1992(平成4)~1996(平成8)年、私が10代で中高生だった頃、
サザンオールスターズと松任谷由実(ユーミン)は、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発していた。
そんなサザンとユーミン(松任谷由実)の、1990年代の黄金時代にスポットを当てた、
「1992~1996年のサザンとユーミン」
のシリーズを、断続的に「連載中」である。
という事で、まずは、これまでに書いて来た、
「1992~1996年のサザンとユーミン」
のシリーズは、下記の通りである。
①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』
②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』
③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』
④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』
⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』
⑥1994~1995年『春よ、来い』
⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)
⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)
⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』
⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』
⑪1996年『まちぶせ』(前編)
…というわけで、現在、
「1992~1996年のサザンとユーミン」
は、「最終章」である「1996年編」に入っているが、
1996(平成8)年、ユーミン(松任谷由実)は、かつて、別の歌手に提供した、
『まちぶせ』
をセルフカバーして、大ヒットさせている。
ユーミン(荒井由実)が、その『まちぶせ』を初めて提供した歌手というのは、1976(昭和51)年の三木聖子だったが、三木聖子が歌った『まちぶせ』は、残念ながら、あまりヒットしなかった。
だが、その5年後の1981(昭和56)年、『まちぶせ』は改めて石川ひとみに提供され、これが大ヒットする事となった。
そして、『まちぶせ』の大ヒットを機に、ユーミン(松任谷由実)は、あるスーパーアイドルに曲を提供し、
「作曲家:ユーミン」
としての名声も確立して行く事となった。
という事で、「作家」としてのユーミン(松任谷由実)の活躍にスポットを当てる、
「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第12回」、「1996年『まちぶせ』(中編)」を、ご覧頂こう。
<歌手として10枚のシングルをリリースするも、ヒット曲を出せなかった石川ひとみ>
石川ひとみは、1959(昭和34)年9月20日、愛知県に生まれた。
1976(昭和51)年、高校2年生の頃、ナベプロの新人歌手オーディションを受け、合格した石川ひとみは、
その後、フジテレビのオーディション番組、
「君こそスターだ!」
で、7週連続で勝ち抜き、チャンピオンの座を手にした。
その後、1978(昭和53)年3月に状況した石川ひとみは、ナベプロの新人歌手寮に入った。
この時、石川ひとみと同期で入寮したのが、桑江知子・松原みきらであった。
そして、1978(昭和53)年5月25日、石川ひとみは、
『右向け右』
というシングルで、デビューしたが、この曲は残念ながらヒットはしなかった。
その後、1978(昭和53)~1981(昭和56)年にかけて、石川ひとみは計10枚のシングルをリリースしたが、いずれもヒットには結び付かず、歌手としては停滞していた。
だが、そんな彼女に、思わぬ「転機」が訪れた。
<1979(昭和54)~1982(昭和57)年…NHKの連続テレビ人形劇『プリンプリン物語』で「ヒロイン」の声優を務め、大人気となった石川ひとみ>
1979(昭和54)~1982(昭和57)年にかけて、
NHKで放送された、連続テレビ人形劇、
『プリンプリン物語』
で、石川ひとみは、「ヒロイン」のプリンセス、「プリンプリン」の役を演じたが、
『プリンプリン物語』
は大人気となった。
そして、「プリンプリン」のヒロインとして、石川ひとみは、特に子供達の間で有名になった。
こうして、歌手としては停滞していた石川ひとみは、思わぬ形で人気を得る事となった。なお、
『プリンプリン物語』
とは、プリンセスの「プリンプリン」が、見知らぬ祖国と両親を探して旅をする物語であるが、
「プリンプリン」のボーイフレンド、「ボンボン」の役を演じた神谷明は、言うまでもなく、後に、
『キン肉マン』『北斗の拳』『シティーハンター』
などのアニメで主役を務め、声優界のスーパースターとなった人である。
そして、「プリンプリン」の旅の仲間の一人、「カセイジン」の役を演じた堀絢子は、後に、
『忍者ハットリ君』
で、主役のハットリ君の役を務めるなど、これまた声優界のレジェンドに一人である。
石川ひとみは、こういった凄い面々を従えて(?)、堂々と「主役」を演じていた。
そして、遂に「歌手」として、石川ひとみは大ヒット曲を飛ばす事となった。
<1981(昭和56)年4月21日…石川ひとみ、通算11枚目のシングル『まちぶせ』(作詞・作曲:荒井由実)リリース~『まちぶせ』は大ヒットし、遂に石川ひとみは「歌手」として大ブレイク!!>
1981(昭和56)年4月21日、石川ひとみは、通算11枚目のシングル、
『まちぶせ』
をリリースした。
この曲は、5年前の1976(昭和51)年に、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、三木聖子に提供されたが、
残念ながら、三木聖子が歌った『まちぶせ』はヒットはしなかった。
それから5年後の1981(昭和56)年、『まちぶせ』は石川ひとみに提供され、5年振りに「再リリース」された。
ユーミン(松任谷由実)としても、
「アイドルの事なんて嫌いだったけど、『まちぶせ』があまり売れなかったので、闘志に火が付いた」
という面は有り、期する物は有ったと思われる。
そして、勿論、それは石川ひとみとて、同じであった。
「石川ひとみって、可愛いし、歌も上手いのに、何で歌手としては売れないんだろう…」
当時、石川ひとみのファンは皆、そう思っていた筈である。
『プリンプリン物語』
で、ようやく知名度を上げた石川ひとみも、
「歌手として、ヒット曲を出したい」
という、強い思いが有った。
そして、彼女は、こう思っていたという。
「もしも、『まちぶせ』が売れなかったら、歌手としての活動は諦める」
それだけ、石川ひとみにも期する物が有り、まさに「背水の陣」で臨んでいた。
そして、ユーミン(松任谷由実)と石川ひとみの熱い思いが通じたのか、
『まちぶせ』は大ヒットを記録し、遂に石川ひとみは歌手として大ブレイクを果たした。
石川ひとみの通算11枚目のシングル、
『まちぶせ』
は、楽曲としても大変素晴らしかったが、素直にノビノビと歌った石川ひとみの歌声ともよく合っていた。
『まちぶせ』は、リリース当初は、それほど売れていなかったが、夏場にかけてジワジワとヒットチャートを上昇し、
1981(昭和56)年8月3日付の「オリコン」で「9位」にランクインすると、その後、TBS「ザ・ベストテン」でも最高「3位」にまで上昇する大ヒットを記録している。
「ザ・ベストテン」では、石川ひとみは、司会の黒柳徹子や、特別ゲスト(?)のタモリに、『まちぶせ』の大ヒットをお祝いされる一幕も有ったが、その後も『まちぶせ』は売れ続け、この年(1981年)いっぱい、ヒットチャートの上位に留まり続けた。
当時のアイドル歌手は、2~3ヶ月に1枚のペースで「新曲」をリリースしていたが、
石川ひとみの『まちぶせ』は、アイドル歌手の曲としては、異例のロング・セラーとなったのである。
1981(昭和56)年12月31日、
「第32回NHK紅白歌合戦」
に、石川ひとみは、
『まちぶせ』
を引っ提げ、念願の「紅白」初出場を果たした。
こうして、長い「下積み」を経て、石川ひとみは当時22歳にして、「紅白」出場歌手の仲間入りを果たしたが、
『まちぶせ』を作ったユーミン(松任谷由実)としても、感慨深い物が有ったに違いない。
<中島みゆき、研ナオコの『あばよ』(1976年)で「作家」として大ヒットを飛ばす>
さて、紆余曲折を経て、ユーミン(松任谷由実)が、石川ひとみに提供した、
『まちぶせ』
を大ヒットさせた経緯について書いたが、ユーミン(松任谷由実)のライバル、中島みゆきは、1976(昭和51)年に、
『時代』
を大ヒットさせていた頃、研ナオコに楽曲提供し、中島みゆきも「作家」として大ヒットを飛ばしていた。
1976(昭和51)年3月25日、中島みゆきが作詞・作曲し、研ナオコが歌った、
『LA-LA-LA』
がリリースされたが、この曲はオリコン最高「12位」という、スマッシュ・ヒットを記録している。
研ナオコは、『LA-LA-LA』で、同年(1976年)の「紅白」初出場を果たした。
1976(昭和51)年9月25日、中島みゆきが作詞・作曲し、研ナオコが歌った、
『あばよ』
がリリースされたが、この曲はオリコン「1位」の大ヒットを記録した。
『あばよ』は、研ナオコの代表作となったが、
「作家:中島みゆき」
としても、実力を見せ付けた作品となった。
それにしても、前年(1975年)に歌手デビューしたばかりの中島みゆきが、「作家」としても早くも大ヒットを飛ばしてしまった…というのは、やはり中島みゆみも凄いアーティストである。
<1977(昭和52)年9月10日…中島みゆき、通算5枚目のシングル『わかれうた』リリース~オリコン最高「1位」の大ヒットを記録>
1977(昭和52)年9月10日、中島みゆきは、通算5枚目のシングル、
『わかれうた』
をリリースしたが、『わかれうた』は、オリコン最高「1位」の大ヒットを記録している。
初期の中島みゆきの代表曲として、あまりにも有名な曲だが、
「道に倒れて誰かの名を 呼び続けたことがありますか…」
とか、
「別れはいつもついてくる 幸せの後ろをついてくる…」
といった、「怨み節」のような詞が延々と続くなど、とにかくこの曲は尋常でなないぐらい「暗い曲」である。
だが、そこが素晴らしい。
『わかれうた』は、一度聴いたら忘れられないインパクトが有り、妙に癖になってしまい魅力が有る曲であり、私も大好きである。
中島みゆきは、後年はテレビには殆んど出なくなってしまったが、
デビュー当時の中島みゆきは、
「コッキーポップTV」「MUSIC FAIR」
などの音楽番組には、度々、出演していた。
私も、それらの番組で、中島みゆきが、
『わかれうた』
を歌っていた映像を、遥か後年に見た事が有るが、
「『わかれうた』って、暗い曲だけど、何か良い!!」
と、一遍で気に入ってしまったものである。
そして勿論、中島みゆきは、歌を通して、こういう「物語」を創造しているのである。
そこが、「作家」としての中島みゆきの凄さである。
そして、
『わかれうた』
の大ヒットを引っ提げ、中島みゆきは、1977(昭和52)年12月26日、フジテレビの、
「夜のヒットスタジオ」
に初出演したが、これが中島みゆきにとって「唯一」の「夜ヒット」出演となった。
なお、翌1978(昭和53)年1月に放送開始された、TBSの、
「ザ・ベストテン」
でも、『わかれうた』はランクインしていたが、中島みゆきは「ベストテン」には一度も出演しなかった。
こうして、
「中島みゆきは、テレビに出ない歌手」
という図式が定着して行った。
だが、テレビに出なくても、大ヒットを連発したという事は、それだけ、中島みゆきの、アーティストとしての実力がズバ抜けていたという事であろう。
<「はっぴいえんど」と松本隆~細野晴臣の勧めによって「作詞」を始めた松本隆>
さて、かつて日本の音楽界で、1969(昭和44)~1972(昭和47)年にかけて活動していた、
「はっぴいえんど」
という伝説のバンドが有った。
当時、日本の音楽界では、
「ロックを日本語で歌う事は、是か非か?」
という、所謂、
「日本語ロック論争」
なる物が、大真面目に語られていたが、「はっぴいえんど」は、
「日本語でもロックは歌える」
という立場のバンドであった。
そして、「はっぴいえんど」のメンバーは、大瀧詠一・細野晴臣・松本隆・鈴木茂…という、後に日本の音楽界の「重鎮」になった人達であり、そういう意味でも、彼らは「生きる伝説」のような存在であった。
この「はっぴいえんど」で、松本隆はドラムを担当していたが、「はっぴいえんど」時代に、松本隆は細野晴臣から「作詞」に挑戦するよう、勧められたという。
「お前(※松本)は、沢山、本を読んでるから、作詞だって出来る筈だ」
と、細野晴臣に言われたのをキッカケとして、松本隆は「作詞」を始めた。
こうして、細野晴臣の勧めによって、
「作詞家:松本隆」
が誕生した。
<最愛の妹の死去という悲しみを乗り越え~松本隆が作詞し、大瀧詠一に提供された『君は天然色』~大瀧詠一のアルバム『A LONG VACATION』(1981)に収録>
さて、盟友・細野晴臣の勧めによって、「作詞」を始めた松本隆にとって、重要な出来事が有った。
松本隆には、6歳年下の由美子という妹が居たが、彼女は生まれつき心臓が弱かった。
松本隆は、妹を大変可愛がっていたが、由美子は大人になってからも健康な生活を送る事が出来ず、松本は、そんな妹の身を常に案じていた。
そして、1980(昭和55)年、松本隆の最愛の妹・由美子は、26歳の若さで亡くなってしまった。
松本隆は妹の死去に大きなショックを受け、詞が全く書けなくなってしまったという。
当時、松本隆は制作中だった大瀧詠一のソロ・アルバムの楽曲の作詞を手掛けていたが、精神的に大きな打撃を受けた松本は、
「もう俺は詞が書けないから、この仕事は降りたい」
と、大瀧に告げた。
だが、大瀧詠一は、
「このアルバムの曲の作詞は、お前じゃなきゃ出来ない」
と言って、アルバムの制作を中断し、松本が詞が書けるようになるまで、待ってくれたという。
この時、松本隆が街に出ると、何と、目に見える景色が、全て白黒(モノクロ)に見えたという。
「俺、目がおかしくなったのかなと思った」
と、後に松本は語っているが、最愛の妹の死去という絶望と悲しみから、松本の目は色彩が見えなくなってしまった。
「冗談じゃなくて、本当にこういう事も有るんだと思った」
松本はそう語っているが、それだけ松本の悲しみは深かった。
だが、その悲しみのドン底から、松本隆は立ち直った。
かつて、宮沢賢治が、最愛の妹・トシが亡くなった後、
『永訣の朝』
という題名で、トシの臨終の模様を詩に書いた…という事が有ったが、
松本隆も、妹の死去という悲しみを、一編の詞に結実させた。
こうして、松本隆が大瀧詠一のために作詞した曲こそ、
『君は天然色』
である。
この曲は、所謂「失恋」をテーマにしているが、
「想い出はモノクローム 色を点(つ)けてくれ…」
「もう一度 そばに来て はなやいで美(うるわ)しの Color Girl…」
という歌詞は、妹を失った時の松本隆の心境が元になっている。
なお、『君は天然色』は、1981(昭和56)年3月21日にリリースされ、その後も「名盤中の名盤」として語り継がれる事となった大瀧詠一のソロ・アルバム、
『A LONG VACATION』
に収録されている。
松本隆は、このアルバムのほぼ全ての曲の作詞を手掛けたが、こうして大瀧詠一とのタッグにより、
「作詞家:松本隆」
は、悲しみのドン底から這い上がり、日の当たる場所へと帰って来た。
そんな松本隆の前に現れたのが、あのスーパーアイドル・松田聖子である。
<松本隆、『白いパラソル』『風立ちぬ』で、松田聖子の楽曲の「作詞」を手掛ける>
松田聖子は、1980(昭和55)年に、
『裸足の季節』
でデビューし、以後、1980(昭和55)~1981(昭和56)年にかけて、
『青い珊瑚礁』『風は秋色』『チェリーブラッサム』『夏の扉』
と、立て続けに大ヒット曲を連発し、松田聖子は、スーパーアイドルとして、大人気となっていた。
そして、前述の5曲の作詞を担当していたのは、三浦徳子だったが、松本隆は、テレビで歌っている松田聖子を見て、
「俺なら、もっと良い詞が書ける。俺に松田聖子の楽曲の詞を書かせて欲しい」
と、願っていた。
そんな松本隆の元に、遂に松田聖子の楽曲の作詞の依頼が舞い込んだ。
そして、松本隆が松田聖子のために作詞し、1981(昭和56)年7月21日にリリースされた、松田聖子の通算6枚目のシングルが、
『白いパラソル』
である。
この曲は、
「作詞:松本隆、作曲:財津和夫」
というコンビが手掛けたが、この曲はオリコン「1位」(※松田聖子にとって、4曲連続のオリコン「1位」)という大ヒットを記録した。
こうして、松田聖子の楽曲の作詞を手掛け、まずは結果を出した松本隆であるが、
松田聖子の次なる新曲の作詞も、引き続き松本隆が手掛ける事となった。
そして、「文学好き」だった松本隆の脳裏に浮かんだのが、
かつて堀辰雄が書いた名作、
『風立ちぬ』
という小説であった。
松本隆は、松田聖子の新曲のために、盟友・大瀧詠一とタッグを組んだ。
こうして、1981(昭和56)年10月7日、松田聖子の通算7枚目のシングルとしてリリースされたのが、
『風立ちぬ』
である。
この曲は、
「作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一」
が、腕によりをかけて作った名曲であるが、松本隆は、
『風立ちぬ』
というフレーズから、イメージを膨らませ、松田聖子のために情感溢れる詞を書いた。
そして、その『風立ちぬ』を松田聖子が見事に歌いこなし、『風立ちぬ』は、またしてもオリコン「1位」の大ヒットとなった。
こうして、松本隆が松田聖子の作家陣に加わり、見事に結果を残した所で、満を持してユーミン(松任谷由実)も、松田聖子陣営に加わる事となるのであるが、その話については、また次回。
(つづく)