寛文新刀と明暦の大火 (振り袖火事) | 彫きぬ雑記帳

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山口県山口市の刺青処、日本伝統肌絵芸術の彫きぬこと衣笠新太郎のブログ
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僕は古刀(平安期から室町末期まで)好きだが
新刀初期の反りの浅い、俗に言う寛文新刀も好きである

その寛文時代の刀剣はかなりの数で現代に残っている
寛文新刀は江戸に多くの刀工が地方から集まってきた
かの長曽祢興里も越前から江戸に来た
この多くの刀工が江戸にきた理由は明暦三年の江戸の大火とも関連があると思う


明暦三年の正月、
江戸を襲った大火(振り袖火事)は、江戸城の天守閣も含む江戸市街の大半を焼き尽くした
死者は十万人を超えると伝えられ、世界三 大大火の一つと記録されている

この大火による刀剣の被害も夥しく、
享保名物帳の「焼失の部」に記載されている名刀の大半はこの時に焼失している
刀剣史上、特に名刀の歴史における最大級の不幸な出来事であるが、
これこそが新身の需要を喚起した出来事だったのではないかと思える

火事の際に真っ先に運び出されるべき江戸城の名刀があれだけ焼失している のであるから
江戸城の御用意刀や、大名屋敷、旗本屋敷における刀剣の被害は推 して知るべしであろう

需要が生まれれば供給が増える。供給が必要となると人材が集まり、競争が 促進され、製品は優れたものになっていく
これが寛文という戦争のない時代に刀剣界が活況になった 一因ではないだろうか

寛文新刀の名工は、焼失した名刀に替わる名刀を現代に残してくれたのである

まず明暦の大火の状況を歴史書から引用すると。。

「江戸の冬は北からの風が烈しく冷たい
正月の一八日は北西の風が強く、 昼過ぎに本郷丸山の本妙寺が焼けると、その火は風に乗って次々と南進し、湯島や神田明神を焼き尽くした

雨が二カ月余りも降らずに乾いた空気が火の回 りを早めたのであろう
さらに伊達堀と呼ばれる深い外堀(現在のお茶の水駅 付近)をも、火の手はこえて、駿河台の武家屋敷も焼いた

駿河台から江戸城 に火の手が迫るかと思いきや、この日の風は夕方になると西から吹き始め、炎 は八丁堀方向に向きを変えた
ついには避難のために霊厳寺に逃げ集まっていた人々九六〇〇人もろとも、寺を炎が包んだ

さらに隅田川をこえて、向島・ 深川までも焼いた。
翌一九日の午前一〇時ごろ、今度は小石川の鷹匠町より出火、火は燃え広が り駒込の吉祥寺さらに水戸藩駒込邸(現東京大学農学部)と移り、やがて外堀 をこえて飯田町からついに江戸城北の丸の大名屋敷に燃え移っていった

江戸城竹橋門内にあった御三家の屋敷が燃えれば、本丸・二の丸は逃れようもなく、 ついに昼ごろ五層の天守閣も炎に包まれた。将軍家綱は西の丸に移った

このあと大名屋敷を次々に焼き尽くしたあと、隅田川をこえて多くの蔵屋敷 も燃えた
さらにその晩には麹町から再び燃え出し、赤坂の山王権現に続いて桜田門近くの井伊、上杉、伊達、島津、黒田などの大名屋敷を焼き、この正月 一八・一九両日で、ほとんど江戸全域にわたる被害をもたらすにいたった」
と記録されている

被災の大きさを示した図がこれである






明暦の大火と呼ばれるこの大火災の被害状況は、
大名邸が一六〇家焼けて、 残ったのは五四邸と約四分の一である
旗本屋敷は七七〇家以上が 焼失した

寺院や神社も例外ではなく三五〇余が被害にあった
そして町家は 四〇〇町余が焼け、橋は一石橋・浅草橋を除いて六〇余りが焼け落ちた
死者 は合わせて一〇万人を下らなかったという。。

🐶火事はドロボーより怖い
🐱全てを奪い取られるからね

さて、今宵もテクテクと火の用心に出かけるかな (*´ー`*)