本来は


気にしなくて良いんだよね


神様が見てるとか


神様にどう思われるとか


だってそれ


他者の視点


つまり誰かからどう思われるか


その人間バージョンか見えない存在バージョンかってだけ


その存在たちの為に生きてるわけじゃない


存在に気に入られるための私ではない


どう思われたって構わない


それなのに


お天道様が見ているとか


神様に気に入られるとか


神様は贔屓するとか


分かるけどだいぶ矛盾してる


どうしてこうなったの?


なんでそれが定着してるの?


最初の『お天道様が見ている』これは抑止力的な目的?


人の意識の段階が関係してる?


でもそれってとどのつまり


比較、競争、評価と言った外に目を向けた結果がそれ(意識)に影響したのではなく?


ってことは????


うーん🤔


気に入られるってこともどうして気に入られる必要が?


何故誰かの心象を良くするために生きなくてはならない?


意味が分からないよ?


それに贔屓するって不平等だよ?


なんでそんなことをするの?


なんかおかしくない?


好きだから、お気に入りだから優しくしたい、構いたい


嫌いだから、お気に入りじゃないから優しくしない、放って置く


極端かもしれないけど要はこう言ってるようなものだけど?


そうやって気分や感情で人への接し方を変える神様って?


やっぱなんか変なの


頑張っている人を見たら他の人より応援したくなるってのは分かる


毎回誰も見向きもしない神社に足繁く通う人を見てたら他の人より気にかけてしまうってのも分かる


そう言う風に言われたらなるほどなって思うけど


それでも疑問なんだよなあ


毎日余程のことがない限りは大抵お日様は登って来るし沈む


そのお日様が好き嫌いして日の光りを当てる場所を決めてるようなもの


日の光りが当たる範囲を限定させるって大分無理があるけど


そんな風に思えるんだよね


というかこの概念はなんなんだ?


いつからあるんだろう


これ