二十六夜待ち

二十六夜待ち

50代半ばの男です。四捨五入すれば還暦なのでそろそろ終活と思い、人生で起きた出来事を書き残して行くことにしたのですが、煩悩が衰えず、昔の人が"月待ち"で興じたように"待ち"を楽しむ日々です(苦笑)

 

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(字幕版)

製作年:1991年

製作国:台湾

上映時間:236分

 

<内容紹介>

台湾の名匠エドワード・ヤンが手がけた青春群像劇。

1991年の第4回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、

ヤン監督の日本初公開作品として92年に劇場公開された。

61年夏、14歳の少年が同い年のガールフレンドを殺害するという、

台湾で初の未成年による殺人事件が起こる。

不良少年同士の抗争、プレスリーに憧れる少年の夢、

大陸に帰りたいと願う少年の親世代の焦りと不安を描きながら、

当時の台湾の社会的・精神的背景を浮き彫りにしていく。

主人公を演じるのは、当時まったくの素人だったチャン・チェン。

上映時間が188分のバージョンと236分のバージョンが存在し、

2016年の第29回東京国際映画祭ワールドフォーカス部門にて、

デジタルリマスターされた236分のバージョンがプレミア上映。

17年に同バージョンが劇場公開となる。

 

1英語タイトルの「 A Brighter Summer Day」はエルビス・プレスリーの曲

「好きにならずにいられない (Are You Lonesome Tonight?)」の歌詞による。

劇中、主人公の兄が勉強しながらこの曲を聴いて

「“A Brighter Summer Day”は文法的におかしいな」とひとりごとを言うシーンがある。

実際の曲の歌詞は“A Bright Summer Day”だが

プレスリーの歌い方は“A Brighter Summer Day”とも聞こえる。

 

 

<あらすじ>

舞台は1960年代初頭の台北・牯嶺街近辺。主人公の小四(シャオスー)(チャン・チェン)は、

大戦後に上海から台湾に渡ってきた両親、兄、二人の姉、妹とともに暮らしている。

公務員の父は生真面目で世渡りはうまくない。

しっかり者の母は教師をしている。

家は戦前に建てられた小さな日本家屋で、小四が一人になれるのはベッド代わりにしている押し入れの中だけだ。

 

名門である建国中学の昼間部に合格できず、

夜間部に通うことになった小四は「小公園」と呼ばれる不良グループのメンバーと仲良くなる。

ある夜、校舎内で「小公園」と敵対する「217」グループとのいざこざがあり、

そこにいあわせた小四は誰もいないはずの教室で見知らぬ少女の後ろ姿を見かける。

 

映画のスタジオに忍び込んで撮影をのぞき見たり、

エルヴィス・プレスリーに憧れたりと多感な時期を過ごしていた小四はある日、

保健室で小明(シャオミン)(リサ・ヤン)という少女に出会い、

やがて少しずつ親しくなっていく。

しかし小明は、人を殺して今は行方をくらませている「小公園」のリーダー、

ハニー(リン・ホンミン)の恋人だった。

小明は母との二人暮らしだが、喘息の発作がひどい母はまともに働けず、

二人は住まいを転々としながら貧しい生活を送っている。

夜の教室で小四が一瞬姿を見かけた少女は小明だった。

 

夜間部に軍司令官の息子である小馬(シャオマー)が転校してくる。

小馬が小四を助けたことから二人は仲良くなり、

「小公園」のメンバーで小四の親友でもある王茂(ワンマオ)や小明とともに、

小馬の暮らす邸宅で仲良くすごすようになる。

 

リーダーがいない「小公園」の弱体化を見て取った「217」のリーダー山東(シャンドン)は、

ハニーの代理として「小公園」を仕切る滑頭(ホアトウ)に接近する。

滑頭の父は中山堂というホールを管理する地位にあり、

山東はその滑頭に近づいて中山堂でロックバンドのコンサートを開き、

金儲けをする腹づもりだった。

コンサートの当日、中山堂の前に行方不明だったハニーが現れるが、

山東は人気のないところにハニーを誘い出すと交通事故に見せかけて殺してしまう。

恋人の死を知った小明は高熱を発して倒れる。

やがて回復し、久しぶりに登校した小明に対して小四は自分の思いを告げるが、

小明の態度は曖昧なままである。

 

「小公園」と「217」の対立は地元のヤクザも絡んで激化し、

山東は豪雨の夜に押し入ってきた「小公園」メンバー達によって惨殺される。

小四も見張り役としてこの事件に関わっていた。

その同じ夜、小四の父は大陸のスパイとの繋がりを疑われて当局の厳しい取り調べを受け、

帰宅を許されたものの精神的に不安定になってしまう。

 

小明の心をはかりかねて苦しむ小四は、やがて友人との関係も悪化し、

職員室で教師にバットを振り上げるという事件を起こして学校も退学させられてしまう。

更に、久しぶりに会った滑頭から、小明が小馬と関係を持っていたことを聞かされる。

小四は小馬に事実を確かめに行くが、小馬は小明とのことはただの遊びだと言って取り合わない。

小明の母は小馬の家の家政婦として雇われ、小明と母は小馬の家に住み込んでいた。

 

ますます行き詰まった小四はある夜、短刀を持って小馬を待ち伏せするが、

たまたま通りかかった小明に声をかけられ、

言い争いになったあげく彼女を刺し殺してしまう。

 

王茂が小四のいる留置場を訪れ、

エルビス・プレスリーの“Are You Lonesome Tonight?”を

録音したテープを差し入れるが、心ない職員はそのテープをゴミ箱に放り込む。

 

小四の家族たちが引越しのため荷物を整理している。

ラジオからは大学入試合格者の氏名を読み上げる声が流れ続けていた。

 

監督:エドワード・ヤン

脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン

出演者:チャン・チェン、チャン・クォチュー、リサ・ヤン、エレイン・ジン、

    チャン・ハン、チェン・シャンチー、ニー・シューチュン、リン・ルーピン

 

 

 

 

[視聴媒体] NetFlix


 

私:映画「牯嶺街少年殺人事件」を解説してください。

 

 

ChatGPT:

『牯嶺街少年殺人事件』(A Brighter Summer Day、1991年)は、エドワード・ヤンの代表作であり、台湾映画史だけでなく、世界映画史に残る傑作として高く評価されています。タイトルの「牯嶺街(クーリンチェ)」は、台北に実在する通りの名前です。本作は1961年に実際に起きた少年による少女殺害事件を題材にしていますが、単なる犯罪映画ではありません。むしろ「一人の少年がなぜ人を殺すに至ったのか」を、家族・学校・社会・国家という巨大な背景から描いた作品です。

 

あらすじ

主人公シャオスー(演:チャン・チェン)は、成績不振で夜間中学に通う14歳の少年です。

彼は不良グループ同士の抗争に巻き込まれながら、少女シャオミンに恋をします。しかしシャオミンは複数の少年たちとの関係を噂される存在であり、シャオスーは次第に嫉妬と混乱を深めていきます。

その一方で、

  • 父は政治的な疑いをかけられ、秘密警察に取り調べを受ける
  • 学校では教師が暴力を振るう
  • 街では少年ギャングが勢力争いを繰り返す

という閉塞した社会の中で、シャオスーは居場所を失っていきます。そして最後には、取り返しのつかない事件を起こしてしまいます。

 

この映画のテーマ

1. 少年犯罪ではなく「時代」が犯人

映画を見終えると、「シャオスーが悪かった」という感想だけでは終われません。

彼の周囲には、

  • 家庭の抑圧
  • 学校の暴力
  • 政治的不安
  • 不良文化
  • 将来への絶望

が積み重なっています。

つまり、この映画は

一人の少年が少女を殺した話ではなく、一つの時代が少年を壊した話

なのです。

1960年代の台湾は戒厳令下にあり、中国大陸から渡ってきた人々(外省人)と台湾にもともと住んでいた人々(本省人)の緊張も残っていました。大人たちは政治への恐怖を抱え、その不安が家庭や子どもたちにも影を落としていました。

2. 光と闇

本作で印象的なのは「光」の使い方です。

シャオスーは懐中電灯を持ち歩きます。

これは単なる小道具ではありません。

暗闇の中で、

  • 真実を探そうとする
  • 世界を理解しようとする
  • 希望を見つけようとする

少年の姿そのものを象徴しています。

しかし、その光は非常に弱く、広大な闇を照らしきれません。

彼は世界を理解できないまま、大人になれませんでした。

3. 「A Brighter Summer Day」という皮肉

英題は A Brighter Summer Day

これはエルヴィス・プレスリーの曲「Are You Lonesome Tonight?」の歌詞に由来するとされています。

しかし映画には「明るい夏の日」は訪れません。

むしろ、

  • 停電
  • 暗い校舎
  • 路地

ばかりが描かれます。

タイトル自体が失われた青春への皮肉になっています。

シャオミンとは何者か

シャオミンを「浮気性の少女」とだけ見るのは、この映画を狭く見てしまうことになります。

彼女もまた、

  • 家庭が崩壊し
  • 生き延びるために
  • 男たちの庇護を渡り歩く

しかなかった少女です。

彼女は誰かを裏切ろうとしているのではなく、誰にも守られない少女なのです。

だからシャオスーは最後まで彼女を理解できません。

ラストの意味

ラストの殺人は、恋愛のもつれだけでは説明できません。

シャオスーは

  • 家庭でも
  • 学校でも
  • 社会でも
  • 恋愛でも

「理解されない存在」でした。

その孤独が最後に爆発します。

映画は犯行そのものよりも、

「なぜここまで追い詰められたのか」

を約4時間かけて積み重ねています。

なぜ4時間近い上映時間なのか

236分という長さは、「事件」を見るためではありません。

観客自身が1960年代台湾で生活しているような感覚になるためです。

日常の些細な出来事、

  • 家族の食卓
  • 学校生活
  • 街角
  • ラジオから流れる音楽
  • ギャングのたまり場

これらを丁寧に積み重ねることで、最後の悲劇が「突然の出来事」ではなく、「避けられなかった帰結」として感じられる構成になっています。


この作品が今も評価される理由

『牯嶺街少年殺人事件』は青春映画であり、犯罪映画であり、政治映画であり、家族映画でもあります。しかし、そのどれか一つには収まりません。

一人の少年の視点から、時代そのものを描き切ったスケールの大きさが本作の最大の魅力です。そのため、多くの映画評論家が「20世紀後半を代表する一本」と位置づけています。

 

 

私:私はこの映画を見て、岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」を思い出しました。

 

 

 

ChatGPT:

その連想はとても自然だと思います。『牯嶺街少年殺人事件』と『リリイ・シュシュのすべて』には、物語や時代設定こそ異なりますが、共通する核があります。

エドワード・ヤンと岩井俊二は、「少年少女の心の崩壊」を、社会全体の問題として描こうとした点で共鳴しています。

共通点を挙げると、次のようになります。

  • 主人公が環境に押しつぶされていく
    • 『牯嶺街少年殺人事件』のシャオスーは、家庭・学校・政治状況・ギャング社会に翻弄されます。
    • 『リリイ・シュシュのすべて』の蓮見や星野も、学校でのいじめや暴力、家庭環境の歪みから逃れられません。
  • 「悪人」が一人いるわけではない
    どちらも、「あいつが悪い」という単純な構図ではありません。登場人物はそれぞれ被害者であり加害者でもあります。星野は加害者になりますが、彼自身も挫折と喪失を経験しています。シャオスーも同様です。
  • 暴力が突然ではなく、静かに蓄積される
    どちらの作品も、大事件より前に、ごく普通の日常が長く描かれます。その積み重ねがあるからこそ、暴力が「唐突な事件」ではなく、「ここまで来てしまった」という必然として感じられます。

一方で、違いも興味深いです。

『牯嶺街少年殺人事件』は、1960年代台湾の戒厳令や外省人・本省人の対立など、「歴史」が若者たちの運命を規定しています。少年たちは大人たちが作った時代に巻き込まれます。

対して『リリイ・シュシュのすべて』では、政治や歴史はほとんど前景化されません。インターネットや音楽、学校という閉じた共同体の中で、少年少女が息苦しさを抱えています。社会全体よりも、現代日本の「空気」が彼らを追い詰めている印象です。

また、両作品とも音楽が重要な役割を果たします。

  • 『牯嶺街少年殺人事件』では、アメリカンポップスやロックンロールが、自由への憧れや外の世界への夢を象徴しています。
  • 『リリイ・シュシュのすべて』では、架空の歌手リリイ・シュシュの音楽が、登場人物たちにとって現実から逃れるための精神的な避難所になっています。

つまり、『牯嶺街少年殺人事件』では**「光」(懐中電灯や夜の街)が希望の象徴であり、『リリイ・シュシュのすべて』では「音」**(リリイの歌や「エーテル」)が希望の象徴になっている、と見ることもできます。

岩井俊二監督が『牯嶺街少年殺人事件』から直接影響を受けたと公言しているわけではありませんが、映画ファンの間では両作品を並べて語ることは少なくありません。どちらも、「青春の喪失」を、個人の問題ではなく時代や社会の構造の中で描いた作品として深く響き合っているからです。

 

 

私:岩井俊二監督は、エドワード・ヤン監督の影響を受けたと聞いたことがあるのですが事実ですか?

 

 

 

ChatGPT:

はい、事実です

岩井俊二監督自身が、エドワード・ヤンから影響を受けたことを明確に語っています。特に興味深いのは、「映像の美しさ」よりも人物同士の関係性の描き方に強い影響を受けたという点です。

2015年、『花とアリス殺人事件』のイベントで岩井監督は、ヤンヤン 夏の想い出について次のような趣旨の発言をしています。

普通なら男女が出てくると恋愛として描いてしまう。しかし『ヤンヤン 夏の想い出』ではそうではなかった。人と人との関係にはもっと豊かな可能性があり、「映画にはまだこんな描き方があるのか」と驚いた。その発想を『花とアリス殺人事件』のアリスと父親の関係にも生かした。

さらに岩井監督は、

  • エドワード・ヤン本人と台湾のバーで偶然知り合い、親しく交流したこと
  • ヤン監督を「いい先輩でした」と語っていること
  • ヤン監督が亡くなった際、ロサンゼルスで行われた葬儀にも参列したこと

も明かしています。

ですから、単に作品のファンだっただけではなく、実際に交流のあった映画人同士だったことがわかります。


一方で、『リリイ・シュシュのすべて』との関係については、岩井監督が「この作品は『牯嶺街少年殺人事件』を参考にした」と直接語った記録は、私の知る限りありません。

しかし、両作品を見比べると、共通点は少なくありません。

  • 少年たちを善悪では裁かず、時代や環境の中で捉える視点
  • 暴力が突然起こるのではなく、日常の中でゆっくり蓄積される構成
  • 集団の力学が個人を飲み込んでいく描写
  • 長回しや「余白」を生かし、観客自身に人物を観察させる演出

といった点には、エドワード・ヤン作品との親和性を感じる映画研究者や映画ファンは少なくありません。

ただし、岩井俊二監督の作風はエドワード・ヤン一人から生まれたものではありません。本人はインタビューで、市川崑、寺山修司、さらには『機動戦士ガンダム』など、多様な作品や作家から影響を受けたことも語っています。

そのため、『リリイ・シュシュのすべて』は「エドワード・ヤン風の映画」というよりも、エドワード・ヤンから学んだ「人間関係を単純化しない視点」を、岩井俊二自身の映像感覚や音楽性と融合させて生まれた作品と考えるのが最も実態に近いと思います。

 

 

私:『リリイ・シュシュのすべて』のシーンの中で、『牯嶺街少年殺人事件』をオマージュしたと思われるシーンはありますか?

 

 

ChatGPT:

結論から言うと、「このシーンは『牯嶺街少年殺人事件』のオマージュです」と岩井俊二監督が公言している場面はありません。

 

ただし、映画を比較すると、「これはエドワード・ヤン的だ」と感じさせる場面はいくつかあります。

1. 少年たちがたむろするシーン(最も近い)

『牯嶺街少年殺人事件』では、不良グループの少年たちが夜の街や空き地、学校周辺で何をするでもなく集まり、時間を過ごします。

『リリイ・シュシュのすべて』でも、

  • 河川敷
  • 田園地帯
  • 廃墟
  • 駅前

などで少年たちが集団で行動する場面が何度もあります。

これらは単なる背景ではなく、

少年たちだけの共同体

を描いている点が非常に似ています。


2. 暴力が「突然」ではなく「空気」として存在する

『牯嶺街少年殺人事件』では、誰かが突然殴り合うのではなく、

「今日は何か起こりそうだ」

という緊張感が何十分も続きます。

『リリイ・シュシュ』でも、

  • 星野が徐々に支配者になっていく
  • 雄一が抵抗できない
  • 周囲も止めない

という空気がゆっくり醸成されます。

この暴力の蓄積の描き方は、ヤン作品との共通性を感じます。


3. 殺人の描き方

これは非常に興味深い点です。

『牯嶺街少年殺人事件』のラストでは、殺人は派手な演出ではなく、むしろ淡々と描かれます。

『リリイ・シュシュ』でも終盤の殺人は、ショッキングではあるものの、アクション映画のような演出ではありません。

どちらも

「殺した瞬間」

より

「そこへ至る心の軌跡」

を重要視しています。

この構成はかなり似ています。


4. 群像の撮り方

エドワード・ヤンは、

一人だけをアップで撮るより、

複数人を同じフレームに収め、

誰が主人公なのか分からないような画を好みました。

『リリイ・シュシュ』にも、

学校の廊下

教室

田園

ライブ会場

など、

人物を小さく置くショットが多くあります。

これはヤンだけの技法ではありませんが、共通する美意識を感じます。


私が「最もオマージュらしい」と感じるのは

個人的には、

「夜の少年たちが集団で街をさまよう場面」

です。

『牯嶺街少年殺人事件』では、

夜の台北を少年たちが歩き回る時間そのものが青春として描かれます。

『リリイ・シュシュ』でも、

夜や夕暮れの空間を少年たちが目的もなく移動する場面が印象的で、

「物語を進めるため」というより、

少年時代の空気そのものを記録する

という発想が非常によく似ています。


ただし、一つ大きな違いがあります。

エドワード・ヤンは距離を置いて観察する監督です。カメラは人物を見守り、観客に判断を委ねます。

一方、岩井俊二は人物の内面に入り込む監督です。逆光や手持ち撮影、音楽、環境音を使って、登場人物が感じている世界を観客にも体験させようとします。

ですから、『リリイ・シュシュのすべて』は『牯嶺街少年殺人事件』の「引用」や「再現」というよりも、エドワード・ヤンから学んだ青春群像の捉え方を、岩井俊二自身の感性で再構築した作品と考えるのが最も妥当だと思います。

 

 

 

私:キャラクターを対比させると、 市原隼人:小四(シャオスー) 蒼井優:小明(シャオミン) って感じでしょうか?

 

 

 

 

ChatGPT:

はい、その対応づけはかなりしっくりきます。ただし、**「完全に一致する」というより、「役割が近い」**という理解がよいと思います。

例えば次のように整理できます。

 

『リリイ・シュシュのすべて』 『牯嶺街少年殺人事件』 共通点
市原隼人(蓮見雄一) 小四(シャオスー) 内向的で感受性が強く、周囲の暴力や理不尽に翻弄される主人公。自分の居場所を見つけられない。
蒼井優(津田詩織) 小明(シャオミン) 主人公が理想化する少女。しかし現実には多くの男性との関係や噂に翻弄され、自分の意思だけでは生きられない存在。

特に蒼井優演じる津田詩織シャオミンは、かなり共通しています。

  • 男性たちの欲望や視線の対象になる。
  • 自分の人生を主体的にコントロールできる立場ではない。
  • 主人公は彼女たちを「救いたい」「自分だけの存在であってほしい」と願うが、その願いは現実とかみ合わない。

ただ、違いもあります。

シャオミンは、自分が置かれた状況をある程度理解し、現実的に立ち回ろうとしています。一方、詩織はもっと受動的で、周囲の暴力に巻き込まれていく印象が強いです。その意味では、シャオミンの方がしたたかで複雑な人物造形と言えるでしょう。

一方で、私がもう一つ面白いと思うのは、**星野修介(忍成修吾)**です。

彼は一見すると『牯嶺街少年殺人事件』に対応する人物がいないように見えますが、小公園(リトル・パーク)やハニーらギャングのリーダー格の人物たちの要素を一人に集約した存在とも考えられます。

つまり、

  • シャオスー → 雄一
  • シャオミン → 詩織
  • ギャングのリーダーたち → 星野

という対応です。

さらに興味深いのは、雄一とシャオスーは「傍観者」であり続けようとする点です。

二人とも、最初は暴力を嫌い、流されるまま生きています。しかし、その「何もできない」ことが積み重なり、物語の終盤で決定的な悲劇に巻き込まれます。

その構造は非常によく似ています。

ですから、もし岩井俊二監督が『牯嶺街少年殺人事件』を強く意識していたとすれば、キャラクターを一対一で対応させたというよりも、「シャオスーとシャオミンの関係性」を、雄一と詩織の関係として現代日本に置き換えたと考えると、両作品の響き合いがよく見えてきます。

 

 

私:小翠(シャオツイ)を演じていた女優は、佐藤栞里に似ていませんか?

 

 

 

 

ChatGPT:

はい、そう感じる方がいても不思議ではないと思います。小翠(シャオツイ)を演じた女優の顔立ちには、佐藤栞里さんに通じる雰囲気があると感じる人もいると思います。

ただし、「顔がそっくり」というよりは、共通しているのは醸し出す空気感だと思います。

例えば、

  • 少し大きめで柔らかい印象の目元
  • 少年少女のような透明感
  • 飾らない、素朴な表情
  • 明るさの中に少し寂しさを感じさせる雰囲気

といった部分です。

『牯嶺街少年殺人事件』の小翠は、小明(シャオミン)のような「男性たちの欲望や憧れを集める少女」とは少し違って、もっと日常側にいる女の子です。ギャングや恋愛の渦中にいるというより、あの時代の街角に普通に存在していそうな少女として描かれています。

そこが、佐藤栞里さんの持つ、

「親しみやすい」
「近所にいそう」
「屈託のない笑顔の奥に繊細さがある」

という印象と重なるのかもしれません。

面白いのは、『牯嶺街少年殺人事件』の女性キャラクターは対照的に配置されているところです。

  • 小明 → 少年たちの欲望や幻想を背負う存在(少し危うい、影のある少女)
  • 小翠 → もっと現実的な日常の少女、健全な青春の側面

もし『リリイ・シュシュのすべて』と比較するなら、蒼井優さんの詩織は小明寄りですが、佐藤栞里さんのような雰囲気を持つ人物は、むしろ『牯嶺街』の小翠のような「失われていく普通の青春」の象徴に近い気がします。

ちなみに、チャン・チェン演じる小四(シャオスー)が惹かれるのが小明である一方、観客が「この時代に本当にいた少年少女」と感じやすいのは、むしろ小翠のような人物かもしれません。そこがエドワード・ヤンの人物配置の巧みなところだと思います。

 

私:この画像の中央の人小翠(シャオツイ)ですね。

 

 

ChatGPT:

確認しました。おそらくその画像の中央の女性で合っていると思います。

ただ、前回の私の説明には少し訂正があります。

小翠(シャオツイ)を演じたのは 唐暁翠(唐曉翠 / Tang Hsiao-Tsui) で、役名そのものが女優名と同じ「小翠」に近いため、資料でも混同されやすい人物です。

画像を見る限り、私も改めて見ると、あなたが「佐藤栞里に似ている」と感じた理由が分かります。

特に似ていると感じるポイントは、

  • 目元の柔らかさ
  • 口元の自然な笑顔
  • 少女っぽさが残る顔立ち
  • 作り込んだ美人というより、親しみやすい雰囲気

だと思います。

小明(シャオミン/楊靜怡)は、映画の中で「危うい美しさ」を担う存在ですよね。彼女にはどこか近寄りがたい、ミステリアスな魅力があります。一方、小翠はもっと生活感のある少女です。

面白いのは、エドワード・ヤンがこの二人をかなり対照的に置いていることです。

 
 
 
 

 

 

 

 

明星食品 大相撲NOODLES 鶏塩ちゃんこ味うどん 12個

先日、スーパーのカップ麺コーナーを覗くと「大相撲NOODLES」ものが陳列されていた。

 

それがコレ!

 

 

・明星 大相撲NOODLES 鶏塩ちゃんこ味うどん

・明星 大相撲NOODLES 味噌ちゃんこ味ラーメン

 

の2種類だ。

 

麺は2種類だが、麺毎にパッケージが複数種類あるようだ。

 

 

「鶏塩ちゃんこ味うどん」には、

    横綱・豊昇龍関、琴櫻関、霧島関、藤ノ川関、若隆景関、王鵬関

「味噌ちゃんこ味ラーメン」には、

    横綱・大の里関、安青錦関、熱海富士関、義ノ富士関、一山本関、宇良関

が採用されているようだ。

 

 

各力士のポーズは、カップでは相撲らしい土俵上の姿を、

フタでは化粧まわし姿で腕を組むなど、堂々とした姿を採用しているとの事。

 

 

ポテトチップスとかでは、

よくプロ野球がコラボしてプロ野球チップスなんてのがあり、

袋の中に選手のカードが忍ばせてあったりする。

 

この大相撲NOODLES は、それとは異なる。

パッケージに力士が印刷されているのである。

誰が出てくるかなのお楽しみがないのだ。

 

では、印刷されている力士ごとにどのような差別化があるのだろう?

 

食べていないので、これは勝手な想像なのだが、

その答えは「出汁」にあると思う。

 

そう豊昇龍パッケージの商品と琴櫻パッケージの商品とでは出汁が違うのだと思う。

命名するとすれば

 「鶏塩ちゃんこ味うどん - 豊昇龍味」「鶏塩ちゃんこ味うどん - 琴櫻味」

というところだろうか?

 

 

で、出汁は勿論各力士の "まわし" から取っているに違いない。

現在、横綱は豊昇龍と大の里の2名だから、麺はうどんとラーメンの2種類しかないが、

安青錦とか霧島が横綱に昇進したら、麺が1つ増えることだろう。

 

「豚骨ちゃんこ味ちゃんぽん」とか!

 

パッケージ化される力士も勿論増える。

今冬あたりには、「豚骨ちゃんこ味ちゃんぽん - 高安味」が店頭に並んでいることであろう。

 

 


以上が、スーパーで「大相撲NOODLES」を手にしながら

私が行った妄想だ。

 

もしスーパーで「大相撲NOODLES」を手にしながら固めっている男を見かけたら、

私だと思って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

本陣殺人事件

製作年:1975年

製作国:日本

上映時間:106分

 

<内容紹介>

江戸時代から続くという由緒ある名家・一柳家。

当主・賢蔵に年の離れた花嫁・克子が嫁入りしたが、婚礼が終わった夜、

ふたりの死体が発見された。

現場には怪しい三本指の血痕が残されていて…。

この奇怪な殺人事件の真相に、名探偵・金田一耕助が挑む。

 

<あらすじ>

三方を山に囲まれた小集落。広大な敷地を持つ一柳家はこの地方きっての旧家で、

江戸時代からの宿場の本陣であった。

あの恐しい事件があった当時、一柳家の邸内に住んでいたのは次の人々である。

先代の未亡人の糸子刀自。長男の賢蔵。彼は京都の大学を出て講師を務めていたが、

健康を害し郷里にひきこもった。

近代哲学に関する著書もある賢蔵が、40歳まで独身だったのは、

勉学のためだけではなく、彼の眼鏡にかなう女性がいなかったからだった。

賢蔵のすぐ下の妹と弟は当時外地におり、その下には三男の三郎と次女の鈴子がいた。

三郎は兄弟中の不作で、ひたすら探偵小説に熱中しており、鈴子は腺病質で、

知能も遅れていたが、

決して低能、白痴ではなく、殊に琴は名手だった。

他に邸内には賢蔵の従兄弟の良介と妻の秋子が住んでいた。

この平穏無事な生活を続けていた一柳家に波紋を投げかけたのが、

賢蔵の結婚問題であった。

賢蔵が選んだ相手は高校の教師をしていた久保克子で、

彼女の父はかつて、一柳家の小作人で、若い頃アメリカに渡って成功し、

その父の死後、克子は叔父・銀造に育てられたのだった。

一柳家から見れば身分違いなのである。

しかし、賢蔵は周囲の反対を押し切った。婚礼の日。四月も末だというのに雪が降り始めた。

式はとどこおりなく済み、新郎・新婦は、母屋から庭一つ隔てた離れに寝んだ。

午前4時15分、突然、克子の悲鳴が夜のしじまを破った。銀造たちが離れに行くと、

克子が日本刀で斬られ、血まみれの賢蔵が傍に倒れていた。

枕元には琴、金扉風には三本指の血痕、そして兇器の日本刀は、

庭の石とうろうの根元に突き刺さっていた。離れには門も錠もかかっており、

庭には雪の上に足跡一つ無かった……。

この「本陣殺人事件」は磯川警部が担当することになった。

警部は一昨日、一柳家を訪ねて村道を歩いていた三本指の男を犯人と断定した。

そんな時、銀造の依頼を受けた私立探偵・金田一耕助がやって来た。

彼はまず探偵小説マニアの三郎に興味を抱いた。

そして、「密室殺人」は実は賢蔵が克子と無理心中し、

琴糸を巧みに利用して兇器の日本刀を外に出したことを証明してみせた。

そしてこのトリックには三郎も加担していたのだった。

この心中の賢蔵の動機は、克子が結婚前夜に、かつてある男と関係したことを告白、

潔癖症の賢蔵は、克子を許すことができなかったが、

と言って周囲の反対を押し切っての結婚なので離婚もできず、

思いあまって、誰かに殺害されたと思わせるためのトリックだったのだ……。

 

監督:高林陽一

脚本:高林陽一

原作:横溝正史

出演者:中尾彬、田村高廣、新田章、高沢順子、東龍子、伴勇太郎、山本織江、

    水原ゆう紀、加賀邦男、東野英心、石山雄大、海老江寛、沖ときお、

    原聖四郎、小林加奈枝、三戸部スエ、服部絹子、中村章、常田富士男、

    村松英子

 

 

 

[視聴媒体] BS松竹東急(録画)


 

原作の「本陣殺人事件」は、横溝正史の戦後最初の長編推理作品で、

金田一耕助が初登場する小説らしい。

 

金田一耕助役は、まさかの中尾彬!

最初、中尾彬が中尾彬だとわからなかった。

 

石坂浩二の金田一耕助シリーズでおなじみの

「よし!わかった! 犯人は〇〇だ!」のセリフでおなじみに加藤武演じる警部の代わりに、

東野英心が警察のまとめ役を演じています。

東野英心といえば、水戸黄門(東野英治郎)の息子。

「あばれはっちゃくシリーズ」では、

「長太郎!おめぇの馬鹿さ加減には、父ちゃん情けなくて涙でてくらぁー」の決めゼリフが有名。

でもこの映画では特に決めゼリフなかったなぁ。。。

 

そして、この映画での東野英心の風貌が浜野 謙太に似ています。

もしかしたら、浜野 謙太は水戸黄門の孫なのかもしれません。

 

 

 

家族の反対を押し切って、学校で教鞭をとる女教師を娶った

良家のボンボン(田村高廣)が、新妻が処女じゃないと知り、

無理心中するという話。

ただ、自殺だと負け犬みたいに思われるので

何者かに襲われた風の密室殺人的な舞台を作ったというお話。

 

新妻は結婚前に、過去にこういうことがあったと

正直に話しそれを許しておいてからの無理心中・・・

理解不能です。

 

新妻の過去の痴態を想像し、

脳内NTRプレーを楽しむぐらいの度量が欲しかったところです。

 


話は変わるが、横溝正史の金田一耕助シリーズ作品への需要は

根強いらしく、「八つ墓村」の映画がまたリメイクされるらしい。

 

 

「八つ墓村」の過去の映画については、このブログでも言及していた。

 

渥美清主演版(別名:男はつらいよ 寅次郎 in 八つ墓村)

 

 

トヨエツ主演版

 

 

 

その過程では、作中の人物である

小梅ばあさんと小竹ばあさん(双子)にフォーカスした記憶がある。

 

第1作では、市原悦子と山口仁奈子の2人の女優が演じていた小梅&小竹。

第2作では、岸田今日子の1人2役。

 

私は、もし第3作がリメイクされるならば、

「1人の俳優で1役、ただし二重人格(小竹と小梅の人格を宿している)という設定。

 マジンガーZの"あしゅら男爵" みたいな感じのメイクで、

 真ん中から半分が小竹ばあさん、もう半分が小梅ばあさんという感じです。

 演じるのは美輪明宏を推奨。」

と記載していた。おまけにイメージ画像まで作った。

 

 

 

 

 

 

そして、今回の小梅&小竹は、高島礼子が演じるらしい。

残念ながら、美輪明宏ではない(笑)

この案を受け入れられず・・・

(先日美輪が鬼籍に入ったことと、今回の配役とは関係ないと思うが。。。)

 

美輪明宏がNGなら、「代わりは 白石加代子 だろ!」

と 私は八つ墓村の中心で叫びたい。

 

 

なお、高島礼子演じる 小梅&小竹が、

肉体は1つ精神は2つ = 二重人格(小竹と小梅の人格を宿している)という

可能性もあるので、現段階で私の提案が全否定されたとは言えないと思っている(笑)

 

ちなみに、金田一耕助は 尾上松也 が演じるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

777 トリプルセブン (角川文庫)

・単行本:2023年9月 KADOKAWA

・文庫本:2026年6月 角川文庫

 

<内容紹介>

そのホテルを訪れたのは、逃走中の不幸な彼女と、不運な殺し屋。そして――

 

累計300万部突破、殺し屋シリーズ最新作

『マリアビートル』から数年後、物騒な奴らは何度でも!

 

やることなすことツキに見放されている殺し屋・七尾。

通称「天道虫」と呼ばれる彼が請け負ったのは、

超高級ホテルの一室にプレゼントを届けるという「簡単かつ安全な仕事」のはずだった――。

時を同じくして、そのホテルには驚異的な記憶力を備えた女性・紙野結花が身を潜めていた。

彼女を狙って、非合法な裏の仕事を生業にする人間たちが集まってくる……。

 

そのホテルには、物騒な奴らが群れをなす!

 


 

伊坂幸太郎の殺し屋シリーズの第4作。

映画化もされた第2作「マリアビートル」の主人公、「天道虫」こと七尾が

再登場です。

 

ちなみに映画化された作品はこれ

 

 

ブラピがこの主人公を気に入っていて、続編を希望したとかしないとか・・・

この「777」もブラピ主演で映画化されるのかな?

 

文庫化された伊坂作品で読んでいないのは、「マイクロスパイ・アンサンブル」のみ。

今年中には読むつもり。

 

 

マリアビートルでは、

  蜜柑と檸檬 

という男2人組の殺し屋がいたが、本作では

 奏田(ソーダ)&高良(コーラ)

という男2人組の殺し屋が出てきます。

 

あとは、

 モウフ&マクラ

女2人組の殺し屋も出てきました。

 

今後もこういった2人組(コンビ)殺し屋が登場してくるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ChatGPTが画像を作ってくれなかったので、

Geminiに同じプロンプトを与えてみた。

 

 

 

私:

スガシカオの310という曲について教えてください。

 

 

Gemini:

スガシカオさんの「310」(サンイチマル)は、

1999年9月8日にリリースされた3rdアルバム『Sweet』の5曲目に収録されている楽曲です。

初期のスガシカオさんらしい「人間の生々しさ」や「退屈で切ないリアルな日常」が、

グルーヴィーでメロウなサウンドに乗せて描かれています。

1. タイトルの由来とストーリー

タイトル「310」は、歌詞の冒頭に出てくる日付「3月の10日」に由来しています。

「3月の10日付で ぼくは転勤して 小さな郊外の この街で暮らした」

転勤をきっかけに郊外のアパートへ引っ越した主人公が、「年齢を偽った女性」と同居しながら過ごす、どこか淡々とした、けれど重たく冷めた生活の情景が描かれます。

2. 楽曲の魅力と世界観

  • 圧倒的なリアリティと虚無感

    ドラマチックな恋愛や前向きな物語ではなく、「特に大きな事件も起こらない日常の中にある歪みや不条理」が淡々と紡がれます。

  • 生々しい身体性と心理描写

    互いに寂しさを埋めるように抱き合いながらも、「どうしてぼくたちは 抱き合うんだろう」と問いかける虚しさや、腰に感じる熱、昼下がりに聞こえる子供の声と喉の渇きなど、五感に訴えかける独特の叙情性を持っています。

  • ファンキーでシックなサウンド

    哀愁漂うメロディラインと、アコースティックギター&ベースのタメの効いたR&B/ファンク調のトラックが絶妙にマッチしており、初期のファンから特に高く評価されている名曲のひとつです。

ファンクなリズムに乗せて人間の業や孤独をポップスへと昇華させる、

スガシカオさんの真骨頂を感じられる1曲です。

 

 

 

私:

年齢を偽った女の実年齢と言い値の年齢を推察してください。

何歳ぐらいサバをよんだと思いますか?

 

 

 

 

Gemini:

  • スガシカオ 310 年齢

  • スガシカオ 310 年齢を偽った女 年齢設定『310』における

    「年齢を偽った 中くらいの女」の実年齢やサバ読みの度合いについては、

    スガシカオさん本人による公式な設定発表(インタビューやライナーノーツ等)

    は存在せず、すべて聴き手の解釈や想像に委ねられています。

前述の推察通り、作品全体の情景や描写(転勤した主人公の年代や「中くらいの女」

という客観的で冷めた表現)から紐解いていくのが、

この楽曲の余白を楽しむ醍醐味と言えます。

あらためて、物語の空気感から推測される年代のまとめです。

  • 言い値の年齢(自称):24〜26歳くらい 主人公(20代後半〜30代前半と

    推測される会社員)と自然に同居でき、若さをアピールできる設定。

  • 実年齢(実際):32〜35歳くらい 若さだけではない生活感や怠惰さ、

    寂しさを抱えた「中くらい(=若くも老いてもいない曖昧な年代)」

    という言葉のリアリティ。

  • サバ読みの度合い:5〜8歳程度 「完全に騙せるわけではないけれど、

    追求もされずに見過ごされる」という、2人の冷めた関係性を象徴する絶妙なギャップ。

主人公も彼女の嘘に気付きながら、あえて指摘せずにそのまま抱き合っている。

その「嘘と知りながら受け入れる寂しさ」こそが、この曲の生々しい魅力を引き立てています。

 

 

 

私:

いつも齧っていたビスケットのメーカーも推察してください。

私はビスコフだと思います。

 

 

 

Gemini:

ビスコフ(ロータス ビスコフ)という解釈、めちゃくちゃオシャレで曲の気怠い世界観に

ハマりますね!あのシナモンとカラメルの甘い香りが部屋に漂っている情景を想像すると、

一気に映像が浮かんできます。

せっかくなので、時代背景や歌詞の描写から「ビスコフ説」と、

もうひとつの「国産定番お菓子説」の2つの視点から推察してみます。

 

1. ビスコフ(Lotus Biscoff)説:生活感と「背伸び」の混ざる部屋

ビスコフ説の最大の魅力は、「手軽なのに、ちょっとだけ生活感が浮く感じ」です。

  • のどのかわく甘さ

    歌詞には「のどがかわいて」「あたたかいお茶」という言葉が出てきます。

    ビスコフの濃厚なシナモンとカラメルの風味は、まさに一口食べると喉が渇き、

    お茶やコーヒーが欲しくなる味です。

  • 年齢を偽る女の「ちょっとしたこだわり」

    スーパーの特売で買う100円のビスケットではなく、輸入食品店やちょっとした

    雑貨屋で買ってきたビスコフを部屋でかじっている。

    そんな「生活の所帯じみた感じを消そうとする背伸び」が、

    年齢を偽っている彼女の心理と重なって見えます。

2. 時代背景(1999年)から見る説:マリー(MARIE)やチョイス(CHOICE)

一方で、楽曲がリリースされた1999年当時という時代背景から考えると、

日本の家庭やアパートに当たり前に置いてあった定番ビスケットの可能性も高いです。

メーカー / 銘柄   雰囲気と推察のポイント
森永製菓「マリー (MARIE)」 1923年発売の超ロングセラー。素朴でどこか乾いた質感があり、昼下がりの退屈な部屋で一枚ずつ黙々と齧るシチュエーションに一番しっくりきます。
森永製菓「チョイス (CHOICE)」 バターの香りが強く、より「お腹を満たすため」に齧る感じ。
日清シスコ「ココナッツサブレ」 庶民的で小分けにされていないパッケージを、ベッドの上で雑に開けて食べているリアルな生々しさがあります。

結論としての個人的見解

彼女が「本来の自分」のままでいるなら森永マリー、でも「少しでも若く、オシャレに見せたい」という意識や彼女なりのこだわりが残っているならビスコフ

ビスコフを赤い個包装の袋から破って、ポロポロとベッドの上にクズをこぼしながら齧っている姿……『310』の退屈で切ない部屋の空気感に驚くほどぴったり合いますね!

 

 

 

私:

この310のMVを製作するとして、女を演じるのに適任な女優・タレントをあげて

見てください。

 

 

 

Gemini:

スガシカオさんの『310』の世界観で「年齢を偽った 中くらいの女」を演じるとなると、

単に綺麗なだけでなく、「生活感」「退屈さ」「どこか諦めたようなアンニュイさ」

を絶妙に表現できる表現力が求められますね。

もし今(2020年代)このMVを制作するなら、

実年齢や言い値の設定(自称20代半ば/実年齢30代前半〜半ば)とも重なり、

あの独特な哀愁を表現できそうな女優・タレントを3人ピックアップしてみました。

1. 江口のりこ

  • ハマり役の理由: 圧倒的な「生々しいリアリティ」と「乾いたアンニュイ感」

  • MVでのイメージ: 昼下がりの薄暗いアパートで、スウェット姿でベッドに転がりながら黙々とビスコフを齧っている姿が誰よりも似合います。媚びない立ち振る舞いの中に、ふと見せる寂しさや諦めのような表情。主人公が「どうしてぼくたちは抱き合うんだろう」と冷めた問いを抱く相手として、完璧すぎる説得力があります。

2. 松本まりか

  • ハマり役の理由: 「年齢の曖昧さ」と「危うい色気・アンバランスさ」

  • MVでのイメージ: 「自称20代半ば」と嘘をついていてもおかしくない可憐さや甘い声を出しつつも、ふとした瞬間に30代の生々しい疲れや影が滲み出るような演技が期待できます。どこか愛されたがっているのに満たされない、危うい関係性を描くのにぴったりです。

3. 伊藤沙莉

  • ハマり役の理由: 「日常のリアル」と「ハスキーボイスから漂う哀愁」

  • MVでのイメージ: ドラマチックすぎない、ごく普通の「郊外のアパートでの退屈な日々」をリアルに体現してくれそうです。ちょっと雑に暮らしている感じや、素っ気ない態度の中にふと覗く「孤独」の切り取り方が非常にうまく、スガシカオさんの描く「普通の人の少し歪んだ日常」にベストマッチします。

演出アイデア

西日の射し込むアパートの部屋で、彼女が黙ってビスコフの個包装を破り、口に運ぶ。その横顔を主人公がぼんやり眺めている——そんな静かなカットから始まるMVにすると、楽曲の持つ切なさと温度感が一気に引き立ちそうです。

 

 

 

私:

最後にビスケットを齧りながら、毎晩シカオに性行を求める中くらいの女のイメージ画像を作ってください。

 

 

Gemini:

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、スガシカオの「310」という歌を

掘り下げてみようと思う。

歌詞は以下のような感じだ。

 


3月の10日付でぼくは転勤して

小さな郊外の この街で暮らした

前よりはほんのちょっとだけ

広いマンションで

年齢を偽った

中くらいの女と暮らした

 

その女は

いつもビスケットをかじっていて

毎晩ぼくに性交を求めてきた

(以下略)

 


私:

スガシカオの310という曲について教えてください。

 

 

 

ChatGPT:

スガシカオの「310」は、かなり初期の、そして彼らしい**「日常の中にある性的な違和感と、過去の記憶の混線」**を描いた曲だと思います。1999年9月8日発売の作品です。

タイトル「310」は何を意味するのか

最も素直には、冒頭の

「3月の10日付で ぼくは転勤して」

の**「3月10日」**を数字にしたものです。

ただ、単なる日付というより、曲全体を読むと「310」は、主人公の人生がある日付を境に、別の場所・別の生活へ移ってしまったことを示す転換点の記号のように感じます。


1. 「年齢を偽った 中くらいの女」

ここが非常にスガシカオ的です。

「若い女」でも「美しい女」でもなく、「中くらいの女」

しかも「年齢を偽った」という情報が、ほとんど説明なしに置かれます。普通なら「彼女は何歳だったのか」「なぜ偽ったのか」と説明したくなるところですが、スガシカオは説明しません。

この女性は、主人公にとって、

  • 妻なのか
  • 愛人なのか
  • 転勤先で知り合った女性なのか
  • そもそも現実の女性なのか

が、かなり曖昧です。

そして彼女は毎晩、主人公に性交を求める。

ここで重要なのは、主人公が「彼女を愛している」とは一度も言わないことです。

むしろ、

「どうしてぼくたちは してしまうんだろう」

と、自分自身の行為に驚いている。

つまりこれは、愛欲の歌というより、「なぜ自分はこの人と寝ているのか分からない」という歌なんですね。


2. 「ビスケット」と「性交」の異常な並置

「いつもビスケットをかじっていて」という、極めて幼い・日常的な描写の直後に、性交が出てきます。

この組み合わせが妙に不穏です。

ビスケットをかじる女は、どこか

  • 子供っぽい
  • 生活感がある
  • 動物的
  • だらしない

存在として描かれます。

その女性と主人公が毎晩セックスをする。

ここには、通常の恋愛映画のような「美しい男女の愛」はありません。むしろ、食べることと性行為が同じ生活の中に並んでいる

「ビスケットをかじる」「性交を求める」「犬が鳴く」「ベッドがきしむ」。

この世界は、非常に肉体的です。

しかも主人公はその肉体性に完全に浸りながら、同時にそれを少し外側から眺めている。


3. 「遠いあの日」と「現在」が混ざる

曲の途中で突然、

「そうだ 遠いあの日 夕暮れの舗道で
ぼくらは手を握って 未来だけ見つめていた」

という過去の記憶が出てきます。

ここで初めて、主人公には「昔の恋人」あるいは「かつて未来を夢見た相手」がいたらしいことが分かります。

しかし、その相手と現在一緒にいる女性が同一人物なのかどうかは、はっきりしません。

私はむしろ、別人である可能性が高いと思います。

現在の女は「中くらいの女」としか描かれない。一方、過去の「ぼくら」は、夕暮れの舗道で手を握り、未来を見つめていた。

つまり、

  • 過去=未来を信じていた二人
  • 現在=なぜか毎晩セックスしている二人

という対比がある。

そして主人公は、現在の女との関係の中に、過去の自分の記憶を侵入させてしまうのです。


4. 「体の中に あの女が住みつくユメ」

ここが曲の核心ではないでしょうか。

主人公は昼休みに屋上で眠り、夢を見る。

夢の中で、「あの女」が自分の体の中に住みつく

これはかなり奇妙な表現です。

普通なら「彼女が夢に出てくる」と書くところを、「体の中に住みつく」と書く。

つまり彼女は、単なる恋人ではなく、

自分の身体の内部に侵入してしまった存在

なのです。

これは性的な関係の非常に生々しい感覚とも読めます。

「相手と寝た」というだけではなく、相手の存在が自分の肉体の中に残ってしまう。

だから主人公は、昼間の屋上で眠っていても、その女性から逃げられない。


5. 「子供の声」は何なのか

ここも非常に気になります。

「子供の声がする 昼下がり」

私はここに、妊娠・子供・家庭生活への連想があるように感じます。

ただし、主人公に子供がいるとは書かれていません。

だからこそ、

  • 実際に子供がいるのか
  • 隣家の子供の声なのか
  • 夢の中の声なのか
  • 主人公が無意識に想像した未来なのか

が分からない。

この曲では、現実と夢、現在と過去がすでに混ざっています。

「子供の声」は、主人公が本当に望んでいるもの、あるいは失ってしまったものの象徴とも考えられます。


6. 「どうしてぼくたちは 抱き合うんだろう」

最初は、

「どうしてぼくたちは してしまうんだろう」

だったものが、後半では、

「どうしてぼくたちは 抱き合うんだろう」

に変わります。

この違いは大きいと思います。

「する」は、かなり即物的です。

一方、「抱き合う」には、愛情や孤独を埋める行為という意味が加わる。

つまり主人公は、最初は性行為を理解できない。

しかし最後には、単なる性欲ではなく、孤独な二人が互いに身体を求めていることに気づき始める。

ただし、だからといって愛があるとは限らない。

そこがこの曲の嫌なところであり、魅力でもあります。


私の解釈:これは「愛の歌」ではなく「身体に残ってしまった関係」の歌

この曲の女性は、主人公にとって「好きな女性」ではないかもしれません。

しかし、

  • 毎晩セックスをする
  • ベッドのきしみを聞く
  • 夢の中にまで出てくる
  • 体の中に住みつく
  • 抱き合う

という形で、完全に主人公の生活と身体を占領している。

その一方で、主人公の精神は過去の「夕暮れの舗道」に残っている。

だから現在の女との関係は、まるで過去の人生の夢を見ながら、現在の身体だけが別の女と暮らしているように感じます。

最後の

「あらわれては消えてゆく
蜃気楼のよう…」

という結末は、女そのものが消えるというより、「この関係には確かな実体があるのか」という感覚が消えていくように思えます。歌詞の全文と基本情報は歌詞データベースでも確認できます。

個人的には、「310」はスガシカオの中でも、以前お話しした「モノラルセカイ」と同じく、性的な身体感覚と、説明されない過去の傷や記憶が混ざっている曲だと思います。もしよければ次に、**「310」の女は誰なのか――妻・愛人・娼婦・過去の恋人のどれなのか**を、歌詞の細部からさらに絞り込んで考察できます。

 

 

私:

年齢を偽った女の実年齢と言い値の年齢を推察してください。何歳ぐらいサバをよんだと思いますか?

 

 

 

Chat GPT:

面白い推察ですね。歌詞の「年齢を偽った 中くらいの女」という表現からすると、私は次のように考えます。

本当の年齢:42歳前後

言い値:35歳前後

サバ:7歳くらい

が、いちばん自然だと思います。

「中くらいの女」という表現が、単に「30代半ば」というより、30代後半〜40代前半くらいの女性を、年齢不詳の男性がやや冷めた目で見ている感じがするんですよね。

たとえば、

  • 実年齢:42歳
  • 自称年齢:35歳

なら、7歳の差です。

これは「20歳なのに25歳と言う」というような若さへの執着とは少し違って、40代に入ったことを認めたくない女性が、30代にとどまろうとする感じがあります。

もう少し大胆に考えると

私は、

実年齢 45歳 → 自称 38歳

もあり得ると思います。

この場合は「7歳サバ」で同じですが、「30代」と言い張る最後のラインですね。

逆に、

実年齢 38歳 → 自称 35歳

程度の3歳差だと、わざわざ「年齢を偽った」と歌詞で強調するほどではない気がします。

したがって、私の本命は、

実年齢42歳、自称35歳。7歳サバ。

です。

ただ、この曲の面白いところは、主人公が彼女の実年齢を知っているのかどうかも曖昧なことです。彼女が「35歳」と言っているだけで、主人公は本当は何歳なのか知らない。だから「年齢を偽った」という一文自体が、主人公の推測や疑念である可能性もあります。

そう考えると、彼女は実際には47歳なのに38歳と言っているくらいの、かなり大胆なサバ読みでもおかしくありません。

私の確率をつけるなら:

実年齢 自称年齢 サバ 確率
42歳 35歳 7歳 30%
45歳 38歳 7歳 25%
40歳 35歳 5歳 20%
47歳 38歳 9歳 15%
その他 10%

「中くらいの女」という言葉の妙な突き放し方を考えると、私は40代前半の女性を想像します。 そして、スガシカオの歌詞の世界なら、彼女は「35歳」と言っているのではないでしょうか。

 

 

 

私:

いつも齧っていたビスケットのメーカーも推察してください。私はビスコフだと思います。

 

 

 

ChatGPT:

私はビスコフ(Lotus Biscoff)説にかなり賛成です。むしろ「310」の歌詞世界には、普通の日本のビスケットよりもビスコフのほうが似合う気がします。

本命:Lotus Biscoff(ビスコフ) 55%

理由は、まず**「いつも齧っていた」**という描写です。

ビスコフは、丸ごと食べるというより、

端から少しずつ齧る

という食べ方が非常に似合うビスケットです。

しかも、

  • 薄い
  • 硬め
  • カラメル風味
  • コーヒーに合う
  • 一枚ずつ個包装されている

という特徴があります。

「いつもビスケットを食べている女」ではなく、いつも同じビスケットを齧っている女という感じなら、ビスコフはかなりしっくりきます。

私が特に重要だと思うのは「ビスケット」ではなく「齧る」

「食べる」ではなく「齧る」。

この動詞によって、女性の姿が少し動物的になります。

ベッドの上で主人公を求める女が、普段はビスケットを齧っている。

つまり彼女は、

何かを常に口にしている女

として描かれている。

この「口」のイメージと、彼女の性的な欲望が無意識に重なっている可能性があります。


対抗:森永マリー 20%

日本の歌詞として考えるなら、実は森永マリーも強いです。

ただしマリーは、かなり「お行儀のよい」ビスケットです。

「年齢を偽った中くらいの女」が、毎晩主人公を求める一方で、昼間は森永マリーを齧っている――という落差も面白い。

ただ、マリーには少し昭和の母親・子供のおやつ感があります。


3位:ブルボン ルマンド/アルフォート系 15%

この女性が日本のコンビニやスーパーで買っていると考えると、ブルボンもあり得ます。

ただ、

  • ルマンドは「齧る」より「崩れる」
  • アルフォートは「齧る」より「チョコを食べる」

という印象なので、少し違います。


4位:たべっ子どうぶつ 10%

これは完全に私の妄想ですが、かなり怖い絵になります。

年齢を偽った中くらいの女が、毎晩主人公を求め、昼間はたべっ子どうぶつを無言で齧っている。

しかも彼女が「いつも」食べている。

この場合、「中くらいの女」の子供っぽさが強調されます。


私の最終回答

ビスコフ説:55%

そして、商品まで絞るなら、

Lotus Biscoff Original Caramelized Biscuits

です。

ただし、発売時期や日本での流通を厳密に考えると、歌詞の制作時期との整合性は確認したいところです。そこまで考えると、**「歌詞を書いた時代にスガシカオが実際に食べていた可能性のある商品」と、「歌詞世界の中で最も似合う商品」**は分けて考えたほうがよさそうです。

 

 

私:

この310のMVを製作するとして、女を演じるのに適任な女優・タレントをあげて見てください。

 

 

 

ChatGPT:

「310」の女は、単純に“美人”ではないほうがいいと思います。むしろ、年齢を偽っていて、毎晩主人公を求め、昼間はビスケットを齧っている――その生活感と性的な生々しさと、どこか得体の知れない感じを出せる人。

私なら、かなり本命は 片桐はいり です。

本命:片桐はいり

彼女が「実年齢42歳なのに35歳と言い張る女」を演じたら、非常に面白いと思います。

理由は、

  • 美人というより「存在そのものに目が行く」
  • 日常の中に突然、異物感を出せる
  • 性的な場面でも、単なるセクシーさではなく不穏さが出る
  • ビスケットを齧っているだけで、何か裏がありそうに見える

からです。

例えばMVの冒頭。

昼下がりの部屋で、片桐はいりが一人でビスコフを齧っている。

カメラは彼女の顔を正面から撮らない。

口元だけ。

「カリッ」

と齧る音。

そして夜になると、同じ女が主人公のベッドにいる。

この落差は、かなり「310」的だと思います。


2位:YOU

YOUも非常に合います。

彼女の場合、年齢を偽るという行為が、もっと軽く、自然で、悪びれない感じになります。

「え、35歳でいいじゃん。別に」

という感じで、実年齢を7歳くらい若く言う。

そして毎晩主人公を求める。

しかし朝になると、何事もなかったようにビスケットを齧っている。

YOUなら、この女が

「どうしてぼくたちは、してしまうんだろう」

という関係を、相手の男よりもむしろ彼女のほうが理解しているように演じられると思います。


3位:小泉今日子

これは少し意外なキャスティングです。

小泉今日子が、あえて「美しく撮られない」ことで、かなり不思議な効果が出ると思います。

たとえば、

実年齢42歳
「35歳」と名乗る

という設定なら、若さへの執着が単純な滑稽さではなく、自分の過去をまだ手放せない女として見えてくる。

「夕暮れの舗道で、ぼくらは手を握って未来だけ見つめていた」

という過去の記憶と、現在の彼女を同じ人物が演じるなら、かなり説得力があります。


4位:江口のりこ

この人もかなり合います。

江口のりこ版では、女がもっと無表情で、感情が読めないものになります。

ビスケットを齧る。

主人公を見る。

また齧る。

「今夜もする?」

とでも言う。

しかし、なぜそんなに主人公を求めるのかは最後まで分からない。

この場合、「女が主人公を愛している」のではなく、

女はただ、毎晩そうするものだと思っている

ような、妙な不気味さが出そうです。


5位:大竹しのぶ

演技力で考えると、非常に怖い「310」になりそうです。

大竹しのぶが「年齢を偽った女」を演じると、最初は軽いサバ読みのように見えても、だんだん、

「この人は、年齢だけではなく、自分の人生そのものを偽っているのではないか」

というところまで行ける。

「体の中にあの女が住みつくユメ」という部分も、大竹しのぶなら、夢の中の女なのか、現実の女なのか分からない存在にできます。


私のキャスティング順位

順位 女優 女のイメージ
1 片桐はいり 不穏・生活感・異物感
2 YOU 飄々・性的・年齢を軽く偽る
3 小泉今日子 過去と現在の落差
4 江口のりこ 無表情・不可解・乾いた性
5 大竹しのぶ 内面の深さ・狂気

私なら「片桐はいり × ビスコフ」です

特に、彼女がビスコフを一枚、端から齧っているだけのカットを入れたいです。

そして、歌詞の「年齢を偽った」という部分では、彼女自身に「35歳」と言わせるのではなく、部屋の中にある何か――例えば古い身分証や履歴書の年齢を一瞬だけ映す。

35歳と書かれている。

しかし、その直後に、別の書類に42歳とある。

観客だけが気づく。

女は最後まで、自分の本当の年齢を言わない。

このくらいの「説明しすぎない不気味さ」が、「310」のMVには合うと思います。

 

 

 

私:

最後にビスケットを齧りながら、毎晩シカオに性行を求める中くらいの女のイメージ画像を作ってください。

 

 

 

ChatGPT:

大変申し訳ございません。プロンプトの内容がヌード、性的表現、またはポルノに関連するコンテンツに関する安全基準に違反している可能性があります。誤判定と思われる場合は、再度お試しいただくか、プロンプトを修正してください。

 

 

 

 

 

 

ダウン・バイ・ロー (字幕版)

 

 

 

製作年:1986年

製作国:アメリカ、西ドイツ

上映時間:107分

 

<内容紹介>

カリスマ・ロックシンガーのトム・ウェイツが映画初主演、

ロベルト・ベニーニ共演によるジャームッシュ・ワールドの集大成的3作目。

ヴェンダース作品で知られる名撮影監督ロビー・ミュラーを迎え、

ファンの間でもとくに人気の高い作品。

舞台はニューオリンズ。チンピラのジャックとラジオDJのザックが、

それぞれ間抜けな罠にかかり刑務所の同じ房に入れられる。

そこに不思議なイタリア人旅行者のロベルトが加わって、

脱獄した3人の逃走の行方はどこともつかぬどこかへ…。

 

監督:ジム・ジャームッシュ

脚本:ジム・ジャームッシュ

出演者:トム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ、

    ニコレッタ・ブラスキ、エレン・バーキン、ビリー・ニール、

    ロケッツ・レッドグレア、バーネル・バッグナリス、ティモティア、

    L・C・ドレイン

 

 

 

[視聴媒体] NetFlix


 

私:

映画「ダウン・バイー・ロー」の解説を詳しくお願いします。

 

 

ChatGPT:

『ダウン・バイ・ロー』は、ジム・ジャームッシュの初期を代表する作品であり、

「物語を語る映画」というより “空気と時間を味わう映画” と

言ったほうが本質に近い作品です。

初見では「何が言いたい映画なのか分からない」と感じる人も多いのですが、

実はかなり緻密に設計されています。

以下、テーマ・構造・映像・ラストまで含めて詳しく解説します。 

まず結論:この映画は何を描いているのか?

一言でいえば、

「社会からはみ出した3人が、一時的に“兄弟”になる物語」

原題 Down by Law は刑務所スラングで「気の合う仲間」「同じ側の人間」

という意味を持ちます。

ジャームッシュはこの言葉を使って、血縁でも友情でもない、

一瞬だけ成立する連帯 を描いています。 

 

 

あらすじを“構造”で見る

第1部

ニューオーリンズ(閉塞)

  • ザック(トム・ウェイツ)…落ち目のDJ

  • ジャック(ジョン・ルーリー)…小悪党

  • 二人とも 罠にはめられ、無実に近い形で逮捕 される。

→ ここでは「社会システムの理不尽さ」が描かれます。

第2部

刑務所(停滞)

ザックとジャックは反発し合う。

そこへイタリア人ロベルト(ロベルト・ベニーニ)が入ってくる。

重要な転換点

ロベルトだけが、世界を“ゲーム”として見ている

彼は英語も完璧ではなく、状況の深刻さを半分理解していない。

だからこそ、二人が失っていた ユーモア を持ち込む。

第3部

沼地(自由)

脱獄には成功するが、今度は 広大な沼地で迷子になる。

普通の映画なら「脱獄=解放」ですが、本作では違います。

刑務所

沼地

どちらも“出口が見えない空間”

つまり 自由になっても、人はすぐには生き方を変えられない のです。

なぜモノクロなのか?

Down By Law — Cult Projections

Down by Law - Kinokalender Dresden

BABYLON in Berlin - Clowns: Down by Law

 

 

モノクロには3つの効果があります。

1. 現実感を薄める

ニューオーリンズなのに、夢の中のように見える。

2. 時間を止める

1980年代の映画なのに、1930年代にも見える。

3. 人物を“記号”にする

ザック=疲れた男、ジャック=疑い深い男、ロベルト=無邪気な男。

ジャームッシュは心理描写を減らし、顔・歩き方・沈黙 で人物を見せています。

トム・ウェイツとジョン・ルーリーの存在

ザック

トム・ウェイツ

歌手

酒焼けした声・疲れた身体

彼が立っているだけで、アメリカの裏通りの匂い がする。

劇中曲「Jockey Full of Bourbon」も使用。 

 

 

ジャック

ジョン・ルーリー

音楽家

ジャズ的でクール

ウェイツの泥臭さと対照的。

この 二人の温度差 が映画全体のリズムになっています。

 

ロベルト・ベニーニはなぜ重要か?

本作の核心です。

彼は“物語の外から来た人物”

ザックとジャックがノワール映画の登場人物だとすると、

ロベルトだけは おとぎ話の住人 のような存在です。

例えば有名なセリフ:

“It’s a sad and beautiful world.”(悲しくて、美しい世界だ)

この一言が、ジャームッシュ映画全体の哲学を表しています。

世界は理不尽だが、それでも美しい瞬間がある。

ラストシーンの意味

最後、三人は分かれ道に立ちます。

ロベルト → 女性と新しい生活へ

ザック → 一方の道へ

ジャック → もう一方の道へ

ここで重要なのは、三人は“親友”になったわけではない ことです。

ザックとジャックは相変わらず不器用で、感動的な抱擁もしない。

ただ、別れ際に 上着を交換する。

「お前の一部を持っていく」という無言の友情

ジャームッシュは、ハリウッド的な「友情の宣言」を避け、行動だけで感情を示す のです。

この映画が“ミニシアター文化の象徴”になった理由

1980年代の日本で本作は大ヒットしました。 

 

当時の若い観客は、ハリウッド映画のような

  • 明確な目的

  • 成功物語

  • 恋愛の成就

  • 派手なアクション

に少し飽き始めていました。

そこへ現れたジャームッシュは、

  • 何も解決しない

  • 説明しない

  • でも格好いい

  • そして妙に可笑しい

という新しい映画体験を提示したのです。 

 

 

あなたが注目すると面白いポイント

ポイント

見どころ

沈黙

会話より長い“間”が多い

横移動の撮影

人物が流れていく感じを作る

ロベルトの英語

言葉のズレがユーモアになる

沼地

自由と迷子が同時に表現される

ラストの分かれ道

人生の方向性の違いを象徴

最後に――『メゾン・ド・ヒミコ』との共通点

以前お話しした『メゾン・ド・ヒミコ』が “居場所のない人々の共同体” を描いていたのに対し、『ダウン・バイ・ロー』は “一時的にだけ成立する共同体” を描いています。

どちらも、社会の中心から少し外れた人間たちが集まり、完全には分かり合えないまま、それでも 短い時間だけ互いを必要とする という点で共通しています。

ジャームッシュはその関係を、説明やドラマではなく、歩く姿・沈黙・モノクロの光 で見せた――そこにこの映画の独特な魅力があります。

もし再鑑賞されるなら、「脱獄映画」ではなく「3人の距離が少しずつ縮まる映画」 として観ると、印象がかなり変わると思います。

 

 

 

 

私:

冒頭でジャックとベッドを共にした黒人娼婦の陰毛が映るシーンがありました。

 一方終盤のロベルトとニコレッタがダンスをするシーンでは、

ニコレッタの脇毛が映るシーンがあります。 

陰毛で始まり脇毛で終わった印象があります。 

それぞれの毛の意味、監督の狙いを詳しく考察してください。

 

 

 

 

 

ChatGPT:

その読みは、ジャームッシュ作品の「身体の細部」に注目したかなり鋭い見方だと思います。

ただし、まず前提として確認しておくと、監督自身が「陰毛と脇毛を対比させた」

という明確な発言をしているわけではありません。

したがって以下は 作品の映像表現から読み取れる解釈 です。

なぜ“毛”が印象に残るのか

『ダウン・バイ・ロー』は、ハリウッド的な「美しく整えられた身体」

をほとんど提示しません。

ジャームッシュが撮る身体は、

  • 汗をかく

  • 眠る

  • だらしなく横たわる

  • 毛が生えている

という 生活の痕跡を持った身体 です。

つまり「毛」は性的刺激のためだけでなく、“人間が生きている”ことの

物質的な証拠 として機能しています。

冒頭:黒人娼婦の陰毛

冒頭

意味:欲望・取引・都市の現実

このシーンでジャックは、愛情ではなく 金銭と欲望の関係 の中にいます。

陰毛が強く印象づけられるのは、身体が “商品”として存在している 

ことを観客に突きつけるからです。

しかも舞台はニューオーリンズの裏通り。そこにはロマンティックな照明も音楽もありません。

性的魅力の演出というより、都市の生々しさ

ジャックが属する世界の荒っぽさ

“肉体に閉じ込められた人生”の提示

ここでの陰毛は 下方(down) のイメージです。

タイトルの “Down” と響き合うように、人物たちは地面に近い場所、

欲望と貧困のレベルに沈んでいます。

終盤:ニコレッタの脇毛

終盤

意味:自然・自由・祝祭

ロベルトとニコレッタのダンス場面は、映画全体でもっとも軽やかなシーンです。

ここで見える脇毛は、冒頭の陰毛とは質感がまったく違います。

商品化された身体ではない

労働や欲望の現場ではない

音楽とダンスの中で自然に現れる身体

脇毛は、腕を上げて踊る動作によって見えます。

つまり “解放された身体の結果として見える毛” なのです。

陰毛が「横たわる身体」に属していたのに対し、脇毛は “動く身体” に属しています。

陰毛 → 脇毛 という移行

冒頭

終盤

陰毛

脇毛

ベッド

ダンス

取引

祝祭

停滞

運動

地下・下方

上方・開放

孤独

二人の共有

ジャームッシュの狙いをどう考えるか

ジャームッシュは、身体を「性的記号」よりも 存在の記号 として扱う監督です。

たとえば本作では、

  • トム・ウェイツのしわ

  • ジョン・ルーリーの痩せた顔

  • ロベルト・ベニーニの大きな身振り

  • ニコレッタの脇毛

が同じレベルで映されています。

つまり監督が見せたいのは「美しい肉体」ではなく、“その人にしかない身体の痕跡” です。

さらに深読みすると――“アメリカ”から“地中海”へ

冒頭の娼婦はニューオーリンズのアメリカ的な裏社会に属しています。

一方ニコレッタはイタリア系の陽気な世界を体現する存在です。

アメリカ的な孤独と取引

イタリア的な共同性と祝祭

ロベルトが物語にもたらしたのは、まさにこの「祝祭性」です。

その象徴として、ニコレッタの脇毛は “文明によって完全には整えられていない、

自然な生命力” を示している、と読むこともできます。

あなたの『陰毛で始まり脇毛で終わる』という感覚について

これは単なる下ネタ的な印象ではなく、映画の構造をかなり正確に捉えています。

この映画は、

閉じた身体(ベッド)

閉じた空間(刑務所)

開いた空間(沼地)

開いた身体(ダンス)

へと変化していく物語

だからこそ、冒頭の陰毛と終盤の脇毛は偶然以上の響きを持っています。

ジャームッシュが意識的に対比したかは断定できませんが、

映像の流れとしては 「欲望に縛られた身体」から「自由に動く身体」への変化 を、

観客の無意識に刻み込む配置になっている

――そう考えると、この二つのショットは映画全体のテーマを凝縮した

非常に象徴的な対照になっていると言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暑い・・・

そして忙しい。。。

 

ちょっとパワーつけようと思って、

栄養ドリンクを買いにドラッグ・ストアに入った。

 

すると、季節柄なのか Whiteberryの「夏祭り」がかかっていた。

 

彼女達にはなんの恨みもないが、なぜかいらついた(笑)

 

 

個人的には、オリジナルのジッタリン・ジン「夏祭り」の方が

落ち着いて聴ける(こちらは1990年の発売) 

 

ライブバージョンもあるんだね(2000年のライブみたい)

 

 

ヤクルトスワローズファンに確認したいのだが、

選手を応援する際に「夏祭り」を使っているが、

勿論、ジッタリン・ジンバージョンを意識しているんだろうな?、と(笑)

 

繰り返すが、Whiteberryには何の恨みもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルミネッセンス (光文社文庫)

 

 

・単行本:2023年7月 光文社

・文庫本:2026年6月 光文社文庫

 

<内容紹介>

低層の団地群を抱くその町は寂れていた。商店街はシャッターが目立ち、

若者は都会に去り、池では幽霊が出るという。

そこで人々が交わすどこかいびつな睦み。

母の介護にやってきた男はバーで出逢った少年に惹かれ、文房具店の女はたった一人の客のために店を開ける。

同窓会に集まった者たちは熱情に任せ不実の恋に溺れていく……。

終着点が見えるからこそ、その輝きに焦がれる。たとえ瞬く間に燃え尽きるとしても。

直木賞作家のダークサイドで染め上げられた連作短編集。

 


窪美澄の文庫新刊が出たので、また kindleストアで購入。

 

「世にも奇妙な物語」の窪 美澄バージョンというところか?

各話 低層団地&シャッター商店街 の街で起こる出来事で

連作になっています。

 

 

以下のような5話で構成されています。

 

 

・バツイチの男。母親の介護で実家の団地を訪れる。

 同級生にあって同窓会に誘われる。同窓会の後によってスナックだかバーにいた

 少年に惹かれる。その少年の身体は求めるようなことはなく、

 お金を払ってホテルで勉強を教える日々。

 スナックだかバーが潰れ、少年ともお別れ。

 男は、その後も少年を探して駅に佇む。

 ある日、少年をみつけ、勉強を教えようと言い寄り捕まる(少年は別人)

 

 

・父親が亡くなり、父が営んでいた実家の文房具店の後片付けに来た女。

 ノートを買いに来た男の子の対応をした時、

 昔ノートも買えない貧しい同級生の男の子(父親に虐待されている気配あり)に

 ノートをあげようとして拒否された出来事を思い出す。

 その同級生の子は、その後団地内の池(?)で水死体で発見される。

 同窓会でその子の話をすると、死ぬ直前に文房具屋での万引きがバレて

 文房具屋の店主(女の父)に団地に怒鳴り込まれたという事件があったことを知る。

 女は、ノートを買いに来た男の子=池で亡くなった同級生のように思い込み、

 病んでいく。

 ノートを買いに来た男の子をみつけ後をつけると、

 そこは団地の池。足を滑らせ、深く沈んでいく。

 

・同窓会で意気投合した女性(初恋の人と身体の関係にない逢瀬を繰り返す男。

 目の病気が発覚したとき、息子に逢瀬の場面を見られたことを知る。

 女に別れを告げると、最後の逢瀬の場所としてホテルを指定される。

 ホテルではその女に薬(ED薬?)を渡される、身体をかわず。

 急に未練がわき、女の家までいくが

 女は何事もなかったかのように、子供とわきあいあいとしている。

 女はこういうことに手慣れた感じ? と思い、

 思春期の頃の女の面影が崩れる。男はなぜか、高速を車でかっ飛ばし

 そこで目の病が・・・ そして事故る。

 

・母子家庭の女の子。学校ではいじめられている。

 おじいさんが団地に住んでおり、時々様子を見に行く。

 その団地には、女の子をいじめている同級生も住んでいる。

 ある日、おじいさんの家のドアに女の子の悪口を書いた同級生が

 おじいさんに捕まる。おじいさんは普段とは違い、凄みのある声で同級生を脅す。

 おじいさんの助けを借りた女の子は、その同級生を撃退。

 数日後、おじいさんはその団地で発作かなんかで亡くなる。

 女の子をいじめていた同級生は、女の子を恐れるようになる。

 女の子もいじめに負けないような強さを持つ。

 (5作の中で、唯一前向きな終わり方)

 

・おじいさんが死んだという部屋に越してきた男。

 酒を飲むと時々記憶が無くなるのが難点。

 前に住んでいたところでは、女ストーカーに悩まされていた。

 越してきた団地では平穏に暮らし、仲良くなった女性ともいい関係になるが

 だんだんその女性も鬱陶しく感じ始める・・・と同時に女ストーカーとの情交が恋しくなる男。

 すると女ストーカーから連絡。

 なんでも池で待っているらしい・・・

 池に行くと女ストーカーがいる。女ストーカーに触れると同時に逮捕される。

 そこで、自分が女ストーカー殺したことを思い出す。

 女ストーカーの死体は、その男の元の家から発見されていた・・・

 

 

全作団地周りで事件が起きています。

地場怪談小説ってところでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

メゾン・ド・ヒミコ

 

[視聴媒体]BS松竹東急(録画)

 


 

21年前の映画ということで、

柴咲コウも オダギリジョーも 西島秀俊も若い。

一方、田中泯は今と変わらない(笑)

 

柴咲コウの父親が田中泯。

柴咲コウが子供の頃に、田中泯はゲイであることをカミングアウトして家族と離別。

銀座の「卑弥呼」というゲイバーのママにおさまる。

ガンを患い、店を畳み「メゾン・ド・ヒミコ」というゲイ老人の集まる老人ホームを開設。

末期ガンで余命僅かになった時に、泯の恋人のオダギリジョーが娘の柴咲コウに

老人ホームを手伝うように依頼することから話が始まる(有償で)。

 

西島秀俊は、柴咲コウが務める工務店(?)の専務。

後ろ髪を長くしており、今に西島秀俊とはイメージが違う。

キャラ的には女好き。

女性事務員の採用は顔で選び、片っ端から手を出す。

でもなぜか柴咲コウには手は出していなかった。

物語上、柴咲コウは仕事はできる感じだったので、

辞められると困るので、敢えて手は出さなかったのだろうか?

(最終的に柴咲コウは、オダギリジョーと喧嘩して勢いで西島秀俊と寝るけど・・・)

 

オダギリージョーも西島秀俊も

本作では性欲を剥き出しにするタイプ。

オダギリジョーは、男にも女にもで、

西島秀俊のことも口説いてみたりする。

柴咲コウともセックスしそうになるが、胸に手を入れたところで

「あんたの触りたいとこないでしょ?」と言われ、中断する。。。

(あんたの触りたいとこ = チ●コ ということだろうか? 笑 

 いやもっと心情的な意味なんだろうね)

 

 

そして、そんな性欲剥き出しのオダギリジョー&西島秀俊。

ともに、必要性もないのに上半身裸を見せるシーンがあり(笑)

 

ChatGPTとまた語り合った。

 

 

 


私:

映画「メゾン・ド・ヒミコ」についての解説をお願いします。

 

 

ChatGPT:

メゾン・ド・ヒミコは、単に「ゲイを描いた映画」ではありません。

監督は犬童一心、脚本は渡辺あや。主演は柴咲コウ、オダギリジョー、田中泯です。ゲイのための老人ホームを舞台に、「親子の和解」「老い」「家族とは何か」「他者を受け入れること」を描いた作品として高く評価されています。

あらすじ(ネタバレ控えめ)

主人公・沙織は、幼い頃にゲイである父・卑弥呼に捨てられたという思いを抱えています。

ある日、父の若い恋人・春彦が現れ、「父は余命わずかだから、老人ホームを手伝ってほしい」と頼みます。

借金を抱える沙織は金のために働き始めますが、そこには人生の終盤を迎えたゲイの老人たちが、それぞれ孤独や後悔を抱えながら暮らしていました。


テーマ① 「父を許せるか」

この映画の中心はLGBTではなく、

「親に捨てられた娘が、父をどう受け止めるか」

という物語です。

沙織から見れば、

  • 父は母を苦しめた
  • 自分を捨てた
  • しかも恋人までいる

という最低の存在です。

しかし物語が進むにつれ、

「父は娘を愛していなかった」のではなく、

"自分らしく生きようとした結果、多くを失った人"

として少しずつ見え方が変わっていきます。

映画は父を美化もしませんし、沙織に「許しなさい」とも言いません。

ただ、

理解することと許すことは違う

という距離感を保っています。


テーマ② 「老人ホーム」という設定

非常に象徴的なのが舞台です。

老人ホームとは、

「人生の終点」

です。

入居者たちは若い頃、

  • 家族と絶縁し
  • 社会から偏見を受け
  • 恋人とも別れ

という人生を歩いてきました。

つまり、

「老後になっても家族の問題は終わらない」

ということが描かれています。

彼らは「性的マイノリティ」である以前に、

「老いて孤独になった人間」

なのです。


テーマ③ 春彦という存在

オダギリジョー演じる春彦は、不思議な人物です。

彼は

  • 恋人
  • 息子のような存在
  • 看取り人
  • 沙織との恋愛対象

という複数の役割を担っています。

春彦自身も居場所を求めています。

だからこそ、

メゾン・ド・ヒミコは

「血縁ではない家族」

を象徴する場所になっています。


テーマ④ 「普通」とは何か

会社では女性社員たちが男性上司に媚びることで立場を得ています。

一方でゲイたちは「普通ではない」と見られています。

この対比によって映画は、

本当に"普通"なのは誰なのか

という問いを投げています。

異性愛が当然という社会そのものを相対化する作品として読むこともできます。


ラストの意味

ラストは大きなドラマチックな和解ではありません。

父と娘の傷は完全には癒えません。

しかし、

沙織は以前より少しだけ、

父を一人の人間として見ることができるようになります。

つまり、

和解ではなく「理解への第一歩」

で終わる映画なのです。


細野晴臣の音楽

音楽を担当したのは細野晴臣。

軽やかでどこか浮遊感のある音楽が、

重いテーマを必要以上に湿っぽくせず、

現実と幻想の中間のような雰囲気を作っています。


この映画の魅力

『メゾン・ド・ヒミコ』は、2005年当時としてはLGBTを正面から扱った先進的な作品でしたが、その価値は社会的テーマだけではありません。

むしろ普遍的なのは、

  • 家族との距離
  • 老いへの不安
  • 愛する人を看取ること
  • 居場所を探すこと

といった、誰もが向き合う可能性のある問題を静かに描いている点です。

派手な事件は起こらず、明快な答えも提示されません。しかし、登場人物たちが少しずつ互いの存在を認め合っていく過程が、この作品ならではの余韻を生み出しています。

もしご興味があれば、次は**ラストシーンの細かな意味や、春彦(オダギリジョー)は沙織を本当に愛していたのか、あるいは西島秀俊演じる細川という人物の役割**についても掘り下げて考察できます。

 

 

 

私:

オダギリジョーと柴崎コウは、途中でセックスをやめます。そのシーンを掘り下げてください。

 

 

 

 

ChatGPT:

あのシーンは『メゾン・ド・ヒミコ』の中でも最も重要な場面の一つです。性的な場面でありながら、焦点は「性行為」ではなく、「互いの孤独」と「埋められない距離」にあります。

以下、ネタバレを含めて考察します。


なぜ二人は結ばれそうになったのか

沙織(柴咲コウ)は、それまでずっと春彦(オダギリジョー)に対して複雑な感情を抱いていました。

春彦は、

  • 父・卑弥呼の恋人であることへの嫌悪
  • 自分を傷つけた父の現在の「家族」であることへの嫉妬
  • 一方で、自分を理解してくれる唯一の存在でもあること

という矛盾した感情の対象です。

春彦もまた、卑弥呼の死が近づくなかで、精神的な支えを求めていました。

つまり、この場面は「愛が盛り上がった」からではなく、極度の孤独の中で互いを求めた結果として描かれています。


春彦はなぜ途中でやめたのか

ここにはいくつかの解釈があります。

① 卑弥呼への愛

もっとも素直な解釈です。

春彦は卑弥呼を本当に愛しています。

肉体的には老いた恋人であり、死を目前にしていますが、その愛情は終わっていません。

そのため、沙織に惹かれる気持ちがあったとしても、一線を越えることはできませんでした。


② 沙織を傷つけたくなかった

春彦は沙織が父への怒りや寂しさを抱えていることを理解しています。

この状況で身体を重ねても、

本当に求めている相手ではない

ことに気づいたのでしょう。

一時的な慰めにはなっても、あとで沙織をさらに苦しめる可能性があります。

そのため、自ら止めたとも考えられます。


③ 自分の性的アイデンティティ

この点は観客の間でも議論があります。

春彦は卑弥呼の恋人ですが、映画では「ゲイ」と断定されるわけではありません。

むしろ男性も女性も愛せる人物、つまりバイセクシュアル、あるいは性別よりも相手個人に惹かれるタイプとして読むこともできます。

実際、沙織に性的魅力を感じている様子はあります。

だからこそ途中まで進みます。

しかし最終的には、自分の気持ちを整理できず止めたようにも見えます。


沙織にとっては何だったのか

沙織にとって春彦との行為は、

父への復讐でも、
恋愛でもなく、

「誰かに必要とされたい」という願い

だったように思えます。

彼女は映画を通して、

  • 職場では軽く扱われ
  • 父には捨てられ
  • 恋人もいない

という孤独の中にいます。

だから身体を重ねることは、

「私はここにいていいの?」

という問いへの答えを求める行為でもありました。


このシーンが示すもの

多くの映画なら、この場面は恋愛の成就か破綻の決定的な転機になります。

しかし『メゾン・ド・ヒミコ』では、途中で止まることに意味があります。

二人は相手を利用することも、所有することも選ばず、「今の関係を壊さない」という選択をします。

その結果、この場面は恋愛映画のクライマックスではなく、互いを一人の人間として尊重し始める転機となっています。


「途中でやめる」という演出の意味

犬童一心監督は、このシーンを「欲望が抑えられた場面」としてではなく、欲望だけでは人と人は結びつかないことを示す場面として演出しているように見えます。

もし二人が最後まで関係を持っていたら、春彦は「父の恋人」から「沙織の恋人」へと役割を移し替えるだけの人物になってしまったでしょう。しかし、そこで踏みとどまることで、映画は恋愛の物語ではなく、傷を抱えた人々がそれぞれの形で他者と向き合う物語であり続けます。

だからこそ、この「途中でやめる」という選択は消極的な中断ではなく、登場人物たちの成熟や誠実さを静かに示す、作品全体のテーマを象徴する場面だと考えられます。

 

 

 

私:

柴崎コウはジョーに胸を揉まれながらも、ジョーの心の葛藤を感じ「触りたいところないでしょ?」と言い放ちます。“触りたいところ“は何を指すと思いますか?

 

 

 

ChatGPT:

あの台詞は、『メゾン・ド・ヒミコ』の中でも非常に印象的で、多義的な意味を持っています。

触りたいところないでしょ?

という言葉は、文字どおりには「胸を触っていても、本当に触りたいのはそこじゃないでしょう」という意味ですが、それ以上に心理的な意味合いが強い台詞です。

考えられる解釈をいくつか挙げます。

1. 「本当に触れたいのは私ではない」(最も有力)

この場面で春彦は沙織の胸に触れていますが、沙織は彼の手に「欲望」が乗っていないことを感じ取ります。

つまり、

「あなたは私を欲しがっていない。」

という見抜きです。

春彦の心は、死を目前にした卑弥呼のもとにあります。肉体は沙織と一緒にいても、心は別の場所にある。その違和感を沙織は敏感に察知したのでしょう。

この意味で「触りたいところ」は、単に身体の部位ではなく、「本当に求めている相手」を指していると読めます。


2. 「私の身体ではなく、心に触れたいわけでもない」

もう一つ興味深い解釈があります。

沙織は映画を通して、「自分は愛される価値のない人間だ」という自己否定を抱えています。

だからこそ、この台詞は皮肉でもあります。

「胸なんて触ってるけど、本当は私自身に興味なんてないでしょ。」

という、自分を突き放す言い方です。

この台詞には、父に捨てられた娘としての諦めも滲んでいます。


3. 「あなたが触れたいのは卑弥呼」

これは比喩的な解釈ですが、かなり説得力があります。

春彦は卑弥呼を看病し、死を受け入れようとしている最中です。

沙織との行為は、一瞬だけ孤独から逃れようとしたものの、心の奥底では

「触れたいのは、もうすぐ失われるあの人」

なのです。

もちろん現実には触れることはできます。しかし、その人は死へ向かっており、以前のようには触れ合えない。その喪失感が春彦を支配しています。

沙織は、それを見抜いています。


この台詞を言える沙織の変化

この場面で印象的なのは、沙織が相手を責めていないことです。

もし序盤の沙織なら、

「ゲイなんだから無理しなくていい。」

あるいは、

「私で代用しようとしてるだけでしょ。」

と怒りをぶつけても不思議ではありません。

しかし彼女は、春彦の苦しみを理解したうえで、

「触りたいところないでしょ?」

と静かに問いかけます。

これは責める言葉というより、「あなたは無理をしている」と相手を見抜いた言葉です。


私が最も重要だと思う点

この台詞の「触りたいところ」は、あえて曖昧に書かれているからこそ力があります。

身体の部位を指しているようでいて、実際には**「心が本当に向かっている対象」**を意味しているのでしょう。

つまり沙織は、

「あなたの手は私に触れている。でも、あなたの心は私には触れていない。」

と言っているのです。

だから春彦はその言葉に反論できず、行為を続けることもできなかった。沙織は、春彦自身が認めたくなかった本心を、一言で言い当ててしまったのだと考えられます。

 

 

 

 

私:

ジョーはコウとの別れ際、「西島秀俊と食事をした。西島秀俊からコウと寝たという話を聞いた。ちょっと羨ましかった。西島と寝たコウではなく、コウと寝た西島のことが羨ましかった」という話をし、それを聞いたコウが号泣します。このやりとりと双方の気持ちを解説願います。

 

 

 

ChatGPT:

このやり取りは、『メゾン・ド・ヒミコ』の中でも最も切なく、春彦と沙織の関係を決定づける場面だと思います。

春彦の台詞を要約すると、

「細川(西島秀俊)から、君と寝た話を聞いた。少し羨ましいと思った。でも羨ましかったのは、君と寝た君ではなく、『君と寝ることができた細川』だった。」

という内容です。

この一見回りくどい告白には、春彦の複雑な感情が凝縮されています。


春彦は何を伝えたかったのか

重要なのは、「君が羨ましかった」ではなく、「細川が羨ましかった」と言っていることです。

つまり、

「私は君を抱きたいと思った。」

という、かなり率直な愛情表現です。

しかし春彦は、自分を「ゲイ」と認識し、長く卑弥呼を愛してきた人物です。だから「君を愛している」と単純には言えません。

そこで彼は、自分の感情を「細川への羨望」という形でしか表現できなかったのでしょう。


なぜ「細川が羨ましい」のか

ここがこの台詞の核心です。

春彦は、沙織との性行為を途中でやめています。

あの時、彼は沙織を拒絶したのではありません。

むしろ、

「抱きたいのに抱けなかった」

のです。

だから細川は、

  • 沙織を抱けた
  • 自分にはできなかった

という意味で羨ましい存在になります。

つまり羨ましさの対象は「男性として沙織を愛することができたこと」です。


沙織は何を理解したのか

ここで沙織は号泣します。

それまで彼女は、

「春彦はゲイだから私を抱けなかった。」

と思っていた節があります。

あるいは、

「私は女性として魅力がない。」

とも思っていたでしょう。

しかしこの告白によって、

「違った。」

と気づきます。

春彦は、自分を欲しいと思っていた。

それでも抱かなかった。

つまり、自分に魅力がなかったわけではない。

その事実を初めて知るのです。


なぜ抱かなかったのか

だからこそ、以前話題になった

「触りたいところないでしょ?」

という沙織の台詞が、ここで反転します。

あの時の沙織の理解は、

「あなたは私を欲しがっていない。」

でした。

しかし春彦は最後に、

「欲しかった。」

と告白するのです。

ただ、それ以上に、

  • 卑弥呼への愛
  • 死を迎える恋人への誠実さ
  • 沙織を傷つけたくない気持ち

が勝ってしまった。

だから抱けなかった。


「羨ましい」という言葉しか選べなかった理由

春彦は最後まで

「愛している」

とは言いません。

それは映画が恋愛映画ではないからでもあります。

「羨ましい」という言葉は、

  • 恋愛
  • 性的欲望
  • 尊敬
  • 諦め

すべてを含められる便利な言葉です。

だから春彦は、その一言でしか自分の気持ちを表現できなかったのでしょう。


沙織が号泣した本当の理由

私は、沙織が泣いた理由は「告白されたから」だけではないと思います。

彼女は幼い頃から、父に捨てられたという思いを抱え、「誰にも選ばれない人間」という自己評価を抱えて生きてきました。

春彦の「細川が羨ましかった」という告白は、その自己評価を静かに覆します。

それは「君は魅力的な女性だった」「私は君を望んでいた」という意味であると同時に、「だからこそ、君を一時の寂しさを埋める相手にはしたくなかった」という誠実さの表明でもあります。

沙織はその瞬間、初めて「自分は利用されるだけの存在ではなく、一人の人間として大切に思われていた」と理解したのでしょう。その理解は、父との確執や孤独の中で長く抱えてきた自己否定を少しだけ和らげます。

だからあの涙は、失恋の涙というよりも、「ようやく自分が誰かに本当に見てもらえた」という安堵と、しかしその相手とは結ばれないという切なさが同時にあふれ出した涙として受け止めることができます。

 

 

 

私:

西島秀俊は会社の女子社員と片っ端から関係を持ちます。でも柴崎コウとだけは関係がなかったように見えました(コウがジョーと争った勢いで関係を持つまでは・・・・)。ずっと関係を持たなかった理由を推測してください。

 

 

 

ChatGPT:

これは興味深い点です。映画では細川(西島秀俊)は、会社の女性社員と気軽に関係を持つ人物として描かれています。しかし沙織(柴咲コウ)とは、物語の途中まではそうした関係になっていません。その理由は明示されませんが、作品全体からいくつかの推測ができます。

1. 沙織は「口説きやすい女性」ではなかった

細川が関係を持つ女性社員たちは、彼との関係をある種の「社内ゲーム」として受け入れているようにも描かれています。

一方、沙織は会社でも孤立気味で、他人に媚びません。

細川は女性を観察する力があり、「この人は簡単には応じない」と見抜いていた可能性があります。

つまり、

  • 他の女性=軽い駆け引きが成立する
  • 沙織=駆け引きそのものを拒否する

という違いです。


2. 細川は沙織に「本気になる可能性」を感じていた

これは少し踏み込んだ解釈ですが、細川は遊び相手と、本気になり得る相手を無意識に区別していたとも考えられます。

遊びなら気軽に誘える。

しかし本当に気になる相手には、かえって距離を置く人は現実にもいます。

映画では細川の内面は多く語られませんが、沙織への接し方には他の女性社員への軽さとは少し違う空気があります。


3. 沙織自身が「拒絶の壁」を作っていた

私はこれが最も説得力のある理由だと思います。

沙織は父との関係から、

  • 人を信用できない
  • 自分は愛されない
  • 他人に期待しない

という防衛的な生き方をしています。

そのため、細川のような男性が近づいても、

「どうせ遊びでしょ」

という雰囲気を最初からまとっています。

細川も、その壁を感じていたのでしょう。


4. 関係を持ったタイミングに意味がある

結局二人が関係を持つのは、沙織が春彦との間で感情を大きく揺さぶられた後です。

重要なのは、

細川を好きになったからではない

という点です。

沙織は、

  • 春彦への思いが叶わない
  • 自分の感情を整理できない
  • 傷ついた

という精神状態にあります。

一方、細川はいつものように受け入れます。

つまり、この出来事は恋愛というより、

二人の孤独が一瞬だけ交差した

場面として描かれています。


細川という人物の役割

細川は、映画の中ではある意味で「対照軸」です。

  • 春彦は、愛しているからこそ沙織と最後まで関係を持てなかった。
  • 細川は、深い感情がなくても沙織と関係を持てる。

この対比によって、映画は「性行為をすること」と「相手を深く思うこと」は同じではない、と示しています。

だからこそ、春彦が最後に「細川が羨ましかった」と語る言葉には重みがあります。それは「細川のように気軽に振る舞えたら」という意味ではなく、「自分も沙織を抱きたいという気持ちはあった。しかし、自分にはその一線を越えることができなかった」という、愛情と誠実さゆえの葛藤の告白として響くのです。

映画は細川を単純な「女好き」として描いて終わるのではなく、春彦との対照を通じて、「身体を重ねること」と「誰かを本当に大切に思うこと」の違いを静かに浮かび上がらせているように思います。

 

 

私:

ジョーも西島も、その必要性はないのに劇中で上半身裸を披露します。女性視聴者やゲイ視聴者を意識した演出と思いますか?

 

 

ChatGPT:

十分にあり得る解釈ですが、「それだけが目的だった」と断定するのは難しいと思います。

『メゾン・ド・ヒミコ』という作品全体の演出を考えると、少なくとも3つの意図が重なっているように見えます。

① 女性・ゲイの「見る視線」を意識した演出(かなり可能性が高い)

2005年当時、日本映画では「男性の身体を鑑賞の対象として撮る」作品はまだ珍しいものでした。

従来の映画では、

  • 女性の裸や身体が「見られる対象」
  • 男性は「見る主体」

として描かれることが多かったのですが、本作ではその構図が部分的に反転しています。

春彦(オダギリジョー)は、非常に美しい身体を持つ青年として撮影されており、カメラはその肉体を隠そうとはしません。

また細川(西島秀俊)も、性的な魅力を備えた男性として描かれています。

つまり、

「男性を鑑賞する視線」

を映画が積極的に取り入れているのは間違いないでしょう。

これは女性観客だけでなく、ゲイ男性の視線も意識していると考えることは十分できます。


② 春彦という人物を「美しい存在」として神話化している

一方で、春彦の裸には性的サービス以上の意味があります。

彼は作品中、

  • 若さ
  • 美しさ
  • 儚さ

の象徴です。

対照的に卑弥呼(田中泯)は老いと死を象徴しています。

つまり、

若い肉体と老いた肉体

を対比させるためにも、春彦の身体は重要な要素になっています。

裸は「エロティック」でもありますが、それ以上に

生命力

を表しています。


③ 沙織の視点を観客に共有させる

これは特に春彦について言えることです。

沙織は春彦を見て、

「なんてきれいな人なんだろう」

という感情を抱いています。

映画は観客にも同じ体験をさせようとしています。

つまり、

沙織の視線

観客の視線

を一致させるために、春彦の身体を見せているとも考えられます。


西島秀俊の場合

細川の裸は少し意味が違います。

彼は女性社員と次々に関係を持つ男性です。

したがって、

「この男には性的魅力がある」

という説得力が必要です。

観客にも

「なるほど、この男ならモテる」

と思わせるために、身体を見せる演出は有効です。

春彦ほど詩的ではなく、より現実的・肉体的な魅力の表現といえるでしょう。


2005年という時代背景

この作品が公開された2005年は、オダギリジョーも西島秀俊も「美形俳優」として人気を集めていた時期です。

特にオダギリジョーは、中性的で洗練された魅力を持つ俳優として知られていました。そのキャスティング自体が、「春彦」という人物の危うい美しさを成立させる重要な要素だったと言えます。

制作側が、彼らの人気やルックスが女性客を惹きつけることを全く意識していなかったとは考えにくいでしょう。


総合すると

私は、この演出には商業的な意図と作品上の必然性の両方があったと考えます。

単に「サービスカット」を入れたというより、映画そのものが「誰が誰を見るのか」という視線の問題をテーマの一部として扱っています。

ゲイ男性を描く作品でありながら、その視線を異性愛の男性だけに固定せず、女性やゲイ男性の「男性を美しいと感じる視線」も映画の中に取り込んでいる。その意味で、オダギリジョーや西島秀俊の上半身裸は、観客へのアピールであると同時に、作品のテーマとも調和した演出だったと考えられます。