自我ではない私が本質だみたいなところがあるけど
仮にそうだとして
じゃあその本質ってどういうもの?

真我とか言ったりするけど
真我がなんなのか
ここに何の意味を持たせているのか
どう言う意図で真我について話してるのか
それがすごく気になる
この(真我の)状態に自分を持って行こうとすること自体は素晴らしいことだと思う
でもこれは語弊があって
持って行くと言うより
その状態に戻るだけ
そもそも今は人として生きてるけど真我が本質ならばそれが本来の私たちであり
人でありながらその意識を思い出す、あるいは取り戻すと言うイメージがあるなぁ←ここの意識は意識的(自覚してそうする)にって意味
元々の姿は意識(意識体、エネルギー体とも)の状態
けれどそこ(真我を思い出してる途中)で自分の中から出てきたもの(観念や概念や感情等)をこれは真我じゃないとか、これはエゴ(自我)だとか
そう言ったことやものに気付くことは大切だけど
自分を自分でジャッジして自分責めやさっき書いたような真我が何たるか(と言う定義)に自分をはめ込むなどそういうことをやってる間は、多分きっと本質がなんなのか本当の意味で分かってないと思う←そのような意図はないけど上から目線に見えたり聞こえたら申し訳ない
本質の自分で生きているようで
実は本質の自分ではないと思う
それは誰かが思う本質や誰かの話を聞いて自分もそうなりたいと思ったとか他人の話す本質に自分を合わせているのかもしれない(?)
ここは正直なところ何とも言えないけれど
でも本質で生きるっていうのは理想があってそこを目指すのではないと私は思うよ
私にはこんな風に見えているの
本来の自分自身に戻るだけなのに
自分が思い描く本質や自分が思う本質に
今の自分を押し込めて
その中で生きようとしてる
そんな風に見える
本質っていう箱があって
その中に自分を入れてるまたは入れようとしてる
しかもその本質の箱の中には入れるものが決まってるの
【本質とはこう言うものだ】
【本質とはこうでなくてはならない】
【本質にはこれは入らない】
【これは本質に相応しくない】等
これは本質に入りそうなものorこれは本質ではなさそうなもの
そうやって自分の頭で考えて
どれが本質だろうか?と
自分(の行動や言動、考え等)と本質を見比べて本質という規格に合わせて生きてるような感じ
だから苦しくなるんだと思う
更には❝本質の私で生きる❞っていうラベリングを自分にして
本当はどんな自分だっていいはずなのに
本質の私じゃなきゃダメだと
そう思ってる時点で
本質の私じゃないと思うんだよね
本来の本質からはずれ始めてるのでは?と個人的には思ってる
そもそも
これは本質で、これは違うと本質に対してそういう見方をしてたら
それってさ
本質もあれば、本質ではないものもあるし、中には本質っぽく見えて実はそうじゃないものもあったり等そういうことになり兼ねない
だけど本質ってそういうことだっけ?
そうやって考えることも必要な時はあるかもしれないけれども
でもそれは本来の本質、つまり自分の真の姿と言えるのか?
そう思うとなんだか違う気がするんだ私は
その上、理想とする本質があって
その本質に自分を当てはめようとするから
窮屈で苦しくて全然心地よくない
その枠にはまろうとするから
とっても狭いところで息をしてるような
しかも❝本質で生きる❞って言うことをずっと言われて続けてるから無意識的にも本質で生きることをしないといけないと言われてるようにも思える
こんなに言われ続けてたらそういう錯覚に陥らなくもないよなぁと
誰もそういう意図で言ってないことは分かってるけどね
でもこういう感じを別の言葉に置き換えるなら
本質で生きると言うその在り方そのものが義務みたいな感じになってしまって
こうでなきゃダメだとか
こうあらなければならないみたいな感じになって
それこそ
どんどん元々の本質の状態と離れて行ってる気がしてならない
皆さんはどう思います?
調和っていうのもそう
大体どういう状態が調和かなんて
その人それぞれに違うわけで
誰かの調和に合わせるものじゃないでしょう?
❝これが調和なんです❞っていう状態なんて見せられるわけないじゃん?
だからね
「調和の意識を持つ」等ってよく聞くけど
何が調和なのかわからない
どういうものについて何を調和と感じるのか
共通認識として思い当たることはあるとは思うけど
それでも万人にその認識があるかどうかは分からない
調和、調和、調和って本当によく聞くけれど
どういう状態でもって調和なのか本当によくわからなくて
仮に目標とする調和の状態があったとしても
それってその人の中ではそれが調和なんだよね
だけど他の人からするとそれは調和なのか?っていうと調和かどうかは分からない
少し話が逸れてしまうけど
他人の中にある目標(調和)だから
その目標に対して他の人を巻き込むのは違うし
よく巻き込んで行くことってプラスの意味で語られたりするけど
でも巻き込むことは私は違うと思ってるの
誰かの何か(目的や目標)に(他者を)合わせるって言うのはそういう(人を巻き込むという)こと
これは存在の意図であっても同じ
人を巻き込むことと人に影響を与えることはまた別だから
何かの意図を持って人をいい意味でもそうじゃなくてもどうにかしようと思うのであればそれは巻き込むこと
だけど人の話を聞いて自分の心に響いて自分から変わっていこうと思うこと、これは影響を受けてるだけであって別に巻き込まれてるわけじゃない
そこは明確に全然違うと思う
誰かに引っ張られて自分を変えられてしまうのか、自分で自分を変えて行こうとするのか
それって大きな差があると思うんだ
それこそスピリチュアルの言葉を借りればエネルギーが全く違う
うまく説明できてないかもしれないけどこんな感じ
話を戻すけど
このことは❝平和❞と言う言葉にも言えること
何をもって平和とするのか
それもまた人それぞれに思っていることは全然違う
それぞれがそれぞれに思う平和のカタチがあって結局それに合うか合わないかで衝突してるような感じがするんだよね
その平和のカタチは認められない、この平和のカタチを認めてほしいとかそういう感じに見えちゃうんだよね
なんかどれも(平和や調和等)そんな感じに見えるの
それは物理世界においても精神世界においてもどっちも同じ
この言葉ってなにもスピリチュアル界隈だけでなく、よく言われるし、よく聞く(特に平和って言葉)けどその真意とは何なのか
それを知ることって正直に言うとかなり難しいよね
どういう意図でそういう言葉を使っているのか
心から本当に思っていることなのか
あるいは体裁を考えてその言葉を使っているだけなのか
その真意って何なのか
そういう言葉を使って巧みに人の心を扇動してるだけなのか
だから言葉によって人(存在)に踊らされないように
思考を止めずに
しっかり自分で考えて
一体何を伝えたいのかをよく観察したり精査する必要があるし
自分自身が本当のところ何を思っているのか
そこを知る必要もあると思う
自分で自分をよく知る
それに本質っていうのは
誰かから教わるものじゃない
また誰かが提示するものでもない
何故なら自分の中にあるものだから
他人の中にはない
元々の自分たちの状態はこんなだったよって伝える人はいるけど
それが本当だとしても
それでも言う
他人(その人)の中に本質はない
全部自分(私)の中にしかない
どんなことを相手が伝えてこようと
そしてそれが本当だったとしても
全部自分(私自身)の中にしかないもの
そしてそれは本質だけに限らず
他人がよく言う調和も同じ
調和というものは誰かが発するものじゃない
こういう状態が調和だよねって
誰かが決めるものじゃない
誰かが何かを言わずとも
本来の自分たちの状態(本質、真我)で生きてたら勝手に調和して行くものなんじゃないのかな
調和するのにはどうのとか
調和自体について何か決めれたことがあって
こういう状態が調和だって言わない限りは大体うまい具合に調和するんだと思う
それにそれぞれが自分の本質を知って
と言うより
自分の本質を思い出して
その本質で生き出すと
自然と不和はなくなる
スピリチュアルで言うような何か特殊なことをせずとも
本来の自分の状態を思い出すだけで
勝手に落ち着く
別に争うなんて思わないし
戦いたいとも思わない
全くそういう感覚にならないしそういう考えに至らない
そもそもその世界(本質の意識の世界)って
愛しかないから
人間の世界に広く知れ渡ってる愛とは違う
人の世に伝わっている愛って理屈っぽい感じがしていて
こうだからこうとか
なんか筋道立てて言ってるような感じで頭を使ってる感じ?
見返りを求める愛も無償の愛も感覚的に理解してるとは思うけど
それでも考えの中にあるような感じで
うまく言葉にするのができないけど愛の範囲が狭い
ものすごく限定的な感じ
しかも局所で局地的?に使われる感じもするのよ
一部分が愛でその他はまた別みたいな感じ?
理屈っぽいのはもしかしたら人に分かりやすく説明するのにはこうするしかなかったのかも?しれない
あるいは愛としか表現できなかった?
何を言ってるんだって言われちゃうかもしれないけど
その宇宙の神秘の説明できない部分を人の言葉にしたら愛としか言えなかった
でも人間が理解できる範囲の愛を超えているから
だから部分部分でしか理解ができてなくてこんな感じになってる?
でも実際のところどうなのかわからない
あとこんなこと書いてるけど私自身が理屈っぽい所があるのでそうなってしまう感じもわかる(^_^;)
どういうこと?ちゃんと説明してよ!って思ったりするから
なので理屈っぽくなるのはわかるんだけど
でも本質ってなんとなくそういう理屈じゃない感じがある
それに
正直、光と闇とか善とか悪とかそういうものとは無縁というか、、、
うーん、、、言葉を選ぶのが難しいけど
本質を思い出して本来の自分を知ると
そういう世界で生きなくなる
光と闇などの世界で生きようと思えば生きれるけど
その世界で生きなくても別にいいなら生きようとは思わないよね
だって対極の世界って疲れるし悩みも増える
結果としては最終的にどちらかになってしまう
食べるか食べないかとか
寝るか寝ないかとか
進むか進まないか
わかる、わからないとか
気づく、気づかないとか
そういう感じでね
そういうことからは逃れることはできない
これは二元性の世界とかそういうことは関係なくそうなっちゃうもの
けど二元性の世界はそう言うのだけじゃなくて
平和があるから争いが
争いがあるから平和が
こんな風に反対のものが存在する世界
本質ってこれ(二元性の世界)らを体験せず過ごせることを抜きにしても
やっぱり自分の本質できた方が断然いいよね
それはそうだよね
だって元々の自分で生きれるってすごくいいもんね
今の自分が偽物とかそういうことではなくて
今の自分としては変わらないんだけれどもでも変わる
うまく言えないけど
外側は何にも変わらないよ
自分の内側ではものすごく変化が起こる
それこそエネルギーが変わるって言った方がいいんじゃないのかなぁ
私はちょっとそういうのわかんないから何とも言えないけど
でも本質で生き始めたら
自然と調和に向かうその理由もわかるだろうし
この二元性とは別の視点で物事を見たり、二元性とは別の観点から世界を捉えることになるから
そうなるとその世界(二元性の世界)では生きなくなるよね
それはそうだよね
今(二元性)までにはない視点で見るからね
なので自然と争いもなくなるし
そういう世界から離れて行くから勝手に 周りから争い事がどんどんなくなってく
そもそも「調和しましょう」とか言わないと思う
だって言わなくたって勝手にそうなるんだもの
「平和な世界を」とかそういうことを言わなくても
本当に本質で生きればそんなこと言わなくたって勝手になる
勝手にそういう道に進んで行くから
でも裏を返せばそういうことだよね?
皆まで言わないけど
だからスピリチュアルってよくわからないってなるんだよなぁ
元々の私たちってそういうもの(二元性の存在)じゃないから
今の世みたいに争い事が云々とか、戦いが云々とか光だとか闇だとかそんなこと言わない
言う必要がない
だから正直神様が、高次元の存在がどうとか
そういうことじゃない
それらの存在について話してもなんかちょっとテイスト(話す中身や内容)がスピリチュアルとは違うんじゃないのかな?
私自身には何か特別な能力があるわけではないので
全部人の話を聞いてなんとなく自分が思ったこととか気づいたこととかそういうものを書いてるだけであって
これが正解だっていうわけではない
この二元性ではない世界観や意識の世界を私は体験したことがないからどんな感覚なのかは不明
でも話を聞く感じだと多分スピリチュアルとはまるで違うと思う
というかそもそも神様の話とかおそらく出てこないんじゃないかなぁと思ってるの
一元性ってよりも非二元って感じがしていて
人間と存在とか
そこら辺の話じゃなくなるし?
単純に真理を知って
こういうものなんだなっていう感じで終わりなんじゃないのかなぁと
だから何か特別なことがあるとか
特別なことをするとか
特別な存在がいるとか
この存在は尊いとか
人間は愚かだとか
そういう❝程度❞の話じゃないし
高次元とかそういう話でもなく
なんかね
そのままって感じなんだよね
全然うまく説明できないけど
本質って別になんか❝特別な❞ってことでもなく
❝そのまんま❞って感じなんだよ
(もうすでに理解してると思うから書く必要もないとは思うけど、そのままでいいとは書いてるけど怠惰とか堕落とは別です)
ただ自分として生きる
だから正直なところ
アセンション(次元上昇)がどうのこうのとか
覚醒がどうのこうのとか
よくわからない
それから2025年問題なんかもよくわかんないんだよね
だってそこを話されてもな
っていう、、、

だってそこは本質と関係ないじゃん?
これもスピリチュアル界隈では人間の意識の変容を促すために起こしてることだとか言ってる
そのために神々が起こしていることみたいな感じの
なんでそういう考えに至るのか
仮にそうだったとしても
何で神様中心なんだろうね?
人間の変容を促すっていう考え方や神がそうするっていう考え方自体を否定はしてない
そういう考え方を持つ人もいるんだろうなって思うから
ただ生きてるのは人間であって神ではないし
何で神の考えっていうかその意思ひとつで人間をどうにかできるんだみたいな
これは試練なんだぞと言わんばかりのことを言われたり、されなきゃならないのか
時に脅しにも聞こえてくる
この謎のお試し
私にとっては意味がわからない
私は自分で自分の人生を生きていくだけなんだけど
これだとなんか第三者が自分の人生に介入してきてるみたいで
あるいは介入できるんだと言われているようで
めっちゃ不快になるの
頼んでもないことするなって思ってしまうし
主軸はあくまでも自分であって神じゃないじゃん
なんでそういう何だかわからない見えない存在の怒りみたいなものに恐れなきゃいけないのか
どうしてこれは神の試練だとかそういうものに備えなきゃいけないのか
そもそも何でそういったものがあるって思わなきゃいけないの?
そんなの知りませんよ
私にとっては知ったこっちゃねぇ
神の審判が下るとか何それって感じじゃん
そもそも審判っていうこれそのものがもうすでに矛盾じゃん
皆まで言わないけどめちゃくちゃ矛盾してるじゃん
すでに色々おかしいんだよ
だから何がしたいのかがよくわからない
でも信じてる人がいるから
信じることを悪いとは思わないけど
あると思う人のところにはそういうものが存在してるんだろうね
私はそういうのまっぴらごめんだから
そういうのに付き合ってられないし
その世界で生きたい人はその世界に生きれば良いと思う
どうぞ存在たちと一緒に大いに盛り上がってください
でも私は別にそういうのに関わりたくないからその世界には行かない
じゃあ存在はいないのかっていう声が聞こえてきそうだから書いとく
存在はいると思う
いると思うけれど
この現実の世界は存在に動かしてもらってるわけではなくて
あくまでも何を選択して日々どういう風に生きるのかは私が決めてることであって
存在なんて知るかって私は思ってる
こうやって書くとね
何てひどいことを言ってるんだ!
失礼じゃないか!ってすっごい怒られそうだけど
しょうがなくない?
だってそう思っちゃうんだから
だから私個人的にはそこ(2025年問題)に意識を持っていく必要はないと思ってるので無視(笑)
そういう考え方を持ってる人もいるんだなくらいで終わり
もちろんどう思うかは好きにしていい
だから私も好きにしてる