地上の地獄 五.市場 | 正しい人の喰い方マニュアル

地上の地獄 五.市場

五.市場

 夏場雨量が多いと、何故か蛇口からミミズが湧き、冬場は雪が水道の配管を凍らせる。ミミズを取り去り煮沸すれば水を飲む事は出切るけれど、凍ってまず水そのものが出なければ手の出しようが無い。

 北朝鮮では凍るのは水道管だけでは無く、国境近くの川も凍る。そうなると徒歩で中国へと脱北する人間が増えるので国境警備が厳重になり町はより深い闇に包まれるようになる。
 北朝鮮で水の準備をする事は女の仕事だ。朝と夕方必ずバケツに水を溜めておかなければ、食事を作る時間になって隣の家に頭を下げに行かなくてはならなくなってしまう。妊娠四ヶ月と診断された腹はまだ膨れては居ない。医者の説明によるとこの時期胎児の脳味噌やら神経やら身体の中で一番大切な物が創られて行くので、栄養面で注意する事は勿論だが、くれぐれも重いものを持たないように、無理をしないように念を押された。医者に言われなくても嫁さんには何もせず寝ていて欲しいと思うけれど、嫁さんが全然言う事を聞かないので、「くれぐれも無理をしないように」と声をかける事ぐらいしか俺にはできないのだ。

「義姉さんが妊娠! それはめでたい!」

 噂を聞きつけた義弟は朝鮮人参入りの蜂蜜を子供伝いに贈って来た。日本から送られてきた蜂蜜と違い、色は幾分黒く匂いも一種強烈だ。北朝鮮の人間は朝鮮人参を強壮剤として好んで使う。匂いはきついが、これは決して嫌がらせでは無く、義弟にとっては最大級のお祝いであったようだ。

「こんなに蜂蜜ばっかり見るのは本当に初めてよ。こうなったら蜂蜜屋でも開こうかしらね」

 北朝鮮で蜂蜜は珍品として扱われ、妊婦が出産後に飲む特別な栄養剤のように扱われている。一般人であれば出産の際「愛の配慮の杯」と呼ばれる卵の黄身に蜂蜜を混ぜて飲むのが一生に一度あるか無いか。人より恵まれ、睨まれ告発される事を恐れた嫁さんは送られてきた蜂蜜の半分を産婦人科に寄付した。毎朝お茶に一杯の蜂蜜を入れ飲み干すと何だか元気が出て来ると嫁さんは言う。甘みのある食材が少ない北朝鮮において、砂糖よりも甘い蜂蜜独特の味わいは女性にとって不味い物であろう筈が無かった。

 冬場は虫が取れないせいか、それとも嫁さんの調子が優れず気になるせいか子供達はあまり外を出歩かなくなっていた。小学校も休みとなり家でゴロゴロする子供たちを見ていると「やはりどこかに遊びに行ってくれないだろうか……」と言う気分になって来る。

 居なければ気になるし、ズルズル居れば邪魔だし。めちゃくちゃ言っているのは自分でも分るのだが、やっぱり人間は難しい。気分転換しようと雪の降りしきった窓を開けると
、窓に付いた鉄格子の合間からキーンと肌が切れそうな程冷たい風が部屋の中に入ってきた。駄目だ……これでは何時ものように気分転換がてら闇市に出かける事さえも出来ない。仕事机から俺が席を立ったのをいち早く発見した子供達が俺にばさっと飛びついて来た。
「とおちゃん。どこか連れてってよ! 明日は休みだろ!」
「休みの日に新聞が出なければいいけどな。休日は休日でしっかり仕事があるんだよ!」
「今遊んで居たじゃないか! もう終ったんだろ。ケチケチするなよー」

 段々自分の家に居るだけなのに、肩身が狭くなって来た。二人の子供を背中に乗せたままリビングへと向う。嫁さんはクスクスと笑うだけで、子供に「やめなさいよ」とも俺に「遊んであげなさいよ」とも言ってはくれなかった。嫁さんは赤ん坊が出来てより鷹揚になったような気がする。とにかく争わない。何かといえば笑顔で返し、幸せそうである。
 仕事を草々に切り上げ午後の食事を食べた後、嫁さんに新鮮な魚の鍋を喰わしてやろう。と思い暇そうな子供二人を連れて今住んでいる山間から海岸の町へ出る事にした。下着からコートまでを鎧のように衣服をまとい列車の駅へと向う。雪はも止んでいたので、おそらくもう列車は出る筈だ。

「今日はもう列車は出ないよ。除雪が間に合わないんだ」

 駅まで行った所でそう言われても困ってしまう。仕方無く駅前でヒッチハイクさせてくれる乗り物を探し、山を越え南浦へ向うと言う二頭立ての牛車に乗せて貰う事が出来た。車でも見つかれば御の字だが、これに乗せて貰えれば明日のお昼頃には海の町に着く筈だ。

「助かります」
「いやいや。子供を連れての山道は大変だろうからな」

 北朝鮮の人間は大概どこへ行くのにも徒歩で移動する。それは自転車などで長距離勝手に移動する事は厳重に禁止されているからである。以前は届出無しで長距離の移動をする事は一切合財禁じられていたが、最近は二週間以内の食料を求めて移動する事は許されるようになった。もし二週間で戻らなかった場合は、残った家族が強制収容所送りとなってしまう。が、海まで歩いて往復したとしても二週間かかる事はまず考えられないから大丈夫だろう。

 カタカタ荷台に揺られながら目的地を目指す。途中子供連れの妊婦や老女などが乗ったり降りたりを繰り返す。北朝鮮においては不便である分、長距離の移動については相互扶助の精神が確立されているのである。

 海へと続く山頂付近で汁飯食堂を発見した。牛車にこれだけ長時間乗せてもらっているのに、タダは悪いだろう。と思い途中休憩し三人で温まって行く事にした。店は中々盛況で町から町へ行商している人間から旅人まで、狭い店内に十人程が飯椀を囲んでいた。

「何にするね」
「汁飯とスンデを。三人分」
「あいよ」

 愛想が無い。メニューの数は多くない。後あるのは飲み物で焼酎とビール、食べ物はジャガイモを蒸かしただけの物や唐麺、トッポギがあるだけのようだ。汁飯と言うから米飯にトウモロコシが混じった混ぜご飯に何らかの汁がかかったものかと何時ものご飯と思いきや、出て来た飯には肉の塊がチラホラではあるが覗いていた。「うわー肉だ!」と子供達は茶碗が机にのった途端にスプーンを振りかざし、食べ始めた。俺も思いがけないご馳走に驚きつつ、笑顔で飯を口に運んだ。独特の風味のある奇妙な味付けだ。何の肉なのだろう? 

「この汁飯屋は結構有名で。わしも食べるのは久しぶりなんだが、うまいだろう」
「高いんですか? ここ」
「高いと言う程ではないが、毎回寄れる金額でも無い。でもやはり肉を食べると身体が温まるだろう」
「はい」

 キムチを食べながら汁飯を口に運ぶ。何の肉なのだろうか? 少なくとも豚肉でない事は確かだった。気のせいかもしれないがこの癖のある匂いは先日闇市場で買ってきたあの臭い肉にも似ているような……中身が気になりつつも、皆が旨そうに食べて居るのだから問題無いだろうと次はスンデに手を伸ばした。スンデとは良く洗って裏返した腸に春雨と豚の血、野菜などを詰め蒸かしたウインナ-―のような物である。香草を多く使っているせいか、匂いは汁飯程分らないが、ここでも一風変わった匂いがある。決して不味くは無いのだが、間違い無い。これは先日闇市で買ってきたのと同じ肉だ。

「おばさん。この肉は一体何の肉なんだい?」
「どうしてそんな事聞くんだい!」

 とたんに店主は怒り出した。聞かれて困る企業秘密なのだろうか?  

「いや。別に教えたくないのならそれでいいのだが、先日多分同じ肉を闇市で買ってね。焼いて食べたらエラク不味かったんだ。今日のは格段に旨いなと思って。この肉はやはり焼くより煮た方が食べ易いのかな?」
「教える程の事も無い、ただの豚の肉だけどな……おそらくあんたが食べたのは年を食った性質の悪い肉だったんだろ。この種類の豚はでかくなると量は取れるんだけど、臭くて喰えたものじゃ無いんだ。あんたが今食べているのは生まれて十年経たない、若い肉さ。旨いだろう」
「特徴的な風味がありますよね」
「この肉のお陰でこの店も繁盛している。次その肉を買うときは気を付けたらいい。旨い肉を食べたいと思ったなら、私は出来るだけ小さくて若い肉を選ぶ事をお勧めするよ」

 店主は不機嫌な顔から一転し、前歯の抜けた黒い口をバクッと大きく開きニタニタと笑い始めた。急に背筋がぞわっと感じたのは何故だろうか。結局俺はその時感じた悪寒を追い払う事が出来ず、スンデを一本と汁飯を半分食べただけで席を立った。しかし食欲旺盛な子供たちは厭な予感や悪寒は何のその、頼んだ物を全て食べ終え、笑顔で牛車に戻って来た。

「後少しですがんばりましょう」

 ざくざくと雪を踏みしめながら、牛車はゆっくりと動き出した。数時間して海辺の町に到着し早速飛沫舞い上がる海辺を散策する。冬の海の光景と言うのは何度見ても、もの寂しい。魚でも落ちていないかと思ったが、水温が冷たく離れてボーっと見るのが精々だった。

「とおちゃん。海の近くまで行って来ていい?」
「駄目だ。濡れたら替えが無いだろう」

 浜辺から少し離れた岩場にアシカの群れを発見した。こんな所にまで海獣が来るのだろうか? 北朝鮮と言う国は先進国と違い開発が遅れている分、自然が残り美しい景色を描いている所がある。魚は見つからなかったけれど、これは普段は見られない、いい物を見た。

 子供とアシカに手を振り市場へと急いだ。今の季節だったら鱈が手に入ったら最高なのだけれど。時間が遅い事もあり市場はもう完全に閉まっていた。事務所と思しき所に火が見えたので行って見ると三人の男性が暖を取りながら話をしていた。一礼し中に入り事情を説明する。どうやら日本からの帰国者が鮮度の良い魚を探しに来る事は決して珍しい事では無いらしい。

「日本ではきっと旨い魚を食べてたんだろ。で無理を押して探しに来る奴ってのは結構居るんだ」
「そうですか……」

 相場を聞くと鱈一匹二百ウオンとの事。高い。一般人の月給以上の金額である。「別にぼってる訳じゃねえ」と言うので相場が高騰している理由を尋ねると、まず漁に出たくても重油が無い上に波が高く、魚が多く取れる漁場までそう簡単に行かれないからだと言う。そしてもし良い鱈が取れた場合はまず輸出用に確保されるので、まずこちらには回ってこない。輸出に回らない傷物の鱈を干したミョンデだったら安い。とはいってもこちらも七十二ウオンである。

 それでも買えるのなら嫁さんも喜ぶだろうし、手ぶらで帰る訳にもいかないし、断腸の思いで買って帰ろうか。冷凍された大き目の鱈を一匹とミョンデを三匹、持ってきた袋に包んで入れて貰う。支払いはやはり外貨を要求された。この国の自国通貨は本当に流通を潤滑化させる為に役に立っているのだろうか? どう考えても米ドルを持っていた方が使い勝手が良いような気がする。

「もうこれで帰るのかい?」
「急げば深夜には戻れるでしょうから……と帰りの列車は動いているのか確認しないと」
「坊主達は買い物だけじゃ全然つまらないな。海は見てきたのかい」
「うん。見てきたよ。そしたらね、アシカがいーっぱい岩場に居てね、びっくりしちゃった。僕達ね手を振って挨拶したんだ」

 アシカ。と言う単語を聞いた途端漁師達の動きが止まった。

「坊主。本当に見たのかい?」
「うん。黒くてヌルヌルした奴だろ。いーっぱい海から離れた岩の所に居たよ」
「海軍に連絡だ! 緊急事態発生!!!」

 動きの止まっていた漁師達が動き始めた。電話などと言う便利な道具はこの事務所には無いらしい。一人は伝令として外に駆け出し、残りの人間はモリを持って外へと駆け出した。何故か俺も使い古された赤い持ち手のモリを渡され、海辺へと急かされる。仕方なく手に持った魚は子供に預ける事にした。外の雪はもう止んでおり、雲の合間からは薄日が差し込んできていた。

「あんた、どこで見たんだい?」
「あっちです。ちょっと行った所だからすぐ分りますよ」
「おーいあっちの岩場らしい! 皆行くぞ!」

 雪の中を駆け出す漁師達。ツルツルと滑る道も気にならないのか全身から殺気を漲らせ、突撃して行く。まさかこの小さなモリで海獣のアシカを突こうと言うのだろうか??? そんなにアシカが旨いのだろうか? 価値があるのだろうか? 高く売れるのだろうか? 国民全員公務員。仕事を要領よくこなし、手を抜く事を第一とする北朝鮮人民にしてみては常識から外れた通常行動外の行為であった。

「いたぞーーー突入せよ!」

 先頭の人間が岩場に付いたとたん、アシカ達は慌てて海の中に飛び込んで行った。明らかに観光客と漁師との見分けがついているようだ。「あいつらはやばい」「ヤラレルゾ」クークー冷たい風の中聞える泣き声は確かにそう言っているようであった。

 冷たい海の中、心臓麻痺も恐れる事無く果敢に飛び込んで行く漁師達。俺も最初は全くその気は無かったのだが、勢いに飲まれついうっかり、一緒にモリをかざして海に飛び込んでしまった。全身に襲い掛かる冬の海の恐怖を振り払い波間を泳ぐ。先頭の人間は岩場に到着したようだが、既に足かは立ち去った後であったらしい。岩場に登った後にそれに気がつき、慌てて再び海に飛び込み、波に紛れたアシカを探す。全員失敗か……と思った次の瞬間、俺の脇を小柄なアシカが通り過ぎようとしているのを感じた。

「いたぞーーここだ!」

 実は声を上げるよりも早く手が動いた。昔取った杵柄。幼い頃日本の海で魚を突いていた記憶を瞬間的に取り戻し、振り絞っていたモリのゴムを一気に離し、アシカの頭部を狙った。肩に響く手ごたえがある。ドグウンと運良くアシカの胴体部分に命中した。暴れる血まみれのアシカ。バタバタと動き回りまだ生きている。トドメを刺さなければ……と思ったが手にはもうモリは無かった。飛びついて素手で押さえるか……しかしその後俺が獲物を仕留めた事を知った漁師が側にどんどん集まり、正確に急所にモリを打ち込んで行った。

「あんたすごいね。やったじゃないか。これは勲章物だよ」
「いやー偶然ですよ。勲章物だなんて大げさな」

 大量の血を見興奮が冷め我に帰ったのか、急に顔に当たる風が冷たく感じてきた。濡れた服で必死に泳ぎ、陸を目指す。後は任せて大丈夫だろう。子供たちが「さすがはとおちゃん」と迎えてくれたが、濡れた服が体温を容赦無く奪い、今は子供の顔を見るよりもストーブにあたりたかった。びちゃびちゃ音を立てながら事務所へと戻り、事情を説明し服を乾かして貰う事にした。

「今日一番の功労者の服だ。任せておきな」
「すまん」

 その間は使い古した毛布に包まり白湯を飲み身体を温めた。気のせいか鱈を買った時よりも漁師の態度が柔和で親切だ。しかしアシカはどうなったのだろう? トドメは刺せたのだろうか? 肉の一切れでもストーブの前で炙って喰ったら旨いだろうに、そうした気の利いた事を考える人間は居ないのだろうか。

 いつになっても到着しない獲物に不安を感じつつ待った一時間。毛布に包まった俺の前に現れたのは金ぴかの勲章を幾つも付けた海軍高官の姿だった。

「アシカを発見し捕獲に成功したのはお前か?」
「は・はあ」
「良くやった。事情は漁師達から聞いている。何しろこの雪だ。連絡を受けても海軍が間に合わない場合も多々発生する。今回の英雄的行動は党本部に報告しておくから」
「いえいえ。アシカはどうなったのです? 掴ったのですか? 逃げられたのですか?」
「無事捕獲し、海軍に引き渡された。ここから先は海軍の管理下に置かれる事になる」

 俺が最初に捕まえたのに……俺に尻尾の一本でも貰えないのか? と思ったが、これ以上余計な事を言って強制収容所送りにされてはたまらないと思い、軽く会釈して炎の方を向いた。

「漁師達から事情を聞いたのだが、身重の奥さんの為に鱈を買いに来たのだが、帰宅の足に困っていると言うではないか。今回の英雄的行為の報酬として、もし良ければ軍の車で家まで送っても構わないが」
「本当ですか! それは助かります」

 北朝鮮では党幹部であっても自家用車を持っている事はまず無い。一般人は車に乗る事よりも轢かれる可能性のほうが高いのが普通だ。思いがけない申し出により、子供達は生まれて初めて大型の軍用ジープに乗る事が出来、大喜びだった。

「とうちゃんすごい! 木がびゅんびゅん外を走っているよ! 雲が僕らを追いかけて来る。太陽は……一緒に僕らと競争しているよ」

 あっという間に自宅へと到着。軍の車が突然家の前に到着したので嫁さんは家の中でかなりパニックを起こしていたが、笑顔の子供たちと、まだ海水に髪を濡らした俺の顔を見ると、とりあえず落ち着いたようだった。帰り道海軍の人間に言われていたのは今回のアシカ騒動については一切口外無用と言った指示であった。よもや海軍が善意で送迎をしてくれるとは思わなかったが……言葉厳しく「口外した場合は強制収容所送り」と釘を刺されると事の重大さとその理由についてやっと事情が分ったような気がした。

「では!」

 運転席に乗ったままであったが、一応軽く敬礼をして海軍の兵士は海辺の町へと戻って行った。後日噂で聞いた話では、俺の想像は当たり、ネズミのペニス宜しくアシカのペニスもアルコールに漬けられ金正日総書記の精力増進剤として珍重されていると言う。量が漁師だけで確保できない場合は海軍が総出でアシカの群を追うのだという。万が一重要部位を傷つけてしまった場合は公開処刑若しくは強制収容所送りになってしまうというから、たかが捕獲と言えど気は抜けない。

 俺が捕まえたのは雄のアシカだったのだろうか? とにかく慌てていたので重要部位は確認できなかったが、つまりはネズミのペニス同様、驚く程でかい物では無いのだろう。
 ともあれ、その晩は予想外に早く帰れた事と新鮮な鱈を手に入れる事が出来た事を嫁さんは誰よりも喜んでくれた。子供達も多少? 今回の事を受けて俺の事を尊敬してくれるようになったような気がした。義弟から貰った白菜に韮、ネギ、キムチ、そして鱈を入れて食べた鍋は頬が落ちるほど旨かった。厭な事は忘れよう。楽しい事だけ考えようじゃないか。鱈を食べた翌週、ついに安定期になった嫁さんは大分容態を好転させ、洗濯を干している時などは鼻歌を歌うようにさえなっていた。

「大丈夫か? 辛かったら早めに休むようにしろよ」
「はい。もう大丈夫。お陰で大分元気になってきました」

 しかしこの好意、いや祭り気分で行った行動が後日家族を絶望の淵に追いやる大事件に発展してしまう事を俺はこの時知る由も無かった