哲学によって、理性と狂気の間に、一線が引かれたように、宗教によって、道徳と、非道徳の間にも一線が引かれた。理性的な人間があり得るように、道徳的な人間があり得た。


道徳的な人間がしたことは、線を引くことである。ついに街の中にも引かれた線は、かつての、らい療養所を、さまざまな出自の貧者の国として囲んだ。


働かないことと、貧困であることが結びつけられたが、監禁施設での労役は実際には生産性の賦与よりも、非倫理性への懲罰、矯正として機能していた。苦しい方がよりよいという懲罰を目的にした労役そのものにも生産性は欠けていた。


貧困は努力不足や不道徳からではなく、社会によってシステムの一部として生まれるという発想は、経済より無信仰が問題である当時の世の中では、生まれない。


「道徳的なひと」によって、貧困は、神の懲罰として、信仰の正しさを明かし立てるのに利用され、さらにアリバイのために、線引きをされた悪徳の世界、監禁施設を作ったとも言える。


だから、阿呆船による彼岸への追放ではなく、監禁施設による囲い込みなのである。


非倫理が犯罪となる、恐ろしい世界である。今現在はどうか。抑圧された「倫理」は、匿名でネットワークに解放され、ネットではもちろん、理性と非理性、倫理と非倫理を燃料に炎上している。「道徳的なひと」は17世紀と比べて減ったわけではない。


例えば生活保護受給者に対するヘイトや、犯罪と結びつけ精神障害者に対してなされるラベリング、在日外国籍人に対する暴力。これらは「倫理」とそれに伴う感情を後ろ盾にしてなされる、「道徳的なひと」による線引きである。


フーコーの言うのはそうではなく、道徳的なひとには、まったくもって「非倫理的な」彼らが必要だ、と言うことである。彼らを自らの「正しさ」の為に利用する。


「道徳的なひと」の世界の付置のなかには、非道徳者が必ず含まれる。ただしこことな別の世界とするところに。


おまけにその世界には神も仏もいないので雲の上から自分を、君こそ非倫理な罪人だという風には見れない。


人間は馬鹿で非倫理的だ。人間は不足を満たしたい。善く、賢くなりたい。だから知が必要である。三段論法である。


で、どこまでいっても人間は満たされず非倫理的でしかない。だからどこまでも賢くなりたい。だから私は無知だ。ソクラテスはそういうことをいってまるで阿呆船に乗るように、毒ハイを飲むことになった。