循環市場(ループ・マーケット)のリリア

リリアは、目覚まし時計のベルとともに薄く目を開けた。
朝日が淡く差し込み、枕元に積まれた紙袋が影をつくっている。中には、もう飽きてしまったブラウスや、似合うと思って買ったのにどこか違っていたスカートが雑然とつめこまれていた。

「今日こそ出品しなきゃ」

そうつぶやきながら、ベッドの上で小さく伸びをした。


最近、リリアはフリマアプリに夢中だった。
いらなくなった服や小物を“手放す”。そして誰かが買ってくれると、スマホに「売れました」の通知が届き、それが妙にうれしいのだ。おまけに少しばかりのお金になる。これがまたクセになる。

(お得……なんだよね、きっと)

自分でそう言い聞かせながら、毎日コツコツ出品していた。

そんなある日、職場の昼休みに、いつもの相棒・アヤトに訊ねられた。

「リリア、最近なんかいい感じの話とかある?」

アヤトは、コーヒーをすすりながら、人のことを観察しては不思議な角度で物を言う青年だった。といっても、年齢はリリアと大差ないが、妙に達観したところがある。彼の目には、余計な力みがない。

リリアはスマホを胸に抱えると、少し誇らしげに言った。

「実はね、フリマですごく売れてて、最近ほんと“いい感じ”なの!」

アヤトは眉をひそめる。

「何がいい感じなん?」

「だって、いらなくなった服とか雑貨を売れるからお得なんだよ?」

「……その“お得”について考えてみよう」

アヤトは指でテーブルをとん、とんと叩いた。

「売るのが“お得”って言うんだったら、最初から買わないのが一番お得じゃない?」

「えぇ〜!? だって、欲しくなるし、着たいから買うんだよ」

「ふむ。でもレンタルっていう手もあるよ?」

「レンタル?そんなのがあるの?」

「ググれば?」

アヤトはコーヒーの底を見つめながら言った。

リリアはスマホで調べ始め、すぐに驚きの声を上げた。

「えっ……ほんとにあるんだ! しかも、“下取り割引”だって! え、これって服買い取ってくれるってこと?」

「そんなわけないでしょ。あなたが“気に入った服を引き取れる”って意味でしょ」

「でもさ、月々5000円以上かかるんだよ?」

「別にずっと続けなくてもいいじゃん。シーズンごとにスポット契約とかあるだろ?」

「そういうの……あったらいいよね」

アヤトは肩をすくめる。

「とにかく世の中にはいろんなサービスがあるよ。お金セーブしたいなら、いろいろ調べてみればいいさ」

リリアは思わずため息をついた。

「調べるのって楽しいけど、よく分からない内容が多いんだよね」

「そーいう苦労があるからこそ、人生のチャンスがあるんでしょ?」

アヤトの声は淡々としているのに、どこか不思議と説得力があった。

「“めんどくさい、ストレスだ”と思うか、“悩んだり工夫する機会になるから成長する”って思うか……。どっちを選ぶかで、あなたの人生はもっともっと楽しくなるよ」

アヤトはニッと笑った。

リリアはその笑顔につられるように、ふっと笑った。


その日、仕事帰りにアヤトが言った。

「そうそう。いけてないときの写真ある?」

「は? なんで?」

「比較したいだけ。あなたの“いけてる基準”が知りたい」

半ば呆れながらも、リリアはスマホから昔の写真を探し出し、一枚をアヤトへ送った。

するとアヤトは真剣に見つめたあと、首を傾げた。

「どこがいけてないのか……謎だね」

「えっ!? 普段と変わらないって言いたいの?」

「いや、ただ……なんかあなたって、どの瞬間も『途中』なんだよね」

「途中?」

「完成してないし、壊れてもないし、ただ流れてる最中。そういう人って意外と少ない」

リリアには何のことだかよく分からなかった。

ただ胸の奥が、かすかにざわっとした。


ここから物語は、静かに非日常へとすべり込む。

その夜、リリアはふと、不思議な夢を見た。

夢の中で、アプリの画面がふわっと光りはじめ、出品したはずのブラウスやバッグたちが、ゆらゆらと空中に浮かび上がった。
それらはまるで意思があるかのように、彼女の周囲を回りながら、ささやく。

「手放してくれてありがとう」
「誰かの元で、もう一度価値になるよ」
「あなたの“いらない”は、誰かの“必要”だよ」

リリアは戸惑いながらも、その声を聞いた。

すると突然、部屋の空気が静かに揺れ、どこからともなく柔らかな光が差し込んだ。

光の中に、ひとりの女性が現れた。

淡い金の髪。白い衣服。表情は優しく、しかしどこか現実離れした透明さがある。

「あなたは……誰?」

女性は微笑み、答えた。

「私は“循環市場(ループ・マーケット)”の案内人、ソラ。
 リリア、あなたは気づいていないけれど、あなたの心は常に“循環”しているの」

「循環?」

ソラは頷いた。

「そう。あなたが手放すものには、必ず“心の跡”がある。
 手に入れた瞬間のときめき、飽きたときのため息、処分に迷う揺らぎ……
 そういう“意識の断片”が、そのまま物に宿るのよ」

リリアは言葉もなく、ただ聞き入るしかなかった。

「あなたがフリマを楽しいと感じるのはね、
 “ものを手放す”ことで、あなた自身の意識が軽くなるからなの。
 同時に、誰かの元へ渡ることで“価値が変化する瞬間”を味わっているの」

ソラは静かにリリアの目を見つめた。

「あなたは、変化が好き。でも、変化を怖がってもいる。
 その矛盾が、あなたを“途中の人”にしているのよ」

“途中の人”。

アヤトの言葉と重なった。

リリアの胸の奥から、何か熱いものがじわりと広がった。


翌朝。
リリアは夢のことをずっと考えていた。

(わたし……“途中”って、どういう意味なんだろ)

その疑問を抱えたまま、職場につくと、アヤトが声をかけた。

「なんか、顔に“未処理データがあります”って書いてあるよ」

「アヤト、昨日の夢の話していい?」

リリアはソラの話をできるだけ正確に伝えた。

アヤトは腕を組んで聞き終えると、

「へぇ。いい夢じゃん」

とだけ言った。

「いい夢って……」

「だって、あなたに必要だったんでしょ?
 “手放す”って、ものの話だけじゃないよ」

アヤトは立ち上がり、コピー機の前に向かいながら続けた。

「悩み、期待、劣等感、比較癖、未来の不安……
 そういう“心の不要品”を処分する練習を、あなたはフリマでやってるんだよ」

リリアは息を飲んだ。

アヤトは紙の束をトントンと揃えながら言う。

「あなたはさ、“何者かになりたい”と思う反面、
 “今のままの自分では足りない”と思ってる。
 その二つが引っ張り合ってるんだ」

それは、リリアが誰にも言えなかった心の奥そのものだった。

「でもね。途中でいいんだよ」

アヤトはリリアをまっすぐ見た。

「完成したら終わりなんだから」


◇ ここから物語の核心へ

その日、リリアは帰宅すると、クローゼットを開けた。

大量の服たち。
「着るかもしれない」と思って取っておいたのに、一年以上袖を通していない服。

(心の不要品……)

ソラの声がよみがえる。

リリアはハンガーを一つずつ手に取りながら、自分に問いかけた。

「これは、何を手放せずにいたの?」

すると、ものごとが少しずつ見えてきた。

気に入って買ったけど似合わなかった服は、
「失敗した自分」を認めたくなかったから捨てられなかった。

バーゲンで無駄買いしたワンピースは、
「節約できなかった後悔」を見ないふりしたかった。

昔の恋人にもらったストールは、
「終わったはずの思い」をまだどこかで引きずっていた。

服を手に取るたび、心が軽くなる。

まるで、本当に“心の跡”が服に残っていたかのようだった。

その夜、リリアの部屋は紙袋でいっぱいになった。

――これを全部フリマに出そう。

いや、それだけでなく。

――心の不要品も手放そう。

そう思った。


翌日。
アヤトにその決意を伝えると、彼は小さく笑った。

「あなたの人生、ますます楽しくなるね」

「そうかな?」

「だって、あなたは気づき始めたんだよ。
 “何かを手に入れるより、何を手放すかで人は変わる”って」

その言葉はリリアの胸に深くしみた。


◇ 終幕 ――リリアの“循環”は続く

数週間後。

リリアはフリマで大量に売り、思いがけずまとまったお金が入った。
だが、以前のように衝動買いしたい気分にはならなかった。

(また何か手放さなきゃいけなくなるしね)

それよりも、部屋の空気が軽い。
心のどこかも軽い。

アヤトと帰り道を歩きながら、リリアは笑った。

「ねぇアヤト。わたし、なんか最近すごく“いい感じ”かも」

「だろうね。あなた、今がたぶんいちばん“途中感”あるよ」

「褒めてるんだか分かんない!」

「もちろん褒めてるよ。途中ってことは――」

アヤトは空を指差した。

「まだどこへでも行けるってことだから」

リリアはその言葉を聞きながら、ふっと胸のあたりが温かくなるのを感じた。

(わたし、どこへ行けるんだろう)

そんな未来への小さな期待が心に灯り、
その光は、ゆっくりと、けれど確かに広がっていった。

風が吹いた。
アヤトのジャケットがふわりとなびく。
空には雲ひとつなく、夕焼けが金色に広がっていた。

リリアはそっと呟いた。

「わたしは、途中でいいんだね」

アヤトは横目で笑った。

「途中こそ、人生でいちばん面白い場所だよ」

リリアは歩きながら、胸の奥でそっと感じた。

――手放せば、また流れが起きる。
――流れの中にいれば、自然と未来へ進める。

「循環」それは、終わりのない変化の輪。
リリアはその輪の中心で、静かに微笑んだ。

そして、ゆっくりと前へ歩き出した。


── 完 ──

〈光の検査室〉

1 尿検査で未来が分かるという噂

 朝の光を受けて、街は淡く白んでいた。その日の商店街は、どこか落ち着かない空気をまとっていた。噂のせいだ。
「尿検査で、自分に不足している栄養素が全部わかるらしい」
そんな話が、数日前から妙に広まりはじめていたのだ。

 噂の発端は、近所に住む若い女性・ミオが、朝のテレビ番組で見たという情報だったらしい。彼女はその話題を嬉しそうに語っていた。

「ねえ聞きました? 検査するだけで、必要なサプリメントまで全部わかるんですって。便利ですよねえ」

 ミオは、それを“朝の天気予報と同じくらい確実な事実”のように信じているらしかった。
 その場にいた主人公――古道具屋を営む中年の男・**光田(みつだ)**は、穏やかに笑って言った。

「まあ……そういう技術はあるだろうね。でもね、ミオさん。『便利』って言うけど、いったい誰にとっての便利なんだろうね?」

「え、誰って……私に決まってるじゃないですか。必要な栄養が一目瞭然だなんて……」

「ふむ」

 光田は、ふうっと息を吐いて棚の上に置いたカンテラを撫でた。

「世の中はね、数字で説明できることだけが本当だ、必要だって言い張り始めると、大体ろくなことにならないんだよ」

 ミオは首をかしげた。
「でも、何を信じればいいかわからなくなりますよ」
「そりゃあ簡単。自分自身だよ」
「そんな知識ありませんもん」
「知識じゃなくて、気づき、かな」

 そんな会話を交わした数時間後――
光田は、奇妙な知らせを受けることになる。


2 光田の店に届いた、不思議な封筒

 夕刻の柔らかな風が店先の「古道具 光田」の看板を揺らしたころ、郵便受けに白い封筒が入っていた。差出人名はなく、宛名はただ一言。

〈光の検査室へ ――光田さま〉

「……なんだこりゃ」

 封筒の中には、一枚の案内状。

──「あなたの現在に不足している“見えない栄養素”を測定します。
 身体、心、思考、そして“未来の兆し”。
 検査室でお待ちしております。」

 見えない栄養素。未来の兆し。
妙な文句だ。だが、案内状には地図まで描かれている。

 光田は、しばし考えた後に苦笑した。

「まあ、行ってみるか。どうせ暇だし」


3 “光の検査室”は街の外れにあった

 地図の示す場所は、商店街から少し外れた古い倉庫街だった。
 夕暮れの色が静かに沈んでいく中、一件だけ灯りのついた古い建物があった。扉の上には、まるで手書きのように素朴な文字で看板が掲げられていた。

〈光の検査室〉

「……なんか、胡散臭いなぁ」

 光田が扉を押し開けると、そこは病院でも研究所でもない、まるで異世界の受付のような空間だった。
 白い壁、透き通るような薄明かり、そして――受付に立つ、白衣をまとった女性。

「こんにちは。お待ちしておりました」

 その女性は、年齢も国籍もよくわからない不思議な雰囲気をまとっていた。
 名札には、こう記されている。

〈案内役 ルカ〉

「あなたが光田さんですね」

「まあ、そうだけど……。呼ばれた覚えはないが」

「ここは、呼ばれた人しか来られない場所です。光田さんの“今”が、あなたをここに連れてきたんですよ」

「なんだい、そのスピリチュアル系の言い回しは」

 光田が肩をすくめると、ルカは静かに笑った。

「ここでは、一般的な尿検査のようなものを望む方は来ません。
 私たちが調べるのは、身体に必要な“数字”ではなく――」

 彼女は、光田の胸元をそっと指差した。

「あなたの心の奥に、今どんな“栄養不足”が起きているか。
 そして、それが未来にどんな影響を与えようとしているのか、です」

「……なるほど。妙な場所に来ちゃったなぁ」

「でも帰らないのでしょう?」

 図星を刺され、光田は言葉を失った。


4 検査室は“記憶”でできていた

 ルカに案内され、光田は検査室へと足を踏み入れた。
 そこで彼は思わず言葉を失った。

 そこにあったのは――彼自身の記憶の景色だった。

 子どもの頃に遊んだ川。
 両親の声。
 初めて買った古道具。
 失敗した仕事。
 誰にも言えなかった後悔。
 そして照れくさいほどの、小さな喜びの積み重ね。

「……どういうことだ?」

「ここは、心の内部を映す検査室なんです。
 尿や血液じゃ測れないものが、あなたの未来を決めています」

「未来を?」

「そう。“選ぼうとしている未来”が、ここには全部映っています」

 ルカは、光田の目の前に浮かんでいる光の欠片を指差した。

「あれは最近のあなたの思考。“不信”という栄養素の欠乏ですね」

「不信?」

「テレビやマスコミの情報に対する疑い。
 企業に踊らされる健康知識への違和感。
 あなたは気づいているのに、その感覚をちゃんと栄養に変えていない」

「栄養に……?」

「自分自身を信じるための、大事な栄養です」

 光田は、胸がざわついた。

「ミオさんという女性、いますよね。
 彼女が無邪気に全部信じてしまうのを見て――心のどこかで、あなたは苦笑しながらも羨ましさを覚えた」

「……それは……」

「“誰かに教わった信頼”じゃなく、“自分で育てた信頼”。
 あなたはそれをずっと探し続けています」

 光田は、目の前の光景を見つめた。

 記憶も、不安も、願いも――すべてが光の粒となって漂っている。


5 未来の影

「では、未来の影を見ましょうか」

 ルカの声とともに、部屋の光が再び揺れた。
 次の瞬間、光田の目に映ったのは、数年後の商店街だった。

 そこには、最新の健康管理サービス店が軒を連ねていた。
 店頭にはこう書かれている。

〈尿検査で人生の必要成分すべて判定します〉
〈血液検査で幸福度予測〉
〈遺伝子で最適な職業診断〉

 商店街の人々はそれを“便利だ”と言いながら受け入れ、店の外で列を作っていた。

 ミオもその列に並んでおり、機械から出てきた診断書を満足げに眺めていた。
 そこには、こう書かれていた。

〈あなたは、周囲の意見に従うと最も安心できます〉

 ミオは笑顔だったが――その瞳はどこか曇っていた。

 光田の胸が、ぎゅっと締めつけられた。

「これが……未来?」

「このまま行けば、ね」

「私は……何も変えられないのか?」

「いいえ。あなたは“気づいた”。気づいた人は、誰よりも自由です」


6 検査の結果と、光田の不足していた栄養

 記憶が静かに消え、検査室は穏やかな白へ戻った。

 ルカは、透明な紙を光田に手渡した。それは検査結果らしかった。

 そこには、こう書かれていた。


〈光田の不足栄養素〉

1.自分の直感への信頼
2.他者を見守る勇気
3.情報に色をつけずに眺める余裕
4.世界は思うより優しいという感覚


「……なんだか、サプリメントみたいにはいかないんだな」

「そうですね。けれど、どれもあなたが最初から持っているもの。
 “思い出すだけで補給できる”栄養です」

 光田は苦笑した。
「便利なんだか、不便なんだか」

「便利ですよ。自分にとっての“ほんとう”が分かりますから」

 その言葉を聞いたとき、光田は――ミオに伝えるべき言葉が、胸の奥でひっそり芽生えた気がした。


7 検査室の消失

 案内状を握りしめながら帰ろうと振り向いた瞬間、
“光の検査室”は、ふっと淡い光の粒となって消えた。

 まるで最初から存在しなかったかのように。

「……まあ、こういうこともあるのか」

 光田は静かに笑った。
 夕暮れの風が吹き抜け、その風が妙に軽やかに感じられた。


8 数日後、ミオの相談

 数日後、ミオが店にやってきた。

「光田さん、ちょっと聞いてほしいんですけど……あの尿検査のやつ、申し込もうかと思って……」

 光田は苦笑しつつ、優しく言った。

「便利なのは悪いことじゃないさ。でもね――」

「はい?」

「お化け屋敷に入るときは、“ここはお化け屋敷だぞ”って知って入るのが大事なんだ」

「……? どういう意味です?」

「テレビや機械は、誰かが作って、誰かが意図してる。
 必要な情報をくれる場所もあれば、必要じゃない情報を積み上げる場所もある」

 光田はミオの目をしっかり見て言った。

「だから――最後に判断するのは、あなたの心でいい。
 あなたの“今いる感じ”が、いちばんの検査結果だよ」

 ミオは、すぐには理解できないという顔をしていた。
 だが、しばらく黙った後、ふっと微笑んだ。

「……なんとなくわかる気がします」

「なら、それで十分さ」


9 光田の気づき

ミオが帰ったあと、光田は店先に吊るした紙飛行機と、
その下に置かれた小さなスポーツカーのミニチュアに目を止めた。

孫が三輪車のお礼にくれたものだ。
飛行と走行――どちらも未来へ向かう“乗りもの”。
その組み合わせが、光田には
「進みたい方向は自分で選べるよ」と言われているように思えた。

 そこに風が当たり、やさしく揺れている。

 光田はゆっくりとつぶやいた。

「……未来を決めるのは、いつだって自分だな」

 もし、あの検査室が本物だったのなら――
人間の“未来の兆し”は数字では測れない。
尿でも血液でもなく、“今どんな気持ちで世界を見ているか”で決まっていくのだろう。

 光田は思った。
過去をまっすぐ見つめ、情報の海に溺れず、ただ自分の直感を信じる。
その積み重ねが、人の未来をそっと形作るのだ、と。


10 結びに

 夜風が商店街を通り抜けた。
 光田はふっと笑い、店の灯りを消した。

「さて……今日も“心の栄養補給”をして寝るとするか」

 その言葉とともに、
胸の奥であの検査室の光が、静かに、優しく揺れた。


〈終〉

『眠りの森の欠片(かけら)たち』

 

夜になると、アキは決まって枕を抱えながら小さくため息をつく。
その日のため息の重さは、日中に触れた人の気配や、心の奥に沈んだ小さな刺の数で決まるらしい。

けれどこの数週間、ため息はひときわ深かった。
理由はひとつ。
――包丁が飛んでくる夢、である。

玄関のドアほどの大きさの包丁が、空中でゆらりと回転しながら迫ってくる。
アキが逃げようとすると包丁は角度を変え、まるで彼女の心を正確に追尾する機械のように近づいてくる。
最後の瞬間、鋭い刃は彼女の眉間でピタリと止まり、
「どうせ今日も上手くいかなかったんでしょう?」
とでも言いたげに、冷たい光を揺らして消える。

朝は、決まって胸の奥に杭を打たれたような重さで始まった。


■1 眠りの隣にいる人

アキには、ふしぎな相談相手がいる。
名前は サク。年齢不詳。職業不明。
けれど会うたびになんとなく“自分より少しだけ先を歩く人”という雰囲気があった。

サクはカフェの窓側席が好きで、いつもガラス越しに通りを眺めながら言う。

「それで今日の相談は、“包丁が飛んでくる夢をどうにかしてくれ”ってやつ?」

アキはうつむく。

「……笑わないで聞いてくれるなら、ですけど」

「僕は君の“おバカ語録”を全部聞いてきた仲だよ? 今さら笑ったりしないさ」

「それ、フォローになってませんよね?」

アキはムッとしたが、サクは気にしたふうもなくハーブティーをすする。

「で、最近はどんな夢?」

「最近は…包丁じゃなくて、フライパンが飛んできました」

「サイズは?」

「家のIHに乗せてるやつ。ふつうの」

「それは良かったね。だいたいフライパンは、包丁より丸い分だけ優しい」

「夢の凶器に優しさの分類なんてあります?」

「知らないの?」

サクは肩をすくめた。

「夢はね、心の中で迷子になった気持ちが形を借りただけなんだよ。迷子が手に持つものが尖ってるか丸いか、それくらいの違いさ」

アキはこめかみを押さえた。
こういう言い方をされると、ほんのりと腹が立つ。
サクはいつも、ひらりとかわすような表現をするのだ。

「で、君はどうして迷子になってると思う?」

「そんなの、サクさんが“おバカ”とか言うからですよ」

「まあね。僕のパワハラが原因なら、それはそれで対策が立てやすい」

「開き直らないでください!」

サクは笑った。やっぱり悪びれない。


■2 心の倉庫

サクの助言によれば、夢という世界は“心の倉庫”なのだという。
日中に感じたイラつき、満たされなかった思い、言えなかった言葉。
そういったものが倉庫にポイポイ放り込まれ、夜になると勝手に動き出す。

「不満があればあるほど、倉庫の中身は暴れやすくなる。
包丁が飛んでくるなんて、典型的だよ」

「典型的なんですか…」

「そう。放っておくと、トースターや電子レンジも飛んでくるようになる」

「それは嫌です!」

アキは両手で顔を覆った。
気がつけば心の奥に“満たされないなぁ”という気持ちが沈んでいる。
仕事も、家のことも、友人関係も、表面上は問題ないのに。
ちょっとした言葉、ちょっとした沈黙が胸に引っかかる。

アキは、小さな欠片(かけら)たちが胸の底に沈んで膨らんでいくのを感じていた。

サクはそんなアキをじっと見つめ、やがて静かに言った。

「じゃあ、今日は真面目な話をしようか」

「サクさんの“真面目”って信用できないんですけど…」

「君がいつもそう言うから、僕もやりづらいんだけどね」

サクはカップを置き、椅子の背にもたれた。

「夢の中で怖いものが出てくるとき、実は君は『怖がる』ことで心の不満を補っているんだよ」

「補ってる?」

「満たされてないとき、人は“満たされない理由を探す天才”になる。
怖い夢は、君に“あぁ、私が不安なのはあれのせいだ”って理由をくれるんだ。
だから心は、わざわざ包丁を飛ばしてくる」

アキは目を丸くした。

「心が…わざわざ?」

「そう。心って意外と親切なんだよ。表現方法が雑なだけで」

サクの声には、不思議な温度がこもっていた。


■3 夜をつくる工場

その夜、アキはいつもより少し早くベッドに入った。

電気を消す直前、ふっとサクの言葉がよみがえる。

――夢の中で怖いものが出るのは、心の欠乏を補うため。

それはまるで、夜のどこかに“夢をつくる工場”があって、
そこに座っている小人たちが「はいはい、今日のアキは不安が大きいから、ちょっと怖い映像を流して、と」なんて操作している、そんな光景が浮かんだ。

アキは苦笑しながら布団に潜る。

目を閉じると、まぶたの裏で、包丁のシルエットがかすかに揺れた。

「もう来ないでよ…」

小さくつぶやいた瞬間、意識はふわりと沈んだ。


■4 眠りの森

アキは、森の中にいた。

月明かりは青く、空気は薄く、どこか透明な感じがする。
足元には道らしきものが伸びているが、ところどころ霧で消えた。

「ここは……どこ?」

すると近くから声がした。

「眠りの森ですよ」

振り向くと、そこにサクがいた。
現実よりも少し若く見え、髪が淡い光を帯びている。

「サクさん!? ここ夢ですよね?」

「たぶんね。僕も自分が寝てるか起きてるか分からないんだけど」

どうやら夢の世界に迷い込んでしまったらしい。
けれどサクの姿を見ると、不思議と安心した。

「包丁の夢、今日も見るかと思った?」

アキはうなずいた。

「まだ森のどこかにいるかもしれないよ。包丁って、迷子になるとすごくしつこいからね」

「そんな包丁いやです!」

サクは笑い、アキを手招きした。

「行こう。君の心の倉庫の場所まで案内するよ」


■5 倉庫の扉

森を抜けると、小さな小屋のような建物が見えてきた。
壁は厚い木でできており、扉の前には“第四記憶倉庫”と書かれたプレートがぶら下がっている。

「ここが君の倉庫。包丁はここから飛んでくる」

「なんで“第四”なんですか?」

「第一から第三は厳重管理されてるからね。普段は誰も入れない。思い出とか、信念とか、大切な気持ちが保管されている場所だよ」

「じゃあ第四は…?」

「使い古した感情の一時置き場。
文句とか後悔とか、“あの時あぁ言えばよかった”みたいなものの倉庫」

サクは扉を押しあけた。

中には、さまざまな形の光の欠片が浮かんでいる。
一つひとつに言葉が刻まれていた。

“どうせ私なんて”
“あの人に言われた言葉が刺さった”
“本当はわかってほしかった”
“今日も頑張らなきゃ”

アキは息をのんだ。

「……こんなにあったんだ」

「人は誰だって、こういう欠片を抱えて生きてるよ。ただ、これが溜まりすぎると倉庫が圧迫されて、中身が暴れる。
その暴れた結果が――包丁の夢」

サクは天井を指さした。
そこには、空を切り裂く鋭い光の映像が映っていた。

「これ、君の夢の録画ね」

「録画されてたんですか…?」

「まあ、ここは心の世界だからね」

アキは苦笑したが、同時に胸の奥がちくりと痛んだ。

「こんなに溜め込んでたんだ…」

サクは優しい声で言った。

「君はね、“ちゃんとしたい”って気持ちが強いんだよ。
でもそのぶん、少しでもうまくいかないと、“できなかった自分”を倉庫に放り込んじゃう」

「……どうしたらいいんですか?」

サクは、扉の前にそっと杖を置いた。

「簡単だよ。倉庫を掃除しなくていいから、鍵をかけてしまうこと」

「鍵を?」

「そう。君は一日の終わりに、倉庫の扉を閉めて言えばいい。“今日も有意義で素敵な一日だったなぁ”って。
それが合言葉になって、倉庫は静かになる」

アキは目を丸くした。

「そんな言葉で…?」

「言葉ってね、自分の心を指差す魔法みたいなものなんだ。
“素敵だった”って言われたら、倉庫の中の欠片たちは“あ、今日は出番じゃないのね”って静かになる」

「出番って…欠片たち、そんな役者みたいなんですか?」

「欠片たちはね、いつも出たがりなんだよ。
でも君が“今日はいい日だった”と宣言すると、彼らはおとなしく舞台袖に戻っていく」

アキは扉をそっと閉じた。
すると、プレートに小さな光が灯った。

「……やってみます」

サクは満足げにうなずいた。


■6 朝を迎える森

アキが目を開けると、早朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

夢の感触がまだ残っている。
森の匂い、倉庫の光、サクの声。

アキは布団の中で小さくつぶやいた。

「今日も、有意義で素敵な一日だったなぁ」

まだ何も始まっていない朝に言うのは変な気もしたが、言葉を口にした瞬間、胸の奥の刺がふっと軽くなった。

その日は、包丁の夢を見なかった。


■7 その後の世界

それから数日、アキは眠る前に合言葉をつぶやいた。
すると、夢は徐々に変化していった。

包丁の代わりに、丸いお盆がふわふわ飛んできたり、
巨大なコーヒーカップが跳ね回ったり、
最後には、小さな白い猫が「にゃーん」と鳴きながら追いかけてきたりした。

「なんで夢で猫に追われるんだろう…?」

翌週カフェで会ったアキが言うと、サクは笑った。

「倉庫が落ち着いてきたってことだよ。
怖いものは、もう役目を終えたんだ」

アキはほっと息をつく。

「サクさん、本当にありがとうございます」

「いえいえ。僕は“おバカにアドバイスする係”だからね」

「その肩書きやめてください!」

アキは笑いながら、窓の外の世界を見つめる。
風が通りを滑り、光が葉の隙間で踊っている。

昨日までと同じ景色。
けれど、心は少しだけ軽い。

彼女は、そっと胸に手を当てた。

――あぁ、こうして“気づく”ことで、人は変われるんだ。

それは、夢がくれた贈り物。
欠片たちが奏でる、ささやかなメロディ。
夜の端で揺れる光が、彼女に教えてくれたこと。

アキは深呼吸し、微笑んだ。

そして、心の中で静かにつぶやいた。

「今日も、有意義で素敵な一日だったなぁ」

それは、夜を優しく整えるおまじない。
そして、明日の夢を選ぶための、小さな魔法だった。


〈完〉

天国の知恵の庭

 

 

第一章 おバカと呼ばれた日

 ミナは、自分の頬を指先でつつきながら、ため息をひとつこぼした。

「師匠、どうして私のことを“おバカさん”って呼ぶんですか?」

 夕方の小さな庭は、金色の光が草の先に引っかかって、風が吹くたびにちいさく揺れた。その真ん中で、師匠――アサヒは、茎の太いラベンダーを一本ずつ撫でながら、ゆっくり顔を上げた。

「おバカというのはね、知識はあるのに、それを使えない状態のことだよ」

「えっ……じゃあ私って、知識はあるんですか?」

「もちろんあるさ。一度も“知識がない”と言ったことはないよ」

「それなら、バカじゃないんだ〜♪」

「そうは言ってない」

「ええええ……」

 ミナは、草原に座りこんだ子どものような声でうめいた。

「おバカさんというのはね、“持っている知識を自分で組み立てられない人”のこと。右から左へ聞き流して、覚えただけで、考えたつもりになる……。そういう状態だよ」

「……あ、この前の私のことですか?」

「いつも、とは言わないけど、しばしばそうだね」

「うう……刺さる……」

 アサヒはラベンダーを束ねながら、ひょいとミナの方を見る。

「知識を得るのは大事だよ。でもね、それを“自分の中で温める”ってことをしないと、心には根が張らない。根が張らない知識は、すぐに倒れる」

「温める……?」

「考えるというより、“寝かせる”に近いかな。忘れたころに芽を出すものだ」

 ミナはラベンダーの甘い香りを吸い込んで、ぼんやりと空を見た。

 夕空は、どこか懐かしい色をしていた。子どものころ、遠足の帰り道に見上げた夕陽のような、胸があたたかくなる色。

「師匠……私、知識を使えるようになれますか?」

「もちろん。ゆっくりでいい。必要なときになると、知識は勝手に形を変えて心にあらわれる」

「勝手に?」

「そう。勝手に」

「……じゃあ、私がいま悩んでる“幸せがこわい問題”も、勝手に解決しますか?」

「それは……どうかな」

「えぇぇ!」

 アサヒは、笑った。

「それは、“天国の仕組み”の話だからね」

「……天国?」

 その言葉に、ミナの心が不思議と騒いだ。

 なんだか、胸の奥で何かが目を覚ましたような、そんな感覚だった。


第二章 天国の入り口で

「ミナ、ここは天国だよ」

 アサヒは、当然のように言った。

 ミナは、ラベンダーの束を抱えたまま固まった。

「は……? て、天国……?」

「そう。君はもう、天国にいる」

「えっ、私……いつのまに死んだんですか?」

「死んでないよ」

「じゃあここは――」

「“生きたままの天国”。しかも、かなり高性能だ」

 ミナは、ぽかんと口を開けた。

「天国だったら、悩みとか、苦しみとか、ないんじゃないんですか?」

「その認識が“地獄入り口コース”なんだよねぇ……」

「ど、どういうことですか?」

 アサヒは、地面に落ちていた小さな羽根を拾い上げる。

「ミナ、君は最近幸せだっただろう? 痩せたし、肌は綺麗になったし、仕事も彼氏も、全部うまくいった」

「はい……。それはもう、びっくりするくらい」

「それは天国だからだよ。望んだことが、そのまま叶うから」

「じゃあ、なんで私は最近“幸せがこわい”んですか? このまま幸せだと、バランスをとるために不幸が来るんじゃないかって……」

「それが“望んでるから”だよ」

「え? 私、不幸なんて望んでませんけど!」

「“来るんじゃないか”と考えること自体が、呼び出しボタンなんだよ」

「ええええええ!?」

 ミナの声が、庭にこだまする。

 アサヒは、肩をすくめる。

「天国はね、望んだものを完璧に届けてくる。たとえそれが“いらないもの”でも」

「たとえば?」

「“不幸になりたくない”と考えると――」

「不幸が来る?」

「そう。“不幸を知らないと幸福はわからない”という前提を君が持っている限りね」

「……え。えぇぇ……」

「つまり、“嫌なことサービス”が自動的に届くわけだ」

「嫌なことサービス……!」

「“心配事配送サービス”もあるし、“今大丈夫だよ確認サービス”も標準搭載だよ」

「なんですその地味に豪華なサービス!」

「天国だからね」

 ミナはうなだれた。

「じゃあ……どうすればサービス止まるんですか?」

「簡単。“サービスが必要なくなるほど気づく”こと」

「気づく……?」

「嫌なことが起きても、『あ、これ実は嫌なことじゃないんだ』と心から理解する。未来を心配しても、『あ、私はただ“今ここ”から逃げてるだけなんだ』って気づく」

「……うう、難しい……」

「だから天国は、丁寧に何度も何度もサービスを届けてくる。君が“もう大丈夫です”と心で言えるまで」

 ミナは、ゆっくり息を吸い込んだ。

 風の匂いが変わった気がした。

 甘いラベンダーの香りが、いつもより深く胸の奥へ染みこんでくる。

 なんだろう……さっきまでの不安が、少しだけ軽くなった気がした。


第三章 知識が芽を出すとき

「師匠……私は、おバカさんですか?」

「少しだけね。けれど、それは悪いことじゃない」

「どうしてですか?」

「おバカさんは、“自分の中に眠っている知識”にまだ気づいていないだけだから」

 アサヒは、ミナの額をひょい、と指で押した。

「知識はね、いろんな形で眠ってる。読んだ本、聞いた話、誰かの言葉、失敗した経験……ぜんぶ、君の中に保存されてる」

「でも、私はそれを使えないんですよね?」

「今は、ね。でも……」

 アサヒはラベンダーの香り袋をミナに渡す。

「天国にいる限り、知識はいつか勝手に形を変える。必要な時に、必要な知恵となってあらわれる。君が求めたときに、“気づき”として花開くんだよ」

 ミナは香り袋を胸に当てた。

 胸の中心がぽうっと温かくなった。

「……師匠。私、変われる気がしてきました」

「変わる必要はないよ。君は“気づけばいい”だけだから」

「気づく……」

 その言葉は、さざ波のようにミナの胸に広がった。

 知識を使えない自分。
 幸せがこわい自分。
 嫌なことに振り回される自分。

 ――その全部が、ただ“気づくための入り口”なのかもしれない。

 そんな気がした。


第四章 極楽地獄の実験室

 その夜、ミナは夢を見た。

 白くて丸い、どこか懐かしい部屋。

 真ん中に、小さな箱が置かれている。

 箱の天板には、可愛らしいフォントでこう書かれていた。

“極楽地獄・体験パック”

「……嫌な予感しかしない……」

 ミナが箱を開けると、黒い煙のようなものがふわりと漂い、耳元で囁いた。

《あなたは幸せが永遠に続くと不安になりますか?》

「うっ、図星……」

《あなたは“嫌なこと”が起きると、それを避けようとしますか?》

「そりゃあもちろん!」

《では、避けようとしたその瞬間――》

 煙はミナの胸に吸い込まれた。

《“嫌なことは、必要だから起きている”と気づくまで、何度でも繰り返されます》

「ちょ、ちょっと待って、それ困る!」

《極楽地獄パックは、あなたが『やったー、苦しみがあった!』と言えるようになるまで継続します》

「いやいやいやいや!」

《安心してください。すべては天国のサービスです》

「サービス……サービスって便利な言葉……!」

 ミナは夢の中で頭を抱えた。

「でも……嫌なことを“嫌”と思わなくなる日なんて来るんでしょうか……?」

《来ます》

 黒い煙は、まるで笑っているように光った。

《あなたは、もうすでにその扉の前に立っています》

 そして煙は、ミナの胸の中心へ静かに溶け込んだ。


第五章 “今ここ”に帰る道

 朝。

 目覚めたミナは、胸のあたりが不思議と軽かった。

「あれ……なんか、昨日までの不安が……薄い?」

 アサヒは庭で、いつものようにハーブの葉を触っていた。

「おはよう、ミナ。いい夢を見たようだね」

「え!? どうしてそれを……!」

「天国だからね」

「その便利設定どうにかならないんですか!」

 アサヒは笑った。

「ミナ、君は昨日、“天国のサービス”に混乱していた。でもね――」

 アサヒはミナの胸にそっと手を置いた。

「君はもう、“今ここ”に足をつけて立っている」

「……」

「心配ごとも、嫌なことも、未来の不安も……どれも“今ここ”を見失ったときの影だよ。影は本物に見えても、正体は光が作るものにすぎない」

「光……?」

「君の意識だよ」

 ミナは、朝の光に目を細めた。

 葉の隙間から差し込む光が、胸の奥に静かに広がる。

 ふいに、昨日の夢の黒い煙を思い出した。

 そして――ひとつの感覚が胸にわき上がる。

「あ……私、いま……わかった気がする」

 アサヒは微笑んだ。

「ようやく、“知識”が芽を出したね」

「……私、いま初めて、“今この瞬間の私は大丈夫なんだ”って思えました」

「それが、天国を生きる鍵だよ」

「天国……」

 ミナは空を見上げた。

 青い空はどこまでも澄んで、雲はゆっくり流れ、風は葉を揺らして、どこか遠くの世界で祝福の歌が響いているような気さえした。

「師匠……私、もう不幸を呼び出さなくて済みますか?」

「うん。“呼び出す必要”はなくなるよ。でも、嫌なことがゼロになるわけじゃない」

「じゃあどうなるんですか?」

「“嫌なことが嫌じゃなくなる”んだよ」

「……え? それって……」

「極楽地獄を抜けるということさ」

 ミナの胸が、静かに熱くなった。


第六章 天国の知恵の庭

「ミナ」

「はい?」

「君に最後の質問をしよう」

 アサヒは、庭の真ん中にある古い木に手を置いた。

「“苦しみ”って、なんだと思う?」

「え……苦しみは……その……嫌なこと?」

「うん。それもある。でもね、苦しみというのは――」

 アサヒはゆっくりと言葉を置いた。

「“気づきが生まれる前兆”なんだよ」

 ミナの胸が震えた。

「前兆……」

「苦しみは、痛みを通して“あなたを目覚めさせようとする合図”。君が本当の自分を忘れたとき、天国は優しくノックしてくる」

 アサヒの指先が、ミナの胸の中心をやさしくなぞる。

「それが、天国の仕組みだよ」

「……そうか……」

 ミナの目から涙がこぼれた。

 でも、その涙は悲しみではなかった。

「苦しみがあったら『やったー、前兆だ!』って思えばいいんですね」

「そう。それに気づいた瞬間――」

 アサヒはミナの手を取り、空に向かって高く掲げた。

「君は“極楽地獄”から卒業する」

 風が吹いた。

 葉が揺れた。

 空が光った。

 ミナの心は、静かな湖のように澄みわたっていく。

 そして、ミナは笑った。

「師匠……私、気づきました」

「うん」

「私はずっと――天国にいたんですね」

「そう。ずっとだよ」

 ミナの胸に、温かく柔らかな光が満ちた。

 その光は、これからの人生を静かに照らし続けるだろう。

 悩みも、苦しみも、心配ごとも、
 全部、天国が用意してくれた“気づきへの扉”。

 ミナはゆっくりと目を閉じた。

 もう、怖くなかった。

 これから先、どんなことがあっても。


(完)

極楽地獄の観覧席

Ⅰ 青と白の階段

 六月の終わり。
 雨の匂いが空気に残る午後、美雨(みう)は気づけば見知らぬ階段に立っていた。

 見知らぬ、といっても怖さはなかった。
 段は青みがかった大理石で、左右を囲む白いアーチには朝露のような光が散っていた。
 ここがどこかはわからないが、美雨はなぜか落ち着いていた。

「ねえ、私って最近……なんか幸せすぎません?」

 ふと、思わず口に出してしまった。
 すると、空の方から返事が降ってきた。

「はいはい。そのとおり」

 美雨は慌てて見上げた。

 石段の上、青白い輪の中に、ひとりの男が腰かけるように浮かんでいた。
 白い髪だが若者にも老人にも見える。不思議と人間離れした透明感がある。

「……初対面なのに馴れ馴れしくないですか?」

「細かいことはいいじゃない。そんなことより、話したいんでしょ?」

 たしかに話したい気はしたが、なぜこの男に?
 自分でもよくわからなかった。

「いや、まじめに聞いてくださいよ!」

 男は肩をすくめた。

「聞いてほしいなら、もうちょっと普通の話し方しなよ」

「初対面ですよね!? なんで説教されてるの!?」

「初対面じゃないよ?」

「えっ」

「……まあいいや。僕は“ルー”。案内役だよ」

 案内役?
 ここは、どこなのだろう。


Ⅱ 幸せの裏にある影

 美雨は座り込み、ため息をついた。

「ほんとに最近幸せすぎて……逆に怖いんです。“バランスを取るために不幸が来る”とか思っちゃって」

「それは来るね」

「だから真面目に答えてほしいって言ってるんです!!」

 ルーは淡々と言う。

「君は“幸せが壊れやすいもの”って思ってる。だから『壊れませんように』と願う。すると“不安”が届く」

「届くって何……」

「だってここ、“天国”だもん」

「は?」

 美雨は耳を疑った。

「ここは天国。望むことは全部叶う」

「いやいや……そんな」

「痩せたいって願ったでしょ?」

 図星。

「綺麗になりたいって思って、そのための行動をしたよね? 行動できる環境も整った」

 また図星。

「恋人がほしいって言ったら現れたよね?」

 完全に図星。

「天国だからだよ。望んだことはすぐ現実になる」

 美雨は目をぱちくりさせた。

「でも嫌なこともあるじゃないですか!」

「望んだからだよ」

「望んでないです!!」

「“不幸を知らないと幸せはわからない”って考えてる限り、不幸は自動で届く」

 美雨は頭を抱えた。

「もしかして……全部、自分が?」

「そう。君が無自覚で望んだものを、“天国”が丁寧に届けてくる。君にとって必要だからね」


Ⅲ 天国の“サービス”

「では、おさらいしよう」

 ルーは空中に三つの光る球を作り出した。

「これは“天国の三大サービス”」

 光はそれぞれ赤、青、白に輝いていた。


●1 “不幸サービス”

「『不幸もあるほうが人生の深み』と思っている人には、自動で届く。深みがほしいんでしょ?」

「欲しいとは言ってないつもりなんですが……言ってるのかな……?」

「思ってるだけで十分」


●2 “嫌なことサービス”

「避けたいほど、そこに意識が集中する。意識が集中すると……?」

「届く……」

「正解。“これは嫌なことじゃなかった”と本当に理解するまで繰り返し届く」


●3 “心配事配送サービス”

「幸せになると、人は未来を心配する。すると“心配事”が丁寧に配送される」

「やめて……全部思い当たる……」

「そういう世界なんだよ、ここは」


Ⅳ 極楽地獄という遊園地

「じゃあ、極楽地獄でも見に行こう」

「ゴクラク……何ですって?」

「極楽地獄。ここでは定番の観光地だよ」

 ルーに手を引かれ、美雨が石段の上へ出ると、そこには巨大なアトラクションパークが広がっていた。

 観覧車、ジェットコースター、迷路、生死を象徴する二重の門。
 色彩は鮮烈なのに、どこか懐かしく切ない。

「ここはね、“天国に地獄の味付けをした遊園地”。人は退屈を嫌う。だから適度な苦しみが必要なんだ」

「へ、変な名前……」

「でもみんな大好き」

 通り過ぎる人々は、泣きながら笑い、怒りながら幸せそうに歩き、放心しながらも満ち足りている奇妙な表情をしていた。

 美雨は思わずつぶやいた。

「なんか……美しいようで怖い場所ですね」

「人生もそうじゃない?」


Ⅴ 感情の“球体”

 ルーは地面に転がる球を拾った。

「これは赤。『後悔』」

「後悔……丸いんだ」

「平らだと持ち運びづらいでしょ?」

「そういう問題……?」

 次に青い球。

「これは『期待』。大きく膨らむと破裂するから注意」

「破裂したらどうなるの?」

「期待がゼロになる。まあよくあることだね」

 最後に透明の球を拾った。

「これは『気づき』。一番見えづらいけど、どこにでも落ちてる。拾える人は運がいい」

 美雨は透明の球を受け取り、両手で包み込んだ。

 なぜか胸が温かくなる。


Ⅵ 観覧車の頂点

 ルーと観覧車に乗った美雨は、ゆっくりと上昇するにつれ、自分の奥底に沈めてきた不安が浮き上がってくるのを感じた。

「私……ずっと思ってたんです。幸せって壊れやすいものだって。だから怖かった」

「だから『怖い』が届いた」

「でも……もし本当に天国だとしたら?」

「天国だから届いたんだよ。全部」

 観覧車が頂点に達した。

 夜空に星がひらめく。

 美雨は透明の球体をそっと窓の外へ放った。

 球体は光に溶け、星のように消えた。


Ⅶ 生まれ変わり装置

 観覧車を降りると、ルーは美雨を別のアトラクションへ案内した。

「ここ、“生まれ変わり装置”。中に入ると“今の自分”が変わるよ」

「生まれ変わる……?」

「苦しみがあるなら、それをただの現象として見られるようになる。それが“生まれ変わり”。別人になるわけじゃない」

 装置は透明な球の部屋で、中に入ると自分の影が十数個に増えて見える。

 美雨は立ち尽くした。

「……怖い」

「だいじょうぶ。君が見ている影は、全部“可能性”だよ」

「可能性?」

「君は苦しみを敵と思ってきた。でも実は、苦しみは“路標(みちしるべ)”。迷ってるからこそ示してくれる」

 美雨は目を閉じた。

 心の中で何かがほどけていく感覚があった。


Ⅷ 地獄のカフェテリア

 アトラクションを出ると、二人は“極楽地獄カフェ”へ。

 地獄と名乗っているが、店内は温かく、明るく、香りの良い飲み物が並んでいた。

「ここ、人気なんですか?」

「うん。“悩み相談メニュー”があるから」

 メニュー表には奇妙な文字が並んでいた。


●“落ち込みパフェ”

 落ち込むほど美味しくなる。

●“嫉妬ラテ”

 飲むと嫉妬心の正体が理解できる。

●“不安ティー”

 飲んでいると不安の原因が霧のように立ち上がって見える。


 美雨は迷わず“不安ティー”を選んだ。

 湯気のなかに、ぼんやりとした影が浮かび上がる。

「……え、これ、私?」

「そう。君が不安を感じる瞬間の心の動き」

 影は、幸せな時間を怖がり、過去の失敗を引きずり、未来に怯えていた。

 美雨はそっとその影を抱きしめるように見つめた。

「なんだ……ずっと守ってたんだ。私を」

「そう。不安は敵じゃない。守りたかっただけ」

 美雨は涙がこぼれた。


Ⅸ “苦しみ”の正体

 カフェを出ると、ルーは美雨をアーチの前に立たせた。

「さて、美雨。君はそろそろ知るべきだと思う」

「……何を?」

「苦しみの正体を」

 アーチをくぐると、世界は暗闇に変わった。
 不思議と怖さはなかった。

 目の前に、子どものころの自分が現れた。

 泣いていた。

 不安で、寂しくて、未来が怖くて泣いていた。

「これ、私……」

「そう。君の“苦しみ”は全部、あの子が発している」

「なんで……?」

「君があの子を置いていったから。大人になって“強くなろう”とするたび、あの子は置き去りになり、泣き続けていた」

 美雨はゆっくり膝をついた。

 小さな自分に触れようとすると、あの子は震えながら顔をあげた。

「……ごめんね」

 美雨の声は自然にこぼれた。

「ほんとは不安だったよね。ずっと、私を守ろうとしてくれてたんだよね」

 あの子は泣きながらうなずいた。

「ありがとう」

 美雨は小さな自分を抱きしめた。

 その瞬間、世界がやわらかな光に包まれた。


Ⅹ 極楽地獄の出口

 光の中で、ルーが静かに立っていた。

「さて、美雨。君はもう気づいたね」

「……うん」

「“苦しみがあってよかった”って思える?」

 美雨は深く息を吸い、笑った。

「はい。苦しみがあったから、私は自分と会えた」

「それが、“極楽地獄”からの卒業条件だよ」

 ルーは手を叩いた。

 アーチが開き、美雨が来たときの青と白の階段へと戻る。

「でも、また会えますよね?」

「もちろん。また迷ったら来るといい。ここは君の天国だから」

 美雨は階段を降りた。

 気づけば、現実の街に戻っていた。

 街灯がともり、風が頬をなでる。

 美雨はつぶやいた。

「苦しみがあって……よかった」

 空気が澄んで、世界が少しだけ色づいて見えた。