誤解を解くか、、、
依存からの脱却ね、、、
これは
存在ありきの人間じゃない
自分の足で立って自分で歩く
自分の内側にあるもので
人間力、すでに自分に備わっているもの
いわゆる洞察力とか
観察力とか
考える力とか
そういう話
自分自身の中にある
何が正しくて何が悪いか
そういうものに基づいて判断する
だけどそれは正義感とかそういうことではなくて
道徳的な話
倫理観とか
そういう面での善悪の話
良心とは何かみたいな感じだろうか
何を良心と定義するのかにもよるけど
哲学みたいな感じにもなりそう?
一旦その哲学とか何を良心するとか
そういう話は置いとくとして
何を一番伝えたいかって言うと
人間の視点でもスピリチュアルの闇に気づくことが出来る
でもこれは光と闇の闇じゃない
問題点っていう意味での闇ね
でもってここに対立の意味は含んでない(他の部分にもないけど)
何か特別な力を用いて何かをするとか
何も存在からメッセージを受け取るだけが全てじゃないこと
自分自身の中にあるもの
本来は自分の中に持っているもの
それで判断できるし
それだけでも生きて行くことが十分できる
存在ありきの人間じゃないってことが言いたいってことなのだと思う
特別な何かに目を奪われてる場合じゃない
大切なのはそこじゃない
他人に何かを見つけ出しても
それはその人のものだし
同じようになれるわけではない
その現実はしっかり受け止める
憧れている場合じゃない
他者を見て
相手に何かを見つけようとしても
また相手と同じものを得ようとしても
あなたとその人は違う
同じになれるわけないし
同じになる必要がない
本当に自分自身が望むものは何なのか
自分が強く想うものは何なのか
そこを再度見直す必要があって
スピリチュアルに触れるのはどういう理由からか
どういう気持ちでそれに触れているのか
誰かの話を聞くときも
その人が何から発信してるのか
それはどういう心根からなのか
根底にあるものは?
どういう気持ちでそれを伝えているのか
そこにどんな意図がある
何を目的にそのように伝えているのか
そこがとても大切で重要になる
本当は目に見えない世界というものは
現実を変えたいからあるわけじゃない
目に見えない世界に触れることで確かに見えてくる世界は変わる
でも
目に見えない世界に触れたから変わるのではなくて
目に見えない世界に触れることで自分が変化するから変わるのだと思う
でもそれもただのきっかけにすぎない
自分自身の内側が変わるから
現実が変わってくる
それは捉え方や見え方や考え方とも言えるけど
そうではない部分でも変化しているのだと思う
現実が変化することに外側からの刺激も関係ないとは言えないけど
外側(現実)を変えるから自分自身が変わるのではないと思う
なんとなく私が思うことは
スピリチュアルのエネルギーが変わって現実が変わるこの話は
同じエネルギーでも外側ではなく
自分自身から放たれる、自分自身が持っているエネルギーの話をしてるんだと思う
でもなにぶんスピリチュアルについて疎いから詳しくは分からない
間違っているかもしれない
話を戻すけれど
外側の現実を変えようとして
外に自分を合わせて行っても
苦しい
おそらく順序が逆だから
自分自身の内側をよく見て
とにかく自分自身をよく知ること
そうすると勝手に外側に見えていたものが変わってくる
おそらく自分自身を整えるとはそういうことなのだと思う
そこには神社に行ったから
パワースポットに行ったから
スピリチュアル的な何かをしたから現実が変わった
そういうことではなく
自分自身に備わっているもの
元から自分が持っているもの
それによって変わっているのだと私は思う
全部自分自身から変えている
神様と繋がるから現実が良くなるんじゃない
神社に行くから現実が良くなるんじゃない
パワースポットに行ったから現実が良くなるんじゃない
全部自分自身の内側をよく見て整えたから外側に見えてくるものが変わってくる
それこそ自分自身が持っているエネルギーというものが変わることによる変化
そういうのをきっと引き寄せの法則とか宇宙の仕組みとかそういうのなんじゃないかな?
何度も言うけど詳しくは知らないよ
話を戻すけど
ただそれだけ
現実を良くするために神様がいるわけじゃない
パワースポットの神社もそのためにあるわけじゃない
存在はそのために存在しているわけじゃない
自分自身がこうなりたいからこうしたいからこの存在にお願いする
そういうことじゃないと思う
別に何のお願いをしなくても
私自身がこれをやりたいと思って邁進していれば勝手にサポートは入る
勝手に手伝ってくれる
あなたはそうしたいんだねって
じゃあそうなるように流れを作りましょうと
勝手にそういう風になって行く
だからこの神様がいないと何かできないとかそういうことはない
全部自分で決められるし、決めて行っていい
それなのに
なぜか逆なの
自分で決められるのに
神様に相談したり
神様の力がないと何もできない
そんな風に思っているように見えてしまう
だから神様に好かれようとして
神様が喜ぶ言葉とか
その周波数はありがとうという言葉が持ってるとか
恐ろしい数の感謝の気持ちを述べるとか
いつもいい気分でいるとか
そういうことに繋がっているんじゃないかなと
でもそれって本当にそうなのかな
そういうものがないと何かしてもらえない
それってものすごく条件付きだと思うんだけども?
そうしないと何もしてもらえない
そうじゃないと何かしてもらえる権利を有さないとか
なんかそういう風に見えて
私はとっても窮屈だなって思ってるし
なんでそんな決まり事が存在してるんだろうとか
ものすごく疑問
存在にお願いをしたり頼っちゃダメとかそういうことじゃないんだけど
ただその人自身はどこにいるのか
確かに自分で決めているし
自分の願いを発しているけれど
そのあり方で本当にいいのか
それで自分自身が本当に納得できるのか
何かを成し遂げたとしても満足するんだろうか
これは人間としてというよりも本質的な部分で
根源的な部分で本当に満足し納得し得るのかと
私には疑問
同じ嫌という気持ちでも
私はこうなりたくないからそうする
ということと
私はこうしたいからそうする
これは全く違うこと
書いてる意味伝わるだろうか
とりあえずこんな感じで綴ってみたけど
多分こういうことが言いたいんだと思う
でもきちんと正確に伝わるかは不明