偏りがあるかもしれないから
閲覧注意にしとく
この世界のよろしくない所ってさ
やっぱり比較かな
どんな時でも根底に刷り込まれてしまった比較意識
これがね
本当に良くない働きをする
心身ともに病む
優劣の話だけじゃなくて
自分自身に罪悪感を持つ
単純に比べてしまうことに対してそんな自分を嫌いになるし
相手のことを憎たらしく思ってしまったりする自分自身に対しても嫌悪感を持つ
ごめんっていう気持ちと同時に
負い目と引け目、それから惨めさとか
いろんな気持ちがないまぜになる
比較する必要なんてない
自分自身には自分自身の良いところがある
自分で自分にそういうそれすらも虚しく感じてきたり
居ても居なくても良いよなって気分になったりさ
自分の価値とか自分が生きている意味とかは自分で作ったっていいのに
なぜか全部外側に求めてしまうようになる
誰かに認められないとダメだとかさ
それは特定の誰かにかもしれないし
世間一般かもしれない
誰かに何々だよって言われないとそう思えないとか
自分で決めていいことを人に任せてしまう
誰かに言われたその私であろうとしてしまったり
時に誰かからあなたは何々だよって言われても
その人そのものを信じられずに
本当にそう思っているの?と思ってしまったりね
そのままの自分でいられない
いようとすることが難しい
比較社会の弊害ってそういうところがあって
どんな自分だっていいはずなのに
みんなと同じじゃなきゃいけない
何かの基準があってそれを満たしてないといけない
何をやるにも誰かの許可が必要で
本当はそんなものなんてないのに
許可があるような感じに思ってしまう
そして本当に許可が必要な状況を作り出してしまう
だから誰かにいいよって言ってもらえないと自信が持てなかったりする
それが賞賛だったり、いいねの数だったり、肯定的な意見だったり
その形は様々だけど
誰かに認められないと自分自身の価値を見いだせなかったり
自分自身の存在意義が揺らぐ
それは本当は自分で確立すればいいのに
他人をそこに介在させてしまう
全部外側に自分を合わせようとして
全部外側に合わせるようにする
だから適材適所とか
得手不得手とか
得意不得意とか
そういうところ何も関係なしに
平均的に同じぐらいになるように
調整してこようとする
本人の個性とか特性とか性質とかそういうこと一切見ずに
同じことを覚えさせ、同じことをやらせて、一律同じぐらいにする
オールマイティな人を求める
それができてるかできてないかで
価値がある、価値がないとか
できる人、できない人とか
そんな風に評価される
比較社会は評価社会でもあるからね
そして競争社会でもある
だからどっちが優れているかどっちが優れていないかとか
そういう良し悪しみたいな感じでしか人を見れなくなる
その人自身の能力をその人自身を見るのではなくて
どこかの誰かが決めた基準に当てはめて
それができているかできてないか
総合的な数値でもってその人自身を評価する
だからどんなに頑張っていても
真面目に取り組んでいたって
数字で判断する
目に見えるわかりやすいものでその人の成果を決めたり価値を定める
だから生きづらくてしょうがない
だって自分自身のことを見失うように
自分自身が何者なのかわからなくなるように
自分が何で生きているのか
その意味を見出せなくなるような
そういう社会なんだもん
それ(自分自身が生きている理由)が分かっている人と分かっていない人で
今溢れていて
自分自身の生きている理由が分かっているというここ
これも誰かに認めてもらったからとか、あなたはこういう理由できてるんだよって言われたからと
それを生きている理由の全てだと思って日々の生活を送っている人もいる
でも誰かに何かを言われたから、誰かが認めてくれたから
だから自分は生きてていいんだ
ということじゃないよ
生きる理由は他者の中に見つけなくてもいい
自分の中にあるものなのに
自分の中からそれを見つけられない
だって自分が何者なのかが分からなくなってしまうような世の中だから
ずっとどこかの誰かに合わせる
外側に基準を設けられて
そこに標準を合わせて生きてきた
一人一人が持っている個性を活かすというより
周りに合わせて周りと同じようにする
それが美徳であると
それができなくてはいけないと
そう教え込まれているような
そういう感じがしていて
この世の中の社会の標準の基準がそれなのよ
いかに周りに合わせるか
どうやったらその枠組みから外れないか
時にその枠組みから外れても周囲を認めさせる人もいる
そういう人は大体飛び抜けて何かができる人
だから周囲も認めざるを得ない
けれどそうじゃない人の方がほとんど
そういう人の方が多くて
たくさんの人々の中で
溺れていきそうになる
飲まれて
自分が何なのかがわからなくなって
自分自身と向き合いたいけど
いざそういう時間がやってきたら何をしていいのかわかんない
自分のことをどうやって知っていいのかがわからない
何のために生きているのかがわからない
自分が生きている理由とは何なのか
自分が好きなことは何なのか
何に興味を持っていたのかとか
思いつくならまだいいけど
何も浮かばなかったり
何も思い出せなかったり
ただただ何もない自分がここにいて
今まで何のために生きてきたのかとか分からなくなったり
なんか一気に自分の中が空っぽに思えて
虚無感に陥ったりする
でも楽しそうにしてる人達とかを見てると
すごく充実してるように思えて
けど自分自身はとてもじゃないけどそういう気分になれない
そういう自分がいたっていいのに
その自分を認めることも嫌がったり
なんでこんな風になっちゃったんだろうって後悔したり
これだって比較してるんだよ
こんな風になってしまった自分と
そうではない人たちと見比べて
いいなぁ羨ましいなって思ったり
時にそれが妬みとか憎しみに変わってしまったり
反対に自分自身のことを責めて自分に憤ったり
悲しい気持ちになったり悔やんだり
何にせよ複雑な気持ちになる
比較社会って本当にこういう感じで
どんな自分でだっていいはずなのに
誰かがいることによって
ずっと今の今まで誰かと私
そうやって比べてきたから
今の自分を受け入れるとか
自分に対する受容度が低いんだよね
理想像ばかりが先行して
こうならなくちゃならないとか
あぁならなくてはだめだとか
あるいはこうしてはいけないとか
あのようになったらだめだとか
そうやって全部自分の外側
自分にないものを欲しがらせるように
本当は自分だけにしかないものがあるはずなのに
それが分からなくなってしまう
一人一人同じような特性でも
でも生きてる人は違うでしょう?
一人一人違う人でしょう?
同じ人なんて誰もいないでしょう?
その個性がまるで生かされない
均一で統一された人々が
同じような能力値で
無理やりそこ(標準とされる基準)に合わせられて
その中で無理して生きてる
それがずっと続いてる
そこからはみ出すと奇異な目で見られる
白い目で見られる
できることを伸ばせばいいのに
できないことをできるようにさせる
得意なことをどんどんやらせればいいのに
得意なことだけじゃなくて不得意なことも総合的にできるように
できないことがあること
やれないことがあること
それをよしとしない
何で、どうしてできないの?と
できるようにさせる
できないことを責める、叱ったり、怒ったり、許せなかったり、嘆いたり、悲しんだり、憎んだり、からかって馬鹿にしたり、蔑んだり、貶したりなど良くない意味で捉える
何でできないことが悪いことなのか
どうしてみんな同じようにできなきゃいけないのか
なぜそうある必要があるのか
そもそもそこがおかしいと思う
だって違う人なんだもん
同じようにできるわけないじゃん
ロボットじゃないんだから
全部が総合的にできる人もいれば
一部分に特化した人だっている
できない部分をできる人が補えばいいじゃない
それでいいのに
それをダメって
全部できなきゃいけないんだよって
そうやって個性をなくすんだよ
自分が何者なのかわかんなくさせちゃうんだよ
だから自分自身と向き合う時間があったとしても
内観しても内観できているのかすらもわからない
何をしていいのかがわかんないし
正解なんてないはずなのに正解を求める
しかもその正解の求め方っていうのは
いつも外側
私の人生なんだから私が自分で決めればいい
私の中の私の正解はこれ!
私はこれがいい!
私はこうするの!
そういうのがあったっていいのに
それをするのが怖い
そうしたら何か言われるんじゃないのか
世間の目が怖い
周りに何を言われるのかわからない
自信が持てない
自分を貫き通すことで摩擦が起きるぐらいなら自分を貫くのをやめる
そこまでしたいと思わない
不特定多数の中に埋もれてしまうかもしれないけど
でも目立って何か言われるぐらいなら
何もしない方がマシだとかね
自分らしくいていいはずなのに
自分らしく生きること
それって別に誰の許可もいらないし
誰に何を言われる筋合いもないし
人の目なんて気にしなくていいはずなのに
怖いんだよね
それができる人たちもいる
でもできない人たちもいる
どっちもいたっていい
どっちかであろうとする
またはこれに限らずどっちかでなきゃダメだとかね
そういうのが多い
もちろん中にははっきりさせなきゃいけないことやはっきりさせなきゃいけない時もあるよ
でも本当にすごく思うことは
なんかよくわからないままに
日々を過ごしている人
それは私も含めてなんだけど
そういう人が多い気がする
慣習みたいになっちゃってるっていうか
あまりにも長く続きすぎて
このあり方が安心してる人の中にはいるし
でもこのあり方は崩れてきてるじゃない
完全崩壊とまでは行ってないけど
けどそうじゃない動きとか流れがもうすでに出来上がってる
今までの状態で慣れ親しんできた側は
ずっと決まってることをやっていれば良かったから
それはそれで楽だったの
言われる通りやっていればよかったから
別に何もせずとも決められた枠組みの中で平均的なことをやっていれば
咎められることはないし
ある程度の評価をしてもらえる
それで十分っていう人もいたわけ
でもそうじゃない流れはもうあって
どんどんそういう方向に動いてる
今度はそうなった時に
今の今までが比較の世界だったから
急に比較しなくなれ(比較しなくてもいいんだよ)って言われても無理だし
だって染み付いちゃってるからね
それに外側に合わせることに慣れてるから
自分の中にある価値観だったり、本当の気持ちに気づきにくい
外側に合わせた価値観の中で生きてた時間が長いから
そうじゃなくて元から自分の中にあるもの
本当はこう思っているっていうそこ
それを知るのがすごく難しくなってしまっていて
そこでまた自分自身に悩みが出てきてしまうわけ
で、その自分とそうじゃない他の人とまた比べるの
比べなくていいのに
この人はできているでも私はできていないとか
困っているけれど他の人に聞くことが難しいとか
今までだったらマニュアルがあった
それさえ見てればなんとかなった
でもそれは外側に合わせたものだったから
誰でもできたこと
自分自身のことだからマニュアルなんてない
けど誰かに聞くことが恥ずかしいとかさ
聞けたとしても自分自身にできるかな?とか
自分に対しての不安
そして置いてかれてしまうような恐怖
そういう心配の気持ちに苛まれる
だから前と同じように戻したいって思う気持ちの方が強くなって
その時の方がまだできてたし
面倒なこともあったけど
でも総合的に見たら自分の中では居心地が良かった
何より周りに合わせていればよかったから
ある意味では楽なの
自分というものを通すことも大事だけど
周りに合わせていれば
波風も立たないし
過ごしやすいといえば過ごしやすい
ただその分自分自身を抑えることも多いから
自分を見失ってしまうという困った出来事もあるけど
でも人間関係においてもそっちの方が上辺だけだから
ある意味では気楽だし良かったなって
そう思う人もいるかもしれない
だから元に戻そうとする
そういう気持ちも働くよね
そもそも人って変わること自体を恐れる生き物だから
自分自身が経験していることで嫌だから変えたいって思ってるなら別だけど
別に何にも思ってないとか特に困ってもない人からすると
変えないでよって思う人もいるの
でも時代の流れというか
もうそういう転換期に来てるし
なんならもう移行期間とも言えて
だから新しいものと古いものが混ざってるという
だからぐちゃぐちゃになってる
こういう時にどっちにも引っ張られると
自分自身が何なのかわかんなくなって
頭がおかしくなりそうになる
でも普段から自分の時間を設けていて
少しずつ自分なりの時間の過ごし方をしている人だったらまだいいけど
そうじゃない人からすると
もうどうしていいのかわからない
自分自身に対して
どうやって接していいのか
他人との接し方も変わってくるし
自分で考えて自分で答えを出す
外側にあったものではなくて
全部自分の中で見つけなきゃいけない
でも急にそんなこと言われたって
無理だよ
だってやって来なかったもん
今更やれって言われたって
どうやってやるの?
誰か教えてよってなるよね
でも教えてもらっても
慣れてないから
うまくやれないし
うまくやれない自分を嘆く人もいれば、惨めに思う人もいるし、苛立つ人もいる
それを外側に向けるのか自分に向けるのか
そこでもまた変わってくるし
自分の感情のコントロールとか
思考の整理とか
いろんなことをいっぺんに求められているような気がして
1つずつゆっくり手をつけられればいいけど
流れが早いっていうのもあって
気持ちとか頭が追いつかないまま
どんどんスピードだけが上がって行ってしまう
これは本当に厄介だと思っている
そしてそうなってしまった弊害は比較社会によるもの
だからこれ
ちょっと困ることが起きてると思うの
しかもそれは
生きている人間全てに
じゃあどうして行ったらいいのか
習うより慣れろってことにもなるんだろうけどさ
スピードは一旦無視するしかない
勝手に動いてっちゃうもんだから
こっちでどうにかしようとしても
もうどうしようもなんないから
それはそれで置いとこう
無視無視
どうせいつから見ることになるんだから
見なきゃいけなくなる時まで一旦置いといて
今自分自身がやれることをやる
何が必要なのかをまず自分で考えるしかないんだけど
これはその人自身によるから
何がその人にとって一番重要なのかっていうのは他人にはわからない
自分が一番自分のことを知っている
分からないって思っていても
自分が自分のことを一番知っているの本当は
でも私も自分のことがよくわかってないから
分からないって言いたくなる気持ちはめちゃくちゃわかるし
そう言いたくもなるよね
だってそうなっちゃうような世の中だったもん
だけど時代の流れが変わりました
だからそれに合わせてくれって言われたとて
いきなりなんて無理でしょ
こうしていきましょうとか言われたって
これがするっとできる人もいれば
うまくいかない人もいるわけよ
でも流れ的にはうまくいってない人のこととかうまくいってる人とか
そういうの関係なしにどんどん進んでっちゃうから
もうそういう人たちのことを見てるわけじゃないから
流れって言うのは誰かに合わせて動いてるわけじゃないからね
自分のことを見てくしかない
流れがどうのこうのとかの前に
それはそれで一旦横に置いといて
自分で自分にできることを探す
まずはやっぱり
私は何を思っているのかっていうここを知ることが大事
一体何を思っているのかをまず知らないと
私ってどういう人間なのかわからないじゃん
だから私を私で知る時間を作る
本当は何がしたいんだっけ?とか
何に興味を持ってたんだったかな?とか
前からやってみたかったことがあるんだよねって思ってるものがあるならそれをやってみればいいし
何もないならまずは自分を知る
それすらも難しかったら
家の中にはいないで自然に触れる
地球の自然に触れる
自然の中に行く
自然が自分の中にある感性を思い出させてくれるから
感覚を思い出させてくれる
これは本当に何とも言えないけど
自分の中にある何らかの感覚
五感もだけど
気持ちとか感情とかそういう感じの
リラックスすることもそうだけど
それ(リラックス)ってなんかどっちかって言うと五感 っていうよりも
自律神経とかそっち系じゃん?
脳みそとかさ
精神的な面の方
そういう精神的な面の感覚っていうのは
五感の中にある時もあるけどないものもある
そのないものの方
そっちを使えるのが
自然の中に行くと感じられるもの
夕日を見て感激したりとか
動物を見て癒されたりとか
綺麗な星を見て感動したりとか
そういう心の琴線に触れる
そういうのって五感を使ってるけれども でも五感以外のものによって感じてない?
それを感じられるようになったら
多分自分の中にある感覚も少しずつ思い出すと思う
自分のことを知るきっかけにもなると思う
いつも人間って
自然の中の一部だから
自然に触れると
機械的な人間ではなくて
生き物としての本来の自分自身
野生的なっていうよりも
人間の精神的な
それこそスピリチュアリティ的な部分
それを思い出せると思う
心を使うこと
心を思い出すこと
それは感情を使うっていうことも入ってるんだけど
感情は感情でも負の感情じゃない方の感情
何度も使って行く
経験を積ませるっていう感じ?
楽しかった記憶をたくさん増やす
嬉しかったこと
喜んだこと
感動したこととか
面白いなって思ったこととか
それはおかしなっていう意味もあれば
興味深いっていう意味もあったり
自分にとってこれは良かったなと思えるようなこと
素敵だなとか
けどそこに憧れとか、羨ましいとか、恋愛みたいな感じのは入ってなくて
愛情というよりも愛
ここはちょっとなんか違うような感じがする
情が絡むと冷静な判断ができなくなるから
義理人情とかさ
情けとか
日本人らしさみたいなところはあるけど
そういうのとはまたちょっと違う感じがする
(それは自分自身のことだから
情けは優しさでもあるけど
それは憐れみになってはならないし
自分自身で向き合わないとならないものは本人のもの
それは他者が手を貸したら本人のためにならない
だから今回は情は使わない
もちろん時に場合によっては情けが必要な場面もあるだろうけど
そこの見極めは必要
共依存になる恐れ
自立や自律が出来なくなる)
だからといって博愛とも何か違うんだよね
でも感情を感じることはとても大切っていうこと
そういうのはある
でもあまりにも行き過ぎると感情すら感じられなくなるからね
そういう時もやっぱり自然の中に行く
何でもいいから
心が動かなくても
五感を使う
それこそ人間に備わっているその機能じゃないけどその感覚を使うこと
何にも感じなくなったらそこからになるだろうな
なんか変にマイナスな感情とかそういうのはいっぱい経験してるし
たくさん体験してるの
だからそっちにはすごく反応しやすい人が多分多い
私も含めて
でもそうじゃない感情は感じ難かったり忘れてしまったり
だからそのプラスの方の感情の経験を何度も繰り返して
自分にマイナス以外のそうじゃない感情もあること
それも感じられるっていうことを思い出す
自分で自分に分からせるような感じ
無理やりじゃなくて
本当にそう思う
ここが本当にミソな感じ
本当に些細なことから
その些細なことにすら何も感じなくなっちゃってて
当たり前だと思ってるところもあるし
何でもないことを本当に特別だって思わなくなってしまった
本当はその何でもない日常がどれだけ特別なことなのか
何の変哲もないこの日々がどれだけ貴重だとか
どれだけ大切なのかっていうのは
そうではない状況になった時に初めて気づく
それだと遅くて
かといってこういうこと書いてるけど
なかなかそうは思えないし
日々生きていることに感謝って口では言えるけど
それを本当に心からそう思ってやれるか っていうと
難しい部分では確かにある
毎日当たり前のように過ごしてるからね
その当たり前じゃないっていうことを
理解するのって
誰かに言われても無理なんだよ
だって本人がそう思わない限りそうならないから
確かに本当に貴重なの
頭では分かっていても心ではそう思ってなかったりとかさ
その逆もあるよ
本当に自分の心の奥の深い部分、本心ではそう思ってるけど
そうじゃない部分
これをエゴっていうのが何て言うのかわかんないけどさ
そういう頭の声っていうのかな?
周りのことばかり見てる時に起きがち
なんかそう思うことが恥ずかしく感じてしまったりとか
あまり口に出したくないような気分にさせる
なんかそんなこと言うなんてみっともないみたいな気分になっちゃったりとか
その部分が邪魔をするって言うか
本当の自分を忘れさせてしまったりとかね
周りにそういつことを言ってる人がいなければ
ポエムでも書いてるの?とか
詩人ですか?とか
なんかクサイこと言ってるねとか
茶化す人もいるじゃない
真面目に言ってるけど
そんなの誰だってわかるよとか
知ってるよとか
軽く受け流されてしまったりとかね
そうやって真剣に取り合ってくれないというかさ
思っていることを馬鹿にされるではないけど
真面目に受け止めてくれなかったりすると
そこでもう話したくなくなったり
もう自分自身がなんか間違ったこと言っちゃったかなとか
恥ずかしいなとか
いたたまれない気分になったりするじゃん
自信を無くしてしまったりね
もう言うのやめとこうってなるじゃん
そういうことの積み重ねとか
たった1回のその出来事がさ
自分の恥として残ったりすると
もう思い出したくないし
嫌だって拒否したりするよね
大事なことであっても
そういうこともあったりするからさ
言葉にするのは簡単だけど
実際に実行に移すとか
それをやり通すとかね
やりきるって言うのは結構勇気がいること
当然なこととか、当たり前のこととか、普通にできることとか、そういうのって意外と難しかったりする
当然とか当たり前とか普通とか口にできて実行に移すことに何のためらいもなく、簡単にできるようなことやもの
それは実はあまり大事じゃなかったりすることの方が多い
本当に大切なものって
人の前でやろうとすると
抵抗が起きたりすることが多い
だって今の時代が
変わっては来てはいるけど
今までずっとそういうことを軽んじてたし、ないがしろにする傾向が強かったから
もちろんそうじゃない人もいるけど
でもそういう傾向が強い世の中だから
真面目にそういう話をすると鼻で笑われる
何言っちゃってるの?とね
馬鹿真面目だねとか
頭固いねとか
そういう感じでさ
しっかり耳を傾けてもらえない
面白すぎるとか
どっかの勇者じゃないけど
漫画とかゲームとかアニメとか
戦隊ヒーローものとかさ
なんかそういうものの影響を受けてる?とか
あとは何にもやってないけど
変な宗教に入ってる?とかさ
そっち(怪しいスピリチュアル)系なの?みたいなね
全然そんなんじゃないけど
変な誤解されたりとか
誤った解釈をされたりとか
きちんと向き合ってくれない
綺麗事ばっかり言ってるとかね
理想論だよとか
現実を見てないとか夢見がちとか
地に足がついていないとか
一蹴されるか笑われるか
しかも一度そういう風に思い込まれると
この人こういう人だからなとか
前にもそんなこと言ってたよねとか
この人ってそういう人っていう思い込みが勝手な人間像を作って
フィルターをかけて見てくる
だから余計にきちんと見てもらえない
そんな感じだったから
自分が本当に信じていることとか
信念とか良心とか
そういうものに従って
それを人に見せること
実行に移すこと
行動にすること
披露する事っていうのは
結構勇気がいること
だからこそ
自分を出すっていうのが難しかったり
自分と向き合うことをやめちゃう人も多いんだろうなって思う
だって意味がないもんって思うよね
そうじゃなくなってきてるよって分かっていても
怖いなっていう気持ち
恐怖感が出てきてしまうよね
ここをどうやって緩和していくのか
どういう風に移行させていくのかとか
これ結構な課題
これも課題だけど別にも課題がある
人類が向き合わなければならない課題がね