スピリチュアルの自立と自律

存在に頼るなってわけじゃないけど

存在のサポートがなくったって問題ないくらいに

自分で考えて自分で行動する

それでも存在のサポートはあるだろうけど

あてにしない

存在からの独立

そのくらいの気持ちでいないとなぁ

そうじゃないと

いつまでも人間は存在ありきになってしまうおそれ

存在も存在で人間には存在のサポートがないとダメだって思ってしまうかもしれないよね

そんな過保護にしなくたって

人間は

か弱くない

自分の足で立って自分の足で歩ける

きちんと自分で考えて行動することができる

だから大丈夫だよって存在に

行動でもって示す

もう大丈夫だから

存在は存在で自分たちのことに注力してもらう

それでも存在と人とで協力し合わないとダメな時は協力すればいいと思うし

これが個人的には健康的な存在と人との関係性のあり方だと思っている

今のままだと

全部が全部そうだとは言わないけど

結果としては互いに共依存の関係になり兼ねないなって個人的には思っていて

そういう傾向は私も含めて誰にでもあると思ってる

やっぱり神頼みって言葉があるように

人間って

もうどうにもできない時に

どうしても見えないものにすがりたくなる時もあるじゃない?

これはそういうものの延長線上に生じたものだと思うんだ←なんとなくね

でもそのあり方っていうのは時と場合や状況にもよるし

すがりたくなる気持ちは誰しも持ってるものであって

人間だったらこういう風に思ってしまう事って自然と発生するものなんじゃないのかなぁと

でも本当はその中には自分で解決できることもあるはずなんだと思うんだ

だけど自分で解決できることもついお願いしてしまう

それには様々なパターンがあると思うけどもそうなってしまう傾向がある気がするの

それは存在のせいと言うわけではないけども

ただ太古の昔からの地球人と宇宙存在を含めた神々と呼ばれる存在たちとの関係性は気をつけないと割と依存的な形になりがちな気がするのね

それは神様だけじゃなくて神様の言葉をおろす人に対しても人は依存する傾向があって

それは今でも同じ

見えないからこそ余計にそうなってしまいがち?

詳しいことは分からないけどね

そうなる原因の一つとしては

昔からの名残りというか

誰かが話す言葉をそのまま鵜呑みにするとこ

鵜呑みにするから考えるのをやめて

その人についていけば間違いないとか

その人の話していることを真に受けて自分で考えなくなる

どうして鵜呑みにしてしまうのか

その原因っていうものが何なのかわからないけど

考えるとするなら神様が絶対に間違うことなく、自分たちのことを助けてくれる存在だと思ってるからじゃないのかな?って

その絶対である神様が言う言葉をおろして話しているその人自身も絶対だと

よくわからない信頼がある?

これが原因なんじゃないかと思っていて

すごい昔から

これは日本に限らず地球上のどこを見てもそう

天から言葉をもらう、おろす人がいて

その言葉を伝える人がいる

その言葉を聞く者たちがいて

地上で人が生活を営みながら

何か困ったら天に聞く

天からの答えを仰ぐ

言葉が下ろされる

その言葉を伝える

そのように動く

こういうことが繰り返されてた

これ自体には問題はないの

ただのやり取りだから

困ったら人に尋ねることやアドバイスをもらうって普通のことだし

それは人間同士でも普通にやること

問題はそれに従っていればいいと言う考え方

その指示を出している存在が何にも間違ってなくて正しいっていう思い込み

これは存在に対しても言えるし人間に対しても言えること

すごく悪意的に見えちゃったら申し訳ないんだけど

そういう意図はないです

ないけどそう見えたらごめんね

存在の方が人間が我々存在の言うことを聞いていればそれでいい

もしそういうことを思っているのであればそれは違うし

中には人間を思うようにコントロールしたいなんて思う存在がいてもおかしくはない

※もちろん全ての存在がそうというわけではない

人間は人間で神様のお告げに従って動いていれば良いように行くぞと安直に考えてしまう

だって神様のお言葉なんだから間違いはない!

そう思いたくなる気持ちはわからなくもない

だって神秘的だもんね

そんな神秘的な存在が我々人間みたいな愚かな行いをするなんてそんなことあるわけないよ

そう思ってしまうのもしょうがないのかも?

アドバイスを聞き入れて行動すること自体は問題はないんだけど

でも言うことをよく考えもせず

言われるまま

それを信じ込んでその通りに動き考える力を失った

それこそ盲信して

人間全員が全員そうというわけではないけど

神様が言うことが絶対で正しい

それがよくわからないの私にはね

なんで神様は間違うことがないのか

どうして絶対的な正しさを持っているのか

どこにその根拠があるのか

信じるに値するだけの何かが存在たちにある?

じゃあその❝何か❞って何だろうね

私には正直に言って私にはないです

私自身は存在たちに対して

存在たちだって間違う時は間違うでしょう

おかしな判断を下すことだってあるでしょう

完璧だなんてそんなことないでしょう

そんなことを常に思っている

ただこういうことを言うと神への冒涜って言われてしまうかもしれない

だけど寧ろどうして完璧だと思うんだろう?

逆にそれが不自然なように私は思ってしまう

それに神様の言葉を伝える人を盲信するのもわからない

ただ伝えてるだけなのに何故?

同じ人間なのにどうしてそうやって崇める形になる?

今だってそう

YouTubeとかそういう媒体で発信している人の話を聞いて

あなたについて行くとか

〇〇様とか

同じ人間なのになんで様付けとかしてるのかわからない

敬意を込めているから?

失礼のないように?

でももしもそうなのなら

それって誰しもそうだよね

神様の言葉を伝える人とか関係なく誰にでも敬意は払うものだよね?

だけど私にはなんだかそういう感じにあんまり思えなくて

自分よりも立場が上人みたいな状態になっちゃってるような?

品位とかそういう心の気高さみたいなものから自分をへりくだるような感じになってしまうのかもしれない?

あと確かにやってることとか、話している内容とかすごいのかもしれない

でも同じ人間だけども?

スピリチュアルの発信をしてる人に対して〇〇先生とか

それも個人的にはよくわかってない

だって別に教師でもなんでもないじゃん

だけど教えてくれているから先生って呼んでも確かに間違いはないと思う

それに好きに呼んだらいいとは思うんだけど

ごめんね、本当にこれは申し訳ないんだけど

何をその言葉に含めて話してるのかな?って思っちゃうの

憧れ?それとも特別ななにか?

単に教えてもらっているから先生と呼ぶならまだわかるんだけど

もしもこの人はすごい!、素晴らしい!、この人の話は本当だ!、本物だ!、特別な人だ!とか

確かに自分とは違うんだけど

自分とは違う何か特別なものを感じてそう呼ぶのであれば

そうやって特別視するからどんどん歪んで行くんじゃないのかな?

そういう意味合いを込めて呼ぶ❝先生❞ってなんか違う気がするんだよ

なんだコイツむかつきって思うかもしれないけどでも本当にそう思う

これは私自身にも言えることだから自分にも言ってます

続きを書いて行くけど

そのあり方って本当にそれでいいのかな?

さっきの話じゃないけど

あなたについて行くっておかしくない?

何で自分の人生なのに誰かについて行くの?

それは本当に必要なことなの?

寧ろなんで誰かに引っ張って行ってもらおうと思ってるの?

誰を生きているの?

誰を生きたいわけ?

その人はその人

あなたはあなた

私は私

それぞれ別の人間

どうして誰かの後ろをついて歩こうとするの?

どうして誰かのあとを辿ろうとするの?

逆に問うけど

同じ人間じゃないのにどうして同じようにできると思うのだろうか

同じ道を辿れば同じようなことになる、同じ経験をする、そんなことあるわけないじゃん

似たようなことはあるかもしれないけど

全く同じではないはずだよ?

だってそれはその人の人生なんだもの

誰かになろうとしたってなれるわけがない

完全一致するわけないじゃん

だってあなたはあなた

私は私

その人はその人なんだもの

自分が自分の人生を歩まないでどうするの?

それってある意味自分に対して失礼じゃないの?

どうして自分自身のことをもっときちんと見てあげないの?

そうやって誰かからの話を聞いて

自分で考えないで鵜呑みにする

自分で考えられるはずなのにそれを蔑ろにして誰かに頼ろうとするから

どんどんずれて行くし

歪んで行くと私は思うわけ

だからこれは良くないんじゃないのかなぁ

本当にこのいうあり方でいいのだろうか

今一度自分に問いかける必要があるのではないかと私は思うの

私自身にも言っているけれど

何コイツムキーってムカついてる人もいるかもしれない

そう言う意図は全くないんだけど気分を悪くさせたらごめんなさいねm(_ _)m

でも本当にそう思うのだから仕方がないじゃん

私は別にスピリチュアルや神様アンチではないんだけど

正直、巫女の魂を持って生まれて来た人なんていなきゃ良いのになって思ってる

だって巫女がいる理由は人間が本質で生きていないからいるんでしょう?

本質で生きることを伝えるためにいると思ってる←きっとそれ以外の理由もあると思うけど、なんとなく主(おも)に人が自分らしく生きれるようにってことでいるんじゃないのかなぁって思ってる(なんとなく思ってることだから違ってるかもしれないけどね)

しかも巫病を乗り越えて

私はこの巫病というのが本当にね

最悪だなって思ってて

このシステム作った人誰?って思ってんの

巫病とかカミダーリと言ったりするこれ好きじゃないんだよ

誰もお前の話なんか聞いてないよって思うだろうけど

あんまりだよなぁって思っちゃうの

だって私、巫女の魂を持った人が巫女として目覚めるために苦しむなんて嫌だもの

そういう役目とか、その人自身が選んで来たと聞かされても

やっぱり気持ちのよいものではないし

精神的におかしくなってしまったり

原因不明の体調不良になったり

最悪命を落とすとか

何それ😰って思っちゃうよね

なんでそんなことに?

どうして?って

普通に思わない?

そういうもんだからしょうがないってなるもの?

個人的にはこんな風に苦しまなくてもいいようになっててほしいと思ってるの

だってそういう状態を見てるわけではないけど

話を聞く限りすごい 苦しいって言うし

そういう状態になってるなんて嫌だもん

やっぱり誰かが苦しんでる様とか嫌じゃない?

だからさ

このシャーマンや巫女、他にもあるのかわかんないけど、こういう方々特有の特殊な病

病って言ってるけど病気とはまたちょっと違うもんね?

これがね、本当になくなればいいと思ってる

ちなみに私は巫女でも何でもないただの一般人です

スピリチュアルについても本当に何にもわかってない

だけどなんかスピリチュアルのことを知ることになって、いろんな話を聞きながら勝手に思ったことを書いてるだけ

だからとんちんかんな的外れなことを書いてたりとか、意味不明だったりするかもしれない🙏💦

話を戻すけど

スピリチュアルの話を聞くと

まるで自分には関係ないような感覚に陥りがちじゃない?

だって目に見えない領域の話だからね

生きてる自分には関係ない

見えない世界のことだからこういうのがわかる人たちだけのもの

そんな風に思ってる人が多いんじゃないのかなって思うの

だけど他人事だと思わないで本当に自分のこととして考えて自分を生きること

自分のことをよく知って

自分が思っていることが何なのか

私はどうしたいのか

そういうことと真剣に向き合って生きる人が増えたら

こんな風に苦しい思いをしてまで巫女として生まれてくる人が減る

でもどうして自分のこととして考えられよう?って思うだろうね

だってどう考えたって目に見えないし自分には関係ないようにしか思えない

それがどうして自分たちの生活とかに関係してくるのかなんて

これっぽっちもわからない

感じようと思っても感じられない世界だし

どう考えたって身近なもののように思えない

そう思う人の方が多数だと思う

たとえ話で自分の感情なんて見えないでしょ?

空気を読めって言われたってその空気を読んでる自分の感覚、察すること

これだって見せられるのか?って言われてもコレって見せられないでしょう?

だから意外と身近にあるんだよっていう例えもできるんだけど

そういうことじゃないんだよね

こういうことも含んでるけれどもこういうことを言いたいわけじゃない

こうやって見えないものを身近に感じるっていうことは大事だけど

大事なのはそういうことではない

見えない世界があるっていうことを知るっていうことは大事だけど

一番大事なのは本当にあなたらしく生きるということなの

こんな風に見えないものが近くにあるんだから

見えない世界は本当にあるんだよとか

そういうところじゃなくて

本当に大事なのは自分を知ること

自分を知るって言っても

これは言葉にするのが難しいんだけど

私が何が好きとか私は何がしたいとか

自分を知るってそういうことでもあるの

でも本当に自分を知るっていうことは

自分の本質を思い出すことを指していて

その本質を思い出すことの一つとして自分を知るために

私って何が好きとか、自分が何がしたいんだろうとか

そういうことから入ってくような感じがするんだよね

ここってすごく説明するのが難解で

同じことを説明しても視点の高さで見てることがまるで違うの

捉え方も全然違うの

同じ言葉なのに全然違う言葉の受け取り方をするの

それはその人の人間としての経験値もあるんだけど

それだけじゃなくて

うまく説明できないんだけどさ

人の感覚で言うなら深い洞察力とか

そういうのにも近いような感じ

精神世界のことを知るにしても

捉え方を間違えると全然違う方へ行ってしまう

それがね

厄介だなって思ってる

さっきの巫女の話に戻すけど

この巫女の仕事をしてる人達って

役目って言ってることが多いけど

つまり自分が望んでやっていることですよってこと

だから誰かのせいにしてるわけではないの

だけどこれはすごく悲しいことでもあると思うの

悲しいって言ってしまっていいのか悩むところではあるんだけど

でもその役割を持つということは

裏を返せば人間たちが自分自身を生きていないっていうことの表れでもあって

本質で生きられてる人が少ないっていうことの証明でもある

だからそれを促すためにいるってことでしょう?

なんでそうなっちゃった(自分自身を生きることができなくなったこと)のかなんて

私には正直なところわからないよ?

(こんなこと書いてるけれど私だって自分自身をちゃんと生きているか?と言われたら何とも言えないし

自分にも自信がないのに偉そうなことは言えないけど

でも気になってたから書いた)

分からないけれど

誰かについて行けば良いとか

この人の話を信じていれば大丈夫だとか

この神様を信仰してれば平気だとか

本質を生きるって

そういうことじゃないじゃん?

でもきっとね

そうじゃないってことを本当は分かってるんじゃないのかなぁって思ってるの

でもそうやってつい誰かに頼ってしまう部分がまだ残っている?

それは今まで人間が歩んできた歴史が存在からの指示通りに動くことが多かったからその名残かもしれないなって思ったりもしていて

いつでもどこでもそうだとは思わないけど

古代〇〇とか〇〇帝国とかそういう時代の宗教観とか見ると

結構首を傾げるような要求を神々がしてたりするじゃん?

それをそのまま実行に移すっていうそれがね

私にはよくわからない

日本でもそういうのあるじゃん

あまりにも水害が多いから水神がお怒りになって〜とか

そういうのに生贄を捧げるとか

マジで意味不明じゃん

正直本当にそういう存在がいたとしても

〇〇する代わりに☓☓しろとか

対価を要求してくる

それって本当に神聖な存在なんだろうか

しかも人の命を捧げるとか意味がよくわからないよね

そういうところまで頭が回らないというか

それこそ本当に存在ありきみたいな感じになっちゃってるから

村の存続のためとかさ

この国の繁栄のためとか

いろんな理由をつけて正当化して実行に移す

そうやってなんだかよくわからない存在の言う通りに動いてた

もしもそういうことが長いこと渡って続いていて人のDNAの中に染み込んじゃってる

刻み込まれてるとも?

もしそそういうなら

それはもうやめにしない?

それも正直に言うと

全部他人任せなんだよね

何かをやってもらうために対価を渡す

そういう存在と人の関係性っていうのもなんか変だし

それが普通に人が行うような仕事だったらまだわかるけど

贄を要求するとか

個人的には意味がわからん

それに

誰かが何かを全部やってくれるなんてあるわけないでしょ←

自分の人生なんだよ?

助けてくれることはあるかもしれないけど

だけど毎回助けてもらってるのであれば自分の学びにならないよ?←

助けてもらえることって当たり前じゃないしね←

※←の部分は書いてて思ったの自分の毒家族みたいだなって既視感があったから


これはスピリチュアルに限ったことではないけど

なんで自分の人生を他者に委ねるんだろう?

どうして誰かが何かをしてくれるって思うのだろう?

自分のことなのにね

そもそも逆に自分自身が他人の人生をどうにかしたいって思う?

あの人の人生はこうすると良くなるからこうしてあげようとか思う?

(手や口出しすることとうまくいきますようになどの祈りや相談されてアドバイスをすることとは違うからね?)

多分思う人ってほとんどいないと思うんだよね

もしもいたとしたら誰かのためじゃないと思う

親の敷いたレールとかまさにその典型だと個人的には思っていて

それは本当に子供のためを思って言ってるのか?

親の自分勝手な思いを子供にぶつけてるだけではなく?

本当に子供と話し合って決めたこと?

子供に無理やりやらせてない?

本人が心からそれを望んでいるの?

子供がその道に進むこととかは親に気を使ってそれをやってるわけではなく?

本当に本人の意思なの?

本人も本当にそれがやりたいの?

家族だからと言って縛っていいものじゃないし

子供は親のおもちゃじゃありません

親の道具でもないし

反対に親も子供の道具じゃないし

都合のいい存在でもない

親の願いを叶えるためにいるわけではない

身内じゃなく赤の他人で誰かの人生についてあれこれと口出してくる人がいるのだとすれば

それは本当に善意かどうかをよく見極めないとなんない

自分の都合よく誰かを動かそうと思ってるかもしれないし

誰かを助けたいって思うことと誰かの人生をどうにかしようっていうのはまた別←意味伝わってるだろうか、、、

その助けがその人の人生を大きく変えるということはあるとは思うけど

それでも助けた本人はその人の人生がこの先どうなるのかとかそういうところまでは考えてないと思うんだ

そんなことを考えて行動している人がいたら

逆にすごいっていうかびっくりするし?

なんでこの先どうなるのかわからないのにそんなことを考えて動いてるんだろう?とかいろんな疑問が湧いてくる

とにかくこれは私も含めて

きちんと自分で自分の生(せい)を全うする

それで十分だと私は思う

スピリチュアルではいろんなことが言われてるけど

結局人間として生まれて人間として死ぬわけで

その間に自分がどれだけ悔いのない生き方をしたのか

自分の人生を終了する間際に満足いく人生だったのか

それとも後悔が残っているのか

そこだけだと思うの

もう次の日、あるいは次の瞬間に

自分の人生が終了するとしたら

悔いはないか

ああしてればよかったとか

こうしていればよかったって思うのであれば

そういう風に思う気持ちが少なくなるように

あるいはそう思わなくなるように

悔いのない生き方をする

後悔しない選択をして

きちんと自分で自分を生きる

本当にそれだけだと思うの

目に見えない世界のことをあれこれ言ったりしてるけど

大事なのはそこなんじゃないのかな

もちろんいろんな人がいて、いろんな目的を持ってる、いろんな役割もあるだろうし

でもどんな役目とか役割とか使命や天命があろうとなかろうとだろうと

結局後悔のないように生きるっていうところに戻ってくると思うんだ←私はね

だから難しく考えずに

ただ悔いのないように生きるそれだけで私は十分だと思う

何か別に特別なことをするとか

そういうのに価値を見出すのではなく

それは語弊があるかもしれないけど

オプションやオマケみたいなものだと私は思ってる←個人的に思ってることだから深く考えないでください

でも中にはそれをメインとしてる人もいるから

オプションとは違う人もいると思うけど

それは人それぞれに生き方は違うから何とも言えない

でも共通してることと言えば

なるべく後悔の少ない人生を

やり残しのないように

人間を生き切ること

それで十分なんじゃないのかなぁ

生き切ることが難しい世の中になってるからね

どんな最期を迎えるにしても

それでもやっぱり悔いのないようにする

そのくらいしか浮かばないよね

同じ言葉の繰り返しになっちゃう

出てくる言葉がそれしかない

とにかく私は人と存在の関係性

ここをどうにかしないとなとは思ってる

それと同じことが人間同士にも起きてる

スピリチュアルリーダーについていけば問題ないよねとかそういう感じのね

もちろん全員が全員そうだとは限らないけどね

それも見直さなくちゃならないよなぁって

そのために自立と自律が必要だなって

そしてこれからの時代は

まさに自立と自律の個の時代

まずは自分を内観してもらって

自分自身を知る

きっとそれが大事なんだろうなぁ



これからはきっと

こういう目に見えない領域のことがもっと身近に感じられるようになる?んじゃないのかなぁ←なんてことを思っている

だけど何がそれに繋がるのかはわからないけど←きっかけが何かわからないってことね

何かをきっかけにして見えない世界に触れ始めたら

そこから先はその人自身が

もう好きに進めて学びを広げてくんじゃないのかなぁって

だから誰かから教わるとかじゃなくて

自分で勝手にどんどん知っていくっていうような感じ?

必要とあれば

勝手に様々なことに気づいていくと思うの

真理についても同様に

めちゃくちゃ上から目線に聞こえたらごめんね(上に書いたものもこれから書くものも含めて)

そういう意図はないんだけど

スピリチュアル自体は精神世界の話をしているから現実とかけ離れているように見えるけど

よく見聞きすればスピリチュアルがどれだけ現実的かっていうことがわかると思うんだ

スピリチュアルの世界を知った後はスピリチュアルから抜ける

その中にとどまらない

だってスピリチュアルでは限界があるし

やっぱり偏りがあるように思うの←個人的にそう思ってる

それこそ人の数だけ真実があるっていう状態で

まるで一貫性がないの

全部バラバラでなんだかよくわからないから余計に混乱させる←私はそのように捉えてる

だからこそ自分で考えなければならないんだけれどね

でも真理の世界の真実はひとつしかないから

話す人の内容はバラバラだったとしても根底にある考え方は変わらず一緒で一貫しているはずなの

だってひとつしかないからね

だけどスピリチュアルは人の数だけ真実があって

人の数だけのスピリチュアルがあるから

何が真実なのかわからない

なので他人の中には真実はなく自分の中にしか真実はないと言われているのだと思う

こんなことを書いているけど

私は今、(精神世界を)考察して話してるだけだから

これは自分の実体験ではないので実際どうなのかなんてわからない

誰かの体験談を又聞いて

いろんな人の話をまとめての考え(考察)

ただ精神世界を考察するってある意味

ものすごく3次元(人の世界、物理世界)的かもしれないよね

感覚も使ってる部分はあるけど

この話って本当かな?って考える時に自分の中にある感覚みたいなものを使ってると思うんだ

違和感を感じるとかそういうのだと思う

私は違和感を感じたら何で違和感を感じたのかを掘り下げて行って最終的に❝自分がどう思っているのか❞ここに行き着くから

その違和感そのものが多分感覚なんじゃないのかなと

だって違和感があるっていうことは自分の中にある何かが判断基準になってるんだと思うの

それが何なのかって言われてもうまく説明できないんだけどね

でも何らかの基準がない限り違和感って出てこないじゃん?

私自身には何でそう思うのかっていう記憶はないけど

多分そうではないってことを知っているってから違和感を感じるってことでしょう?

だけど基本的には感覚よりも頭の方を使ってる(笑)

思考をフル活用😂

でも私自身頭は良くないの

頭脳的なもので言うと勉強は全然できないし

0点とか赤点とかよく取ってて補講とか補習とか受けてたくらい成績も良くなかった😅

学校の先生にもよく質問しに行ってたけど教えてもらってもすぐ忘れてまた解けなくなる

それの繰り返し(^_^;)

だから頭がいいわけじゃないんですよねぇ(;´∀`)

だけど考えることはできる

それだけ

知的な感じに捉えてる人がいたら気のせい、森の精、妖精(笑)

こんな感じの終わり方になったけど

とにかくよく考えることとか

自分のことをよく知るとか

鵜呑みにすることはなし

神様だとか存在だからと言って何でも信じ込まない

誰かを崇拝するとかそういうことではなく

自分で自分をよく見る

その崇拝している誰かが自分を引っ張ってくれるんだじゃなくて

自分が自分で自分を引っ張る

誰かに預けるのではなくて自分が動かす

時に運を手に委ねることだって必要にもなる

そういうことも確かにあるけど

それでもやれることはやる

どっちへ転んでも

どんな道に進んでも

悔いのないようにする

それには他人じゃなくて自分が必要

だって自分のことだから

自分で何もせずに変わるわけないから

もううまくまとまんないからとりあえずこれで終わります