昔、実家は親父が牧師する(キリスト)教会をしてたんだけど、まあ、普通の一軒家だし。狭いし。オヤジの性格的なのもあって、信者が全然いなかったんだけど、ある日、子連れの女性が転がり込んできて、信徒&同居人(僕は結婚して実家にはいなかったけど)になったのよ。

女性は、旦那と離縁したかったらしく、転がり込んできたことをきっかけに、(意味が解らんが)親父が表に立って、離婚調定。子供は四人いたけど下の二人の娘とその女性が、僕の実家で生活。そのうち、上の二人、長男と長女が、揃って実家に転がり込んできて、ほぼ、軒を貸して母屋を取られる状態。

親父は、熱心な信徒ができたと喜んでいたけど、家族はたまったもんじゃない。特に母は、台所を完全にしきられて、なすすべ無し。

まあ、それでも、親父を信仰していたし(笑)、事情は同情もできなくは無かったので、僕自身は実家住まいなわけでもないし、親の世話をしてくれる家政婦が家族ごと来た。くらいの気持ちでいたのだけど、一番末の娘が、小学校低学年なのに、兄弟や母、果ては僕の親父からまで、よく怒られていたので、かわいそうになって、慰めにと、滅多におやつも食わせてもらえてないようだし、近くにあったモスバーガーに連れ行って、おごってあげることにしたら、なんとメニューを見てしばらく悩んでいる。なんせモスバーガーなので、高くてもたかが知れてるし、好きなのを選んでいいよ。と言っても決められないでいる。最終的にフィッシュバーガーを選んだので、遠慮してるのかな? と思ったら、他はどれもガッツリ野菜が入っており、チーズバーガーもトマトが輪切りで入っているから、嫌だった。というオチだった。マクドに行けばよかったと思ったよw

その後、色々あって、その家族はほぼほぼ一家離散状態。長男は、家族の居場所も掌握してない。という有様。

最近になって、僕がおごりに失敗した末娘が、実家に尋ねてきたらしい。30代目前にまで成長した姿で。

最初に駆け込んできた母親は、数年前に癌で亡くなっており、自分は、近く結婚する予定なのだが、広島でお世話になった人がいると知って、結婚相手の彼が、挨拶しに行ってくるように促したらしい。なんて出来た男を見つけたんだ!

散々な幼少期だったから、今は、幸せでいてくれるといいなぁ~。

酷い。B級なんて生易しいモノじゃない。学生でももっといいのを作りそう。2023年制作とは思えないようなクオリティの低さ。ストーリー展開も、各キャラの行動様式も、めちゃくちゃ。戦闘機(F-22)の表現がまた、酷すぎ。タキシングから離陸まで、何故かF-15を写してるし、パイロット正面のシーンでは、コックピットがダンデムだし(パイロットの後ろにピラーがあり、そのピラーに複座用のバックミラーが映り込んでいる。たぶんF-15の設定で撮影したと思われる)(F-22にタンデム版が作られる予定はない)、旅客機と正面からすれ違うシーン、どっちかがバックしてないと有り得ない速度で交差してるし。で、ミサイル発射シーン、F-22は、操縦桿は右手壁際にあるジョイスティックタイプになっているのに、映画では両足の真ん中にある旧来タイプで表現してるの。酷すぎ。

時に、この映画、アレック・ボールドウィンさんが出演してる。2021年に制作中の映画の撮影中に、カメラに向かって銃を撃つシーンで、銃に実弾が入っており、撮影監督が死亡、監督が負傷するという事故の、当事者。まさか実弾が入っているとは思わないよね。と言う話。銃器を用意した小道具担当者が、禁錮1年6月の実刑になったが、発射したボールドウィンさんは、検察のポカで、審理中止になっているらしい。そんなことがあった後の、撮影なんで、心理的にはきつかろう。銃を持つ演技はできなさそう。

著者の本業ど真ん中の産科をテーマにしたお話。

いつもながらの、読みやすい、解りやすい、テンポが好い、ちゃんと感動できるし泣ける。なんなら、主人公まゆがプリセプターの亜美に自身の事情を告白した後の、亜美の言葉を読んでて、涙腺崩壊してたw

そもそも論、助産師という職種はよく解らなくて、テレビドラマ「コウノドリ」を観た感想として、いわゆる産婆さん?って認識だったんだけど、看護師資格を取って後、助産師の資格も取った人ってことなのね。医師ほどの医療行為が許されているわけではないけど、看護師では出来ないハードな部分を担当できる資格らしいけど、看護師との給与差はそんなにあるわけではない様子。仕事のハードさ(お産が無い時は看護師業、お産が入ったら、助産師業と言えば、看護師と比較して、そんなに大きくは難しく無さそうと思いそうだけど、お産って時間を選ばないし、難産だと24時間以上かかる場合もあってそれにつき合うわけで…)に比しては、ちょっと気の毒だし、なり手が少ない原因になってない?とかは思う。勿論、雇う側の懐事情もあるので、難しいところなようだけど。

話としては、訳アリ新米看護師を教育係(プリセプター)の亜美が叱咤しながら一人前の助産師にしていくという流れだけど、産科が舞台なだけに、直面する倫理的な問題の大きさ、というか、正論とは?という難題に果敢に挑む内容になっている。さすが現役の人の書いたお話。いや、現役といえども、色々な人がいるので、著者が、読者としての僕に実に波長が合っているのかもしれない。

この小説の後半、熊本にある慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(いわゆる赤ちゃんポスト)」を2007年から始めた病院が別名で登場する。本家がこれを始めた時は、メディアで、色々な人が、批判しまくったのを覚えている。「安易な遺棄を助長する」「親としての責任を放棄させる仕組み」「子供の『親を知る権利』を奪っている」などなど。でも当時から、これらを聞きながら思った。殺すよりはよほどいいじゃんね。現に、その病院まで行けない人は、自宅や公衆トイレで生み落として放置という事件が普通のことのように起こっている。予期せぬ妊娠に震え、相談相手もおらず、経済的にも精神的にも極限まで追い詰められた女性たち。核家族化が進み、地域の繋がりも消えた現代社会で、彼女たちの孤独は完全にブラックボックス化していると思う。「育てられないなら最初から産むな」「避妊しなかったのが悪い」「親ならどんな苦労をしてでも自分で育てるべきだ」なんて机上の正論も・・・

そんな罵声で生まれた子供を救えるなら苦労はない。妊娠してしまった時の対応を教えてくれる環境が、まったく整備されてないという事実とかに興味さへない連中のお門違いな指摘で、自己満足してる連中には反吐が出る。と思ったもんですよ。

「ゆりかご」は、親を甘えさせるためのシステムなどではない。今まさに消えようとしている小さな命を、文字通り社会がすくい上げるための「最後の砦」なのだと思う。生きている赤ちゃんを前にして、まず優先すべきは「誰が悪いか」という犯人探しじゃなくて、「その命を生かすこと」じゃないのか。

少子化問題を解決する!とか言ってる人たちも、見当違いな提案や政策をばっかり考えて無いで、お産にかかる諸問題を解決する方向でお願いしたいよね。

今は、産科関係からの批判があったのか、検討の方向性が修正されて行ってるようだけど、お産は病気じゃないから、保険適応外だったのを、「保険適応にしよう。一出産〇点ね」なんて、一律同条件で産めるみたいな医療制度をやろうとしたとか、どんだけお産を知らないんだ?と産科関係者が怒るのも無理はない。

あと、男たちは、あんまりにも、お産について、というか、子供を産むために必要な女性の機能について、あんまりにも無頓着過ぎだと思う。女性だって一人で、子供をつくれるわけじゃない。男がいて初めて成立する妊娠出産を、気持ちよさだけは受け取っておきながら、後は知りません。勝手にやって。は、無いだろ?と、ほんと思う。

ミルチア・エリアーデ著、中村恭子訳の「世界宗教史1」を読んだ。完全僕の思考バージョンw

先に掲載した感想文は、実は僕のオリジナルでは無くて、Geminiくんと数時間対話した後で、その対話を元に、僕がこの本の感想文を書いたらどうなるかを、Geminiくんに描かせて、僕が校閲し推敲したしたものだったんだけど、UPから一晩立って、どうしても、自分の文章じゃないというか、感じた事、言いたかったことの多くが抜けているので、気になって、いちから書き直すことにしたw 機能の文と被るところや、違う意見になっているところも出てくると思うけど、許されよw (と、ちゃんと書きたくなった時の僕は相変わらず前置きが長い)

Geminiくんバージョンでも最初の方で書いてるけど、エリアーデさんのこの本は、ものすごくと読みにくい。翻訳者が読みやすく訳せない人なのか、論文ってのはそんなもんなのかはわからないけど・・・、いやいや、別な研究者の名前を出して、その人の論理展開は正解とは言えないという感じの事を書いてるのに、その人の論理については何も書いてないという箇所がいくつかある。これは不親切にも程がある。論文でその展開はダメだろ? もしかして、その人の代表的主張が研究者の間ではその人はそう主張しているという意味で常識になっていて、その道の人なら、名前さへ出せば誰でもわかるってことなのかもしれないけど、この本の趣向は、そこか? という疑問が沸く。なぜなら、様々な論がそこら中にあって、しかもバラバラで、小部数しか刷られてないなどして、広く議論する場合に参加できる人を限る状態はよろしくないと考えて、サッと読めて議論に加われる本を作りたい。というのが、この本の趣向だったはず。本の「序文」にそういうことが書いてある。なのに、その自分が解りにくい文章を書いてどうする?

もうひとつ気になったのは、新説が出る可能性に対する著者の姿勢。著者は、新説を嫌っているわけではなく、新しく発見させる事実について、肯定的なようだし、それを待つべきだという姿勢もあるんだけど、「大筋は変わらない」という姿勢もある。微修正や読み解けなかった謎が解ることの歓迎はするが、まったく方向性が変わることは、納得しにくいという表明にも見えるなぁ。と。

で、エリアーデが「世界宗教史1」を書いた当時、まだ発見されてない、「大筋」をひっくり返す遺跡が、それとは知れずに最初の発見をされる。最初は「中世ビザンツ帝国時代の墓石」じゃね?とされただけだった。エリアーデが亡くなったあと、本格的な調査がされて、それが石器時代に狩猟(採集)や牧畜がメインだった民族の作ったものだと分かる。トルコ南部で見つかった「ギョベクリ・テペ」がそれ。

エリアーデの生きていた時代、宗教が始まるのは農耕が始まって、余剰食料が出来始めてからだとする研究が主流だった(それは変だよ。モンゴルの遊牧民族にだって宗教は有るよ)。もちろん、エリアーデ自身は、それを真に受けていたわけでもないらしいので、エリアーデが生きてるうちにギョベクリ・テペの発見があったら、「それみたことか」というかもしれないけど、いっぺん、「大筋は変わらない」と書いてるからなぁ~(^^;

「宗教」と「信仰」は違う。あるいは、それがセット。信仰が組織化されて宗教になった。という考え方が妥当なんだろうとは思う。

石器時代、世界各地で発見されている、壁画(主に洞窟画)なんかは、生活圏のすぐ傍に描かれたのかな?と個人的には思ってたんだけど、実際には、洞窟の中を30分くらい進んだ先だとか、ロープが無いと降りれないような60mくらい下。とか、およそそこに行くつもりになり準備しないと行けない場所に描かれているというのは、面白いなぁ。と思った。もちろんそれが生活圏に絵が無かったことを意味しるわけではないらしいけど。生活圏にあるとどうしても手が触れるし、焚火の煤、通り過ぎる風や人間が居なくなった後の動物による汚染で消えてしまった可能性は十分にあるらしい。その当時の彼らが、何を信仰していたかは、はっきり証明できるものはないし、何もないのにこれと決めることには慎重で有るべきだ。というのが、エリアーデの考え方ではあった。それには大いに賛同する。

シャーマニズムが信仰の最初だったろうことは推測できるし、その影響は、宗教が組織かされた後でも、連綿と信仰の中にあり続けたわけだから。自然に対する畏怖は、何も信仰してないと言い張る人の中にもあるはずだし。

問題は、先祖崇拝や、神という存在の誕生過程なんだろうけど、そのメカニズムを追うのも大変なのだろう? 結局、文献の無いところにまでさかのぼってしまうから。

文字が編み出されるまで、それが解読できるまで、当時の人が何を信じ、宗教にしたのかを軽々に判断するべきではないとは思う。勿論、文字にされたからって、それをまるまる信じるのも、軽薄なのかもしれないが。なぜなら、当時から、「欺瞞」はあったわけだし。

その意味で、日本の神道は、石器時代からのシャーマニズム的な信仰が残っているのは、凄い事なんじゃないか? ある程度、都合で書き足され、書き直され、明治時代には大幅な書き換えがあったにしても。

竹田恒泰氏が、「日本人は生まれながらに神道だ!」と言い張るのには、一定の理があると思う。どう頑張っても、人間は生まれた地で長く信仰された事物から、無縁でいることは難しと思う。キリスト教圏ならその価値観で、儒教が支配していた地なら、その価値観で、そして日本は神道という価値観を自分は持ち合わせていません。と言い張るのは、難しかろうと思う。どの世界の価値観でも、似たようなことを大事にするので、自分は宗教じゃなく普遍的な価値観でいるはず。とか言いたい人もいるだろうけど、普遍的価値観なんてそもそも存在しないしねw

■モーセのお話

旧約聖書の記述が、それ以前のメソポタミアやエジプトなどの神々の話を下敷きにして取捨選択しながら書かれた可能性の話。

洪水伝説なんかは、メソポタミアに限らず、世界中にある話なようで、時期的にも氷河の融解が、頻発したであろう次期と重なるらしいので、当時の人たちにとっては、自分の“世界”の終わりだととらえるのも、無理は無いだろうねと。でもその手を話を残した彼らは、自分たち以外の人々が周りにいることを知ってる人たちでもあるのに、なぜ疑問に思わなかったのか? 「全滅したなら、誰も居なくね?」ってなるよね? もしかして、「全滅したなら、誰も居なくね?」って言った人は、粛清さた可能性は、当時なら有り得るか?

イスラエル民が、モーセの出現前にすでにカナンに帰っている例があったと言う話は、個人的に新鮮だった。とはいえ、そりゃそうんだろうなとも。アブラハムから始まる先祖の地だもの。エジプトはつまらん。と流出する人がいてもおかしかない。

エリアーデは、聖書の記述そのままに、イスラエル民は奴隷にされたがゆへに救いを待ちわびていた。という流れを踏襲しているのだけど、イスラエル民が最初はエジプトに歓迎され、後によそ者として疎まれる。という流れは、どうやら考古学的にもさほど間違ってはいないらしい。

日本人考古学者などの発見により、奴隷はいなかったんじゃね?と言う話になったりもしたんだけど、どうやら、もうちょっと複雑らしい。ピラミッド建設などに従事した人々は職工(公務員)であり、給与を貰い、十分な食や医療が保証され、酒に酔ったからという理由でサボれたりもする程度という緩い生活をしていた。というのは、エジプト人民の話だったようす。

とはいえ、イスラエル民が、過酷な奴隷にまでなったか?というと、そうでもない資料が見つかってもいる。これ、今の日本に、例にできる現象がある。外国人労働者の、待遇問題。安く使えるからと雇う。同じ仕事をしている日本人の方が給与がいい。会社は我々外国人を雇うことで国から補助金を貰っているのに、我々には還元されていない。救世主よ! みたいな感じ。そりゃ、カナンに流出するよね。囲われて鎖に繋がれていたわけではないので、嫌なら他の地に行けた。行かないのは、家族郎党連れて、馴染みのない地に行くのは怖い。という思考があったと思うのは難しい事じゃないと思う。モーセの登場は、カナンに行く理由の強いきっかけになったということなんだろう。当然、イスラエル民ではあっても同道しなかった人たちもいた事だろう。

まあ、それはともかくも、それぞれの思惑で、エジプトを出た一行が、シナイ山で逗留する。と言う話は、Geminiくんとの対話でも書いたけど、おかしな話だねぇ~。と思うのですよ。神が最初に燃える柴としてモーセに合ったのはホレブの山っだし、聖所だから履物を脱げとモーセに言ってるわけですよ。じゃぁ、もう一度神に合うのはホレブでしょう? そもそも、シナイ山はエジプトにとっては大切な鉱山で、当然、厳重な警護がされていたはずだし、そこにわざわざ挑みます?という。

別にシナイ山じゃダメな理由はない。なぜなら神になら何でも出来る!って言い張るなら、んじゃ、エジプトから出る理由さへなかったくない?ってなるし。カナンを目指すのは、最初にエジプトに下ったヨセフ等に、時が来たらカナンに帰れる。という約束があったからだけど、それはエジプトを逃げ出すように出ていく必要があったの?と。

■世界宗教史の基準、枢軸時代

エリアーデがいう世界宗教史の基準というか、枢軸時代という概念は、人間が、自然現象からとびぬけた、特別な存在だという、思いあがった思想を纏めたものと捉えるのは、うがちすぎ?問題。もちろんエリアーデ自身がそれが正しいと言っているわけではないけど、それを基準として宗教があると考えるから、自然が必然的に起こしている現象を全部、人の原因に持ち込むようになるわけで、それは傲慢だと思うのよな。

これらは見方を変えれば、人間が自分たちを地球上で一番偉い「特別な存在」として格上げするための、ある種の「思い上がり(正当化)」の歴史だと思う。つまり、宗教は我々の思い上がりが、人間というあまりに獰猛で制御不能な生き物を、自らコントロールするために生み出された「精神のブレーキ」でもあったといえるのか?

そもそも人間を自然の一部ではないという思考が無いと出てこない発想な気がする。

産業革命が地球温暖化を招いたという説は、近視眼的でそれ以前から地球の温度は上がっているという普遍的なモノを見落としてるし、環境破壊にしても、自然そのものが、環境を破壊しているという側面を観ていない。

「自然=常に調和がとれていて美しいもの」「人間=それを破壊するノイズ」という二元論は、神話的なファンタジーに過ぎない。

約24億年前、シアノバクテリアという植物の祖先が誕生して、光合成を始め「酸素」を大量に排出した。当時、地球上にいた生命にとって酸素は「猛毒のガス」だったので、地球上の全生物の9割以上が絶滅した。人間が誕生する遥か遥か以前の話だ。現在の人間が守ろうとしているのは、人間が存在できる環境のことで、自然全体のサイクルとは関係ないし、残念ながら、それは出来ない相談だと、地球が教えてくれている。仮に人類が、この太陽系を含む銀河や、もっと超えて宇宙そのものを破壊したとしても、それも自然現象の一部だと言えるのではないか?

神はいない。という結論に行きたくてこんなことを書いてるのではなくて、神がいないと言い切れる証拠は人間には到底辿り付けなくて、その理由は、人間も自然と同じように神の気まぐれで創られた一時の泡なのかもね?という。

たとえば、ビッグバン以前の宇宙には何もなかった。という説を信じるなら、その何もないところに何もないはずなのに何のエネルギ-があって、ゆらぎが発生してビッグバンに至るのか?という疑問。真空のフラスコの中で電気を与えると揺らぎが発生した!というのだけど、いやいやおかしいって。フラスコという器があるし、電気ショックという外的要因があるじゃねぇか?それは何もないとは言わないだろ。と。

物質も空間もないのに、「数式(ルール)」だけが虚空にポツンと浮かんでスタンバイしていた、とでも言うのだろうか?

科学は「どうやって(How)」ビッグバンが起きたかは説明できても、「なぜ(Why)そのルールが最初からあったのか」には答えられない。

宗教というか言い知れぬ存在を、有ると思った、いわゆるシャーマニズムが、種族人口の増大で、てんで勝手な振る舞いをする人々を征する必要は必ずあって、それが神が見ているぞ! だったというのは、理解できる。統率するために必要だった神託は、自分の欲しいものを独占するための目的になったし、それをするために論理が必要になり、文字が生まれたということだろうと思う。ただし、読める者は限られる。限ることによって、読める者の神聖をあげるためだったのだろう。その意味で言うと、日本の神道は、実に健全に日本で育まれた信仰なのだろうなと。逆に誇りに思う。

というわけで、この人のこのシリーズは8巻まであるらしいのだけど、それを全部読んでみようとはさすがに思えない。なぜなら、難しすぎるからw いっそ哲学本の方が楽w っていうか、「1」ですでに数千年の宗教史をユダヤ教まで消化しちゃってるのに、この先は2000年しかないのに、あと7巻。いったい何を書いてるのだ?(^^;

ミルチア・エリアーデ著、中村恭子訳の「世界宗教史1」を読んだ。

無数の知らない学者や古代の神々の固有名詞、

そして衒学的で難解な文体の洪水との戦いだった(^^;

率直に言って眩暈を覚えるような読書体験。

でも、著者が提示する「聖なるもの」の

歴史のディテールを丁寧に紐解いてくと、

単なる高尚な教理の解説を超えて、

人類が神という大いなる存在とどのように向き合い、

それを時代や社会の枠組みの中で

受け止めようとしてきたかという、

壮大な精神のドラマが浮かび上がってくる感じ。

1. 神名と聖なる山をめぐる、歴史の奥深さ

この書の難解さは、

同時に古代オリエントの信仰の

ダイナミズムをも表しているのだろうと思われる。

例えば、旧約聖書で神の名前が

「ヤハウェ」や「エロヒム」と多面的に描かれるのは、

異なる文化や背景を持った人々が、

一つの信仰のもとに集まって、

神の多様な属性を理解しようとした

足跡のようにも読める。

また、モーセが十戒を授かったとされる

「シナイ山」をめぐる地理的な記述も、非常に興味深い。

当時のシナイ半島南部はエジプト帝国の重要な鉱山であり、

軍事的な監視の目が光る場所だったはず。

そうした現実的な背景を考慮すると、

モーセが最初に「燃える柴」で神と出会った

「ホレブの山」こそが、

エジプトの主権の及ばない

アラビア半島側の静かな聖域であり、

真の約束の舞台だったのではないか、と地政学的には思う。

後世の記述者がどの山を

「シナイ山」と呼んだかにかかわらず、

このように現実の歴史と信仰の記憶が

複雑に織り重なって一つの聖典が

編まれていくプロセスそのものに、

世界の宗教史が持つ難解さを感じる。

2. 文字の役割と、ギョベクリ・テペが示す祈りの本源

人類社会が肥大化する過程で、

神の言葉や法律を固定化するために「文字」が必要とされた。

古代の多くの文明では、文字を読める者が限定されることで、

結果として聖なる知識が特権化される側面もあったが、

それもまた混沌とした時代の中で

信仰と社会の秩序を維持するための

人類の知恵であったのだろう。

近年発見された最古の神殿ギョベクリ・テペは、

こうした文字や農耕による組織化よりもはるか前、

人類がまだ狩猟採集の段階にあった頃から、

すでに強烈な「祈り」を中心に

大規模に連帯していたことを証明したようだ。

エリアーデの時代にはまだ全貌が見えていなかったこの遺跡は、

人類の精神が、文明のシステムに依存する以前から、

大いなる存在への畏怖を本能的に持っていたという

動かぬ物証なのかもしれない。

3. 日本の神道という「書かれざる奇跡」

エリアーデの記述する、

文字で教義を縛り、論理によって体系化を進めていく

世界宗教のメインストリームを眺めると、

ひるがえって日本の「神道」の在り方が、

いかに特異で健全であるかに気づかされた。

日本の古層信仰は、

人間を世界の中心に据えて自然を克服しようとする

「人間中心主義」とは異なる道を選んだ。

自然を否定してその上に超越的な法律を打ち立てるのではなく、

自然そのものを八百万の神として敬い、

人間もまたその調和の一部として生きる。

神道が明確な教典を持たなかったのは、

文字で信仰を固定化する必要がなかったからであり、

目の前の豊かな、時に凶暴な自然そのものが

文字以上の圧倒的な教科書だったからだといえる。

農耕が伝来した時も、

それを「自然への支配」の道具にするんじゃなくて、

神へのお祭りのサイクルとして生活と同化させた。

ここには、教理の独占も、政治的なねじれもない、

素朴で美しい信仰の原風景がある。

今、人類は地球温暖化や環境破壊を

「人間のツケ」と呼んで反省してみせるけど、

その反省の弁の中にさえ「人間には自然を管理する責任がある」

という特権意識が透けて見える。

でも、人類が宇宙を滅ぼそうが、地球を傷つけようが、

宇宙の冷徹な物理法則から見れば、

それはビッグバンの残響がもたらした「一時の泡」の

気まぐれな運動に過ぎないのではないか?

エリアーデの『世界宗教史1』は、

難解な文体と無数の固有名詞の奥で、

人類がいかにして自然の枠組みから踏み出し、

神という大いなる存在を言葉で定義しようとしてきたかを

教えてくれる。

でも、その論理の先にあるのが、人間中心的な孤立なら、

あえて大地の気配を感じ、

文字に頼らず自然の神々と共にあろうとした

神道の中にこそ、

人類が生き残るための本質的な知恵が

残されているのではないか。というのは大袈裟か?

本書の読みにくさと格闘し、

その記述の裏にある歴史の現実に思いを馳せた経験は、

皮肉にも、言葉や論理で世界をコントロールしようとする

西洋的知性の限界と、

それをすり抜ける日本の精神のしなやかさを

再発見する、極めてエキサイティングな契機となった。

とはいえ、この人のこのシリーズは

8巻まであるらしいのだけど、

それを全部読んでみようとはさすがに思えない。

なぜなら、難しすぎるからw

いっそ哲学本の方が楽w

っていうか、「1」ですでに

数千年の宗教史をユダヤ教まで消化しちゃってるのに、

この先は2000年しかないのに、あと7巻。

いったい何を書いてるのだ?(^^;