藤圭子さん | 彫きぬ雑記帳

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山口県山口市の刺青処、日本伝統肌絵芸術の彫きぬこと衣笠新太郎のブログ
仕事の話し、趣味の話し、また旅の仕事の出来事などを書きます

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僕は、藤圭子さんの隠れファンだった
亡くなられた今でもファンである

誕生日も昭和26年の7月と同じ
藤さんが歌手デビューしたのは昭和44年9月
僕が海自に入ったのは、同じ年の8月

上陸(外出)日には街に出て、
喫茶店や集会所などのジュークボックスで彼女の歌声を聴いていた
たしか、一曲30円だったかな
当時のタクシーの初乗りは小型車で70円だったので、少し高い気がしたが
自分の入れた曲をその場の皆にも聴いて欲しかったような。。

除隊は21になった年の夏
やくざなんかに憧れなど無いが
漢にはなりたいという若気からか
秋も深まった頃には背中一面を墨色で汚してしまい
いっぱしの不良を気どっていたが
23の春に、彫ってくれた刺青師からの誘いもあり
心機一転、部屋住み修行に入った

入ったが、
刺青師の割りには少しカブレたおっさん(師匠)で
よく、揉め事も起こしていたものであった

🐱こんな時にはよく活躍してました
🐶臭い飯食わんかったのが不思議です。。

まぁ、色々と有りまして。。有りまして
27の夏には御暇乞いをしたのです


話しを戻すと
藤圭子さんが一度目の引退をしたのも、この頃かな…
藤さんは米国に行き
僕は大阪と対馬を行き来していた頃で
そして
一人で療養生活を続けていた叔父が心配になり
広島市にしばらく居て
またまた流転で。。周防の国から長州へ
その長州山口に落ち着いたのが昭和56年春29のとき
藤圭子さんが復帰したのが56年秋。。
なにか、ローテーションが似てるような気がする (^。^)

それから幾星霜、藤さんのCDなどを聴きながら
仕事に励んでおりました
(平成2年から16年まで月の半分を東京で仕事をしていたのもこの頃)
そして平成25年夏に、驚くニュースが飛び込んできた

藤さんのプライベートなことは知る由もないが
子供の頃の苦労から始まった人生、
他人には分からないことがあったのだと思います
色んなことを言う人もいるが、
人の心の奥底は本人しか分からないもので
それが、(人間)という難しいものかもしれません

正月休みにCDやYouTubeを観てるうちに
つい書きたくなってしまいました

お元気なころのYouTube『ふたりのビックショー』
藤圭子さん45、6才の頃の動画です
この人はレコーディングの歌より、ステージでの歌の方が
魅力があって好きです






写真がないと寂しいので
アルバム曲の写真をお借りしました