある人のマッチポンプみたいな?
そうやって依頼者を作る
そしてそこからお金をもらうみたいな流れ
そのために用意されたとかさ
だって辻褄が合わないんだもん
マジで意味がわかんないんだもん
罪と罰みたいなものがあったりさ
自分が放ったものが戻ってくるっていうのは確かにそうなんだけど
それをなんかね、それこそ誤った解釈をしているような?
なんかそういう気がする
罪と罰の話で言うならさ
神の審判が下るとかさ
裁きがどうのとかさ
こういう系のスピリチュアル
これ何なんだろうなって思うし
なんかね恐怖感を煽るような
心をざわつかせたり
心配や不安、焦りとかそういうものに苛ませるようなものが多いなって思う
だからなんか変なんだよね
私の中ではスピリチュアルって変なものっていう印象がすごい強い
めっちゃ変と思ってる
別に悪い意味とかそういうのじゃなくて全体的に変だって思ってるだけ
誰かの話を否定するとか
自分の話が正しいんだとか
そういう話じゃなくて
本当にこれは私が思ってるただの独り言みたいなものだし
私が単純にスピリチュアルに抱いてる印象ってだけであって
あくまでも個人的なものだから
私という人間を通すと
今現在こういう感じになるっていうだけの話
ただ私はスピリチュアルとかそういう精神世界の話は人によって様々あるものだと思うから
これという答えは一切ないし
いろんなものの見方があって当然だと思う
そしてそれはそういうものだと思う
その1つに私のようなこういう変わった普通はあんまり考えないようなものもあるのだと思う
だからこの私が思ってることに対して他の人が何か思うことだってあるだろうし
それはそれでその人の中にあるものだからそれを大事にしたらいいと思うの
精神世界って見ている人によって全然違うから
全部が全部共通してたりしないと思うの
似通うことはあってもね
全く同じにはならないと思うから
こういうものの見方があってもいいと思うんだ