このカードから

愛を持って話せと言われた

うーん

愛。。。

愛か。。。

。。。愛

。。。

けど

愛って?

愛ってなんなのだろう?

『愛情』ではなくて『愛』なんだよね

私が思う❝愛❞って

胸(心の中)があたたかくなって

なんでか自然と涙が出て来るような

なんとも言えないあの感じ?だと思ってるんだけど

でもそれはきっと一部で

それも愛だけどそれ以外の愛もあるとは思うの

だけど難しいんだ

色んな愛があるのは私もどこかで分かってる

けれど愛は縛るものではないし

執着とも違う

私が思うそれは

もっと自由で広くて

何にもとらわれない

❝こうである❞と言う形がないもの

文字、絵、音楽などで表現しようと思えばできるだろうけど

感覚的なものにとらわれない

捉えようのないもの

本来は形なきもの

芸術は芸術と言う方法を使ってその一部を見てるのだろうけど

それでもそれはすべてではないように思うし

言葉や文字を使って表現するのが難しい

愛を持って話せとは

愛から話せ

愛そのもので話せと

そういう意味なのだろうけども

または愛を込めて話せとも

けどその❝愛❞っておそらく大半の人間の思う❝愛❞とは異なっていると思われるし

漠然とし過ぎていて難しい

広いんだよ、指すものが

愛と一言で❝何❞とは言及できかねるし

その愛そのもので話せって

そんな高度な。。。

範囲広すぎて吐きそうなんだけど?(汚ッ🙈)

というか

純度の高いそのものとか

私の本質はそうであっても

私そんなできた人間じゃないし

愛なんて込められない。。。

弱気とか弱音とかそう言うのじゃなくて

普通にどうして良いのか分かんないよ💧

言葉にするとどうしてもそう言う意図はなくても批判的、責めてるような、問い詰める形になりがちだし

言葉選びで変わるというけど

上手く選べない。。。

着飾る必要なんてないって言うなら

より一層キツくなる←思ったことをズバッと言ってしまうから

でも自分の意見を押し付けたいのではないし

他者の話を否定して誰かを傷付けたいわけでもない

だけど着飾ることなくそのまま、どストレートだとただぶつかるだけだよなぁ。。。

それだと対立した関係になりかねない

それに相反するものすらも一緒に存在していたって構わないとも思う

波長の法則ってあるけど

詳しいことは分からないけどさ

色んなエネルギー同士が一緒くたの中で、ただ似た者同士が集まってるだけなように私には思えて仕方ない

だから結果的に分かれているように感じるかも知れないけど、本来はそれぞれが分かれてるわけじゃないと私は思ってるの←知らんけどね

だけど確かに線引きってありそうな気もしていて矛盾する気持ちが自分の中にあるのも本当

だけどそれでもやっぱり思う

スピリチュアルって結構しっかりはっきりくっきりと分けたがるように見えるけど本当に分かれているのかな?って

そう思う私も確かにいるんだよね

話を戻すけど

人間の思う❝愛❞と

このカードが伝えてる❝愛❞

そしてスピリチュアルが話す❝愛❞

それぞれが言葉は同じだけど中身がまるで違うような感覚になって

それに対して私は人だから混乱するんだよね

本質的な部分では分かっているのだろうけど

人は愛と聞くとおそらく恋愛の愛が多いんじゃないかなと(家族愛などもあるけど)

一方でスピリチュアルで話される❝愛❞は人によって様々で何をそう話すのかで内容は大分変わる

だから私は余計混乱するんだ

くちで話すことや

おもっていること

それと行動がちぐはぐで

見た目の形(文字)や放つ音(言葉)は❝愛❞だけど

その中身は❝愛❞ではないように思えることも多い。。。

その中身は飾り(装飾品)、都合(理由)付け(大義名分とも)。。。

愛という言葉で着飾ればなんとでもなるような?

その言葉を使っていれば何でも愛に該当し精神世界の素晴らしい話をしているかのように思わせることができると思っているような

その他には一方的でそれを他者に押し付けたり逆に他者から貰う(奪う)

発信している者が自分を確立させる目的や人を従える為にあるように思えてしまう

または何者かに捧げるものとして使われているようにも。。。

全員が全員そうではないけども

そう言う傾向があるような??

だからってわけじゃないけど

ゾッとするし

愛情とは異なるのかも知れない?けど非常に人間的な雰囲気で

そりゃあ人間が話してるのだから人間っぽくもなるだろうけど

我慾まみれとも。。。?

ただこれは欲する気持ちが悪いってことじゃない

欲はあるものだし、あったって良い

おそらく質(これもまた中身)の話になるんだろうなと

こうやって様々な愛を人を通して間接的に見て行くと

愛って難しいなぁと思うんだよね

自己犠牲は私は愛に見えているようで愛と実は似て非なるものだと私は思ってる

けどスピリチュアルってそれを美徳(愛の一種)として見ている節があるようにも思えるし。。。

こんなこと書いてるけど

私も仲間の為に誰かが代わりに何かをして道を切り開くようなシーンをアニメや漫画で見て来たからそれって語弊があるけど、素晴らしいことや素敵なことなのかもって思ってたけど

でも本当はすごく嫌なんだよね

誰かが犠牲になる話

最終話まで生きててほしいのに途中退場するの

だから素晴らしいことや素敵なことって言う表現は適切とは言えなくて

でも他者のために動く姿勢は素晴らしいし素敵なことだと思うから

なんか複雑なんだよなぁ

そう言うシーンが出てくる度になんでこうなるのかな、どうしてこうなってしまうのだろう。。。と思ってしまう

死ななきゃダメだったの?とね

大切な仲間(ひと)を守るために、生かすために

守られた側、生かされた側は大切な仲間を失う

これは愛なのか?と疑問なの

だって悲しくなるし

先に進めたとしても寝覚めが悪い

なんでいつも助ける側も助けられた側も両方と言うより片方が生き残るような展開、設定が多いのか分からないんだよね

なので自己犠牲は愛に見えるけど愛っぽく感じないなって思ってるんだよね

このカードの愛について再度書いてくけどこのカードが述べてる❝愛❞は前述したとおり広くて

説明し難いもの

この愛をどう捉えれば良いのか

つまるところ根源的な部分から話せってことなんだろうけど

知識でない部分で

しっかりそこ(原点)に立って?

その場所、その視点から

それでもって話せとか

ただ他人の話だけで考察して来た私にはキツイよ

だって知らないもん

多分こうなんだろうなってことしか言えない

でもそれは感覚というよりは考察

論理的な感じで

どうやったら辻褄が合うか

一貫性があるように

それを求めるようにして出したものだから

ある意味ではものすごく頭を使っている

精神世界。。。頭でなく心を優先する傾向のあるこのジャンルに於いては真逆とも言えそうだし?

そもそも誰かに向けて伝えようなんて思ってない

というのも疲れるんだよね

何か言及すれば他者の決めたこと

それに口を出すなんてもってのほかだとか

やりたいならやれば良い

そう言ったかと思えば

優しさで接しなさいとか

分かっていて見て見ぬふりをするのかとか

反対のことを言い出す

かと思えば

このままでは本当の意味でその人の為にならないだとか

慈悲だけでは同じことを繰り返すと言ったり

けれど真心を込めてとか祈りを。。。とか

自立するには厳しさも必要だとか

なんかもう

私の捉え方も極端かも知れないけどさ

右と左どっちにも同時に行けって言われてる気分になるんだよなぁ

ああ言えばこう言う←それは私もだろうけど

状況、状態、傾向によってそこへの対応の仕方は様々に変化するからその都度考え方や捉え方、ものの見方って変わるけど

そう言う点では柔軟に対処してると思うんだ

だけどはっきり言って面倒くさい。。。

やり方が二転三転するし

まるで矛盾を含んだことを言われてるようで疲弊する

左右に同時になんて無理だし引きちぎれるっての

話もころころ変わるし

ムラがあるように思えて余計疲れる

問題へのアプローチの仕方を変えてるだけなんだろうけど

私自身ポジティブよりもネガティブの方が面積が大きいから

振り回されてるような気分になるんだよね

誰かの話を聞いてもそこに乗っかる気はあんまりないけど(自分の生き方は自分で決めて行きたいから)

中には誰かの話を耳にし参考にして動いている人もいる

その場合ゴールは同じでも次々とやり方を変えられるのはキツイと思うんだ

それに合わせるような感じで人が動いてるから

自分発信で自分だけなら良いんだけども

そこに他を含むならきちんと順序を追ってやらないと混乱すると思うんだよね

唐突に変更があるとかなんかそう言うの多いじゃん

それもこれも言い方があまり宜しくなくて申し訳ないけど、他者の発信に乗っているからなんだろうけど

これは自分主体なようでいて他者の船に乗ってるようなものとも言える

それがダメってわけじゃない

だけどあくまでも船は何処かに運ぶものではない

貸すだけで漕いでるのは自分なので

そう言う部分では自己責任

船を何と捉えるかは人それぞれだから敢えて言及しないけどね

貸し手も貸すだけ貸して後は自己責任でって感じの人も中にはいてさ

ただ話しただけでどう受け取るかは相手次第だから知りませんって

なんかまるで悪徳業者みたいな?

契約書とか規約が書いてある書面があったらその裏面に小さく注意事項があって見落としていた人に問題があると言われてるような。。。

なんかやり方が卑劣なスピリチュアルもあるなと思う

だからなおさら他者の話を鵜呑みにしたり、発言力があるからとか支持している人が多いからと数で信用しても良いのかどうかを決めるのは勧めない

何にせよ、ごたついてて面倒いなぁと言う感想で

そこに対して何かしたいと思えないんだ

しかも各々で其々に共同体を作ってたり、思ってることを共有して動いてるし

互いの意識を合わせてるような?

そんな風に繋がりがあるところ、出来上がってる部分に向けて

バッサバッサと切り込み入れるようなことやりたくないよ

というよりそんなアウェイなの嫌だよ

他者の話に耳を傾けられるならさっさと気付いて離れてるでしょうに

それすらしないんだもの

それってどうなんだろう?と異様さに気付いていたとしても何もできないよ

だってそれを信じ切っているのだから

思い込みの強さほど厄介なものはないし

私だって自分の中の思い込みを見直すのに苦労してるんだから

他人のことなんて構っていられないよ

だから他者に何かを伝えるとか向いてないんだ

私はアウェイの中に居たくない

(精神世界に関係するものではないけど)もう十分にその中に居たし

声も上げて来た

それで実際変わったこともある

でもキツイんだよ

ツライの

何も悪いことなんてしてなくても

肩身の狭い思いをするし

なんでか邪険にされる

とっても理不尽なんだよね

でも変わったことによって他の人は過ごしやすくなる

だけどこっちは苦しいまんま

誰も知らないし

私も誰かに知らせようなんて思ってないけど

だけども

良いよね、こっちの苦労なんて知らずに恩恵だけ受けてって思わない心がないわけではないし

そんな心が広くて清くて

清廉潔白で純粋無垢な人間じゃないし

何よりスピリチュアルを知らなきゃ良かったとすら思ってるような人よ?

ホントにスピリチュアルなんてクソ喰らえって未だに思ってる

嫌いでしょうがない

だってこれ人間の思考さんの為のものでしょう?

人の世には必要なんだろうなって思うけど

でもこんなドラマチックなのを本来やらなくたって十分で

なんだこの演出って思ってるの

私は人の思考の茶番劇だと思ってるからさ

誰かの話を否定してるのではなく

単純に私がそう思ってる

そんな風に思いながらもそれ(思考の演出)に引っ張られてる自分が時に滑稽にも思えるし

これがもしもスピリチュアルだと言うのならなんて巧妙で真実味のある舞台劇なんだろうかと

そしてそれは人間の時だけじゃない

人間を終えた後でも続く

その余韻から抜け出せない

ずっと何者かの脚本どおりに

ひたすら思考劇を延々と繰り返しては過去の経験を引きずってそれを糧にまた繰り返す

いつまでもそう

思考が作り出す幻を人としても人を終えた後でも本物だと思いくるくるくるくる廻(めぐ)る

宇宙がなんなのかは分からない

けど宇宙と言うものに収まり続けてるようなそんな気分になるんだ

こんな風に意味の分からない捉え方をする私には無理だよ

しかも愛の意味すらも理解してない

そんなさ、人に愛を持って話せとか

難しい話だし

話せと言うけど話せないよ

務まらない

考察止まり

そう言うのはもっと適任者がいて

そう言う人にお任せするべきよ

きっとおそらく私の考察などの文章が否定的なものが多いから

もう少し書き方を工夫したら?って言うアドバイスをこのカードはくれたのだろうけど

愛を持って話せとか厳しみ、難しみを感じるのだが。。。(・・;)

その中には私が経験した人の世で言うマイナスな、負の出来事をプラスに変えられるからそうしない?とか、せっかくだからやってみない?って言う提案やお誘いも入ってるんだろうけど

自分なりに前よりはマシになって来てるけど

こういうトラウマ的な経験を昇華させるって大変でさ

ホントしつこいし根深くてね

何か嫌なことがあった時にその時間軸にすぐ引き戻される

おかしいよね

もう終わったことなのに

あまりにも長い期間体験し続けて来たからか覚えてないのに忘れられないみたい

スピリチュアルはこの辺りの話も引っ掛かる部分があって

スピリチュアル系ってホント苦手だ

付き合ってられない、無理って思ってしまう私がいて

こんな風に思ってしまうから無理だよ

むしろ守護の存在たちがいるなら

その存在たちでどうにかして気付かせてやれよって思う

ただこのカードとは別に背中を押し続ける存在がいるので

ものは試してみようかなと少し考え方が無理と言う否定から、やってみるのもありなのか?と肯定に傾きかけているのも事実。。。

やってみてやっぱ無理ならやめれば良いだけのことだもんね




余談(ふと思ったこと)

つまるところ根源的な部分から話せってことなんだろうけど

知識でない部分で

しっかりそこ(原点)に立って?

その場所、その視点から

それでもって話せとか

多分これこそ自我の働きなんだろうけどね

ふと見直して思うんだ

誰もそこに立てとは言ってない


私がそう捉えただけ

このカードが言いたいのは

元々私が持っているもの

誰しもの中にあるもの

だけど私や誰しもの中にあるものと言う表現そのものも自我かも知れない

何故なら私たちの中にあるというより

私がそれそのものだから

だからこれはそこに立てとか、そこからの視点でとか第三者的な目線ではなく

既にそう言う存在なのだからそれが出来るはずだよと

きっとそう言うことを話しているのだと思う