道は一つじゃないよ


なきゃ作ればいいじゃない


誰かの言いなりになんてならない


私は自分の想いに従う


どんなに有名な人が何かを言おうと


私がそれをやりたくないのであればそれをやらない


たとえそれが神様から言われた言葉であっても


だって生きているのは私だから


私は私の中にあるもので生きてる


もちろん周りからも助けてもらってるけど


でもどうして行くのかは私が決めてるから


どうするのかの基準は自分の中にあるもの


それは誰の中にもない


私の中だけにあるもの


それだけを頼りに


いや、それだけあれば良くて


私は私と一緒に生きてる


私は私と一緒に歩んでる


誰かが今の私ではない


私の知らない


私の話をしても


それでも今この時を生きているのは私だけ


私は私でしかない


私はどこを探してもいないたった一人の私


私の知らない私の話をされても


それは私であって私ではない


だからそれは私じゃない


私の中にある私の中の一つかもしれないけど


今生きているのは私だ


この私を私は大切にしたいし


誰がどんなことを言ったって


私は私なの


私としてここにいるのは私なの


私の中に見える知らない私の話ではなくて


今を生きている私を見てほしい


だって今生きてるのは私だから


ここにいるのは私だ


私が知らない私が生きているわけではない


そうだった時の私の要素を私は持っているかもしれないけれど


それでも今生きているのは私だよね


その私と私は一緒に生きるの


まるで自分が二人いるような変な言い回しだけど


でも私は一人しかいないよ


たった一人の私


だから私はきちんと自分を生き切りたい


いろんな人の言葉が飛び交うこの世界で


いろんな言葉がまるで正解のように飛び交う


正解なんて(そんなもの)ありはしないのに


他者の言葉に踊らされたくない


それは見えない存在も含む


特別なことなんてしなくたっていい


生きてるだけで十分だ


それなのに


特別であることをまるで求められているような


特別であることに戻れって言われているような


特別であることに戻らなくとも


元々特別じゃないのか


それともその特別というのは


こうして生きていることだけではなく


不思議なことができるようになることも含めてるの?


この不思議さを使えていること


それが特別?


そうあることが当然?


人である前の根源的な私たちはそうだったのかもしれない


だからそれが人間の姿であれやろうと思えばやれるのだろうけど


でもそれを、そうであることを求めるような


そうなりたいと強く思わせるような


そういう風潮


それ自体が悪い、ダメだというわけではない


だけどそういうのがなくったっていいじゃん


それがないとダメだ


どうしてもそうなりたい


どうしてもそうでありたい


いつからこうなってしまったのだろうね


今のままで十分なのに


この自分じゃ嫌だ


そうでない自分になりたい


私だってああなりたい


今の自分に不満


自分にないものを求める


だから自分自身がそれができなかった時


誰かにあなたはそのままでいいんだよと言われた時


自分自身を否定されたかのような感覚になる


そうなろうとする自分に無理だと言われたようで


誰かに自分にも才能があって


私にもできるんだって言って欲しくて


でもそのままでいいということはそれ以上がないことなのかな?って


本当に自分で落ち込んで自分に落胆したり相手に不快感を持ったり


特別さってそういうものだっけ?


不思議な事ってそんなに大事なのかな


不思議さに意識を全部持って行かれてるのか


自分自身の本当の気持ちや私という人間について考えることをやめてしまっている?


足りない部分を見てもどうにもならないのに


ずっとそこばかり


大切なものって何だろうね?


大切にするものは一人一人違うけど


それでも問いたくなる


本当に大切なものって何?