本質も調和も


考えるとめんどいなって思う

例えば

何か自分の中から嫌な感情等が出てきた時

本質の自分を思い出すとかそういう感じの話よく聞くじゃん?

これ(嫌な感情)は本当は本質にはないものなんだみたいに

確かにそうなんだろうなと思うし

それはわかるんだけど

気をつけないといけないことがあって

本質の自分は確かに大事なの

でも

本質の自分にはないものを持っている今の自分と本質の自分を比べることは何か本来の在り方とは異なっていると個人的に思う

これは本質にはないものだ手放さなきゃとか

これは本質にないものだから持ってちゃいけないんだとか

どうしても人ってこういう風に考えがちじゃん?

でもそうなってくるとね

全部❝本質❞っていうものに自分を当てはめて考えるようになるの

本質の自分でいようと思う、本質の自分であろうとすること自体が悪いってことじゃない

でも(人から聞いたことや自分が思う)本質に(自分を)合わせる

それって苦しくない?

本質っていう型に自分を押し込んでるようにも感じるし

これは本質にないもの、これは本質にあるものみたいな感じでずっと照らし合わせてるような

本質と自分とを比較をし、評価をし始めたらしんどくなってしまう

それは❝本質❞って言葉だけでなく❝調和❞って言葉にも言える

調和してる状態を思い浮かべて

(自分の中で)理想とする調和に向かって進んでいく

その中で

この状態は調和じゃない、この状態は調和だみたいな感じで

どんどんこうやって何かにつけてそうかそうじゃないかで分類していくような感じになってしまったら

これまた苦しいし調和に囚われてしまってるような気がしてる

調和であることに執着心を持っているようにも思えてまるで逆の道を行ってるようにも思える

それにこれは調和でこれは違うって思って自分の行動をもしも決めているならそれは本来の調和の意味と若干違うと思うんだ

確かに意識することは大事だと思うよ?

でも調和も本質も本来はこれと言った決まりや形があるわけではない

❝こういう形のものです❞って見せられるものじゃないし

こうしなくちゃならないっていうものがない

もちろん全ての存在が安心して過ごせる世界が良いと言う気持ちが私にはあるし

調和した世界ってきっと和合した穏やかな心が温かくなる優しい世界を想像してると思うんだ

私もそれには大賛成だし素敵だと思う

だけどその理想の世界に自分を合わせるのはまた違う

最初はそれを足がかりとしても良いと思う

だけどきっと自然にそうなる状態がベストと言うかそれが本来の在り方なのでは?

❝本質で生きるんだ❞って意気込んで本質でいようとしなくても

元々の自分なのだから

本質でいようとすると言うよりは本質そのものだから

本当はそのままの状態でいいわけで

そのままって言うのは本来の我々の状態

つまりこの肉体の本来の持ち主である意識の私たち

人として生きる為に今は思考したり感情を持って過ごしてるけど

それらは人間に備わってるもので本来の私たちの姿である本質にはないもの、その状態がどんなか思い出せずともそれを認識するだけでも全然違うと思うんだ←個人的にね

本当に本来の本質の私であろうとするのなら

そこにはこうしなきゃならないとか

こうであるのが本質だとかそういう定義みたいなものはないと思うの

そもそも本質に自分を寄せて行こうとするその時点で何だか違う気がしない?って思ったりして

元々の自分ってそう言うの(こうであるべき、ああじゃなきゃダメ等)から離れてる存在じゃない?

そうやって本質の私はこうじゃないとか色んなことを思ったり考えたりしてたら疲れてしまうしだんだんと苦しくなって来てしまうと思うんだ

でも本質は私たち自身だから本来は苦しくなることなんてないはずなの

どうして本質であること、あろうとすることが苦になるのか

本質は何かに合わせるようなものじゃないから

それも無理して合わせていたとしたら余計に苦しくなると思う

そもそも元の自分なんだから

どうして❝こうしなくちゃならない❞っていうことになるのか

本当はそうはならないよね?

これ言ってる意味わかるだろうかえー?😅

説明が難しいんだけども💧

意味通じてる???

話を戻すけど

そんな風に悩んだり、苦しんだりする

そういうことが上にも書いたように本当は、いや本来はないはずなんだよね

何故なら本質の自分に戻るって別に何かを自分に付け加える必要はないし

ただ元々の自分を思い出すだけで

他にも何かを置いて行けとか、何かを捨てるとか

自分から引くのでも何かを足すのでもなく

ただただ自分に戻るだけ

だから本来の状態って自然体のまま

自然体なら何も悩むことって通常はないと思うんだ

ただ今の自分の中で色々思うことがあってその中から悩みが出てくるかもしれないけど

でもそれは人としての自分自身で

本来の状態に戻るのに人である自分の中から出てくる様々なことに向き合ってる証拠なんだと思う

そう言う自分の悩みはあれど

本当は本質で生きることに不安になる、焦るなどそういう感じにはならないと思うんだよね

なんかスピリチュアルの話とか、動き?みたいなのを見てると

頭で考えて結局どっちがそれかみたいな感じになっちゃってる所があるじゃん?

人と自分を比べてしまったり

自分の中から出てきたものをこれは本質かこれは本質じゃないかみたいな感じで分けてて

分けること自体を悪いって言ってるのではないし好きにしたらいいんだけど

そう言うことをひたすらやってると迷子になると思うんだ

だって自分で本質あるなしクイズを開催してジャッジメントしてるんだもの

こんな思いを持っている私は本質から離れているとか

そうやって基準みたいなものに合わせてたら本質を見失ってしまわない?

だって本質にこれと言った基準なんてないから

だけどスピリチュアルは何故かこう言う状態が良い、こう言う在り方を推奨するなど理想形を提示して来てそれに合わせて自分をカスタマイズしようとしてるようにしか見えないの

だから自分の本質がよくわからなくなるのではないのかと

そして分からない自分自身を責める

人って色んな側面があるからどれが私なんだろう?とか

何が私なんだろう?と

そうやって自分のことなのに自分がわからなくなってしまう

なんかそういうのが多いなっていう感じ

そうやって悩む中で自分なりの答えを探すのも大切なことではあるけど

あまりにも迷わせるようなのが多いような?

それに自分で探すと言うより誰かに見つけてもらおうとしたり、誰か(人だけでなく存在も含め)の中に答えを見つけ出そうとしてる人が何故か多い

こう言う状態になってしまってるのも疑問

なんでこんなことに?

そもそも本来の私たちの本質、つまり元の姿や状態とは意識であって形ないもの

上手く書けないけど

スピリチュアルで言う本質

それってどういうものを本質にしてるのかがよくわからない

何を、あるいはどういう状態をそう呼ぶの?