スピリチュアルで言われているエゴってなに?
エゴ、エゴ、エゴ、エゴ、エゴ、エゴ、、、、、
とにかくエゴとめっちゃ聞く
話を聞くとなんだか良くないものってことになってるよね
悪ってわけではないけど
本来の自分と遠ざけるものみたいな?感じで話されることが多いなって思う
本来の自分とはいわゆる根源的な
それも生命(ヒト)とは違う意味で
精神的な意味合い
だけどもそれはメンタルの話ではなく
霊魂的意味合いを持つ根源
つまりはその界隈の話で言うのなら
それは愛になるのだろうけど
人間的な情を伴う愛ではなく
ものすごく広い意味での愛
そう言うものと遠ざける
それがエゴって感じ(今現在の私の解釈だと)
私達は人間として生きているけど
人間としてはエゴは必要なもの
私であることを確かに実感させるから
だけど霊魂的な視点からだと肉体を持った生命体としての働きが大きすぎ(強すぎ)て?
人として生きてしまうのかな?
人として生きているのだからそれでも良いと思うのだけど
でもどうやら人類は人としてだけではなく
人でありながら根源的な状態で生きるようにすることが目的なのかな?
もちろん全ての人がそうだと言うわけではないけどね
そしてもしかしたらそこに対して
エゴは邪魔?なのかも知れない?
動物的な生き方ではなく
人だからこそ動物とは違う角度で生きることが可能
本能とはまた別に
知性や理性で感情的にならずに生きることも出来る
知能指数が高い生き物もいるけど知性はない
頭は良くても物事の本質を深く見ると言うのは人間特有と思われる
全く人と触れ合わない野生の動物でなく、人の生活に馴染んだ動物であれば野生の動物にはない表情を見せることもあるけど
人の気持ちに寄り添う動物からの愛とかね
だけど人は動物とは違う
人が人であるように
そしてその人たらしめるために自我はあると思うんだ(私はね)
❝私❞と言う個性を特徴を持った存在をここに居させるのにね
だけどスピリチュアルではエゴは
まるで不要と話す
それは何から来ているのだろう?
どこからそう言う話に?
詳しくは分からないけど
自我をエゴと言う
それはスピリチュアルで話してるエゴとは自我と関係ない?のかな?
他にはエゴって自分本位、自分勝手な、利己的主義?って意味のあるエゴイストとかエゴイズムの略くらいしか浮かばないのだけど
スピリチュアルで話されているエゴとは
この2つのエゴの主に前者で話してるのだと思っているのだけどそれ以外の意味もあるのかな?
さっきも書いたけどスピリチュアルに詳しいわけではないから知らないんだけどね😅
とりあえず前者を前提として私見を書いてく
スピリチュアルで聞くエゴの特徴としては自分がやりたいと思うことに対して恐れを抱かせストップをかけるとか
他にもあるだろうけど
あまり良い言われ方をしない傾向にあるからか?良くないものとして思ってるし扱っている所があるよね
良いものとして捉えてないのがありありと伝わる
だからエゴが出て来ても否定しないだとか
エゴも受け入れるとか
エゴもあっての自分なんだとか
除け者にせず
それもあなたなんだよと言う言い方をしていると思われる
良いものとしてエゴを見ているならこんな言い方はしないと思うから
スピリチュアルは統合と言うのを賢明にやっているけど
なんでそんなことをしているの?
今までは分けて考えていたこと?を分けずに考えるってやり方に変えたのかな?
詳しくは不明だけど
エゴを切り離して考えるやめましたみたいな空気を感じるので
なんで切り離して考えてるのかな?とか
エゴとはちょっと脱線するけど分離意識と言うものもあるそうで?
そもそもなんで分離してると思い始めたの?なんて疑問が出てくる
一体どこから?
もしくはいつから?
なんでそう言う捉え方をし始めた?
誰かがそう言ったの?
それとも自分でそう思ったの?
スピリチュアルと言う分野があって
その中で初めて聞くことが多くて
今まで何かを始めようとする時の不安や恐怖感は実はエゴだったみたいな話を耳にした時
へぇーとは思ったけど
だからと言ってその気持ちが出て来たことをエゴのせいだったとは思ったことが私はない
エゴがそうさせていると言う話からエゴと言うそう言う働きをするものもあるのかも?とは思ったけどね
それに怖いものは怖いし挑戦したくても出来なかったことはある
それが仮にエゴだったとしても
挑戦出来なかったことや諦めたことが駄目なこととは思ってない
時々また出来なかったと自分を責めることもあるけど
でもそれは自分がそうしてるだけで
エゴがどうのとは思ったことがない
だからその反応はエゴだったんだ!
(エゴだと知れて)スッキリした!とはならなくて
エゴ?そうなんだ?と逆に私を困らせるワード
何故かスピリチュアルでは自分とは別にエゴがいる感じだけど
エゴって私の解釈だと
結局自分と言うか
自分の心の反応の一種とか、自分の中にある様々な考え方の中の一つとかそういう感じで
自分の中に存在している数ある反応の中の側面としてそう言う働き(恐れを抱くなど)があるって捉えてるから
自分の中にエゴがいるとは思わないし
※解釈違ってたら申し訳ないんだけども
それも私ってことで気にしたことがない
だからエゴを手放そうとかよく分からなくて
そもそもエゴ(自我)ありきなのが(生き物としての)人間じゃん
私を私たらしめるものなのだから
自我(エゴ)がない人間ってどう言う人間なの?
それ(自我がない状態)が本人にとって最も良い状態なのなら、それもそれで良いんじゃないかなと思うし好きにすれば良い
ただどうしてもスピリチュアルの話を耳にすると
そのエゴって結局なに?と思ってしまう私がいて
その理由は何かにつけて〇〇が起きた時はエゴが反応しているだとか
△△はエゴの声なんですよねとか
□□はエゴが見せているものなど
いつもエゴってもののせいにしてる
それがエゴなのかどうかって何をもって判断してるのか私には分からないけどさ
毎度毎度エゴ、エゴって言ってるけど
きっとそれは人の自然な心の働きと思われる
あとは脳の反応とかね
その働きを批判的に見るのって
自分で自分に評価をくだしてるようで苦しくないのかな?と個人的には思ってしまうんだよね
だってそう言う反応をするのが人間と言う生き物なんだもの
根源的な部分で見たらまた異なっているのかもしれないけど
人の心理的な働きと生物の根源的な部分ではない霊魂的な根源としての生命体として人を見る時の考え方や捉え方は全く別の見方をしないと余計苦しみそう
だって人であることには変わらないけど方向性がまるで違うから
人間と言う動物的な生き物としての側面と霊魂的な部分としての人間
それは混同せず別物として見ないと混乱するし生きづらさを生む要因になり兼ねない
確かに私たちは人間だけど
元々スピリチュアリティな存在が人として生きてるわけで
人間がスピリチュアルをやってるわけじゃないから
本質的な部分は神秘的な存在なんだけども
なにぶん今は肉体を持って人間として汎ゆることを忘れて生きてるわけですから
人間と言う生き物としての性質や働きと霊魂など根源的な存在としての性質や働きは全く別だから
一緒くたにするとわけわからなくなると思うんだよね
それにスピリチュアルは形を作るのが好きっぽいから尚更
形を設けてそれに当てはめて考える
頭に冠をつけて私この役をやるの!って感じで
それしか見えてないような所も一部見受けられるし
だから名前や行いだけが一人歩きして中身を伴わずになってることもあるし
何かにつけて条件だとか法則とか
縛りが多くて
範囲が狭く窮屈
箱の中にいるみたい
何度か書いてるけど
外枠があって
その中だけで楽しんでる
その中にいるとそれしか知ることができないからそれしか見えてないというよりそれしか見ることが出来ない
その中だけで広さを感じてるけど
その狭さを狭いと認識してない
決まり事も決まり事だと思ってない
それはそれが全てだから
そう言うものだとそう思い込んでる
だけど思い込んでるとすら思ってない
だけどそれが駄目だとか良くないってことではなく
それこそ、それが必要だからそうしているしそうなっているのだと思う
ただ私はスピリチュアルでは限界があると感じてるだけ
スピリチュアルでは行くことが出来ない領域があるなって感じてる
何故そう思うのかをこうして記録として残してるだけであって
そうしていることが悪いってわけじゃない
だから比較してるわけじゃない
だけどその中(スピリチュアルの中)だけの話だから
確かに可能性はあるけど
その中限定の可能性なんだよね
無限なようで
ある意味局所的な
その世界の中だけの無限
だから無限のようで有限みたいだなぁと
それがもったいなく思える
通説として伝え聞いてることが本当にそうなのかな?って
考える人はほぼいないし
いるかも知れないけど
いても少ない
寧ろ
そんなことを言ったら
逆に何言ってんの?って
非難囂々かも知れない
定説、通説を改めて見直してみたらどうだろう?と思って確かめるなんてほぼやらないからね
しかもほとんどの人は疑わない
そういうものだと信じてるしそうだと思ってる
物事を見直すってことは結局のところ疑うってことだし
それはある意味、自分が信じているものがもしかしたら、、、ってことにもなるので
キツイことでもある
やりたくたいよね
そんな自分が傷付きそうなことを
それに自らを否定してるようなものだから
だけど
スピリチュアルにはどうにも腑に落ちない部分が結構あって
どうにもそれだと、、、なことが多い気がしてる
その時はそのやり方で学んで来たとか
その時はそれが良かったとか
オブラートに包まれて話されているけど
本当にそう思っている?と私は疑問
もちろんそれ(そう言う学び)すらオーケーな世界なんで
それをやることは何ら問題はない
だけどやっぱりそれって本当に必須だったのかね?と私は疑問に思う
変な思い込みをさせてない?と思ってしまう
どうしてそんなことをする必要が?とか
他にも色々思ってしまうのだけど?
何が言いたいのかと言うと
聞いたことが本当かどうかなんて誰にもわからないし
再現性が取れないのなら
それにとらわれたり、そればかりを気にして動けなくなるよりも
気にせず好きにしても良いんじゃないのかなって
だってもしかしたらそんなの(思っているようなことなんて実は)ないかも知れないんだから
でもそれで上手く行ってる人は?と言う疑問にはそれが合ってる人もいればそうじゃない人もいる
言い方を変えるならその方法ややり方が使える人と使えない人
もっと違う言い方をするなら
使うことで上手く行く人と使わなくても上手く行く人
これはそれを使わない方が上手く行くとも言える
そこにとらわれる、そこだけを見る
そうやって何かの法則を信じ
その一つだけ見ててもそれしかないから
それだけになってしまう
でもこの世界は無限なのなら
その他のやり方があったって良いはずでしょう?
それにさっき書いたことで腑に落ちない人もいるかも知れないので付け足しとくけど
陰陽の世界なのなら
何かの法則を使うことで良くなる人もいれば使わない方が上手く行く人がいたっておかしくない
こうだと決め付けてそれだけを見て一点に集中してると
そこだけしか見てなくて、というよりそこだけしか見えないし見えてこない
そこしか見てないからね
それってなんかもったいなくない?
とも思ったりして
ちょっと視線をずらしたら
新しいやり方とか見つけられるかもしれないし
見つけたって良いと思うんだよね
従来の方法しかないとか
誰も決めてないのだから
それにそもそもみんな同じ人間じゃないのに
同じやり方で合わせようとしたり
統一しようとすること自体に無理がある
変わらないもの(変えられない法則)もあるかも知れないけど
なんか不自由でつまんないなぁって
スピリチュアルをよく分かってない私なんかは思っちゃう
楽しくないなってね
だから一人一人が自由に
誰かがそう言ってたからそうやるのではなく
そう言う方法もあるし
違う方法もあって
やりやすいように
もっと生きやすいように
自分でカスタマイズすれば良いのになぁって思っちゃうんだよね
エゴの話からぜーんぜん違う終わり方に(^_^;)
いつもこんな風になってしまう。。。(;´∀`)