『ミラの国のインフル議会』
ミラは、どこにでもいる小さな町の事務職員だった。
冬の訪れを感じると、決まって社内にはマスクの花が咲く。
白い布の向こうで交わされる言葉は、少しこもった音で、まるで冬の儀式のように響いた。
「そろそろ予防接種の季節ですね」
となりのデスクのヨシノが言った。
彼女は慎重派で、去年も職場全員の予約を取りまとめた人物だ。
いっぽうミラは、その手間を毎年ぎりぎりまで放置するタイプだった。
決してワクチンが嫌いなわけではない。ただ、なんとなく「自然にまかせておけばいいのでは」と思っているだけだった。
「ミラさんは、今年も受けないの?」
「うーん、受けようかなとは思ってるけど、タイミングがね」
ヨシノは少し眉をひそめて、書類を閉じた。
「そういう人がいるから、みんなが迷惑するんですよ」
――迷惑。
その言葉がミラの胸に、冬の針のように刺さった。
迷惑、という響きは、どこか冷たい。まるで「あなたの自由は、他人の脅威です」と言われているようだった。
けれど、ヨシノの言い分も分かる。
彼女は職場のみんなの健康を守りたいと思っている。
それは優しさから出た言葉のはずだ。
なのに、なぜかトゲのある音に聞こえるのはどうしてだろう。
ミラは昼休みに公園へ出た。
街路樹の葉はもう半分ほど散り、ベンチの上には陽だまりが斑に落ちている。
手に持ったコンビニのパンをちぎりながら、彼女は思った。
「私たち、いったい何に怯えているんだろう」
ウイルスか。
それとも――他人の“違い”だろうか。
その夜、ミラは奇妙な夢を見た。
薄暗いホールに、何百人もの人々が集まっている。
全員がマスクをしており、舞台の上では、巨大なスクリーンが光っていた。
中央の円卓には札が立ち、「インフル議会」と書かれている。
ミラはなぜかその議会の代表として、壇上に立たされていた。
そして、隣には、ヨシノそっくりの女性――「規律代表」が立っている。
司会者が声を上げた。
「本日の議題は、“予防をしない者はワガママか?”です!」
会場がざわめいた。
「まず、規律代表の意見をお願いします」
ヨシノに似た彼女が立ち上がる。
「私たちは社会の一部です。誰かが予防を怠れば、それは全体に迷惑をかけます。
それを“個人の自由”だと主張するのは、社会的ワガママです!」
拍手が起きた。
ミラはどきりとする。――まるで現実の彼女の言葉そのものだった。
「次に、自由代表のミラさん。あなたの意見を」
ミラは立ち上がった。
けれど、うまく言葉が出てこない。
なぜワクチンを受けなかったのか。なぜ彼らのように強く言えないのか。
その理由を探すように、ミラは自分の胸に手を当てた。
「私は……ただ、自分の感覚を信じたいんです。
身体が『今は大丈夫』と言っている気がして」
ざわめきが広がる。
「感覚?」「非科学的だ!」という声が飛び交う。
その時、天井のスピーカーが低く鳴った。
「静粛に。次の証人を呼びます」
扉の奥から現れたのは、年老いた小さな医者だった。
灰色のコートをまとい、手には古びた温度計を持っている。
会場が息をのむ。
「私は〈からだ博士〉。百年ほど前から、ここで人々の議論を見てきた」
博士はゆっくりと言葉を紡いだ。
「昔、人々は病を“外”から来るものだと思っていた。
だが、実際は心が弱ったとき、外のウイルスが“入る余地”が生まれるのだよ。
予防とは、壁を高くすることではない。風を感じながら体を強くすることでもある」
ミラははっとした。
博士の言葉は、彼女の中の“なにか”を揺らした。
けれど、ヨシノ代表はすぐに反論する。
「でも、科学的根拠は? それではエビデンスになりません!」
博士は笑った。
「エビデンスとは、“みんなが同じ方向を見ている”という安心のことさ。
だが、その“みんな”という言葉ほど、あやふやなものはない」
ミラはその言葉に見覚えがあった。
――そうだ、彼女は前に誰かに言われたのだ。
「“みんな”を“私”に置き換えて言ってみなさい」と。
「“私のために、気をつけてほしい”……」
ミラが小さくつぶやくと、周囲のマスクたちがざわりと揺れた。
すると、不思議なことに、会場のスクリーンが歪み始めた。
「みんなのため」の文字が波打ち、「私の恐れ」「私の願い」「私の不安」と書き換えられていく。
そしてホールの天井が割れ、光が差し込んだ。
マスクの人々が一人、また一人とマスクを外していく。
彼らの顔には、怒りも恐れもない。
ただ、やっと呼吸ができたという安堵の表情があった。
博士の声が遠くで響いた。
「ワガママとは、“私”を守ろうとする心の防衛反応だ。
それを責めてはいけない。
だが、その“私”がどこまで広がっているのかを、時々見つめるのだ」
ミラはゆっくりと目を閉じた。
翌朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかな光が差していた。
夢の余韻がまだ身体のどこかに残っている。
会社に行くと、ヨシノがまた書類を抱えてやってきた。
「ミラさん、予防接種、受けました?」
「うん、予約したよ。……でもね、ヨシノ」
「なに?」
「“みんなのため”じゃなくて、“私が気持ちよく働けるため”に、受けることにした」
ヨシノは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……それ、いいですね」
その笑顔を見て、ミラは思った。
“私”と“みんな”は敵じゃない。
きっと、同じ源の水たまりから流れ出ているだけなのだ。
風邪をひく人も、予防する人も。
それぞれが自分の“心の温度”で世界を感じている。
ミラは空を見上げた。
冬の空は透き通っていて、鳥たちがゆっくりと渡っていく。
誰も急いでいない。誰も正しさを競っていない。
「みんな、ちゃんと自分の空を飛んでるんだな」
そうつぶやいて、彼女はマフラーを巻き直した。
風の冷たさが、妙に心地よかった。





