今年は本棚の肥やしになりかけていたフーコーを全て読もうという、抱負を立てた。「狂気の歴史」は重くて分厚い。雨の日は持ち歩けない。中身は恐ろしく裾野が広く、読み方も様々に可能だろう。


歴史を語る際にも当事者性が必要である。ということをフーコーは、精神疾患と心理学で散々書いている。狂気を内側から書くことで「精神疾患」は梯子を外され、精神分析は、分析を受け、普遍的な人間の経験に伴う、矛盾の乗り越えの試みが狂気と名付けられる。


狂気は、阿呆船で彼岸に送られる。狂人を乗せた阿呆船は巡礼する。実際に聖地に赴く。16世紀のヨーロッパである。それは後にトリックスターとして無害化される前の、狂気を畏れ崇める行為でもある。


まるでお盆のようである。お盆は先祖を迎えるのと同時に惧れる。お盆は、狂気のもとにある矛盾を船で彼岸に送る。さらには、阿呆船は四国の巡礼のようでもある。狂気がそこらにあるように、阿呆船もそこらにあるのかもしれない。


狂気が台頭してくる前は髑髏であった。骸骨。死神。時代的にはペストで多くの人が死の不安に苛まれ実際に多くの人の身内が死んだ。


狂気は、ここでどうせ狂っているしかない人間が死ぬことにそこまでの()価値はないと、恐怖を嘲弄するのである。そもそも死を恐れることが狂気なのだと、そうやって死を乗り越える。


キリスト教の原罪が世俗に下りた語りが狂気である。人間は、狂っているかどうか自分では判断できないくらい、狂っている。どうだ、誰も反論できひんだろう。


デカルトは反論した。結論、我思うゆえに我あり。狂気かどうか判断しようという主体の運動の手応えは確かにある。という現象学である。現象が起こっているが、その先は知らん。これでいいのだ。


従って、ギリギリのところで人は正気を保っている。哲学は正気であろうという学である。この、その先は知らんということが哲学の肝で、語り得ぬことに対しては黙るしかない。


ここで、語ってしまうことで学が生まれる。ただし、その「学」の根っこが頑丈な土壌に固定されているのかどうか、不明である。


ところで、狂気は、狂気であることにより、正気より神の知恵に近い、あるいは救われ易くある。さらには、狂気には理性では到達できない神の知恵が含まれているというロマン主義的な発想が、トリックスター性の前提を作っている。


阿呆船のことを読みながら、しきりにバカボンのパパのことを考えていた。バカボンのパパはトリックスターではなく、徹底的に狂気であることを選んでいる。加減を知らず、つまり倫理に縛られず、行くとこまで行くのだ。


そのアナーキー具合は、予定調和な「本当の知恵」を決して示さず、肉体改造や、タバコと間違えて咥えたダイナマイトで爆死などの、数々の馬鹿げた終末を表現する。そのようにして、「死」を乗り越えているようにも見える。


死の乗り越えという主題のある、まだ「学」以前の、デカルト以前の狂気がまだあったのが、天才バカボンだ。言ってみる。言ってみると、超人的な理性を示す、はじめちゃんと、救われている稀なひとであるバカボンというロマン主義的な狂気でもあるというところに繋がる。


本題は、フーコーと天才バカボンが本棚にある今、狂気はどうなっているのかという事である。系統発生は個体発生を繰り返すのであれば、フーコーより新しい天才バカボンの中にすでに語られているはずである。知らんけど。


あるいは精神保健福祉では、狂気ということがどこに位置付けられているのか。こと問いを素通りして、フーコーを読んだことにはならないが、ちょっとまだ早い。


やはり、狂気は矛盾を解消する働きであるというところに立ち戻る。正気でそれをやろうとすると、狂気は人ごとになり失敗する。