なるほど(?)


どういうわけだか


私の書いているブログを


読める人と読めない人


見れる人と見れない人がいるらしい


たどり着けたとしても


こういう内容にたどり着くとは限らないそうで


私の意図とは関係なしに


時に私の意図も含めて


そういう風にしてるんだ?


というかそういう風になっちゃうのか


なんかそういう感じを今感じ取ってる


見れる人が限定されてるというか


勝手にそうなっている感じ


ふううん?


だから気にせず書いちゃっていいの?


ほんと(?)


難しいよね


これ(精神/意識領域)系の話はさ


ただ自分で自分に対して思ってること


これは過大評価とかそういう意味じゃなくて


自分を分析して思うこと


他の人とは見てる部分や着眼点が違う


それは思う


スピリチュアルの話を聞いていても


なんかそういうことじゃないよなっていう感覚がある


もちろんそうだねって思ったり


そういうこともあるのかとか


自分の中にはなかった考え方を知るとか


そういう視点もあるんだなって気づけることもあったりして


何もかもがそういうことじゃないよねとか、なんか違うよなぁって思ってるわけではない


いや寧ろ色んなことを教えてもらえてありがたいなって思ってる


だけどその反面、ちょっと待ってって思うことにも気づいてしまうし


なんだかやけに自分自身がスピリチュアルのことについて知らないはずなのに


なぜ初めて聞くことなのに話されている内容を理解できるのかとか


どうしてその話についてそういうことじゃないよねって言えるのか


それってそうじゃない時のことを知らない限り出てこない


だって知らなかったらわからないはずだから


だから多分どこかで知っているんだろうね


なのでそのような判断が下せる


その双方を気づかせてくれたのが他人様の話


この話を聞かなかったら多分知らないままとか


一切考えてこなかったこと


でも考えるきっかけがあって


そう思う何かが自分の中にあって


あまりにも自分自身では普通のことだったから


私の家族がそれは普通じゃないっていうことを私に教えて


なんでそう思うのかって問われた時に


初めて知ったんだよね


この考え方って他の人はしないの?と


誰でもそう思ってると思ってたの


でも実はそうじゃないということに気づいてしまった


というよりそうなっていることにすらも気づいてなくて


家族に言われて初めてそうなんだって


そう言われたらそうなのか?と


自分ではあまりにも当たり前すぎるから


気づかないもの


自分の中では自然とそういう考え方になるから


でもその自然な思考は私にとってはごく当たり前なんだけど


他の人には珍しいというか


普通はそういうことを考えないそうで


一番最初にそれに気づいちゃった時は自分で自分に驚いたね


でも普通に人間の頭で考えていることだから


別に私が特殊とかそういうことではなくて


様々な経験の上で考えられることという点においては


経験してきた事って人それぞれだから


気づけたり、気づけなかったりするかもしれないけど


でも何かを考える、思考すること、色々なことを想像して考えを巡らせること


それは誰にでもできることだから


ただそれをするかしないか


本当にそれだけのことだと思うんだよね


これから私が思っていることを沢山綴って行った方がいいのかもしれない?


思ってることがすごいいっぱいあって


でもそれって思いっきり自分の考え方だからさ


人によってはただの偏りでしかなくて


しかも見方によっても押し付けにもなりそうで


だから自由には書いてこなかった


色々言われるのも嫌だし


なんか変に捉えられるのも嫌だったから


すごく昔の私は


自分の考えを何でも主張する人で


そこに相手が一体どう思うのかとか


別に自分自身に影響力があるとは思ってないけど


でもたった一言が誰かの心にぐさって刺さるとかさ


少なからず誰かは誰かに影響を与えてたりするじゃない?


そういうことを意図してなくても


だからあまり読み手とか見る人のことをそういうことを一切考えず


ただ自分の考えや感情を外に出したいっていうだけで


何にも考えずにとにかく言いたいことを言うっていうのをかつての私はよくやってたの


何でもかんでも全部発信する


何でも外に向けて発散して


自分の中ですごくすっきりしてたのね


別にプライベートだし


そもそも不特定多数の人に向けて何かを書いてたってわけではなくて


本当に一部分、自分自身のことをよく知ってる人の中だけでの話ではあったんだけどさ


でも時代の流れとかもあって


自分自身の考えを全部外に出せばいいってことではないんだなっていうことも学んで


そこからは人のことを考える自分がいて


まあある意味では人の目をすごく気にするようになっちゃった


前は何でも出せた


でも今はこう思われたらどうしようとか


そういうのがあって


何でもかんでも言えないというか


言うことが憚られる


特に目に見えない世界のこととかさ


誤解を与えたら良くないよねとか


でもそもそも正解がないし


正解がない話をしているのだからそんなに気にしなくてもいいのかな?とは思ってるんだけどね


それでも仮に、誰かに自分が知らないところで思ってもない影響を与えてたら嫌だなとか


傷つけてしまっていたらどうしようとか


思っても見ない方に進んでしまうことが本当に嫌だったから


そういうことを考えると


正直何もしない方がいいのでは?っていう気持ちの方が出てきて


そっちの気持ちの方がどちらかっていうと私の気持ちの中の大半を占めてるの


それに自分自身のことだから


自分で気づかないと意味ないよねって思ってる部分もあるの


だけど私自身も教えようと思ってるわけではないと思うけど


でもある意味誰だから教わってるようなものだから


そういう意味では


他人の話って様々な気づきを自分にもたらす


それを気づきにするのか、ただの話にするのかはその人自身によるけど


そういうこともあるから


自分の話なんてクソの役にも立たねえよ って思ってるけど


気づきとかそういうのを目的にしてるわけじゃないから


それでも何か意味があるのかもしれない?っていう気持ちもどこかにあって


でもなんかそういうことを言うとさ


奢ってるみたいで嫌な自分もいるの


そういう気持ちは一切ないんだけど


なんかね、何とも言えない気持ちになるわけ


あとやっぱりどこかで、こう思われたら嫌だなとか


とにかくそういう部分があるから


あんまりそういう系で発言をしたくないというか


やりたくない自分がいて


書いたとしても誰にも見せないようにしてたりとか


外向きに発信しないように書いてるとかね


そのくらいしかできなくて


でもそれでもいいみたいなんだけどね


正解がないから


そうやって自分を守りながら発信するっていうことも大事


別に無理して頑張らなかったっていいわけで


やりたくないならやらなくたっていいんだよ


別に自分に対してこれをやらなくちゃならないんだと義務感を持って、何かをやる必要はないし


それからそれは他人に向けても一緒


誰かのために何かをしなくちゃ、何かをやらなくちゃ


こういうことも実は別に思わなくてもいい


だって他人のために生きてるわけじゃないからね


他者のために何かをすることが素敵だとか、美徳だとか、素晴らしいことだとか


そんな風に言われてるけど


確かにそうなんだけど


自己犠牲を求めてるわけじゃないから


別に誰かの何かの犠牲の上にこの世界を成り立たせたいわけじゃないからね


なんでかそういう状況になっちゃってたりするけど


別にこの世界は生け贄みたいに何かを捧げて欲しいわけじゃないから


結果的になんかそういう状況になっちゃってたりするけど


本当はそんなもの要らないんだよね


めちゃくちゃ不要


だから正直私は


ライトワーカーとか使命とか役目とか巫女とか


そういう何かをしなきゃいけない系のやつ


それって本当はない方がいいと思ってる


そういうのがないといけない状況はちょっとね。。。


そういうことじゃないよねって思ってる


こういう人たちに頼りきりっていうのもなんか違うよね


個人個人でどうにかしてかなきゃいけない問題なのに


自分自身で何もできなくて


というよりも?自分では何もできないと思ってるって言うところもあると思うけど


なんかそういう人たち頼りにしてるところがあるよね


そんでもってそういう人たちも自分はこういうことをやるために生まれてきたんだ!と責任感が強いし


何とかしなくちゃってなんかそれに邁進する


それが良くないってわけじゃないんだけど


結構その身を捧げる系みたいなのが多いような?


役目を全うします系っての?


そういうのもどうかなって思ってるの


本当はこういうの要らないよね


できるならない方がいいよね


そんな役割欲しくないというか


そんな役割やれなんて誰も願ってない


少なくとも私はそんなの望んでない


なんか巫女の仕事をする人


神様の言葉を正確に下ろす(降ろす)人


自分を常に整えとかなきゃいけないとかさ


本当はやりたいことがあるけど


この世界のため、人類のためとかで好きなようにできない


でもそれは自分がやるって決めてきたことだから別に苦ではない


という話になってるけど


なんかさ


そういうことをやる人って


なんでかわかんないけど


そういうお仕事をする人特有の肉体的、精神的な困りごとが生じて


そういうことをやるような道に行かされる


それもそれでなんかよくわからないのよね


そもそもスピリチュアルについて詳しくないから


なんでそんなことになってるのかさっぱりわからないけど


意味不明だなって思ってる


巫病なんてなくなればいいのにね


そんなことをしなくてもいい世の中になってもらいたいものだ


だってこれもある意味、捉え方によっては犠牲だからね


誰かの人生が、他者に捧げられてるようなものだから


そもそも神の手となり足となり動いてる時点で


自分の人生を神に捧げてるようなもの じゃん


これもなんか


どういうこと?ってなるわけ


自分の人生なのにね


これを生まれてくる前に決めてるとかそういうことになってるけど


なってはいるけど


やっぱり理解できないもん


自由とは何?って言う感覚になる


なんじゃそりゃって思っちゃう


(神に)開放してやれよって思うもん


本当に(巫女と言う役割を)よくやるよな って思う


こういうこと言うと怒られそうだけど


それを誇りに思ってる人もいるだろうから


ただ私個人としては


誰かが苦しむ様なんて見たくないし


巫病になってほしいなと思ったことないし


その人の人生全てをかけて巫女をやってほしいって思ってない


そういうことを言ったらもう身も蓋もないよって言われそうだけどさ


でも本当に望んでないのよ


こんなことね


好きなように生きていいじゃん


でもそうじゃない世の中になっちゃってるのが本当に申し訳なく思う


こういう人たちがいないと


どうにもならないとか


どうしようもできないとか


そういう感じになっちゃってるのが


マジで申し訳ねぇって思う


そして神様っていう存在がいるのであれば


もうやめてあげてって思うし


それって本当は限定するものじゃないよなって


誰かこの人にって事じゃないでしょ


メッセージ送ってるのは全ての人っていうことになってるけど


その中でもなんか選りすぐりみたいな感じになっちゃってるよね?


でそういう人たちは


今の生(せい)じゃなくて


過去世でも同じようなことをしてたと


だからその経験を生かしているっていう話になってる


生かしてるっていう話になってるっていう変わった書き方になっているのは


全ては同時に存在しているから


あなたの過去って思っているそれは


実は今もあるというか


何もかもが全部そこにある


常にここにある


そのどこに自分が意識があるかだけっていう感じなんだよね


意味わかんないだろうけど


そういう感じなんだよなぁ


だから前世って言ってるものも


今生きている私からするとそういう捉え方になるけど


この時間軸とかこの世界線ではそうなってるんだろうなとか


そういう捉え方、そういう認識として今現在は理解されている


そういう世界にいるのだろうなっていう感じ?


とにかくその過去世とか前世って呼ばれている生(せい)で経験を積んでいるから


それを活かして今そういうことをやっているそういう話になっている


ただこういうのは個人的にあんまり望んでないというか


もう早くやめてもらいたい


そういうことしてるから こういうことになるんでしょって思ってたりする


人の意識の段階っていうのもあるだろうけど


目に見えない存在たちもさ


なんでこういうやり方ばかりするんだろうなって思ってて


一応巫女はこの日本特有のものだけど


でも世界各地に見ると似たような仕事をしてる人はいっぱいいるよね


それにしたって何で日本は巫女という役職を設けたのだろうか


気になるよね


いつからそうしてるんだろう


縄文時代ぐらいからあるような感じだけど


縄文時代か


私が思っている縄文時代と


スピリチュアルで話されている縄文時代はなんかちょっと差異がある


スピリチュアルで話されている縄文時代って縄文時代のことじゃないと思うんだよね


教科書に載っているような、様々な人が語っている縄文時代


その時の精神って


縄文時代の話じゃないと思う


多分そういう風に思ってる人は他にもいると思う


話がおかしくなるもん


すでに縄文時代にはもう家があったじゃない


どこかに住み着く


定住が始まってるからね


それってもうすでに所有なんですよね


スピリチュアルでよく話されている


所有の概念っていう話


これが縄文時代にはないっていうことになってるけど


いやもうすでにあるじゃん


よく見てみなって


すでにどこかに住んでるじゃん


そこで何かしてるじゃん


もうその時点でさ


そこを自分たちのものとして見てるし


確かに移動もするけど


でもぶつぶつ交換で何かと何かを交換しながら交易をとってたし


その場で何かを作ってたよね


戦いの始まったのは弥生時代ってことになってるけど


もうすでにその前から


いろんなことがスタートしてるっていう


だから話の辻褄が合わないんだよね


で、この頃にそういう系?巫女とかが始まってたとしたら


うーん


結構前からめんどくさいことになってんなって思う


こう言うことを言うとさ


反感買うかもしれないけどね


でも見直す良い機会だと私は思うけどなー


なんならレムリアの話もね


神官とかさ


それもどうなんだろって私は思っちゃう


これは否定と言うより疑問


この在り方が狂わせているようにも思えるから


海外の神への生け贄文化とか


なんでそんな非人道的なことを人類って受け入れてたんだろう?とものすごく疑問


普通に考えたら分かること


その考える力すらなくしてた?


すべての存在がそうだとは思わないけど


神が話すことは正しい、絶対だ


そういう思い込みありそうだよなぁ


日本でも人柱ってあったけど正気じゃないし


とち狂ってるとしか思えない奇行


神がそれを所望してるとか


なんの話だよ驚き


気を確かに持て?真顔と言いたくなるやつじゃん


それをガチで信じて行う


怖いよね


大丈夫じゃない


それもこれも


見えない存在からの言葉による


それそのものに難癖をつけてるわけではなく


この在り方に疑問


しかも誰か代表者を立てて伺わせる


またはどこかから選出するだとか


なんかそう言う感じの


結局人類はずっと何者かの手のひらの上


考えているようで考えてない


自立出来ているようでそうではない


だから〜させられているとか言ってる人がいるのでしょうね


神がそう伝えている


伝えさせられている


それって自分の意図ではないことを話している


私がそう思っているのではなく別の誰かがそう言ってるのってね


それの何が疑問なのかと逆に問われそうだけど


すごく奇妙な感じ


自分を生きてないように思えるから


自分の内側が現実を創ると言ってるのに


全部外側に意識を向けてる


宇宙が地球の外側に広がるあの宇宙だとして


その宇宙にいる何者かに


つまり宇宙存在とか宇宙種族とか宇宙にいる生き物に問う


それは繋がり方が外から取るか、内側から取るかの違いで


結局自分以外の存在からによってもたらされるもの


それを駄目とか、悪いとかそう言ってるのではないけど


それって自分の内側の話じゃなくて


外側に起きてることなのでは?って思うんだけど


ただの屁理屈?


個として


あなたと私という誰かがいる


そういう世界ではこの在り方が通常?


体験すること、何を想い、何を考え、何を感じるか、その経験が、記憶が行動が、発言が、能力や想像(創造)といったものにのみに対して内側が反映されていると思っている?


本当に全て自分自身が創造しているというのなら


神がいないことを理解出来るはずだけど


すべてが一つと言うのなら


なおさら神が存在していないことを物語っている


そう言う設定にして自分に何かの役をやらせている


全部自作自演


そういうことになる


だけど


不思議な存在の話が出てくる


それは亡くなった人であったり、神と呼ばれる何かの存在であったりと様々


じゃあそれらは一体なんなのか


何をそう捉え認識しているのか


それともそう言う存在が本当に存在しているのか


見える生き物の在り方、見えない生き物の在り方


生き物と言う概念


生きていると言うその意味


存在とは?


それは何かの生き物としての存在と言う存在の意味ではなく


在り方と言う意味での存在


どうやって存在していることを証明しようかみたいなやつ