製作年:1991年
製作国:台湾
上映時間:236分
<内容紹介>
台湾の名匠エドワード・ヤンが手がけた青春群像劇。
1991年の第4回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、
ヤン監督の日本初公開作品として92年に劇場公開された。
61年夏、14歳の少年が同い年のガールフレンドを殺害するという、
台湾で初の未成年による殺人事件が起こる。
不良少年同士の抗争、プレスリーに憧れる少年の夢、
大陸に帰りたいと願う少年の親世代の焦りと不安を描きながら、
当時の台湾の社会的・精神的背景を浮き彫りにしていく。
主人公を演じるのは、当時まったくの素人だったチャン・チェン。
上映時間が188分のバージョンと236分のバージョンが存在し、
2016年の第29回東京国際映画祭ワールドフォーカス部門にて、
デジタルリマスターされた236分のバージョンがプレミア上映。
17年に同バージョンが劇場公開となる。
1英語タイトルの「 A Brighter Summer Day」はエルビス・プレスリーの曲
「好きにならずにいられない (Are You Lonesome Tonight?)」の歌詞による。
劇中、主人公の兄が勉強しながらこの曲を聴いて
「“A Brighter Summer Day”は文法的におかしいな」とひとりごとを言うシーンがある。
実際の曲の歌詞は“A Bright Summer Day”だが
プレスリーの歌い方は“A Brighter Summer Day”とも聞こえる。
<あらすじ>
舞台は1960年代初頭の台北・牯嶺街近辺。主人公の小四(シャオスー)(チャン・チェン)は、
大戦後に上海から台湾に渡ってきた両親、兄、二人の姉、妹とともに暮らしている。
公務員の父は生真面目で世渡りはうまくない。
しっかり者の母は教師をしている。
家は戦前に建てられた小さな日本家屋で、小四が一人になれるのはベッド代わりにしている押し入れの中だけだ。
名門である建国中学の昼間部に合格できず、
夜間部に通うことになった小四は「小公園」と呼ばれる不良グループのメンバーと仲良くなる。
ある夜、校舎内で「小公園」と敵対する「217」グループとのいざこざがあり、
そこにいあわせた小四は誰もいないはずの教室で見知らぬ少女の後ろ姿を見かける。
映画のスタジオに忍び込んで撮影をのぞき見たり、
エルヴィス・プレスリーに憧れたりと多感な時期を過ごしていた小四はある日、
保健室で小明(シャオミン)(リサ・ヤン)という少女に出会い、
やがて少しずつ親しくなっていく。
しかし小明は、人を殺して今は行方をくらませている「小公園」のリーダー、
ハニー(リン・ホンミン)の恋人だった。
小明は母との二人暮らしだが、喘息の発作がひどい母はまともに働けず、
二人は住まいを転々としながら貧しい生活を送っている。
夜の教室で小四が一瞬姿を見かけた少女は小明だった。
夜間部に軍司令官の息子である小馬(シャオマー)が転校してくる。
小馬が小四を助けたことから二人は仲良くなり、
「小公園」のメンバーで小四の親友でもある王茂(ワンマオ)や小明とともに、
小馬の暮らす邸宅で仲良くすごすようになる。
リーダーがいない「小公園」の弱体化を見て取った「217」のリーダー山東(シャンドン)は、
ハニーの代理として「小公園」を仕切る滑頭(ホアトウ)に接近する。
滑頭の父は中山堂というホールを管理する地位にあり、
山東はその滑頭に近づいて中山堂でロックバンドのコンサートを開き、
金儲けをする腹づもりだった。
コンサートの当日、中山堂の前に行方不明だったハニーが現れるが、
山東は人気のないところにハニーを誘い出すと交通事故に見せかけて殺してしまう。
恋人の死を知った小明は高熱を発して倒れる。
やがて回復し、久しぶりに登校した小明に対して小四は自分の思いを告げるが、
小明の態度は曖昧なままである。
「小公園」と「217」の対立は地元のヤクザも絡んで激化し、
山東は豪雨の夜に押し入ってきた「小公園」メンバー達によって惨殺される。
小四も見張り役としてこの事件に関わっていた。
その同じ夜、小四の父は大陸のスパイとの繋がりを疑われて当局の厳しい取り調べを受け、
帰宅を許されたものの精神的に不安定になってしまう。
小明の心をはかりかねて苦しむ小四は、やがて友人との関係も悪化し、
職員室で教師にバットを振り上げるという事件を起こして学校も退学させられてしまう。
更に、久しぶりに会った滑頭から、小明が小馬と関係を持っていたことを聞かされる。
小四は小馬に事実を確かめに行くが、小馬は小明とのことはただの遊びだと言って取り合わない。
小明の母は小馬の家の家政婦として雇われ、小明と母は小馬の家に住み込んでいた。
ますます行き詰まった小四はある夜、短刀を持って小馬を待ち伏せするが、
たまたま通りかかった小明に声をかけられ、
言い争いになったあげく彼女を刺し殺してしまう。
王茂が小四のいる留置場を訪れ、
エルビス・プレスリーの“Are You Lonesome Tonight?”を
録音したテープを差し入れるが、心ない職員はそのテープをゴミ箱に放り込む。
小四の家族たちが引越しのため荷物を整理している。
ラジオからは大学入試合格者の氏名を読み上げる声が流れ続けていた。
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
出演者:チャン・チェン、チャン・クォチュー、リサ・ヤン、エレイン・ジン、
チャン・ハン、チェン・シャンチー、ニー・シューチュン、リン・ルーピン
[視聴媒体] NetFlix
私:映画「牯嶺街少年殺人事件」を解説してください。
ChatGPT:
『牯嶺街少年殺人事件』(A Brighter Summer Day、1991年)は、エドワード・ヤンの代表作であり、台湾映画史だけでなく、世界映画史に残る傑作として高く評価されています。タイトルの「牯嶺街(クーリンチェ)」は、台北に実在する通りの名前です。本作は1961年に実際に起きた少年による少女殺害事件を題材にしていますが、単なる犯罪映画ではありません。むしろ「一人の少年がなぜ人を殺すに至ったのか」を、家族・学校・社会・国家という巨大な背景から描いた作品です。
あらすじ
主人公シャオスー(演:チャン・チェン)は、成績不振で夜間中学に通う14歳の少年です。
彼は不良グループ同士の抗争に巻き込まれながら、少女シャオミンに恋をします。しかしシャオミンは複数の少年たちとの関係を噂される存在であり、シャオスーは次第に嫉妬と混乱を深めていきます。
その一方で、
- 父は政治的な疑いをかけられ、秘密警察に取り調べを受ける
- 学校では教師が暴力を振るう
- 街では少年ギャングが勢力争いを繰り返す
という閉塞した社会の中で、シャオスーは居場所を失っていきます。そして最後には、取り返しのつかない事件を起こしてしまいます。
この映画のテーマ
1. 少年犯罪ではなく「時代」が犯人
映画を見終えると、「シャオスーが悪かった」という感想だけでは終われません。
彼の周囲には、
- 家庭の抑圧
- 学校の暴力
- 政治的不安
- 不良文化
- 将来への絶望
が積み重なっています。
つまり、この映画は
一人の少年が少女を殺した話ではなく、一つの時代が少年を壊した話
なのです。
1960年代の台湾は戒厳令下にあり、中国大陸から渡ってきた人々(外省人)と台湾にもともと住んでいた人々(本省人)の緊張も残っていました。大人たちは政治への恐怖を抱え、その不安が家庭や子どもたちにも影を落としていました。
2. 光と闇
本作で印象的なのは「光」の使い方です。
シャオスーは懐中電灯を持ち歩きます。
これは単なる小道具ではありません。
暗闇の中で、
- 真実を探そうとする
- 世界を理解しようとする
- 希望を見つけようとする
少年の姿そのものを象徴しています。
しかし、その光は非常に弱く、広大な闇を照らしきれません。
彼は世界を理解できないまま、大人になれませんでした。
3. 「A Brighter Summer Day」という皮肉
英題は A Brighter Summer Day。
これはエルヴィス・プレスリーの曲「Are You Lonesome Tonight?」の歌詞に由来するとされています。
しかし映画には「明るい夏の日」は訪れません。
むしろ、
- 夜
- 停電
- 暗い校舎
- 路地
ばかりが描かれます。
タイトル自体が失われた青春への皮肉になっています。
シャオミンとは何者か
シャオミンを「浮気性の少女」とだけ見るのは、この映画を狭く見てしまうことになります。
彼女もまた、
- 家庭が崩壊し
- 生き延びるために
- 男たちの庇護を渡り歩く
しかなかった少女です。
彼女は誰かを裏切ろうとしているのではなく、誰にも守られない少女なのです。
だからシャオスーは最後まで彼女を理解できません。
ラストの意味
ラストの殺人は、恋愛のもつれだけでは説明できません。
シャオスーは
- 家庭でも
- 学校でも
- 社会でも
- 恋愛でも
「理解されない存在」でした。
その孤独が最後に爆発します。
映画は犯行そのものよりも、
「なぜここまで追い詰められたのか」
を約4時間かけて積み重ねています。
なぜ4時間近い上映時間なのか
236分という長さは、「事件」を見るためではありません。
観客自身が1960年代台湾で生活しているような感覚になるためです。
日常の些細な出来事、
- 家族の食卓
- 学校生活
- 街角
- ラジオから流れる音楽
- ギャングのたまり場
これらを丁寧に積み重ねることで、最後の悲劇が「突然の出来事」ではなく、「避けられなかった帰結」として感じられる構成になっています。
この作品が今も評価される理由
『牯嶺街少年殺人事件』は青春映画であり、犯罪映画であり、政治映画であり、家族映画でもあります。しかし、そのどれか一つには収まりません。
一人の少年の視点から、時代そのものを描き切ったスケールの大きさが本作の最大の魅力です。そのため、多くの映画評論家が「20世紀後半を代表する一本」と位置づけています。
私:私はこの映画を見て、岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」を思い出しました。
ChatGPT:
その連想はとても自然だと思います。『牯嶺街少年殺人事件』と『リリイ・シュシュのすべて』には、物語や時代設定こそ異なりますが、共通する核があります。
エドワード・ヤンと岩井俊二は、「少年少女の心の崩壊」を、社会全体の問題として描こうとした点で共鳴しています。
共通点を挙げると、次のようになります。
- 主人公が環境に押しつぶされていく
- 『牯嶺街少年殺人事件』のシャオスーは、家庭・学校・政治状況・ギャング社会に翻弄されます。
- 『リリイ・シュシュのすべて』の蓮見や星野も、学校でのいじめや暴力、家庭環境の歪みから逃れられません。
- 「悪人」が一人いるわけではない
どちらも、「あいつが悪い」という単純な構図ではありません。登場人物はそれぞれ被害者であり加害者でもあります。星野は加害者になりますが、彼自身も挫折と喪失を経験しています。シャオスーも同様です。 - 暴力が突然ではなく、静かに蓄積される
どちらの作品も、大事件より前に、ごく普通の日常が長く描かれます。その積み重ねがあるからこそ、暴力が「唐突な事件」ではなく、「ここまで来てしまった」という必然として感じられます。
一方で、違いも興味深いです。
『牯嶺街少年殺人事件』は、1960年代台湾の戒厳令や外省人・本省人の対立など、「歴史」が若者たちの運命を規定しています。少年たちは大人たちが作った時代に巻き込まれます。
対して『リリイ・シュシュのすべて』では、政治や歴史はほとんど前景化されません。インターネットや音楽、学校という閉じた共同体の中で、少年少女が息苦しさを抱えています。社会全体よりも、現代日本の「空気」が彼らを追い詰めている印象です。
また、両作品とも音楽が重要な役割を果たします。
- 『牯嶺街少年殺人事件』では、アメリカンポップスやロックンロールが、自由への憧れや外の世界への夢を象徴しています。
- 『リリイ・シュシュのすべて』では、架空の歌手リリイ・シュシュの音楽が、登場人物たちにとって現実から逃れるための精神的な避難所になっています。
つまり、『牯嶺街少年殺人事件』では**「光」(懐中電灯や夜の街)が希望の象徴であり、『リリイ・シュシュのすべて』では「音」**(リリイの歌や「エーテル」)が希望の象徴になっている、と見ることもできます。
岩井俊二監督が『牯嶺街少年殺人事件』から直接影響を受けたと公言しているわけではありませんが、映画ファンの間では両作品を並べて語ることは少なくありません。どちらも、「青春の喪失」を、個人の問題ではなく時代や社会の構造の中で描いた作品として深く響き合っているからです。
私:岩井俊二監督は、エドワード・ヤン監督の影響を受けたと聞いたことがあるのですが事実ですか?
ChatGPT:
はい、事実です。
岩井俊二監督自身が、エドワード・ヤンから影響を受けたことを明確に語っています。特に興味深いのは、「映像の美しさ」よりも人物同士の関係性の描き方に強い影響を受けたという点です。
2015年、『花とアリス殺人事件』のイベントで岩井監督は、ヤンヤン 夏の想い出について次のような趣旨の発言をしています。
普通なら男女が出てくると恋愛として描いてしまう。しかし『ヤンヤン 夏の想い出』ではそうではなかった。人と人との関係にはもっと豊かな可能性があり、「映画にはまだこんな描き方があるのか」と驚いた。その発想を『花とアリス殺人事件』のアリスと父親の関係にも生かした。
さらに岩井監督は、
- エドワード・ヤン本人と台湾のバーで偶然知り合い、親しく交流したこと
- ヤン監督を「いい先輩でした」と語っていること
- ヤン監督が亡くなった際、ロサンゼルスで行われた葬儀にも参列したこと
も明かしています。
ですから、単に作品のファンだっただけではなく、実際に交流のあった映画人同士だったことがわかります。
一方で、『リリイ・シュシュのすべて』との関係については、岩井監督が「この作品は『牯嶺街少年殺人事件』を参考にした」と直接語った記録は、私の知る限りありません。
しかし、両作品を見比べると、共通点は少なくありません。
- 少年たちを善悪では裁かず、時代や環境の中で捉える視点
- 暴力が突然起こるのではなく、日常の中でゆっくり蓄積される構成
- 集団の力学が個人を飲み込んでいく描写
- 長回しや「余白」を生かし、観客自身に人物を観察させる演出
といった点には、エドワード・ヤン作品との親和性を感じる映画研究者や映画ファンは少なくありません。
ただし、岩井俊二監督の作風はエドワード・ヤン一人から生まれたものではありません。本人はインタビューで、市川崑、寺山修司、さらには『機動戦士ガンダム』など、多様な作品や作家から影響を受けたことも語っています。
そのため、『リリイ・シュシュのすべて』は「エドワード・ヤン風の映画」というよりも、エドワード・ヤンから学んだ「人間関係を単純化しない視点」を、岩井俊二自身の映像感覚や音楽性と融合させて生まれた作品と考えるのが最も実態に近いと思います。
私:『リリイ・シュシュのすべて』のシーンの中で、『牯嶺街少年殺人事件』をオマージュしたと思われるシーンはありますか?
ChatGPT:
結論から言うと、「このシーンは『牯嶺街少年殺人事件』のオマージュです」と岩井俊二監督が公言している場面はありません。
ただし、映画を比較すると、「これはエドワード・ヤン的だ」と感じさせる場面はいくつかあります。
1. 少年たちがたむろするシーン(最も近い)
『牯嶺街少年殺人事件』では、不良グループの少年たちが夜の街や空き地、学校周辺で何をするでもなく集まり、時間を過ごします。
『リリイ・シュシュのすべて』でも、
- 河川敷
- 田園地帯
- 廃墟
- 駅前
などで少年たちが集団で行動する場面が何度もあります。
これらは単なる背景ではなく、
少年たちだけの共同体
を描いている点が非常に似ています。
2. 暴力が「突然」ではなく「空気」として存在する
『牯嶺街少年殺人事件』では、誰かが突然殴り合うのではなく、
「今日は何か起こりそうだ」
という緊張感が何十分も続きます。
『リリイ・シュシュ』でも、
- 星野が徐々に支配者になっていく
- 雄一が抵抗できない
- 周囲も止めない
という空気がゆっくり醸成されます。
この暴力の蓄積の描き方は、ヤン作品との共通性を感じます。
3. 殺人の描き方
これは非常に興味深い点です。
『牯嶺街少年殺人事件』のラストでは、殺人は派手な演出ではなく、むしろ淡々と描かれます。
『リリイ・シュシュ』でも終盤の殺人は、ショッキングではあるものの、アクション映画のような演出ではありません。
どちらも
「殺した瞬間」
より
「そこへ至る心の軌跡」
を重要視しています。
この構成はかなり似ています。
4. 群像の撮り方
エドワード・ヤンは、
一人だけをアップで撮るより、
複数人を同じフレームに収め、
誰が主人公なのか分からないような画を好みました。
『リリイ・シュシュ』にも、
学校の廊下
教室
田園
ライブ会場
など、
人物を小さく置くショットが多くあります。
これはヤンだけの技法ではありませんが、共通する美意識を感じます。
私が「最もオマージュらしい」と感じるのは
個人的には、
「夜の少年たちが集団で街をさまよう場面」
です。
『牯嶺街少年殺人事件』では、
夜の台北を少年たちが歩き回る時間そのものが青春として描かれます。
『リリイ・シュシュ』でも、
夜や夕暮れの空間を少年たちが目的もなく移動する場面が印象的で、
「物語を進めるため」というより、
少年時代の空気そのものを記録する
という発想が非常によく似ています。
ただし、一つ大きな違いがあります。
エドワード・ヤンは距離を置いて観察する監督です。カメラは人物を見守り、観客に判断を委ねます。
一方、岩井俊二は人物の内面に入り込む監督です。逆光や手持ち撮影、音楽、環境音を使って、登場人物が感じている世界を観客にも体験させようとします。
ですから、『リリイ・シュシュのすべて』は『牯嶺街少年殺人事件』の「引用」や「再現」というよりも、エドワード・ヤンから学んだ青春群像の捉え方を、岩井俊二自身の感性で再構築した作品と考えるのが最も妥当だと思います。
私:キャラクターを対比させると、 市原隼人:小四(シャオスー) 蒼井優:小明(シャオミン) って感じでしょうか?
ChatGPT:
はい、その対応づけはかなりしっくりきます。ただし、**「完全に一致する」というより、「役割が近い」**という理解がよいと思います。
例えば次のように整理できます。
| 『リリイ・シュシュのすべて』 | 『牯嶺街少年殺人事件』 | 共通点 |
|---|---|---|
| 市原隼人(蓮見雄一) | 小四(シャオスー) | 内向的で感受性が強く、周囲の暴力や理不尽に翻弄される主人公。自分の居場所を見つけられない。 |
| 蒼井優(津田詩織) | 小明(シャオミン) | 主人公が理想化する少女。しかし現実には多くの男性との関係や噂に翻弄され、自分の意思だけでは生きられない存在。 |
特に蒼井優演じる津田詩織とシャオミンは、かなり共通しています。
- 男性たちの欲望や視線の対象になる。
- 自分の人生を主体的にコントロールできる立場ではない。
- 主人公は彼女たちを「救いたい」「自分だけの存在であってほしい」と願うが、その願いは現実とかみ合わない。
ただ、違いもあります。
シャオミンは、自分が置かれた状況をある程度理解し、現実的に立ち回ろうとしています。一方、詩織はもっと受動的で、周囲の暴力に巻き込まれていく印象が強いです。その意味では、シャオミンの方がしたたかで複雑な人物造形と言えるでしょう。
一方で、私がもう一つ面白いと思うのは、**星野修介(忍成修吾)**です。
彼は一見すると『牯嶺街少年殺人事件』に対応する人物がいないように見えますが、小公園(リトル・パーク)やハニーらギャングのリーダー格の人物たちの要素を一人に集約した存在とも考えられます。
つまり、
- シャオスー → 雄一
- シャオミン → 詩織
- ギャングのリーダーたち → 星野
という対応です。
さらに興味深いのは、雄一とシャオスーは「傍観者」であり続けようとする点です。
二人とも、最初は暴力を嫌い、流されるまま生きています。しかし、その「何もできない」ことが積み重なり、物語の終盤で決定的な悲劇に巻き込まれます。
その構造は非常によく似ています。
ですから、もし岩井俊二監督が『牯嶺街少年殺人事件』を強く意識していたとすれば、キャラクターを一対一で対応させたというよりも、「シャオスーとシャオミンの関係性」を、雄一と詩織の関係として現代日本に置き換えたと考えると、両作品の響き合いがよく見えてきます。
私:小翠(シャオツイ)を演じていた女優は、佐藤栞里に似ていませんか?
ChatGPT:
はい、そう感じる方がいても不思議ではないと思います。小翠(シャオツイ)を演じた女優の顔立ちには、佐藤栞里さんに通じる雰囲気があると感じる人もいると思います。
ただし、「顔がそっくり」というよりは、共通しているのは醸し出す空気感だと思います。
例えば、
- 少し大きめで柔らかい印象の目元
- 少年少女のような透明感
- 飾らない、素朴な表情
- 明るさの中に少し寂しさを感じさせる雰囲気
といった部分です。
『牯嶺街少年殺人事件』の小翠は、小明(シャオミン)のような「男性たちの欲望や憧れを集める少女」とは少し違って、もっと日常側にいる女の子です。ギャングや恋愛の渦中にいるというより、あの時代の街角に普通に存在していそうな少女として描かれています。
そこが、佐藤栞里さんの持つ、
「親しみやすい」
「近所にいそう」
「屈託のない笑顔の奥に繊細さがある」
という印象と重なるのかもしれません。
面白いのは、『牯嶺街少年殺人事件』の女性キャラクターは対照的に配置されているところです。
- 小明 → 少年たちの欲望や幻想を背負う存在(少し危うい、影のある少女)
- 小翠 → もっと現実的な日常の少女、健全な青春の側面
もし『リリイ・シュシュのすべて』と比較するなら、蒼井優さんの詩織は小明寄りですが、佐藤栞里さんのような雰囲気を持つ人物は、むしろ『牯嶺街』の小翠のような「失われていく普通の青春」の象徴に近い気がします。
ちなみに、チャン・チェン演じる小四(シャオスー)が惹かれるのが小明である一方、観客が「この時代に本当にいた少年少女」と感じやすいのは、むしろ小翠のような人物かもしれません。そこがエドワード・ヤンの人物配置の巧みなところだと思います。
私:この画像の中央の人小翠(シャオツイ)ですね。
ChatGPT:
確認しました。おそらくその画像の中央の女性で合っていると思います。
ただ、前回の私の説明には少し訂正があります。
小翠(シャオツイ)を演じたのは 唐暁翠(唐曉翠 / Tang Hsiao-Tsui) で、役名そのものが女優名と同じ「小翠」に近いため、資料でも混同されやすい人物です。
画像を見る限り、私も改めて見ると、あなたが「佐藤栞里に似ている」と感じた理由が分かります。
特に似ていると感じるポイントは、
- 目元の柔らかさ
- 口元の自然な笑顔
- 少女っぽさが残る顔立ち
- 作り込んだ美人というより、親しみやすい雰囲気
だと思います。
小明(シャオミン/楊靜怡)は、映画の中で「危うい美しさ」を担う存在ですよね。彼女にはどこか近寄りがたい、ミステリアスな魅力があります。一方、小翠はもっと生活感のある少女です。
面白いのは、エドワード・ヤンがこの二人をかなり対照的に置いていることです。























