世の中の大半のスピリチュアルは毒。


人の娯楽と飾りと見世物になったスピリチュアル。


そういうスピリチュアルは余計に惑わせ混乱させる。


とても良いことを伝えているように見せてどんどん本質から遠ざかる。


自分で考えることをしなくなる。


自分が感じたことを得た知識でもって否定させる。


自分で自分を見定めて知識に今の自分を当てはめて比較する。


常にそう。


これが出来ていなければならない。


これに当てはまっていなければならない。


なんのチェックなのだろう?


いつまで経ってもやめない。


ずっと同じことを延々と続ける。


そしてこれは言葉の綾かも知れないけど。


ハイヤーセルフ(ハイアーセルフ)、魂、本質の自分で生きると言う言葉を使う時。


もっと説明が必要になる。


そのように私は思う。


話を聞いてみると。


人間の私とハイヤーセルフ(ハイアーセルフ)または魂、或いは本質の私と捉える。


私もかつてはそのように捉えていた時もあったけど。


でもよくよく考えてみたら実際はそうではないでしょう?


何故、人として生きている私とハイヤーセルフ(ハイアーセルフ)、魂、本質の私というように2つあるようにするのだろう。


もしそうなってしまったら。


人として生きている私は何なの?と。


どちらも本物だけど。


片方が幻想で作り物だと言いたいわけ?


見方によってはそんな風にも思えてしまう。


人間をやっていたって既に私たちは本質なの。


だけど本質で生きれてないことが多い。


本質が難しく思うなら本音や本心とも言える。


人との関係の中で常に気配りし使う言葉を選び振る舞いを選ぶ。


自分が思う通りにしないことで上手く行ったり、どこかに所属していればそこの規則に従わないとならない。


その中には納得出来ることもあれば理不尽に思うこともある。


そう言うことが度々、常々、多々ある世界でそれがごく自然で当たり前になっている世界だから。


そこに対して疑問に思わない。


けれども現状、いつでも自分らしく生きれない世の中になってしまっている。


それを繰り返すことによってそれが恒常的になるとそれに慣れてしまう。


そうやって徐々に自分というものが分からなくなって、自分を見失ってしまう。


気付いた時には何が原因でこんなにも苦しいのか分からない。


でもそれだとツライのは当たり前。


そりゃあそうだよ。


だってずっと自分の気持ちを無下にして生きているから。


誰かの気持ちを汲む中で自分の気持ちを蔑ろにしてるの。


今現在のこの世界は残念なことに片方を生かすことばかり。


話を戻すけども私ではない私を生きていたらそれは苦しくて仕方ないのは当然で。


だから自分を思い出す必要がある。


私ってどんなだったっけ?


何が好きで、何が嫌だっけ?って。


それだけで良いんだよ。


高次元の私(ハイヤーセルフ/ハイアーセルフ)として生きるとか、魂の私として生きるとか、本質の私として生きるとか。


私と本質は別じゃないから。


私はそのように考えている。


余談だけど。


スピリチュアルは好きなものに着目することが多い。


そしてネガティブなものは排除しようとする意味で着目する傾向がある。


それの是非についてはそれぞれの考え方があるから何とも言えないけど。


嫌いなものを見直すことで好きなものが見えて来る。


だから好きだけじゃなくて嫌いと言う気持ちも私はとても大事だと思う。


以上。