これは何年か前(令和4年4月)に夢の中で言われたもの。
何日も闇に関係する夢を見ていて。
その当時のメモの一部を載せています。
当時のものなので今読み返すと今の私が気になる点もあったりしますが、今の私の見解を入れるとわけが分からなくなるのでやめておきます。※これもいずれ書けたら良いな。
闇は怖いものではない。
闇と光は等しく存在し同じである。
何故闇を怖がる。
いつからか夜闇に潜むもの、棲むものを悪とする見方が生まれたが夜しか活動出来ぬ生き物や闇夜しか咲かぬ花もある。
それは知っているであろう?
光は何故か正しさ、良いものであるように思われ、闇は悪しきもの、邪なものとして扱われる。
しかし光は強ければ強いほど闇、すなわち、人類が言う所の“悪”を隠す。
沢山の光を当てると影が消え去るように。
これは光にも言えるが、暗闇や暗黒、夜は“悪”ではない。
ただそこに“在る”だけ。
いくら闇を否定しててもそれは消えずにそこにいる。
本質を見ないままでどうする?
光が“善”で“正義”とは“誰”が決めた?
光と闇は二つで一つ。
どちらもなければどちらも存在は出来ぬ。
闇が悪とするなら。
光があるから闇が存在し闇の存在を持って光は光と認知され、その存在を確立することが出来よう?
したがって本当に闇が悪ならば光にすら悪が存在する事を人間は理解しなければならない。
ならば反対に闇の中にも善はある事を知らねばならない。
そもそも本来は善も悪もただの状態であり、光と闇には関係のないもの。
ただ黒と白、朝や昼間、夕方や夜と言ったように分け、隔たりを作ったのは人である。
そして善なるもの、悪なるものは人の“心の在り方”であり、真の闇とは無縁の状態。
本来のそれと同義ではないことを分かってもらいたい。
確かに闇に入り混じるのは光よりも容易いが(簡単に隠れるし隠せるから)、
闇は全ての生きとし生けるものを脅(おびや)かすものではない。
寧ろ光と同様に皆を包む“愛の1つ”であると言う事を。
闇は優しく等しくその場にそよぐ風に似ている。
見えるものが全てではない。
その目は一体何を捉えている。
何を信じている。
闇から光へ光から闇へ。
思ったよりも簡単に。
案外立場はすぐに変わるもの。
光と闇は常に表裏一体で、(光と闇)どちらの中にも光と闇は存在し、どちらかが欠けたらどちらも存在出来ない。
バランスを保ちそれはそれらで存在している。
闇は怖くない。
雨と似ている。
疎まれるがないと困るもの。
片方の視点から見ると不要にも見え、恐ろしくも暗く底深く続くようなものに感じる。
けれど闇は光と表裏一体。
光ある場所にこそ闇はあり。
闇があるから光が見える。
人は何故雨を疎む。
晴ればかりを見る。
止まない雨はないと言うが雨があるから生きられるのだろう?
雨は悪者ではない。
雨があるから作物は育ち水は循環する。
朝があり昼が来る、昼を過ぎて夜を迎える。
陽(ひ)がある時間だけが全てではない。
夜にしか生きれない、動けぬ生き物もいる。
片方しか見てはならぬ。
全てありのまま。
あるがまま。
そのままで良い。
そこに本来は善いも悪いものないのだから。
光が快活な動きのある希望の世界なら、
闇は緩やかな安心に満ちた安穏の世界だ。