端的に紀伊國屋書店の臨時閉店のせいだが、こんなにも本を求める人がいるのだという見た感じに刺激を受けてか、無性に本が読みたいというウェーブに乗ってしまっている。


一冊本を読めば、どうしても読みたい本が5冊は増える。これを12回繰り返すと、全世界で出版された本を読み尽くした上、さらに全てを再読することになるのだが。


ひとは生涯どのくらいの本を読めるのか。平均1週間に一冊だとして、月に4冊、年48冊。もうちょっと読んでる感じがするので、年60冊としても、4000冊も読めないことになるという恐ろしい事実を突きつけられた。忘却機能がなければ、、ストレスで、肝臓が弱り死んでしまうだろう。


一日一冊読めればざっと2万冊。だけど、一日で読めてしまう本に、読みたい本はそれほどないし、速読のような非生産的な読み方をするなら、読まないほうがむしろいいと思う。


遅読はできても速読は出来ないので、実際のところはわからないが、速読の目的で言えば、楽しむためとは言えず、ざっと何が書いてあるのかを把握するためだろう。あ、仕事ではよくやっている。


これまでの経験から言えば、じっくり読んだ本は、身体に染み付くが、一日で通読した本は、その本の記憶さえあやふやだ。


暇だったころ、大阪市立図書館に通いながらジイド全集を読んで、人は本当の意味で動機を得られないため、すべてのひとの行動は出鱈目であることを知った。


ドストエフスキーを読んで、ひとは宿命的に聖性を追い求めることで俗悪に染まるがそれ自体は何か、という、全てのひとの行動は予定説的に生まれるものだということを知った。


フロイトを読んで、野性的な性衝動はどのように料理をしても、性的な灰汁は残るため、丹念に灰汁取りをしがちだが、しすぎると旨味が損なわれること、しかし、灰汁取り衝動はタナトスとしてすでに灰汁取りセットが置かれていることを知った。


ニーチェを読んで、率直に言いたいことを言うフロイトだと知った。


昨日のNHKのニュースで、未確認飛行物体という言い方を使い、なにも言ってないというレトリックを使ったアメリカ国防省の意図は何なのか知らない。


ちかごろ、古本屋で買った本達