『ミラの国のインフル議会』

 

ミラは、どこにでもいる小さな町の事務職員だった。
冬の訪れを感じると、決まって社内にはマスクの花が咲く。
白い布の向こうで交わされる言葉は、少しこもった音で、まるで冬の儀式のように響いた。

「そろそろ予防接種の季節ですね」

となりのデスクのヨシノが言った。
彼女は慎重派で、去年も職場全員の予約を取りまとめた人物だ。
いっぽうミラは、その手間を毎年ぎりぎりまで放置するタイプだった。
決してワクチンが嫌いなわけではない。ただ、なんとなく「自然にまかせておけばいいのでは」と思っているだけだった。

「ミラさんは、今年も受けないの?」
「うーん、受けようかなとは思ってるけど、タイミングがね」

ヨシノは少し眉をひそめて、書類を閉じた。

「そういう人がいるから、みんなが迷惑するんですよ」

――迷惑。

その言葉がミラの胸に、冬の針のように刺さった。
迷惑、という響きは、どこか冷たい。まるで「あなたの自由は、他人の脅威です」と言われているようだった。

けれど、ヨシノの言い分も分かる。
彼女は職場のみんなの健康を守りたいと思っている。
それは優しさから出た言葉のはずだ。
なのに、なぜかトゲのある音に聞こえるのはどうしてだろう。

ミラは昼休みに公園へ出た。
街路樹の葉はもう半分ほど散り、ベンチの上には陽だまりが斑に落ちている。
手に持ったコンビニのパンをちぎりながら、彼女は思った。

「私たち、いったい何に怯えているんだろう」

ウイルスか。
それとも――他人の“違い”だろうか。


その夜、ミラは奇妙な夢を見た。

薄暗いホールに、何百人もの人々が集まっている。
全員がマスクをしており、舞台の上では、巨大なスクリーンが光っていた。
中央の円卓には札が立ち、「インフル議会」と書かれている。

ミラはなぜかその議会の代表として、壇上に立たされていた。
そして、隣には、ヨシノそっくりの女性――「規律代表」が立っている。

司会者が声を上げた。
「本日の議題は、“予防をしない者はワガママか?”です!」

会場がざわめいた。

「まず、規律代表の意見をお願いします」

ヨシノに似た彼女が立ち上がる。

「私たちは社会の一部です。誰かが予防を怠れば、それは全体に迷惑をかけます。
それを“個人の自由”だと主張するのは、社会的ワガママです!」

拍手が起きた。
ミラはどきりとする。――まるで現実の彼女の言葉そのものだった。

「次に、自由代表のミラさん。あなたの意見を」

ミラは立ち上がった。
けれど、うまく言葉が出てこない。
なぜワクチンを受けなかったのか。なぜ彼らのように強く言えないのか。
その理由を探すように、ミラは自分の胸に手を当てた。

「私は……ただ、自分の感覚を信じたいんです。
身体が『今は大丈夫』と言っている気がして」

ざわめきが広がる。
「感覚?」「非科学的だ!」という声が飛び交う。

その時、天井のスピーカーが低く鳴った。
「静粛に。次の証人を呼びます」

扉の奥から現れたのは、年老いた小さな医者だった。
灰色のコートをまとい、手には古びた温度計を持っている。
会場が息をのむ。

「私は〈からだ博士〉。百年ほど前から、ここで人々の議論を見てきた」

博士はゆっくりと言葉を紡いだ。

「昔、人々は病を“外”から来るものだと思っていた。
だが、実際は心が弱ったとき、外のウイルスが“入る余地”が生まれるのだよ。
予防とは、壁を高くすることではない。風を感じながら体を強くすることでもある」

ミラははっとした。
博士の言葉は、彼女の中の“なにか”を揺らした。

けれど、ヨシノ代表はすぐに反論する。

「でも、科学的根拠は? それではエビデンスになりません!」

博士は笑った。

「エビデンスとは、“みんなが同じ方向を見ている”という安心のことさ。
だが、その“みんな”という言葉ほど、あやふやなものはない」

ミラはその言葉に見覚えがあった。
――そうだ、彼女は前に誰かに言われたのだ。
「“みんな”を“私”に置き換えて言ってみなさい」と。

「“私のために、気をつけてほしい”……」

ミラが小さくつぶやくと、周囲のマスクたちがざわりと揺れた。
すると、不思議なことに、会場のスクリーンが歪み始めた。
「みんなのため」の文字が波打ち、「私の恐れ」「私の願い」「私の不安」と書き換えられていく。

そしてホールの天井が割れ、光が差し込んだ。
マスクの人々が一人、また一人とマスクを外していく。
彼らの顔には、怒りも恐れもない。
ただ、やっと呼吸ができたという安堵の表情があった。

博士の声が遠くで響いた。

「ワガママとは、“私”を守ろうとする心の防衛反応だ。
それを責めてはいけない。
だが、その“私”がどこまで広がっているのかを、時々見つめるのだ」

ミラはゆっくりと目を閉じた。


翌朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかな光が差していた。
夢の余韻がまだ身体のどこかに残っている。

会社に行くと、ヨシノがまた書類を抱えてやってきた。

「ミラさん、予防接種、受けました?」
「うん、予約したよ。……でもね、ヨシノ」
「なに?」
「“みんなのため”じゃなくて、“私が気持ちよく働けるため”に、受けることにした」

ヨシノは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

「……それ、いいですね」

その笑顔を見て、ミラは思った。
“私”と“みんな”は敵じゃない。
きっと、同じ源の水たまりから流れ出ているだけなのだ。

風邪をひく人も、予防する人も。
それぞれが自分の“心の温度”で世界を感じている。

ミラは空を見上げた。
冬の空は透き通っていて、鳥たちがゆっくりと渡っていく。
誰も急いでいない。誰も正しさを競っていない。

「みんな、ちゃんと自分の空を飛んでるんだな」

そうつぶやいて、彼女はマフラーを巻き直した。
風の冷たさが、妙に心地よかった。


― 終 ―

眠りの観測局

第一章 眠れぬ者たち

「最近、寝た気がしないんですよね。」

ユウは、カフェの窓際で小さくため息をついた。
曇りガラスの向こうには、朝なのか夕方なのか分からないような鈍い光が漂っている。

「いくら寝ても眠たいというか、昼間もずっとぼんやりしていて……。」

彼の正面に座る老人が、うなずいた。
深い皺を刻んだ顔に、穏やかな笑みを浮かべながら。

「そうか。君も、ようやく“夢抜け”の時期かもしれんな。」

「夢抜け……ですか?」

「うむ。夢が現実を侵食し始めているのだよ。」

老人の名は ミスター・ナウ
街では“時間の外に住む男”などと噂されているが、実際にはただの変わり者のようにも見えた。
ただ、彼の話を聞いた人の多くが、なぜか翌日には顔つきが変わる。
まるで長い夢から覚めたような――そんな表情になるのだという。

第二章 睡眠アプリと博士

ユウは眠れぬ夜に悩まされ、最新の「睡眠リズム解析アプリ」を試してみることにした。
それは脳波を微細に解析し、夢の内容すらデータ化できるという代物だった。

アプリを開発したのは、「アプリ博士」と呼ばれる奇才の科学者。
彼は記者会見でこう言っていた。

「人間は眠りの中で現実を編集している。
だから、睡眠とは“自己更新プログラム”の一部なんだ。」

ユウはその言葉に惹かれた。
もし自分の眠りを観測できるなら、きっと“寝た気がしない”理由もわかるはずだ。

彼はその夜、アプリを起動し、枕元にスマートフォンを置いて眠りについた。

だが――
翌朝、スマホには奇妙な通知が残っていた。

《あなたは眠っていませんでした。
睡眠記録:存在しない。》

「存在しない……?」

アプリは何度試しても同じだった。
どんなに寝ても、記録には「あなたは眠っていません」とだけ表示される。
まるで自分が、眠りという現象から除外された存在であるかのように。

第三章 観測局への招待

そんなある日、ユウのもとに一通のメールが届く。
件名には、こう書かれていた。

《眠りの観測局へようこそ》

本文には住所も差出人もなく、ただ一行。

《あなたの眠りが観測不能となりました。至急、来局してください。》

――観測不能?

半信半疑のまま、ユウは指定された場所へ向かった。
そこは、街外れの丘に建つ古びた建物だった。
「夢の観測局」と刻まれた錆びた銘板が、風に揺れている。

中に入ると、白衣の職員たちが忙しそうに端末を操作していた。
部屋の中央には、大きな透明の球体が浮かんでいる。
まるで宇宙の断片を閉じ込めたかのように、星々の光がちらちらと瞬いていた。

「お待ちしていました、ユウさん。」

声の主は、銀色の髪をした女性職員――ナミだった。
彼女は微笑みながら、ユウを奥の部屋へ案内した。

「ここでは、人々の眠りを観測しています。夢、記憶、無意識の流れ――すべてがデータ化され、眠りの地図として保管されているんです。」

「じゃあ、僕の眠りも……?」

「それが、観測できないんです。」

ナミは眉をひそめた。

「あなたの脳波は、“目覚めた状態”のまま、夢の領域に入っている。
つまり――あなたの意識が、眠りの外側に出てしまっているんです。」

「……外側?」

「はい。あなたは“観測する側”に立ってしまったのかもしれません。」

第四章 眠りの仕組み

ユウは観測室の壁に投影された映像を見た。
そこには、世界中の人々の眠りの波が映し出されていた。
海のように揺れ、渦を巻き、時に嵐のように荒れる。

「これが人類の“集合睡眠フィールド”です。」
ナミが静かに言った。

「みんなが眠ることで、世界の記憶が整理されるんです。
夢を見るたびに、昨日が消え、今日が生まれる。
眠りとは、“現実の更新作業”なんですよ。」

ユウは息をのんだ。
ならば、自分が眠れないということは――
世界の更新から取り残されているということか。

「僕は……もう、世界の一部じゃない?」

ナミは首を振った。
「そうじゃありません。むしろ逆です。
あなたが目覚めている間、世界はあなたを通して“観測され続けている”。
眠りを必要としない意識――それが、あなたなんです。」

第五章 夢を食べる装置

そこへ、老人――ミスター・ナウが現れた。

「やあ、ユウ。ようやくここまで来たね。」

「あなたも観測局の人だったんですか?」

「いや、私はこの世界の“時計係”のようなものだよ。」

ナウは微笑み、球体の中を指差した。
その中心に、無数の夢が漂っている。

「これが人々の“夢の粒”。
観測局はこれを集め、世界の記憶を維持している。
だが近年、“夢の消費”が加速している。
皆、起きていても夢を見ようとする。
そのせいで、眠りの質がどんどん浅くなっているんだ。」

「だから僕も眠れなくなった?」

「そう。君は“過剰に目覚めた存在”だ。
夢を食べ尽くした後の空っぽな器だよ。」

ミスター・ナウの言葉に、ユウの胸がざわめいた。
彼の頭の奥では、誰かの声がこだまする。

――眠らなくても、夢は見られる。
――それが“現代人の祝福”だ。

その声は、アプリ博士のものだった。

第六章 アプリ博士の実験

翌日、ユウは観測局の地下研究室に呼ばれた。
そこには、アプリ博士がいた。
白衣のポケットから、寝不足のような笑みを浮かべて。

「君が“観測不能者”だね。素晴らしい。」

「素晴らしい?」

「そう。君は“夢の外”に出た初めての人間だ。
眠らずに夢を見ることができる。
つまり、現実を直接編集できる存在だよ。」

博士は机の上に奇妙な装置を置いた。
人間の頭蓋を模した透明なヘルメットのようなもの。

「これは“夢を食べる機械”。
人々の夢を吸収し、新たな現実を再構築するんだ。
この装置を使えば、眠らずに世界を更新できる。」

ユウは装置を見つめた。
それは、どこか生きているように脈打っていた。
まるで「眠りたくない」と訴える心臓のように。

「僕に何をさせたいんですか?」

「君の意識をこの装置にリンクさせたい。
そうすれば、世界の夢を君が直接“編集”できる。
人類は、眠りを卒業できるんだ!」

ユウは震えた。
それは、眠りを奪うことで得られる永遠の目覚め――
しかし同時に、永遠の孤独でもある。

第七章 眠りの終焉

ユウはミスター・ナウのもとへ戻った。
ナウは静かに紅茶を注ぎながら言った。

「眠らない世界――それは確かに効率的かもしれない。
だが、夢を見なくなった人間は、やがて“思い出すこと”ができなくなる。
過去も、未来も、意味を失うのだよ。」

「じゃあ僕はどうすれば……?」

「簡単なことだ。
“少しだけ眠ればいい”。
眠りとは、世界と仲直りするための時間だからね。」

ユウは笑った。
「でも、僕、もう眠れないんですよ。」

「いや、眠るとは“忘れる”ことだよ。」

その言葉を聞いた瞬間、
ユウの中で何かが静かに溶けた。
頭の奥に積もっていた思考、記憶、心配――
それらが砂のように崩れ、ただ柔らかな光だけが残った。

第八章 もうひとつの朝

ユウは目を開けた。
朝だった。
窓の外で、鳥が鳴いている。

スマートフォンの画面には、初めて見るメッセージが表示されていた。

《おはようございます。
今夜は、よく眠れましたね。》

ユウは笑った。
夢だったのか、現実だったのか分からない。
けれど、心は確かに軽くなっていた。

彼は出勤の支度をしながら、ふと鏡を見た。
そこには、見覚えのある老人が映っていた。
ミスター・ナウ――いや、自分自身の姿だった。

鏡の中の老人が、穏やかに微笑んだ。

「おかえり。
ようやく、君も“今ここ”に帰ってきたね。」

終章 眠りの観測局からの手紙

その夜、ユウのもとに再びメールが届いた。

《眠りの観測局よりお知らせ》
あなたの眠りが、世界を一晩ぶん更新しました。
今夜もどうぞ、良い夢を。
そして、目覚めても夢を忘れないでください。
――観測局一同より

ユウは画面を閉じ、ゆっくりと布団にもぐった。
彼の意識は、静かな海へと沈んでいった。

その深い深い場所で、彼は見た。
かつて見たことのないほど澄んだ夢――
それは、“眠りそのもの”が見る夢だった。

―――
〈完〉

選択屋クロノスの不機嫌な客

1 不機嫌という名の風

 朝のオフィス。蛍光灯の白い光が、誰も望んでいない冷たさを放っていた。
 水野ユカリは、マグカップを片手にため息をつく。
 昨日のことを思い出すだけで、胃がきゅっと縮む。

 ——良かれと思っただけなのに。

 その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。

 同僚の田辺が来月退職することになり、ユカリは何気なく声をかけたのだ。
 「引っ越しの準備、進んでる?」
 それだけの一言だった。

 だが、返ってきたのは笑顔ではなく、怒鳴り声だった。
 「そんな話、ここでしないでください!」
 突然の剣幕。しかも、他に人はいなかった。

 怒りがまるで爆発したように彼の顔を染め、ユカリはその場で固まった。

 それ以来、ユカリの心はずっと曇り空だった。
 どうしてあんなに怒られなきゃいけなかったんだろう。
 私、何か悪いことをしたのかな。

 カップの中のコーヒーはもう冷めきっている。
 彼女はその苦味を、まるで罰のように飲み干した。


2 街角の「選択屋」

 昼休み、外の風が少し暖かくなっていた。
 ユカリは気分転換に少し遠回りして歩くことにした。
 人通りの少ない路地に入ったその時、奇妙な看板が目に入った。

「選択屋クロノス —あらゆる“選び方”をお手伝いします—」

 ドアの向こうから、古い時計の音が響く。

 ——占いかな? それともカウンセリング?

 興味に誘われて中に入ると、部屋の奥で白髪の男が笑っていた。
 深いしわの中に、どこか子どものような無邪気さが見える。

 「ようこそ、“選択屋”へ。お客さん、今日はどんな“選択”で迷ってるのかな?」

 彼の名は クロノス
 時を売ることも、選択を貸すこともできるという不思議な老人だった。


3 失敗の種

 ユカリは事情を話した。
 良かれと思って言った一言で怒鳴られたこと。
 そして今も、その不機嫌の理由がわからないこと。

 クロノスはうんうんと頷きながら、引き出しの中から小さな砂時計を取り出した。

 「人が不機嫌になるのはね、自分に“選択肢”が与えられていない時なんだ」

 「選択肢……ですか?」

 「そう。つまり、“自分で決める自由”を奪われたと感じた時、人は反射的に怒る。
  たとえそれが、まったく善意の言葉でもね」

 クロノスは砂時計を逆さにした。
 落ちていく砂粒が、ゆっくり光を帯びていく。

 「ほら、この砂が“選択”だ。
  上から落ちるときは自由だが、下にたまると形が固定される。
  人はその固定を“強制”と感じるんだ」

 ユカリはしばらく黙って見つめた。
 自分が“良かれ”と思った瞬間、相手に自由を与えるどころか、
 “自分の善意”を押しつけていたのかもしれない。


4 クロノスの部屋

 クロノスは立ち上がり、壁の棚を指さした。
 そこには無数の小瓶が並び、中には光る粒子が舞っていた。

 「これは、いろんな人の“選択”の記録さ。
  この瓶を見れば、どんな感情が動いたかがわかる」

 ひとつの瓶を差し出される。中で赤い光がチカチカと点滅している。

 「これは“怒り”の選択。
  誰かに『なんでそんなことするの?』と言われた瞬間のものだ」

 別の瓶には、青い光が静かにゆれていた。

 「これは“悲しみ”の選択。
  自分が期待されたことを果たせなかった時のものだ」

 ユカリは瓶の中を覗き込みながら呟いた。
 「……不機嫌って、怒りと悲しみの混ざったものなんですね」

 クロノスは微笑んだ。
 「そう。不機嫌とは、未完の自己決定さ。
  本当は“自分で決めたい”のに、世界に決められたと感じてしまう。
  君の同僚も、きっとそうだったんだ」


5 逃げ道の作り方

 ユカリは眉をひそめた。
 「でも、それって向こうの問題ですよね?」

 「その通り。けれどね、君にもできることがある」

 クロノスは机の引き出しから、小さなカードを取り出した。
 そこには、金色の文字でこう書かれていた。

「選択を返すこと」

 「人が不機嫌な時はね、“どうする?”と返すんだよ」

 「どうする?」

 「うん。“あなたはどうしたい?”って。
  逃げ道をひとつ残しておく。それだけで人は安心する」

 クロノスはにやりと笑った。
 「人は自由を与えられると、意外と落ち着くもんだ。
  檻の鍵が開いていれば、誰も逃げようとはしない」


6 試される日

 数日後、ユカリは再び職場で“試される”日を迎えた。
 今度は別の同僚が、会議の段取りで不機嫌になっていた。

 彼は言葉少なに机を叩き、「もう勝手に決めてくれ」と言い放った。

 以前のユカリなら、慌てて「じゃあこうします」と取り仕切ってしまっただろう。
 だが今回は違った。

 ユカリは静かに微笑んで言った。
 「うん、いいですよ。どうします? どんな形がいいと思います?」

 同僚は一瞬、拍子抜けしたように目を丸くした。
 数秒の沈黙のあと、彼は肩の力を抜いて言った。

 「……じゃあ、一緒に考えようか」

 その瞬間、ユカリの胸の奥で何かがほどけた。
 クロノスの言葉が蘇る。

 ——“逃げ道をひとつ残しておく”


7 チーズケーキの午後

 夕方、ユカリは再び「選択屋クロノス」を訪れた。
 ドアを開けると、甘い香りが漂っている。

 「おや、今日は良い選択をしてきた顔だね」

 「はい。逃げ道を残したら、相手の顔が穏やかになったんです」

 クロノスは嬉しそうに頷き、机の上におやつを並べた。
 チョコレート、クッキー、アップルパイ。

 「ほら、好きなのを選びな」

 ユカリはお菓子を見つめ、笑った。
 「チーズケーキは、ないんですか?」

 クロノスは肩をすくめて言った。
 「選択とはね、与えられた中から選ぶことだよ。
  ないものを欲しがるのは、“自己決定ごっこ”だ」

 「……なるほど。じゃあ、クッキーを」

 クロノスは満足げに頷いた。
 「いい選択だ。君はもう、“不機嫌な人”を恐れなくなるだろう」


8 最後の選択

 春が訪れる頃、“選択屋クロノス”は忽然と姿を消した。
 跡地には、ただ一枚のカードが落ちていた。

「人は誰でも“選択屋”になれる」

 ユカリはそれを拾い上げ、そっと微笑んだ。

 その日から、彼女は職場で「話しやすい人」と呼ばれるようになった。
 怒っていた人が笑い、戸惑っていた人が落ち着きを取り戻す。

 彼女はいつも、相手に“選択”を返すのだった。

 「それで、あなたはどうしたいですか?」

 ——その問いは、世界に自由の風を吹かせる魔法の呪文だった。


9 エピローグ:沈黙のチーズケーキ

 夜、自室で紅茶を飲みながらユカリは思った。
 人の不機嫌に反応していたのは、結局、自分の中の“選択されない恐れ”だったのかもしれない。

 けれど今は違う。
 たとえ誰かが不機嫌でも、その人の中に“自由を求める声”があると知っている。

 「人は皆、選択の途中にいるんだね」

 窓の外の風が静かに吹いた。
 その音が、どこかでクロノスの笑い声に聞こえた気がした。

 テーブルの上には、今日買ってきたチーズケーキが一切れ。

 「ようやく選べたよ、先生」

 ユカリは一口食べ、微笑んだ。

 ——そして、風はやんだ。

ことばの庭で風がやむ

1 声のしずく

 青柳(あおやぎ)ミナは、駅前のカフェでカップを両手で包みながら、静かに息を吐いた。
 昨日も職場で、誰かの噂話を聞かされた。いや、正確に言えば「聞かされた」というより、彼女自身が途中からその会話の渦に巻き込まれていたのだ。

 最初は、ほんの相づちのつもりだった。
 「そうなんですねぇ」「へぇ、意外ですね」
 そのうち、気づけば彼女の口からも、「わたしもそう思ってたんですよ」なんて言葉が出ていた。

 帰り道、ミナは胸の奥がざらついているのを感じた。
 家に帰っても、心は重く沈んだままだった。

 ——愚痴や悪口を言うと、どうして元気がなくなるんだろう。

 その問いが、夜明け前まで頭の中をぐるぐると回っていた。

 翌朝、通勤途中にふと足が止まった。
 いつもは気にも留めない駅前の路地。そこに、小さな木の看板が立っていた。

「ことばの庭 診療所」

 ……ことばの庭?

 興味にまかせてのぞいてみると、古びた建物の奥から、白髪の男性が顔を出した。
 細い目が笑っている。

 「おや、お客さんかな? 風に誘われた人だね」

 彼の名は 園田風見(そのだ・かざみ)
 看板の主であり、“ことばの医師”を名乗る人物だった。


2 ことばの診療所

 部屋の中には、花のようなガラス瓶がずらりと並んでいた。
 どの瓶にも、淡い光の粒が浮かんでいる。

 「これ、何ですか?」とミナが尋ねると、風見は答えた。

 「人が話したことばの残り香さ。愚痴、悪口、感謝、笑い声……ぜんぶ“エネルギー”として残るんだよ」

 「ことばが、残る……?」

 「もちろん。君がさっき言った“元気がなくなる”という感覚も、この瓶の中の反応を見ればわかる」

 そう言って風見は、灰色の瓶を取り出した。
 中には黒い靄のようなものが漂っている。

 「これは、“悪口”のことばを集めた瓶だ。見てのとおり、曇っているだろう?
 でもね、よく見ると中に小さな光が混じっている」

 ミナは顔を近づけてみた。たしかに、黒の中に青白い光が点滅している。

 「この光が、“良い心”の部分だよ。悪を語るとき、人の中の“善”も同時に反応する。
 だから、愚痴をこぼすたびに、人はどこかで“哀しみ”を感じるんだ」

 「……哀しみ?」

 「善いものを知っている心が、同時に痛むんだよ。
 人は悪を語るとき、善の存在も感じてしまう。
 それが、疲れや虚しさとして表に出てくる」

 ミナは静かに頷いた。
 確かに、自分の中にもそういう感覚がある。誰かを責めるたび、自分のどこかも責められているような痛みが走るのだ。


3 鏡の言葉

 風見は奥の棚から、もう一つの瓶を取り出した。
 それは透き通るほど透明で、中に淡い金色の光が漂っていた。

 「こっちは、“祝福のことば”を集めた瓶だ。光っているだろう?
 でも、これにも微かに影が混じっているんだ」

 「……つまり、良い言葉を言うときにも、悪いものが生まれる?」

 「そうだね。けれどそれは“悪”ではなく、“対極”なんだ。
 光があるから影がある。影があるから、光が見える。
 この世界は、両方が在って初めて“認識”が成り立つんだ」

 ミナは思わず微笑んだ。
 その言葉はどこか、子どものころ読んだ寓話のように感じられた。

 風見は続けた。

 「つまりね、君が悪口を言うたび、君の中の“優しさ”も目を覚ます。
 だけど人はそれを感じるのが怖くて、見ないようにする。
 それが“元気のなさ”として現れるんだ」


4 沈黙の中の種

 それからミナは、毎週この“ことばの庭”に通うようになった。
 来るたびに、風見は新しい瓶を見せてくれた。

 怒りの瓶は赤く、恐れの瓶は紫にくすみ、嫉妬の瓶は緑の渦を巻いていた。
 そして、それぞれの瓶の底には、いつも小さな光がひっそりと眠っていた。

 「それが“本当のあなた”の一部なんだよ」と風見は言う。

 ある日、ミナは勇気を出して尋ねた。

 「先生、どうしたらこの光を育てることができるんですか?」

 風見はにっこりと笑った。

 「簡単さ。沈黙することだよ」

 「……沈黙?」

 「そう。“言葉の庭”では、沈黙が一番よく育つんだ。
 人は黙ると、内側の声が聞こえる。
 そして、やがてその声が“ことば”になる。
 そのとき初めて、言葉が人を癒すんだよ」


5 言葉の種をまく

 季節が変わり、ミナの職場では相変わらず誰かが誰かの陰口を言っていた。
 けれどミナは、もうそれに巻き込まれなくなっていた。

 彼女はただ、静かに微笑み、時折やさしい言葉を添える。
 「大丈夫ですよ」「きっといい方向に行きますよ」

 不思議なことに、そんな日が続くうちに、職場の空気が少しずつ柔らかくなっていった。
 まるで、見えない花が咲いていくようだった。


6 消えた診療所

 ある雨の朝、ミナはふと風見に会いたくなった。
 久しぶりに“ことばの庭”を訪ねてみると、そこにはもう建物がなかった。
 ただ、小さな更地に草が揺れているだけ。

 「えっ……?」

 呆然としていると、風が吹いた。
 草の葉がすれ合い、かすかに声のような響きがした。

 ——言葉は、もう君の中にある。

 ミナはゆっくり目を閉じた。
 胸の奥で、何かが静かに光っているのを感じた。


7 ことばの庭で風がやむ

 その夜、ミナは夢を見た。
 広い庭の真ん中に、透明な瓶がいくつも浮かんでいる。
 そのひとつひとつが、やわらかな光を放っている。

 風見がそこに立っていた。

 「覚えているかい? 悪口の瓶にあった青い光を」

 ミナはうなずいた。

 「それは“哀しみ”の光だ。人が悪を語るときに目覚める、善きものの涙。
 君がそれを抱きしめたとき、人は強くなる」

 風見はそう言って、瓶をひとつミナの胸にそっと押し当てた。
 瓶はゆっくりと溶け、光が体の中へと流れこんでいく。

 「これからは、君が“ことばの庭”を育てる番だよ」

 ——風がやみ、庭が静まり返った。

 ミナの中で、何かが芽吹いた音がした。


8 その後のこと

 数年後、ミナは小さなカウンセリングルームを開いた。
 壁には植物が飾られ、来る人々は口々に「ここに来ると、なんだか楽になる」と言った。

 ミナは、静かに微笑んで答えるだけだった。
 「それは、あなたの中にある光が目を覚ましたからですよ」

 部屋の隅には、かつて風見の部屋で見たような瓶が並んでいた。
 だがそれらは、もう“言葉”を閉じ込めてはいない。

 瓶の中で光がゆらめき、音もなく溶けていく。
 まるで、世界中の“善き言葉”が、誰かの心に還っていくように。


結末

 夜、窓の外で風が吹く。
 ミナはその音を聞きながら、ふとつぶやいた。

 「悪い言葉を言う人も、きっと光を探しているんだね」

 そして静かに笑った。

 ——言葉の庭では、今日も風がやんでいる。

迷える仔羊と量子の牧場

――ある研究者の観察記録――

 

 

Ⅰ 学会という迷宮

雨上がりの午後だった。
ガラス張りの学会会場は、どこか宇宙船の内部のように冷たく光っていた。
人々は名前のついた小さな銀色のバッジを胸につけ、ひとりひとりが「知識」という名の羊を引き連れて歩いているように見えた。

「自己効力感の検査は、本人の自己評価とどう関係しているんですか?」

壇上で質問を受けた瞬間、
玲子(れいこ)の脳の中に、まるでサイレンのような音が鳴り響いた。

……え? それ、今、訊く?

会場の空気が微妙に震える。
隣の席では、年配の教授が腕を組み、鼻の下で笑っていた。
玲子はマイクを握りしめ、頭の中の言葉を必死に並べようとした。

しかし、出てこない。

「えっと……つまり、それは……そういうもの、なんです……」

沈黙。
マイクの先から微かなハウリングが聞こえた。

“どうしてこの質問が出るんだろう?”
玲子の頭の中で、思考の羊たちが一斉に逃げ出していった。


Ⅱ 研究所カフェの憂鬱

発表が終わったあと、玲子は学会のカフェでひとり、
冷めたカプチーノを見つめていた。

そこへ、薄茶のコートを着た男がやってきた。
どこか放浪者のような雰囲気を持つその男は、
研究者たちの中でも少し浮いた存在で、「境界の人」と呼ばれていた。

「撃沈だったね」
「見てたんですか」
「見てたよ。面白かった」

「……あれが、面白い?」

「うん。だって君、正しいことを言おうとしてたろう?
でも、学会は“正しいこと”より、“同じ言葉を話せるかどうか”を見てるんだ」

玲子はムッとした。
「つまり、理解し合うことより、儀式なんですか?」

男は笑った。
「そう。あの場所は宗教だよ。しかも信者が“科学”という神を信じてるタイプのね」

玲子は言葉を失った。
目の前のカプチーノの泡が、まるで銀河の渦のように見えた。


Ⅲ 「理解できない」ことの研究

数日後、玲子は自分の研究室で、
学会の録音データを再生していた。

質問者の声。
「自己効力感と自己評価は違いますよね?」

その声に合わせるように、パソコンの画面が微かにノイズを走らせた。
彼女は小さく呟いた。
「違う、って言われても……違いが違う……?」

画面の隅に、なぜか見慣れぬアイコンが光っていた。
『疑問の羊を解放しますか?』

クリックすると、画面が真っ白になり、
次の瞬間、玲子は白い牧場に立っていた。

風がやさしく頬を撫で、草原が波打つ。
遠くに、たくさんの羊がいた。
そして、その群れの向こうから一頭の黒い羊が歩いてきた。

「ようこそ、量子牧場へ」

声を発したのは羊ではなく、
銀の杖を持った老人だった。


Ⅳ 量子牧場の先生

「あなたは……誰ですか?」

「この牧場の管理人。いや、質問の管理人と言った方がいいかもしれない」

老人は目を細めて笑った。
「あなたが学会で受けた質問、あれは“迷える羊”の鳴き声だよ」

「迷える……羊?」

「そう。彼らは“わからない”という不安に耐えられないんだ。
だから、“違う”と言うことで自分を守っている」

玲子は息をのんだ。

「じゃあ、私も?」

「もちろん。君もまた、迷える羊の一頭だ」

老人は手を振ると、草原の一角が光に包まれた。
そこに、無数の羊が現れ、それぞれの体には文字が刻まれていた。

【統計】
【認知】
【客観性】
【再現性】
【論文審査】

「これが、君の中で迷っている“概念の羊”たちだよ」

玲子は見とれていた。
羊たちはのんびりと草を食みながら、時々顔を上げては“メェ”と鳴いた。


Ⅴ 羊たちの会議

「さて、実験をしよう」

老人が手を叩くと、羊たちは輪になった。

「自己効力感と自己評価は違う」
【統計】の羊が鳴いた。

「同じだ」
【認知】の羊が鳴いた。

「どちらも、観測者が作る幻想だ」
【再現性】の羊がつぶやいた。

やがて全ての羊たちが鳴き声を上げ、草原は混沌の音に満ちた。
玲子は頭を抱えた。

「わかりません! みんな違うことを言ってる!」

「そう、それが“真理”の本当の姿だよ」
老人が静かに言った。

「真理とは、沈黙の中にある“統一”じゃない。
無数の“矛盾”が同時に存在している場所なんだ」

玲子の目から涙がこぼれた。


Ⅵ 牧羊犬の登場

そのとき、地平線の彼方から、低い唸り声が聞こえた。
灰色の犬たちが走ってきた。
彼らは牧羊犬――つまり“論評者”だった。

「おまえたち! 勝手なことを言うな!」
「仮説に沿え!」
「標準化の範囲に戻れ!」

羊たちは一斉に散り、あわてて逃げ回った。
玲子は思わず叫んだ。
「やめて! みんなを追い立てないで!」

だが牧羊犬たちは止まらない。
老人が小さくため息をついた。

「人間社会では、常にこの繰り返しだ。
犬が吠え、羊が逃げ、そして牧人が迷う」

「牧人?」

「そう、君のような研究者さ。
君たちは真理という名の牧場を歩く“牧人”だ。
けれど、ほとんどの者は羊に吠える犬に怯えて、
自分の声を失ってしまう」


Ⅶ 静寂の答え

玲子は目を閉じた。
頭の中で、あの質問の声が再び響く。

「自己効力感と自己評価は違うんじゃないですか?」

……違うのか、同じなのか。

その問いが、静かにほどけていく。

“どちらでもいい”

その瞬間、牧場の風景がふっと変わった。
羊も犬も消え、玲子は真っ白な光の中に立っていた。
どこからか、老人の声が響く。

「悩みとは、形を変えた問いだ。
そして問いとは、まだ見ぬ自分の一部なんだよ」

玲子は小さく笑った。
「……私も、迷える仔羊なんですね」

「そうさ。でも、迷うことを恐れるな。
迷う者だけが、“気づく”場所へたどり着ける」


Ⅷ 目覚め

気がつくと、玲子は研究室の机に突っ伏していた。
パソコンの画面には、いつものデータ解析の表。
ただ一つ違うのは、ウィンドウの隅に、
小さな文字が浮かんでいたことだった。

『質問をありがとう。牧場より。』

玲子はそっと笑って、コーヒーを一口すすった。
冷めていたはずの味が、なぜかあたたかかった。


Ⅸ そして現実へ

数週間後、玲子は再び学会へ出席した。
今度は「科学的知見と信仰の境界」というテーマ。
彼女は壇上で、マイクを手にこう言った。

「“理解する”という言葉の中には、
“わからない”という美しい余白が含まれています。
私たちの仕事は、その余白を恐れないことだと思います」

一瞬の静寂。
やがて、会場のどこかから拍手が起こった。
それは決して大きな音ではなかったが、確かに響いた。

そのとき、玲子は思った。
――あぁ、私も少しは、善き牧人に近づけたのかもしれない。


【終章】

「わからない」という光

人は誰しも、心の中に羊を飼っている。
知識という名の羊。
不安という名の羊。
そして、愚痴という名の羊。

彼らは時に騒がしく、時に愛らしい。
だが、彼らを追い出してしまえば、
牧場は静まり返り、風も止んでしまう。

迷える羊がいるからこそ、
人は考え、歩き、やがて笑う。

――それが、学びという旅の本当の姿なのだ。