「スピリチュアル健康委員会」
第一章 奇妙な議題
国際都市ジュネーヴのガラス張りの会議棟。
世界保健機構――WHOの理事会では、毎年のように人類の健康に関する新しいテーマが討議されていた。
ある年のこと。議題に上ったのは「スピリチュアルな健康」という、聞き慣れない分野であった。
「肉体の健康、精神の健康は理解できる。しかし“スピリチュアル”とは、いったいなんだ?」
重厚な声で問いかけたのは、理事長席に座るローレンス博士。
白髪まじりの頭をかきながら、半ば呆れたようにため息をついた。
会場のスクリーンには、提出された報告書の表紙が映し出されている。
《人類の健康を測る第三の軸:スピリチュアル・ディメンション》
発表者は若い研究員、波多野ソラであった。
彼は立ち上がり、真剣なまなざしで会場を見渡した。
「スピリチュアルとは“まやかし”でも“宗教の宣伝”でもありません。
人が自分を世界から切り離して考えるその根本的な錯覚――これを乗り越える健康の在り方を指します」
ざわめきが広がった。
「また怪しいことを……」
「科学的でない」
「四次元ポケットの話かね?」
笑い混じりの声が飛ぶ。
ソラは苦笑を浮かべつつ、落ち着いた調子で続けた。
「私たちは“自分”を特別な存在だと感じがちです。しかし実際は、自然の一部であり、全体の関数の一項にすぎません」
「関数?」と隣の委員が眉をひそめる。
ソラは、黒板にチョークで書くように空中に図を描いた。
「部分関数として世界に包摂されている――これが人間の真の姿です。
私たちは個性を持ち、他者とぶつかり、時に苦しみながらも、やがて全体との関わりを思い出す。その回復力こそが“スピリチュアルな健康”なのです」
だが会場の反応は冷ややかだった。
「結局、証拠はあるのか?」
「それは心理学ではないのか?」
「健康の定義をこれ以上曖昧にしてどうする?」
その日、採択は見送られた。
こうして「スピリチュアル健康」という言葉は、正式には存在しないまま歴史の片隅に追いやられることになる。
第二章 研究室の片隅で
会議後の夕暮れ。
ソラは石畳の街路を歩いていた。
隣を歩くのは同僚の光井レン博士。
彼は量子物理学を専門とし、いつも夢見がちなことばかり言う男だった。
「惜しかったね。だけど面白い発表だった」
「結果は予想通りさ。まだ世の中は“見えるものだけが真実”だと信じてる」
「でもねソラ君。君の言うことは、量子物理学の多次元仮説に似ている」
レンはにやりと笑った。
「五次元や六次元が存在しないと、粒子のふるまいが説明できない。つまり世界は“見えない次元”に支えられているんだ」
「次元の健康、か……」
ソラはつぶやいた。
二人はふと、小さなカフェに入った。
木製のドアを押すと、どこか懐かしい香りが漂う。
奥の席には、見慣れぬ人物が座っていた。
シンプルな服装、年齢不詳。
眼差しだけが鋭く、しかしどこか優しい光を宿している。
その人物は二人を見るなり、静かに声を発した。
「スピリチュアルな健康――まだ早すぎたな」
ソラとレンは顔を見合わせた。
「あなたは?」
「私はただの旅人だ。人は“ミスター・ナウ”と呼ぶ」
第三章 ミスター・ナウの実験
ミスター・ナウは、二人を古びた研究所に案内した。
そこには奇妙な装置が並んでいる。
光を曲げるレンズ、音を反転させるスピーカー、そして巨大な立方体の機械。
「これは……?」
「五次元健康測定器だ」
ソラは息を呑んだ。
「人の健康は三つの軸で測られてきた。肉体、精神、社会的環境。
だが本当はもう一つ、“全体とのつながりを感じる力”がある」
レンが笑いをこらえながら言った。
「まるで宗教の祭壇みたいだな」
ミスター・ナウは首を横に振った。
「違う。これは科学だ。宗教も科学も、元は同じ“知らないことへの問い”から始まったのだ」
彼は装置のスイッチを入れた。
すると、立方体の中に光の幕が広がり、揺らめく波紋が空間を満たした。
ソラとレンは足を踏み入れた。
途端に、世界が裏返った。
第四章 裏返しの自分
ソラの目の前に現れたのは――もう一人の自分だった。
だがその表情は険しく、苛立ちを露わにしている。
「君は正しいと思い込み、他人を振り回してきた」
次に現れたのは、喜びに満ちあふれたソラの姿。
「君は人を幸せにしてきた」
さらに、絶望に沈むソラ。
「君は人生を恨んだこともある」
次から次へと、無数の“自分”が現れた。
それらは互いに矛盾しながらも、同じ一人の人間の断片だった。
レンもまた、自分の裏返しに出会っていた。
笑いながら涙を流すレン、怒鳴り散らすレン、何も語らず黙っているレン。
二人は気づいた。
――人間とは、全体の中で揺らめく多次元的な存在なのだ。
ミスター・ナウの声が響いた。
「これがスピリチュアルな健康。無数の自分を否定せず、全体の流れに溶かし込む力だ」
第五章 消えた旅人
気づけば、光の幕は消えていた。
研究所も、ミスター・ナウも、跡形もなく消えていた。
ソラとレンは静かな夜道に立っていた。
「夢……だったのか?」
「いや、僕は確かに見た。自分の裏返しを」
二人はしばらく黙って歩いた。
やがてレンがつぶやいた。
「知らないことがあるって、いいな」
ソラは頷いた。
「そうだ。知らないから、世界は面白い」
第六章 その後の話
数年後。
「スピリチュアル健康委員会」という小さな市民団体が各地に生まれた。
科学でも宗教でもなく、人々が自分と世界のつながりを思い出すための場だった。
そこでは、失敗談も成功談も笑い話に変わり、誰もが自分らしさを持ち寄った。
やがて、各国の保健政策にも「スピリチュアル・ディメンション」がひっそりと記されるようになった。
それはかつて採択されなかった議題の、遅すぎる復活だった。
エピローグ
もしあなたが人生に迷ったとき、思い出してほしい。
“自分”という感覚は、ときに世界からの分離を生む。
しかし本当は、あなたは常に全体の一部。
知らないことが無限にあるからこそ、人生は楽しみに満ちているのだ。





