「スピリチュアル健康委員会」


第一章 奇妙な議題

国際都市ジュネーヴのガラス張りの会議棟。
世界保健機構――WHOの理事会では、毎年のように人類の健康に関する新しいテーマが討議されていた。

ある年のこと。議題に上ったのは「スピリチュアルな健康」という、聞き慣れない分野であった。

「肉体の健康、精神の健康は理解できる。しかし“スピリチュアル”とは、いったいなんだ?」

重厚な声で問いかけたのは、理事長席に座るローレンス博士。
白髪まじりの頭をかきながら、半ば呆れたようにため息をついた。

会場のスクリーンには、提出された報告書の表紙が映し出されている。
《人類の健康を測る第三の軸:スピリチュアル・ディメンション》

発表者は若い研究員、波多野ソラであった。
彼は立ち上がり、真剣なまなざしで会場を見渡した。

「スピリチュアルとは“まやかし”でも“宗教の宣伝”でもありません。
人が自分を世界から切り離して考えるその根本的な錯覚――これを乗り越える健康の在り方を指します」

ざわめきが広がった。

「また怪しいことを……」
「科学的でない」
「四次元ポケットの話かね?」

笑い混じりの声が飛ぶ。

ソラは苦笑を浮かべつつ、落ち着いた調子で続けた。
「私たちは“自分”を特別な存在だと感じがちです。しかし実際は、自然の一部であり、全体の関数の一項にすぎません」

「関数?」と隣の委員が眉をひそめる。

ソラは、黒板にチョークで書くように空中に図を描いた。
「部分関数として世界に包摂されている――これが人間の真の姿です。
私たちは個性を持ち、他者とぶつかり、時に苦しみながらも、やがて全体との関わりを思い出す。その回復力こそが“スピリチュアルな健康”なのです」

だが会場の反応は冷ややかだった。
「結局、証拠はあるのか?」
「それは心理学ではないのか?」
「健康の定義をこれ以上曖昧にしてどうする?」

その日、採択は見送られた。

こうして「スピリチュアル健康」という言葉は、正式には存在しないまま歴史の片隅に追いやられることになる。


第二章 研究室の片隅で

会議後の夕暮れ。
ソラは石畳の街路を歩いていた。

隣を歩くのは同僚の光井レン博士。
彼は量子物理学を専門とし、いつも夢見がちなことばかり言う男だった。

「惜しかったね。だけど面白い発表だった」
「結果は予想通りさ。まだ世の中は“見えるものだけが真実”だと信じてる」
「でもねソラ君。君の言うことは、量子物理学の多次元仮説に似ている」

レンはにやりと笑った。
「五次元や六次元が存在しないと、粒子のふるまいが説明できない。つまり世界は“見えない次元”に支えられているんだ」

「次元の健康、か……」
ソラはつぶやいた。

二人はふと、小さなカフェに入った。
木製のドアを押すと、どこか懐かしい香りが漂う。

奥の席には、見慣れぬ人物が座っていた。
シンプルな服装、年齢不詳。
眼差しだけが鋭く、しかしどこか優しい光を宿している。

その人物は二人を見るなり、静かに声を発した。

「スピリチュアルな健康――まだ早すぎたな」

ソラとレンは顔を見合わせた。
「あなたは?」

「私はただの旅人だ。人は“ミスター・ナウ”と呼ぶ」


第三章 ミスター・ナウの実験

ミスター・ナウは、二人を古びた研究所に案内した。
そこには奇妙な装置が並んでいる。
光を曲げるレンズ、音を反転させるスピーカー、そして巨大な立方体の機械。

「これは……?」
「五次元健康測定器だ」

ソラは息を呑んだ。

「人の健康は三つの軸で測られてきた。肉体、精神、社会的環境。
だが本当はもう一つ、“全体とのつながりを感じる力”がある」

レンが笑いをこらえながら言った。
「まるで宗教の祭壇みたいだな」

ミスター・ナウは首を横に振った。
「違う。これは科学だ。宗教も科学も、元は同じ“知らないことへの問い”から始まったのだ」

彼は装置のスイッチを入れた。
すると、立方体の中に光の幕が広がり、揺らめく波紋が空間を満たした。

ソラとレンは足を踏み入れた。

途端に、世界が裏返った。


第四章 裏返しの自分

ソラの目の前に現れたのは――もう一人の自分だった。
だがその表情は険しく、苛立ちを露わにしている。

「君は正しいと思い込み、他人を振り回してきた」

次に現れたのは、喜びに満ちあふれたソラの姿。
「君は人を幸せにしてきた」

さらに、絶望に沈むソラ。
「君は人生を恨んだこともある」

次から次へと、無数の“自分”が現れた。
それらは互いに矛盾しながらも、同じ一人の人間の断片だった。

レンもまた、自分の裏返しに出会っていた。
笑いながら涙を流すレン、怒鳴り散らすレン、何も語らず黙っているレン。

二人は気づいた。
――人間とは、全体の中で揺らめく多次元的な存在なのだ。

ミスター・ナウの声が響いた。
「これがスピリチュアルな健康。無数の自分を否定せず、全体の流れに溶かし込む力だ」


第五章 消えた旅人

気づけば、光の幕は消えていた。
研究所も、ミスター・ナウも、跡形もなく消えていた。

ソラとレンは静かな夜道に立っていた。

「夢……だったのか?」
「いや、僕は確かに見た。自分の裏返しを」

二人はしばらく黙って歩いた。

やがてレンがつぶやいた。
「知らないことがあるって、いいな」

ソラは頷いた。
「そうだ。知らないから、世界は面白い」


第六章 その後の話

数年後。
「スピリチュアル健康委員会」という小さな市民団体が各地に生まれた。
科学でも宗教でもなく、人々が自分と世界のつながりを思い出すための場だった。

そこでは、失敗談も成功談も笑い話に変わり、誰もが自分らしさを持ち寄った。

やがて、各国の保健政策にも「スピリチュアル・ディメンション」がひっそりと記されるようになった。

それはかつて採択されなかった議題の、遅すぎる復活だった。


エピローグ

もしあなたが人生に迷ったとき、思い出してほしい。

“自分”という感覚は、ときに世界からの分離を生む。
しかし本当は、あなたは常に全体の一部。

知らないことが無限にあるからこそ、人生は楽しみに満ちているのだ。


おわり

指先の向こうに

その都市には、「人間関係適応センター」という奇妙な機関があった。
人と人との関係を円滑にするために作られた、政府直轄の部署である。

そこでは毎日、職員たちが市民からの相談に応じていた。

「職場にどうしても合わない人がいるのです。どうすればいいでしょうか」
「苦手な上司とラポールを築けと言われるのですが……」

相談内容は、ほとんど同じだった。
「合わない人」とどう付き合うか。

その日も一人の女性がセンターにやってきた。
名前は 真弓
教育関係の仕事に就いている三十代半ばの女性だった。

「こういう仕事をしていると、馬の合わない人っていますよね」
真弓は少し疲れた顔で切り出した。

応対したのはセンターの主任、**志道(しどう)**という男だった。
歳の頃は五十代、口調は柔らかいが、どこか茶化したような笑みを浮かべる人物だった。

「こういう仕事じゃなくても、合わない人はどこにでもいるものだよ」

「でも、人相手の仕事だから、うまく合わせなきゃいけないじゃないですか」

志道は頷いた。
「さて、本題に入ろうか」

真弓は言った。
「センターのパンフレットに“合わない人には合わせなくていい”とありました。でも、仕事ではそうはいかないでしょう?」

志道は笑った。
「仕事でも、合わない人には合わせなくていいし、なんなら会わなくてもいいぞ」

「えっ、それじゃ仕事にならないですよ」

「なるさ」

真弓は眉をひそめた。
「だって、共感したり、信頼関係を作ったりしないと……」

志道は肩をすくめた。
「それは古いやり方だ。今の時代は違う」

「じゃあどうすれば?」

「何もしなくていい。合わせなくていい。会わなくてもいい。逃げてもいい」

真弓は呆れたように笑った。
「そんな無責任な」

志道は楽しそうに答えた。
「とても親切な答えだと思うけどね」

センターの壁には、一枚の古いポスターが貼られていた。
有名な教育者が遠くを指さしている写真。

「ほら、あれを見てごらん」

「クラーク先生、ですか?」

「そう。だが指の先には何もない」

志道はいたずらっぽく言った。
「指は指でしかない。何かを示そうとする“意志”だけが、そこにある」

真弓は不思議そうな顔をした。

志道は続けた。
「君は“共感しなきゃ”“ラポールを作らなきゃ”と考えている。だが、それは“自分がどうにかしよう”という意志にすぎない」

「でも……そうしないと信頼って育たないんじゃ」

「逆さまだよ。信頼は“作る”ものじゃない。すでにある。少なくても、ゼロじゃない。それを大切にしていれば、自然に育つんだ」

真弓は黙り込んだ。

「ねえ、君。想像してごらん。君が困っているときに、誰かが“共感してあげたい”と言って近寄ってきたら?」

「……嫌です。なんだか、押しつけられてるみたいで」

「そうだろう。信頼や共感は、意志して作るものじゃない。あるものを認めるだけで十分なんだ」

真弓は、ようやく少し笑った。
「つまり、私が“何とかしよう”と思うから、こじれてしまうんですね」

「その通り」

志道はうなずいた。
「まずは相手の存在そのものに敬意を持つこと。そして、そんな相手に反応する自分にも同じように敬意を持つこと。
それで十分なんだ。何も合わせなくていいし、逃げたっていい」

「逃げてもいいんですか?」

「もちろん。立派な選択肢だ」

真弓の顔に、少しずつ安堵が広がっていった。

数日後。
真弓は職場で、ずっと苦手にしていた上司と再会した。

以前なら「共感しなきゃ」「信頼を築かなきゃ」と身構えていたが、この日はただ、相手の存在をそのまま認めるようにした。

上司が厳しい言葉を放っても、真弓は心の中で「この人の反応もまた一つの現れ」と受けとめた。
不思議なことに、それだけで胸のつかえが半分ほど軽くなった。

その夜。
真弓はふと、センターで見たポスターを思い出した。

「指先は、指先以外の何物でもない」

指が示していたのは、特定の答えではなかった。
「どうすればいいのか」と探す自分自身の心を、静かに映し出す鏡だったのだ。

真弓は窓を開け、夜空に輝く星を見上げた。
指先のずっと先にあるものを追いかける必要はない。
今ここに、自分の足元に、すでに道はあるのだ。

彼女の心は、長い間求めていた安心感に、ようやく触れた気がした。

九(結末)

翌日。
志道の机には、匿名の手紙が置かれていた。

――昨日、苦手な上司に会いました。
合わせようとしなくても、仕事はちゃんと進みました。
“何もしなくていい”という言葉の意味が、やっと少しだけ分かった気がします。
ありがとうございました。

志道は笑みを浮かべ、手紙を机にしまった。

そして小さくつぶやいた。

「人は皆、すでに合っている。合わないように見えるのは……自分がそう思っているだけなのさ」

窓の外には、秋の空気が澄んで広がっていた。
指先が指す先ではなく、今ここにある日常の中に、答えは息づいていた。

―――――――――――――――――――――

(了)

ゾッとしない街

「沖縄土産のちんすこうです!」

カウンターに箱を置いたのは、新人職員のオリナだった。
局長の前で、胸を張っている。

「おお、ちゃんと石垣島の新垣製菓か」
局長は満足げにうなずいた。

「もちろんです、しつけ通りですよ」

局長は笑った。
「よくやったな。前にA君が持ってきたやつは、観光客向けのよくわからんメーカーだったからな」

オリナは少し得意げに顎を上げた。
「ほんとですよね。局長があれだけ『これを買ってきなさい』と指示していたのに、言われたものを買ってこないなんて」

局長は口をすぼめた。
「まったく、ゾッとしないやつだ」

オリナは不思議そうに首を傾げた。
「えっ? だって、思った通りじゃなくて、びっくりしたことだったんですよね? そういう時って、“ゾッとする”んじゃないんですか?」

「……」

局長はため息をついた。

「オリナ君。言葉はな、使い方を誤ると大変なことになるんだ」

局長が勤めるのは「感情管理局」だった。
この国では、人々の会話や感情をAIが常にモニタリングし、不安や暴力につながる表現があれば修正を促す仕組みが整えられている。

ただ一つ問題があった。
日本語は曖昧すぎるのだ。

「ゾッとする」「ゾッとしない」という言葉が、その典型だった。

感情管理AI〈エモコア〉は、ある市民が「ゾッとしない」と口にすると、
「恐怖を感じていない」
と解釈する場合もあれば、
「相手の行動が感心できない」
と判定する場合もある。

そのたびにAIがパニックを起こし、都市全体の警報システムが誤作動することすらあった。

「先週だって、“ゾッとしない映画だった”という感想を誰かが投稿したせいで、AIが“恐怖を感じていない=危険に鈍感”と判定して、防災庁に通報が入ったからな」

局長は嘆息した。

オリナは真顔になった。
「つまり、“ゾッとしない”って言うのは、“怖くない”とか“驚かない”ってことじゃないんですか?」

「もちろん、そういう場合もある。だがな」
局長は指を立てて説明した。

「お化けを見て鳥肌が立つとき――それを“ゾッとする”という。その反対は“ホッとする”“安心だ”だ。
寒さで震えるときも“ゾッとする”。その反対は“ポカポカする”だろう。
だが、人の行動や考え方を評して“ゾッとしない”というときは、“感心しない”“面白くない”の意味になるんだ」

「なるほど……」

「つまり、A君のちんすこうは、“ゾッとしない”の典型ということだ」

オリナは目を丸くした。
「じゃあ、あの人が“ゾッとしない”のは……本当に“ゾッとする”話ですね」

局長は頭を抱えた。

この都市では、こうした言葉の混線が毎日のように起きていた。

ある日、学校の先生が生徒の作文を読んで「これはゾッとしない」と評価した。
するとAIが「教師が生徒を恐怖に感じていない=油断している」と誤解し、教育局に危険信号を送った。

またある老人が温泉で「ゾッとするくらい気持ちがいい」と口にしたところ、保健局が「極度の冷えによるショック状態」と判断し、救急隊が押しかけた。

街の人々は、言葉を発するたびに監視網に誤解されないかヒヤヒヤしていた。

「ゾッとする」
「ゾッとしない」

その境界は、すでに社会問題になっていたのだ。

局長はある日、エモコアのメンテナンスルームで考え込んでいた。

AIの制御画面には、赤いエラーメッセージが連なっている。

【感情認識エラー:ゾットスル/ゾットシナイ】

何百回、何千回と同じログが繰り返されていた。

局長はつぶやいた。
「やはり、このままでは国語そのものを作り直す必要があるのかもしれん」

その時、オリナが駆け込んできた。
「局長! 市民から大量の苦情が! ソバ畑の写真を見せられて“ゾッとする”と言った人が百人単位で出たそうです!」

「なんだと?」

「しかも、“私はゾッとしませんよ”と答えた人までいて……AIが混乱しています!」

局長は立ち上がった。

その夜。
テレビは一斉に「ゾッとする映像特集」を流した。

無数のブツブツが並ぶソバ畑の航空写真。
ミツバチの巣穴。
整列する小石。

画面の前で、多くの市民が鳥肌を立てた。
「うわぁ、ゾッとする!」

だが、中には平然としている者もいた。
「私はゾッとしませんよ」

AIは困惑した。

「ゾッとする/ゾッとしない……どちらが正しいのですか?」

誰も答えられなかった。

混乱の渦の中、局長は独りごちた。

「もしかすると……“ゾッとする”か“しない”かは、言葉の問題ではなく、心の問題なのかもしれない」

オリナが首をかしげた。
「心の問題?」

「そうだ。結局、“ゾッとする”かどうかを決めるのは、言葉じゃなくて、その人の感じ方だ。
ある人にとって恐怖でも、別の人にとっては何ともない。
ある人にとって退屈でも、別の人にとっては感動的かもしれん」

オリナは目を見開いた。
「つまり……AIには永遠に理解できない?」

局長は笑った。
「そうだ。人間の心は、ゾッとするほど複雑なんだ」

翌朝。

エモコアはついに自壊した。

最後に残したログは、ただ一行。

【ゾッとしない世界に、私はゾッとする】

都市は静かになった。
警報も、誤作動も消えた。

人々は再び、自由に言葉を使えるようになった。

「ゾッとする」
「ゾッとしない」

そのどちらも、人間の心が紡ぎ出す大切な表現として。

そして――

局長は机の上に置かれたちんすこうを一つ取り、ぽつりと言った。

「まあ……これはゾッとしない味だな」

オリナは吹き出した。

街に、笑い声が広がった。

―――――――――――――――――――――

(了)

パンツ一丁共和国


1 父の習慣

 真衣(まい) は高校三年生。
 受験勉強に追われ、心はピリピリしていた。

 そんな彼女をさらに苛立たせる存在があった。

 ——父である。

 父の**竹男(たけお)**は、家の中では一年を通してほとんどパンツ一丁で過ごしていた。
 真冬でもリビングで新聞を広げ、パンツ一丁。
 夏場に至っては、そのパンツの隙間から何かがチラチラしているような気配すらある。

 母は「まあ、気にしない気にしない」と笑っている。
 だが真衣にとって、それは大きなストレスだった。

「なんで父さんはパンツ一丁なのよ! もう恥ずかしい!」

 そう叫ぶたびに、父は「家族だからいいじゃないか」と肩をすくめる。

 しかし、真衣は納得できなかった。


2 相談相手

 ある日、真衣は塾の帰りに寄った喫茶店で、世間話が得意な変わり者の老人に出会った。
 老人の名は古賀(こが)。自称“感覚哲学者”。

 真衣がつい愚痴をこぼすと、古賀は大笑いした。

「ハッハッハ! パンツ一丁で家の中をうろつく父親か! そりゃあ君の悩みは面白い」

「笑い事じゃないんです。私は本当に嫌なんです」

「では逆に聞こう。もし君が生まれた時から、家族全員が裸で暮らしていたら? パンツすらはいていなかったら?」

 真衣はハッとした。

「……それが当たり前なら、たぶん気にならない……」

「そういうことだ。つまり君の嫌悪感は“後付け”なんだ。社会や学校やテレビから植え付けられた“普通”という感覚に過ぎない」


3 セクシュアリティという魔法

 古賀は続けた。

「セクシュアリティというのは、人が“性”や“性差”をどう捉えるか、その価値観のことだ。男と女、父と娘、愛と恥ずかしさ——それらの意味づけは、生まれつきのものじゃない。後から社会に学んでしまったものだ」

「……じゃあ、私が父に嫌悪感を抱くのも?」

「そう。君がそういう価値観を選んでいるということだ。もっと言えば、選び直すこともできる」

 真衣は混乱した。
 自分が抱いている強い感情が“選択できる”なんて考えたこともなかったからだ。


4 もしもパンツ一丁が普通の世界だったら

 古賀はコーヒーをすすり、突拍子もない問いを投げかけた。

「想像してごらん。もしも日本の人口の半分が同性愛者だったら? もしも町を歩けばパンツ一丁の人ばかりだったら? あるいは、夫婦が家の中で常にイチャイチャしていたら?」

「……最初は驚くけど、生まれたときからそうなら、たぶん普通に思えます」

「そうだろう。つまり“普通”なんて幻想なんだ。パンツ一丁の父親に腹を立てるのも、社会的に刷り込まれた“普通”を基準にしているだけだ」


5 普通じゃないことの面白さ

 古賀はにやりと笑った。

「たとえば土産物屋で一本丸ごとのバウムクーヘンを見つけたとする。普通じゃないから、つい買って帰りたくなるだろう?」

「……確かに」

「普通じゃないことは、悪いことじゃない。むしろ選択肢を広げてくれる。普通じゃない父を持つのは、君にとっては成長のチャンスなのさ」


6 パンツ一丁共和国

 その夜、真衣は家に帰って父の姿を見た。
 やはりパンツ一丁でソファに寝転び、テレビを見ている。
 以前なら「やめて!」と叫んでいたはずだ。

 しかし今は、少し違う。

 ——普通じゃないけど、それも父さんの個性か。

 そう思った瞬間、心の苛立ちは驚くほど薄らいだ。

 後日、真衣は友人にこの話をすると、友人は目を丸くした。

「真衣んちってパンツ一丁共和国じゃん!」

 みんなで大笑いになった。
 真衣は顔を赤らめながらも、自分の心が以前より自由になっていることに気づいた。


7 エピローグ

 ある日、真衣はふと気づいた。
 世の中の“普通”に従って不快を抱くより、自分なりに“選び直す”ほうがずっと気楽で面白い。

 父がパンツ一丁だろうが、母が笑っていようが、全部“普通じゃないからこそ味わえる人生”なのだ。

 彼女は心の中でこうつぶやいた。

「——普通じゃないって、ちょっと誇らしいかも」

 そのとき、父が大きなくしゃみをして、パンツのゴムが「パチン」と鳴った。
 真衣は思わず吹き出した。

 そして、笑いながら受験勉強に戻ったのだった。


気のせい装置株式会社


1 退屈な朝と、不思議な出会い

 彩花(あやか)は、毎朝同じ時刻に同じ道を歩いて会社に向かう。
 今日も信号の変わり方も、通り過ぎる人々の表情も、すべてが昨日の焼き直しのように感じられた。

 彼女は三十代半ば。結婚はしていない。恋人もいない。仕事は事務職で、特にやりがいがあるわけでもない。給料は生活できる程度だが、友人と比べると少ないように思えて、心のどこかにいつも引っかかっていた。

 ——私は幸せなのだろうか。不幸せなのだろうか。

 そう考えながら、コンビニで買ったホットコーヒーをすすっていると、隣の席で新聞を読んでいた中年の男性が、ふとこちらを見て言った。

「幸せかどうかなんて、ぜんぶ気のせいですよ」

 唐突すぎて、彩花はむせそうになった。

「えっ、何ですか?」

「いやいや、失礼。独り言のつもりだったんですがね。私、**空井(そらい)**といいます。ちょっと変わった仕事をしてまして」

 その男は、どこか研究者のような雰囲気をまとっていた。髪は少し乱れているが、目は澄んでいて、不思議な自信がにじんでいる。

「変わった仕事?」

「ええ。“気のせい装置株式会社”という会社をご存じありませんか?」

 もちろん、聞いたこともなかった。
 だが、その響きは妙に気になった。


2 “気のせい”を売る会社

 空井によれば、その会社は人々が感じる“幸せ・不幸せ”や“快・不快”を自在に調整する装置を開発しているという。

「たとえばですね、給料が少なくて不満だと思うでしょう? そこでこの“給料倍額メガネ”をかけると、通帳の数字が二倍に見えるんです」

「え、それ詐欺じゃないですか」

「いえいえ、あくまで気のせい。実際の数字は変わらない。でも、不思議と“満足感”が高まる。人は結局、数字そのものじゃなく、感じ方で幸せかどうかを判断しているんですよ」

 彩花は呆れながらも笑ってしまった。

「そんなもの、誰が買うんですか」

「これが意外と売れるんです。人間は、変わらない現実に苦しむよりも、気のせいで楽になれるなら喜んで飛びつくものなんですよ」

 彼はさらに続けた。

「ほかにも、“真夏涼感スプレー”。これを吹きかけると、室温が変わらなくても自分だけ26度くらいに感じる。“失恋祝福ガム”。噛むと、フラれたことが“ありがたい解放”に思えてくる。“加速ベルト”。つけると歩くだけで、まるでジェットコースターに乗っているような爽快感を味わえる。……どうです? 面白いでしょう」

 彩花は半信半疑だった。だが、同時に、退屈で灰色だった朝が急に色づき始めているのを感じた。


3 幸せと不幸の1次元軸

 空井はさらに熱を込めて説明を始めた。

「人間の“幸せ”や“不幸せ”なんて、固定された点じゃありません。まるで温度計や加速度計のように、動いているベクトルの一部にすぎない。けれど、人は“私は幸せだ”“私は不幸せだ”と、動きを止めた一点として言葉にしてしまう。そこに誤解が生まれるんです」

「……誤解?」

「そう。“THE誤解&気のせい”ですよ」

 空井はウィンクした。
 彼の口調は冗談めかしていたが、彩花の心には妙に深く突き刺さった。

 ——幸せも不幸せも、結局は“感じ方”にすぎない?

 彼女はこれまで、給料の額や恋人の有無といった“条件”で自分の幸せを測っていた。けれど、その物差し自体が、もしかすると曖昧な“気のせい”だったのかもしれない。


4 気のせい装置の体験

 後日、彩花は空井に誘われ、会社のショールームを訪れた。
 そこには実に奇妙な装置や商品が並んでいた。

  • 「給料倍額メガネ」

  • 「真夏涼感スプレー」

  • 「失恋祝福ガム」

  • 「加速ベルト」

  • 「幸福スイッチ・リモコン」——押すと、理由もなく“まあ、幸せかも”と感じてしまう

 社員たちは実験台として製品を使い、にこにこと笑っていた。

 彩花も試しに「真夏涼感スプレー」を腕に吹きかけてみた。
 すると、じんわりと冷気が皮膚に広がり、まるで木陰に入ったような爽快感が訪れた。
 驚いて温度計を見ると、もちろん室温は変わっていない。

「……ほんとに、気のせいなんだ」

 彩花は感動した。
 同時に、不思議な恐怖も感じた。
 ——こんなふうに、すべてが気のせいで片づけられてしまったら、私たちはどうなってしまうのだろう。


5 気のせい社会の始まり

 やがて「気のせい装置株式会社」の商品は世間に広まり、大ブームとなった。

 給料倍額メガネをかけるサラリーマン。
 真夏涼感スプレーを浴びて炎天下でも元気に歩く主婦。
 失恋祝福ガムを噛みながら、フラれたことを笑い飛ばす若者。

 テレビやSNSはそれを面白おかしく取り上げ、人々は競うように装置を買い求めた。

 街の空気は確かに明るくなった。
 争いも減り、笑顔が増えた。

 しかし——。


6 影の副作用

 ある日、彩花は職場で奇妙な光景を目にした。
 同僚の一人が「給料倍額メガネ」をかけ続けたせいで、本当にお金に困っていないと勘違いし、無計画に借金を重ねていたのだ。

 また、別の同僚は「失恋祝福ガム」に頼りすぎて、恋愛の痛みから何も学ばなくなっていた。
 どんな別れも“ありがたい誤解”にすり替えられるせいで、人と向き合うことをやめてしまったのだ。

 街では、涼感スプレーの使いすぎで熱中症に気づかず倒れる人も出た。

「結局、人は“気のせい”に頼りすぎると、現実の変化に気づけなくなるんだわ」

 彩花は不安を覚えた。


7 空井との対話

 彩花は空井に問いただした。

「気のせいで幸せになれるのはいい。でも、みんな現実を見なくなってしまってる。これでいいんですか?」

 空井は静かに笑った。

「私はね、現実を否定しているわけじゃない。ただ、人間は変わらない現実に気づかず、変化がなければ不幸せだと思い込む。だから“気のせい”を利用して、その思い込みから自由になってほしいんです」

「でも、それに依存したら——」

「そう。依存すれば、現実を見失う。それに気づける人だけが、本当の意味で“今”を生きられるんですよ」

 彩花はその言葉を胸に刻んだ。


8 最後の選択

 やがて、気のせい装置株式会社は静かに倒産した。
 副作用の問題が世間で騒がれ、ブームは一気に終息したのだ。

 人々は再び、暑さや寒さ、給料の少なさや恋愛の痛みに直面するようになった。
 だが、その中で彩花は以前よりも落ち着いていた。

 彼女は“気のせい”を利用せずとも、自分の感じ方次第で世界が変わることを知ったからだ。

 夏の暑さにあえぐときも、
 給料の少なさに落ち込むときも、
 失恋で涙する夜も、

 心の奥でこうつぶやく。

「これは気のせい。私は、今を生きている」

 そう思うだけで、不思議と世界はやわらかくなるのだった。


9 エピローグ

 ある夕暮れ。
 彩花はカフェでコーヒーを飲んでいた。
 ふと窓の外を見ると、雲の切れ間に龍のような形が浮かんでいた。

 隣の席では、誰かが小声でつぶやいた。

「ほら、龍が見えるでしょう?」

 それはかつての空井だった。
 彼はどこか満ち足りた顔をして、静かに席を立った。

 彩花は微笑んだ。
 龍に見えるかどうかなんて、結局は気のせい。
 けれど、そう思えることで、人生は少しだけ豊かになる。

 ——幸せも不幸せも、全部“THE誤解&気のせい”。

 そう気づいた彼女は、これからの人生を、少し誇らしげに歩んでいった。