ミルチア・エリアーデ著、中村恭子訳の「世界宗教史1」を読んだ。完全僕の思考バージョンw
先に掲載した感想文は、実は僕のオリジナルでは無くて、Geminiくんと数時間対話した後で、その対話を元に、僕がこの本の感想文を書いたらどうなるかを、Geminiくんに描かせて、僕が校閲し推敲したしたものだったんだけど、UPから一晩立って、どうしても、自分の文章じゃないというか、感じた事、言いたかったことの多くが抜けているので、気になって、いちから書き直すことにしたw 機能の文と被るところや、違う意見になっているところも出てくると思うけど、許されよw (と、ちゃんと書きたくなった時の僕は相変わらず前置きが長い)
Geminiくんバージョンでも最初の方で書いてるけど、エリアーデさんのこの本は、ものすごくと読みにくい。翻訳者が読みやすく訳せない人なのか、論文ってのはそんなもんなのかはわからないけど・・・、いやいや、別な研究者の名前を出して、その人の論理展開は正解とは言えないという感じの事を書いてるのに、その人の論理については何も書いてないという箇所がいくつかある。これは不親切にも程がある。論文でその展開はダメだろ? もしかして、その人の代表的主張が研究者の間ではその人はそう主張しているという意味で常識になっていて、その道の人なら、名前さへ出せば誰でもわかるってことなのかもしれないけど、この本の趣向は、そこか? という疑問が沸く。なぜなら、様々な論がそこら中にあって、しかもバラバラで、小部数しか刷られてないなどして、広く議論する場合に参加できる人を限る状態はよろしくないと考えて、サッと読めて議論に加われる本を作りたい。というのが、この本の趣向だったはず。本の「序文」にそういうことが書いてある。なのに、その自分が解りにくい文章を書いてどうする?
もうひとつ気になったのは、新説が出る可能性に対する著者の姿勢。著者は、新説を嫌っているわけではなく、新しく発見させる事実について、肯定的なようだし、それを待つべきだという姿勢もあるんだけど、「大筋は変わらない」という姿勢もある。微修正や読み解けなかった謎が解ることの歓迎はするが、まったく方向性が変わることは、納得しにくいという表明にも見えるなぁ。と。
で、エリアーデが「世界宗教史1」を書いた当時、まだ発見されてない、「大筋」をひっくり返す遺跡が、それとは知れずに最初の発見をされる。最初は「中世ビザンツ帝国時代の墓石」じゃね?とされただけだった。エリアーデが亡くなったあと、本格的な調査がされて、それが石器時代に狩猟(採集)や牧畜がメインだった民族の作ったものだと分かる。トルコ南部で見つかった「ギョベクリ・テペ」がそれ。
エリアーデの生きていた時代、宗教が始まるのは農耕が始まって、余剰食料が出来始めてからだとする研究が主流だった(それは変だよ。モンゴルの遊牧民族にだって宗教は有るよ)。もちろん、エリアーデ自身は、それを真に受けていたわけでもないらしいので、エリアーデが生きてるうちにギョベクリ・テペの発見があったら、「それみたことか」というかもしれないけど、いっぺん、「大筋は変わらない」と書いてるからなぁ~(^^;
「宗教」と「信仰」は違う。あるいは、それがセット。信仰が組織化されて宗教になった。という考え方が妥当なんだろうとは思う。
石器時代、世界各地で発見されている、壁画(主に洞窟画)なんかは、生活圏のすぐ傍に描かれたのかな?と個人的には思ってたんだけど、実際には、洞窟の中を30分くらい進んだ先だとか、ロープが無いと降りれないような60mくらい下。とか、およそそこに行くつもりになり準備しないと行けない場所に描かれているというのは、面白いなぁ。と思った。もちろんそれが生活圏に絵が無かったことを意味しるわけではないらしいけど。生活圏にあるとどうしても手が触れるし、焚火の煤、通り過ぎる風や人間が居なくなった後の動物による汚染で消えてしまった可能性は十分にあるらしい。その当時の彼らが、何を信仰していたかは、はっきり証明できるものはないし、何もないのにこれと決めることには慎重で有るべきだ。というのが、エリアーデの考え方ではあった。それには大いに賛同する。
シャーマニズムが信仰の最初だったろうことは推測できるし、その影響は、宗教が組織かされた後でも、連綿と信仰の中にあり続けたわけだから。自然に対する畏怖は、何も信仰してないと言い張る人の中にもあるはずだし。
問題は、先祖崇拝や、神という存在の誕生過程なんだろうけど、そのメカニズムを追うのも大変なのだろう? 結局、文献の無いところにまでさかのぼってしまうから。
文字が編み出されるまで、それが解読できるまで、当時の人が何を信じ、宗教にしたのかを軽々に判断するべきではないとは思う。勿論、文字にされたからって、それをまるまる信じるのも、軽薄なのかもしれないが。なぜなら、当時から、「欺瞞」はあったわけだし。
その意味で、日本の神道は、石器時代からのシャーマニズム的な信仰が残っているのは、凄い事なんじゃないか? ある程度、都合で書き足され、書き直され、明治時代には大幅な書き換えがあったにしても。
竹田恒泰氏が、「日本人は生まれながらに神道だ!」と言い張るのには、一定の理があると思う。どう頑張っても、人間は生まれた地で長く信仰された事物から、無縁でいることは難しと思う。キリスト教圏ならその価値観で、儒教が支配していた地なら、その価値観で、そして日本は神道という価値観を自分は持ち合わせていません。と言い張るのは、難しかろうと思う。どの世界の価値観でも、似たようなことを大事にするので、自分は宗教じゃなく普遍的な価値観でいるはず。とか言いたい人もいるだろうけど、普遍的価値観なんてそもそも存在しないしねw
■モーセのお話
旧約聖書の記述が、それ以前のメソポタミアやエジプトなどの神々の話を下敷きにして取捨選択しながら書かれた可能性の話。
洪水伝説なんかは、メソポタミアに限らず、世界中にある話なようで、時期的にも氷河の融解が、頻発したであろう次期と重なるらしいので、当時の人たちにとっては、自分の“世界”の終わりだととらえるのも、無理は無いだろうねと。でもその手を話を残した彼らは、自分たち以外の人々が周りにいることを知ってる人たちでもあるのに、なぜ疑問に思わなかったのか? 「全滅したなら、誰も居なくね?」ってなるよね? もしかして、「全滅したなら、誰も居なくね?」って言った人は、粛清さた可能性は、当時なら有り得るか?
イスラエル民が、モーセの出現前にすでにカナンに帰っている例があったと言う話は、個人的に新鮮だった。とはいえ、そりゃそうんだろうなとも。アブラハムから始まる先祖の地だもの。エジプトはつまらん。と流出する人がいてもおかしかない。
エリアーデは、聖書の記述そのままに、イスラエル民は奴隷にされたがゆへに救いを待ちわびていた。という流れを踏襲しているのだけど、イスラエル民が最初はエジプトに歓迎され、後によそ者として疎まれる。という流れは、どうやら考古学的にもさほど間違ってはいないらしい。
日本人考古学者などの発見により、奴隷はいなかったんじゃね?と言う話になったりもしたんだけど、どうやら、もうちょっと複雑らしい。ピラミッド建設などに従事した人々は職工(公務員)であり、給与を貰い、十分な食や医療が保証され、酒に酔ったからという理由でサボれたりもする程度という緩い生活をしていた。というのは、エジプト人民の話だったようす。
とはいえ、イスラエル民が、過酷な奴隷にまでなったか?というと、そうでもない資料が見つかってもいる。これ、今の日本に、例にできる現象がある。外国人労働者の、待遇問題。安く使えるからと雇う。同じ仕事をしている日本人の方が給与がいい。会社は我々外国人を雇うことで国から補助金を貰っているのに、我々には還元されていない。救世主よ! みたいな感じ。そりゃ、カナンに流出するよね。囲われて鎖に繋がれていたわけではないので、嫌なら他の地に行けた。行かないのは、家族郎党連れて、馴染みのない地に行くのは怖い。という思考があったと思うのは難しい事じゃないと思う。モーセの登場は、カナンに行く理由の強いきっかけになったということなんだろう。当然、イスラエル民ではあっても同道しなかった人たちもいた事だろう。
まあ、それはともかくも、それぞれの思惑で、エジプトを出た一行が、シナイ山で逗留する。と言う話は、Geminiくんとの対話でも書いたけど、おかしな話だねぇ~。と思うのですよ。神が最初に燃える柴としてモーセに合ったのはホレブの山っだし、聖所だから履物を脱げとモーセに言ってるわけですよ。じゃぁ、もう一度神に合うのはホレブでしょう? そもそも、シナイ山はエジプトにとっては大切な鉱山で、当然、厳重な警護がされていたはずだし、そこにわざわざ挑みます?という。
別にシナイ山じゃダメな理由はない。なぜなら神になら何でも出来る!って言い張るなら、んじゃ、エジプトから出る理由さへなかったくない?ってなるし。カナンを目指すのは、最初にエジプトに下ったヨセフ等に、時が来たらカナンに帰れる。という約束があったからだけど、それはエジプトを逃げ出すように出ていく必要があったの?と。
■世界宗教史の基準、枢軸時代
エリアーデがいう世界宗教史の基準というか、枢軸時代という概念は、人間が、自然現象からとびぬけた、特別な存在だという、思いあがった思想を纏めたものと捉えるのは、うがちすぎ?問題。もちろんエリアーデ自身がそれが正しいと言っているわけではないけど、それを基準として宗教があると考えるから、自然が必然的に起こしている現象を全部、人の原因に持ち込むようになるわけで、それは傲慢だと思うのよな。
これらは見方を変えれば、人間が自分たちを地球上で一番偉い「特別な存在」として格上げするための、ある種の「思い上がり(正当化)」の歴史だと思う。つまり、宗教は我々の思い上がりが、人間というあまりに獰猛で制御不能な生き物を、自らコントロールするために生み出された「精神のブレーキ」でもあったといえるのか?
そもそも人間を自然の一部ではないという思考が無いと出てこない発想な気がする。
産業革命が地球温暖化を招いたという説は、近視眼的でそれ以前から地球の温度は上がっているという普遍的なモノを見落としてるし、環境破壊にしても、自然そのものが、環境を破壊しているという側面を観ていない。
「自然=常に調和がとれていて美しいもの」「人間=それを破壊するノイズ」という二元論は、神話的なファンタジーに過ぎない。
約24億年前、シアノバクテリアという植物の祖先が誕生して、光合成を始め「酸素」を大量に排出した。当時、地球上にいた生命にとって酸素は「猛毒のガス」だったので、地球上の全生物の9割以上が絶滅した。人間が誕生する遥か遥か以前の話だ。現在の人間が守ろうとしているのは、人間が存在できる環境のことで、自然全体のサイクルとは関係ないし、残念ながら、それは出来ない相談だと、地球が教えてくれている。仮に人類が、この太陽系を含む銀河や、もっと超えて宇宙そのものを破壊したとしても、それも自然現象の一部だと言えるのではないか?
神はいない。という結論に行きたくてこんなことを書いてるのではなくて、神がいないと言い切れる証拠は人間には到底辿り付けなくて、その理由は、人間も自然と同じように神の気まぐれで創られた一時の泡なのかもね?という。
たとえば、ビッグバン以前の宇宙には何もなかった。という説を信じるなら、その何もないところに何もないはずなのに何のエネルギ-があって、ゆらぎが発生してビッグバンに至るのか?という疑問。真空のフラスコの中で電気を与えると揺らぎが発生した!というのだけど、いやいやおかしいって。フラスコという器があるし、電気ショックという外的要因があるじゃねぇか?それは何もないとは言わないだろ。と。
物質も空間もないのに、「数式(ルール)」だけが虚空にポツンと浮かんでスタンバイしていた、とでも言うのだろうか?
科学は「どうやって(How)」ビッグバンが起きたかは説明できても、「なぜ(Why)そのルールが最初からあったのか」には答えられない。
宗教というか言い知れぬ存在を、有ると思った、いわゆるシャーマニズムが、種族人口の増大で、てんで勝手な振る舞いをする人々を征する必要は必ずあって、それが神が見ているぞ! だったというのは、理解できる。統率するために必要だった神託は、自分の欲しいものを独占するための目的になったし、それをするために論理が必要になり、文字が生まれたということだろうと思う。ただし、読める者は限られる。限ることによって、読める者の神聖をあげるためだったのだろう。その意味で言うと、日本の神道は、実に健全に日本で育まれた信仰なのだろうなと。逆に誇りに思う。
というわけで、この人のこのシリーズは8巻まであるらしいのだけど、それを全部読んでみようとはさすがに思えない。なぜなら、難しすぎるからw いっそ哲学本の方が楽w っていうか、「1」ですでに数千年の宗教史をユダヤ教まで消化しちゃってるのに、この先は2000年しかないのに、あと7巻。いったい何を書いてるのだ?(^^;