「ほどよく灯る街の話」

―――――――――――――――――――――

第一章 節約の女

「最近、節電を心がけてるんです」

そう言ったのは、カフェの窓際に座る佐和子だった。
ミルクティーを両手で包むように持ち、少し誇らしげに微笑んでいる。

「無駄遣いって、なんだか悪い気がして。
 裕福に生きたいなら、まず無駄を減らさないと、って思って」

向かいに座る私は、曖昧に頷いた。
彼女はとても真面目な人だ。
レシートを家計簿に丁寧に貼り、エアコンの設定温度にも罪悪感を抱く。

「ねえ、電気も水も、できるだけ使わない方がいいと思わない?」

その言葉を聞いた瞬間、私はふと、昔見た奇妙な夢を思い出していた。

――街中の明かりが、一斉に消える夢だ。

人々は静かに誇らしげで、
「これで地球に優しくなった」と満足そうだったけれど、
その街ではパン屋も、病院も、駅も、すべてが止まっていた。

「……ねえ佐和子」

私はゆっくり言葉を選んだ。

「もし、みんなが節約ばかりしたら、どうなると思う?」

「え? そりゃ、地球にいいんじゃない?」

「本当に?」

佐和子は少し首を傾げた。


第二章 動かない街

「たとえばね」

私はテーブルの上で、指を小さく円を描く。

「誰も電気を使わなかったら、発電所は止まる。
 電車も止まる。工場も止まる。
 パン屋さんも、ケーキ屋さんも、冷蔵庫が動かないから閉まる」

「……でも、それって無駄を省いてるだけじゃ?」

「そう。『無駄』を省いてるつもりで、
 実は“循環”そのものを止めてしまう」

佐和子は少し黙り込んだ。

私は続ける。

「お金ってね、貯めると安心するけど、本当は血液みたいなものなの。
 流れてこそ、体は生きていられる」

「でも、使いすぎたら……」

「使い方の問題だよ。
 使うこと自体が悪いわけじゃない」

窓の外では、夕方の街に灯りが一つずつ灯り始めていた。
小さな光が、連なって、街の輪郭を作っていく。


第三章 節約という祈り

佐和子はぽつりと呟いた。

「私、子どもの頃から“もったいない”って言われて育ったんです。
 電気は消しなさい。水は止めなさい。
 将来困らないように、備えなさいって」

「うん」

「だから…節約してると、いい人間になった気がして」

その声は、どこか寂しげだった。

私は思った。
節約は、善意の仮面をかぶった“安心への祈り”なのかもしれない、と。

「ねえ、佐和子。
 もしね、世界中の人が一斉に“もう何も使わない”って決めたらどうなると思う?」

「……地球は守られる?」

「たぶんね、世界は静かに衰えていく」

機械も、技術も、知恵も、挑戦も、止まる。

「人間って、動いて、試して、失敗して、また動く生き物だから」

佐和子は黙って、窓の外を見た。


第四章 夜に浮かぶ灯り

その夜、私はひとりで家路を歩いていた。

さっきまで佐和子と話していた言葉たちが、
胸の奥で、まだ熱を持っている。

――お金は巡るもの。
――使うことも、ひとつの選択。

そんなこと、理屈では前から知っていたはずだった。
ニュースでも、本でも、誰かの意見として何度も聞いてきた。

なのに、なぜか今日は、違った。

駅前の通りに並ぶ灯りを見たとき、
その一つひとつが、急に「生きもの」のように見えたのだ。

コンビニの白い光。
遅くまで開いている花屋の暖色。
マンションの窓にともる、いくつもの生活の気配。

それらは、誰かが電気をつけた結果で、
誰かが働いて、誰かが選んで、誰かが動いた証だった。

節約は、たしかに美徳だ。
私も長いあいだ、そう信じてきた。

けれど――
“使わないこと”が正しさになった瞬間、
私たちは「動かす力」そのものを怖れていたのかもしれない。

佐和子の言葉が、ふとよみがえる。

「節約してると、ちゃんとしてる気がするんです」

ああ、そうか。
それは安心だったのだ。
何もしないでいることを、正義に変えてくれる免罪符。

でも本当は、
動かすこと、使うこと、関わることのほうが、
ずっと勇気がいる。

街の明かりは、誰かの挑戦の残像だ。
失敗するかもしれない未来に、それでも踏み出した証だ。

私は立ち止まり、深く息を吸った。

節約をやめよう、という話じゃない。
ただ、縮こまったままでは、世界は温まらない。

光は、使われてこそ、意味を持つ。

そんな当たり前のことを、
私はようやく、自分の感覚として思い出したのだった。


最終章 ほどよく灯る世界で

翌日、佐和子からメッセージが来た。

「昨日、帰りにケーキ買っちゃいました。
 なんだか、ちょっと楽しくて」

私は笑った。

「それでいいんだよ」と心の中でつぶやく。

世界は、完璧じゃなくていい。
節約も、消費も、正義も、不正義も、
すべては揺れながら、ほどよい場所を探している。

夜の街に、灯りがぽつぽつと瞬く。

それは浪費でも、罪でもなく、
ただ――
人が生きている証みたいに、やさしく光っていた。

――終わり――

「話題という名の、静かな入口」


第一章 その話題は、重すぎた

「今日のレクリエーション、何を使おうかと思って」

そう言って彼女は、少し困ったように笑った。

「ニュースでやってた、新しいウイルスの話なんですけど……」

部屋には、午後の光が斜めに差し込んでいた。
高齢者施設の一角。古い時計が、規則正しく秒を刻んでいる。

「使えると思う?」

私はそう聞き返した。

「え……使えませんか?」

彼女は、悪いことを言ったわけでもないのに、少し身をすくめた。

「ニュースでも毎日やってますし、みんな知ってる話題だと思って」

私は、少し考えた。

「うん。“知ってる”かどうかで言えば、たしかにそうだね」

「じゃあ……」

「でも、“使える”かどうかは、別の話」

彼女は首を傾げた。


第二章 知っていることと、生きていること

「ニュースっていうのはね、だいたい“外”の話なんだ」

「外、ですか?」

「遠くで起きている出来事。数字や言葉としての出来事」

彼女は黙って聞いている。

「でも、レクリエーションで扱うのは、“内側”の話なんだよ」

「内側……」

「その人が、これまでどんな季節を過ごしてきたか、とか。
どんな朝に起きて、どんな匂いの中でご飯を食べてきたか、とかね」

彼女は、少し目を伏せた。

「ウイルスの話は、たしかに大事。でも、
それを“自分の記憶”と結びつけられる人は、意外と少ない」

「じゃあ、何を話せばいいんですか?」

「季節のこと。寒さのこと。風邪をひいたとき、誰が看病してくれたか。
みんな、そこなら話せる」

彼女は、はっとしたように顔を上げた。

「……ああ」

「人はね、自分の“生きた感じ”を語れるとき、安心するんだ」


第三章 話題は、扉である

しばらく沈黙があった。

窓の外では、風が木の枝を揺らしている。

「じゃあ、時事ネタって、使っちゃいけないんですか?」

「ううん。使えるよ」

私は微笑んだ。

「ただし、それは“入口”として」

「入口……」

「たとえば、“最近寒いですね”って話から、
“昔はどんな冬でしたか”に進むでしょう?」

「はい」

「それと同じで、ニュースは“今”の話だけど、
そこから“その人の時間”に入っていけるかどうかが大事なんだ」

彼女はゆっくりうなずいた。

「ニュースそのものじゃなくて……」

「そこから、どこへ行くか」

時計の針が、静かに音を立てた。


第四章 静かな午後のレッスン

「でも、私、つい話しすぎちゃうんです」

「うん。知ってる」

「え?」

「口から先に生まれた人の話し方をしてる」

彼女は吹き出した。

「そんなことないです!」

「いや、悪い意味じゃない。
言葉が出てくる人は、場をあたためる才能がある」

「じゃあ……」

「その代わり、時々は“待つ”こと」

「待つ?」

「相手の記憶が、ゆっくり出てくるのを」

彼女は、しばらく黙った。

「……それって、ちょっと怖いですね」

「そう。沈黙は、ちょっと怖い」

でも、と私は続けた。

「その沈黙の中でしか、出てこない言葉もある」


第五章 その日の帰り道

帰り際、彼女はふと立ち止まった。

「今日の話、なんだか……頭より、胸に残ります」

「それでいい」

「でも、正直に言うと……」

彼女は照れたように笑った。

「ちゃんとできる自信、まだないです」

私は少し考えてから言った。

「それでいいんだよ」

「え?」

「“うまくやろう”とするより、
“今ここにいる”って感覚のほうが、ずっと大事だから」

夕方の風が、廊下を静かに通り抜けた。

彼女は小さく息を吸って、言った。

「……じゃあ、今日はそのまま帰ります」

「うん。それが一番」

彼女が去ったあと、私は思った。

レクリエーションとは、
何かを“してあげる”ことじゃない。

誰かが、自分の時間に戻っていくための、
ほんの小さな入口をつくることなのだ。

そしてその入口は、
案外、何でもない話題の中に、
ひっそりと開いている。

――たとえば、
今日の天気とか、
少し寒いね、という一言の中に。

静かな夕方の空を見ながら、
私はそんなことを考えていた。

 

大丈夫です、と彼女は言った


第一章 昼休みの声

「昨日、先輩に怒られたんです」

昼休みの休憩室。
電子レンジの音が鳴り、誰かのスマホが震え、時間だけが均等に流れていた。

「良かったじゃない」

私はそう返した。
半分は冗談で、半分は本音だった。

「良くなんかないですよ。まあ……社会勉強にはなりましたけど」

彼女――三宅ゆずはは、スプーンでスープを混ぜながら言った。

「仕事の進み具合を聞かれたんです。それで“大丈夫です”って答えたら、怒られました」

「怒られた?」

「はい。“あなた自身のことを聞いてるんじゃない”って」

私は少し考える。

「それで?」

「心配してくれたんだと思います。でも、私は“配慮はいりません”って意味で言っただけなんです」

彼女は困ったように眉を寄せた。

「……それって、間違ってますか?」

私は首を横に振った。

「間違ってない。むしろ、すごく日本的」

「日本的?」

「うん。“私は安定しています。お気遣いなく”っていう、気配りの塊みたいな言葉」

彼女は目を丸くした。

「そんな深い意味、考えたことなかったです」

「たいていの人は考えないよ。便利だから」


第二章 便利な言葉の正体

「“大丈夫です”って、魔法みたいな言葉なんだ」

私はそう続けた。

「断ることもできるし、受け取ることもできるし、距離も保てる」

「確かに……」

「でもね、便利な言葉ほど、誤解も生みやすい」

彼女は黙って聞いている。

「先輩はたぶん、“自分は必要とされていない”って感じたんじゃないかな」

「……そんなつもり、なかったのに」

「うん。だから厄介なんだ」

昼休み終了のチャイムが鳴った。

人が立ち上がり、椅子が鳴り、空気が切り替わる。

「午後も頑張ってくださいね」

彼女はそう言って立ち上がった。

「はい。……あ、ありがとうございました」

その一瞬、彼女の言葉が少しだけ変わったことに、私は気づいた。


第三章 午後の窓際で

午後の仕事は、淡々と流れていった。

書類の山と、キーボードの音と、少し眠たくなる空気。

ふと窓の外を見ると、雲がゆっくり形を変えていた。

――龍みたいだな。

そう思った瞬間、昼の会話がよみがえる。

「なんで龍なんだろう」

誰に言うでもなく、心の中でつぶやく。

龍は、見えない。
でも、昔の人は確かにそこに「意味」を見た。

恐れや、祈りや、願いを、
形のないものに託してきた。

「……大丈夫です、か」

言葉もきっと同じだ。
本当は見えない心を、
なんとか形にしようとした結果なのだ。

午後の光は、午前より少しやわらかい。

その中で、私はふと思った。

――彼女は、今どんな気持ちで仕事をしているだろう。


第四章 夕方、心の中で

帰り際、彼女とすれ違った。

「お疲れさまです」

「お疲れさま」

ほんの一瞬のやりとり。

でも彼女は、少しだけ間を置いてから、こう言った。

「今日は……ありがとうございました」

それだけだった。

けれど、その言葉には、
昼にはなかった温度があった。

私は小さくうなずいた。

「どういたしまして」

そのあと、彼女は少し照れたように笑って付け足した。

「……あ、大丈夫です」

その言い方が、なぜかとてもやさしく聞こえた。

きっと彼女はもう知っている。
「大丈夫です」が、
拒絶でも、逃げでもなく、
自分を守りながら相手を気遣う、
ひとつの選択肢だということを。

言葉は完璧じゃない。
でも、使う人の心が少しずつ変われば、
同じ言葉でも、ちゃんと届く。

夕暮れの廊下で、
私はそんなことを思った。

「大丈夫です」

それは今日も、
誰かが世界と折り合いをつけるための、
小さくて、やさしい合言葉なのだ。

 

「角煮を配る人」


第一章 理由のわからない熱

その日、美和は朝から落ち着かなかった。

目覚まし時計はいつも通り鳴り、
いつも通りの服を着て、
いつも通りの電車に乗った。

何も変わらないはずの朝だった。

それなのに、胸の奥に、
小さな熱のかたまりが居座っている。

――なんだろう、この感じ。

理由は、わかっていた。
わかっているのに、認めたくなかった。

Aさん。

昨日の会議での、あの言い方。
「普通は、こう考えるでしょ?」
まるで、こちらの考えなど最初から存在しないかのような口調。

思い出すたびに、
胃のあたりが、きゅっと縮む。

「……ほんとに」

美和は、吐き出すようにつぶやいた。

「イライラする」

自分がこんな言葉を使うこと自体、
少しだけ嫌だった。

大人なのに。
感情的になるなんて。

そうやって、
イライラしている自分を、
さらに責める。

その繰り返しだった。


第二章 休憩室という境界

午後三時。
誰もいない休憩室。

美和は、マグカップを両手で包みながら、
窓の外をぼんやり眺めていた。

コーヒーは、もうぬるい。

それでも、手放せずにいるのは、
この熱を少しでも吸い取ってほしかったからかもしれない。

「Aさんのものの言い方には、イライラするんですよね」

独り言だった。

はずだった。

「おやおや」

背後から、
柔らかく、どこかとぼけた声がした。

美和は、びくりとして振り返った。


第三章 観察者

そこには、
いつの間にか一人の人物が座っていた。

スーツでもなく、
制服でもなく、
私服のようで私服でもない。

年齢は、わからない。

笑っているのに、
感情が透けて見えない。

「元気いっぱいですなぁ」

「……どなたですか?」

「通りすがりの観察者、みたいなもの」

冗談のような口調だった。

普通なら、警戒するところなのに、
なぜか美和は、
その人を追い返す気になれなかった。

「やっぱり、我慢できないというか……」

気づけば、
胸の内をそのまま言葉にしていた。

「何を?」

「Aさんの考え方とか、やり方にです」

観察者は、少し感心したように頷いた。

「すごいね」

「何が凄いんですか?」

「原因を、きちんとAさんに置けてるところ」

その言葉に、
美和は、ほんの一瞬、言葉を失った。


第四章 言えないという選択

「原因はAさんにありますから」

そう言い切ると、
観察者は、楽しそうに首を傾げた。

「じゃあ、それ、本人に言った?」

「言えるわけないじゃないですか」

「私は我慢ならないんです、って?」

「その言い方やめてください、って?」

観察者は、まるで子どもに問いかけるように言った。

美和は、思わず首を横に振った。

「そんなこと言ったら、関係が最悪になります」

「それに?」

「何か言うと、ヒステリックに言い返してくるんです」

観察者は、少し考えるような仕草をした。

「じゃあさ」

「そんな言い方したら対人関係悪くしますよ、とか」

「それ、すごく嫌な気分になるのでやめてください、とか」

美和は、苦笑した。

「……言えませんよぉ」

「だろうねえ」

観察者は、あっさり頷いた。

「言えてたら、
イライラしたり、愚痴ったりしないもんね」

その言葉は、
責めるでもなく、
慰めるでもなかった。

ただ、事実を言っているだけだった。


第五章 大人という仮面

「じゃあ、どうしろって言うんですか」

美和の声には、
疲れが混じっていた。

「どうもしなくていい」

「え?」

「原因はね、Aさんじゃない」

その瞬間、
胸の奥で、小さな反発が起こった。

――私は、ちゃんと大人として振る舞ってきた。
――空気を読み、場を乱さず、角が立たないように。

それを否定されるのは、
少し、つらかった。

「私、合わせてなんかいませんよ?」

自分でも、
少し強い言い方だと思った。

観察者は、くすっと笑った。

「合わせるってさ」

「“その通りですね、わかりました”って言うことだと思ってるでしょ?」

「……違うんですか?」

「それはね、服従」

言葉は軽い。
けれど、胸の奥に、ずしんと落ちた。


第六章 ノックする影

「それやると、自分を殺すから、イライラする」

観察者の声は、静かだった。

そのとき、美和の胸の奥で、
何かが、そっとノックした。

――言い返したい。
――本当は、そう思っていない。

そんな声。

でも、美和は、
気づかなかったふりをした。

そんな自分は、
ずっと「いないもの」として扱ってきたから。

「あなたがやってる“合わせる”っていうのはね」

観察者は続けた。

「自分の考えを言わずに、
何もなかった顔でやり過ごすこと」

美和は、何も言えなかった。

胸の奥が、
少しずつ、苦しくなっていた。


第七章 尊重という名の重荷

「あなた、Aさんのやり方が嫌なんでしょ?」

美和は、ゆっくり頷いた。

「だったら、本当は言いたいこと、あるよね」

ある。

ずっと、ある。

でも――

「そこまでは、やりたくないです」

観察者は、
責めることもなく、
ただ微笑んだ。

「そうだよね」

その一言に、
胸が、少し緩んだ。

「だから、イライラの原因は自分にある」

「私が、悪いんですか?」

「悪くないよ」

即答だった。

「Aさんも、悪くない」

美和は、混乱した。

「ただね」

「あなたが、自分の考えを相手に強く求めるのは、
悪いことだって、勘違いしてるだけ」

その言葉は、
静かに、深く、染み込んだ。


第八章 角煮の寓話

「豚の角煮、好き?」

突然の質問に、
美和は目を瞬いた。

「……好きですけど」

「大量に作るとする」

観察者は、
鍋をかき混ぜる仕草をした。

「作りたいから。
あげたいから。
喜ぶ顔が見たいから」

美和は、うなずいた。

「でもさ」

「肉が苦手な人も、いるよね」

美和は、はっとした。

「その人にとっては、良い迷惑」

「“また自分の都合だけで押し付けてきやがった”って」

思わず、笑ってしまった。

その瞬間、
Aさんの姿が重なった。

――Aさんも、
――ただ、自分の角煮を配っているだけなのかもしれない。


第九章 影の正体

「イライラする人ってね」

観察者は、静かに言った。

「相手を尊重しすぎてる」

「尊重……」

「自分より、相手を」

その言葉と同時に、
胸の奥で、何かがほどけた。

Aさんの言い方は、
いつも、はっきりしていた。

遠慮がなく、
自分の考えを、そのまま出していた。

――それは。

――本当は、自分が一番やりたかったことじゃないだろうか。

その瞬間、
Aさんへの苛立ちは、
怒りではなく、

長いあいだ押し込めてきた
「自分自身」への呼び声に変わった。


第十章 消えた観察者

気づくと、
観察者はいなかった。

休憩室には、
いつもの静けさだけが残っている。

時計の秒針が、
かち、かち、と音を立てていた。

美和は、
しばらく、その音を聞いていた。


最終章 角煮を配る人

翌日も、AさんはAさんだった。

言い方も、態度も、変わらない。

けれど、美和は、
もう同じ人を見ていなかった。

イライラは、消えなかった。

ただそれは、
追い払う敵ではなく、
迎え入れる影になっていた。

誰かに角煮を配る前に、
自分の皿に、何を乗せるのか。

それを選ぶ自由が、
最初から自分にあったことを、
ようやく思い出しただけだった。

 

「答えを売らない店」


第一章 看板のない教団

駅前の商店街を抜けた先、古いクリーニング店の跡地に、奇妙な貼り紙が出ていた。

「ぽんぽこ教団
結果にコミットしません」

朱色のマジックで書かれたその文字は、どこか力が抜けていて、語尾に小さく「笑」とでも付いていそうだった。

私はその前で、なぜか立ち止まってしまった。

三十七歳。
仕事はそこそこ、家庭もそれなり。
ただ、どこかずっと「何かが足りない」感じだけが、洗い物の泡のように消えずに残っている。

――結果に、コミットしません?

それは、私がこれまで必死に追いかけてきた言葉と、真逆だった。

ダイエットは結果。
仕事は成果。
人生は成功。

そうやって、いつも「結果」を目印に歩いてきた。

なのに、この貼り紙は最初からそれを放棄している。

中に入ると、ぽんぽこ顔の狸の置物が一体、受付に鎮座していた。
その奥で、ひとりの女性が紅茶を飲んでいる。

年齢は不詳。
優しい顔立ちだが、目だけが妙に澄んでいる。

「いらっしゃい。答え、探しに来た?」

私は、少しムッとした。

「いえ……看板が気になっただけです」

彼女はふふっと笑った。

「安心して。うちは答え、売ってないから」


第二章 疲れる理由

「でも、正直言うと」

私はソファに腰を下ろしながら言った。

「こういうの、読むと疲れるんです。
面白そうなのに、結局なにが言いたいのかわからなくて」

彼女は、驚いた様子もなく頷いた。

「それ、よく言われる」

「ちゃんと答えまで書いてくれたら、楽なんですけど」

「なるほど」

彼女は紅茶を一口飲んでから、静かに言った。

「でもね。あなたを疲れさせてるのは、ここじゃない」

「え?」

「あなた自身」

私は、少しカチンときた。

「だって、意味を考えさせる書き方するじゃないですか」

彼女は肩をすくめる。

「興味も関心もなければ、読まないでしょ?」

確かに、その通りだった。

「あなたはね、読んでる間ずっと、こう思ってる」

彼女は指を折りながら言った。

「これは自分に当てはまる?
どういう意味?
結局なにが正解?」

胸が、ちくりとした。

「そうやって、自分を巻き込みながら読むから疲れるの」

「じゃあ……どうすれば?」

彼女はにっこり笑った。

「疲れたら、読まなくていい」

あまりにもあっさりしていて、拍子抜けした。


第三章 結果が欲しい女

「でも、結果が出たほうが良くないですか?」

私がそう言うと、彼女は急に真顔になった。

「結果が欲しいなら」

彼女は、机の引き出しを開けた。

中には、分厚い契約書の束。

「お金、払ってもらおうか」

「え?」

「確実に結果、出るよ」

私は笑ってしまった。

「それ、詐欺じゃないですか」

彼女は首を振った。

「違う。
結果は簡単に作れる」

彼女は一枚の紙に、太字で書いた。

『あなたは成功しています』

「これを信じ続ければ、成功者」

「……それだけ?」

「結果って、だいたいそんなもの」

私は言葉を失った。

これまで私が追いかけてきた結果は、こんなにも軽かったのだろうか。

「でもね」

彼女は紙をくしゃっと丸めた。

「それ、楽しい?」

私は、答えられなかった。


第四章 状態という成果

教団の奥には、小さな部屋があった。

壁一面に貼られているのは、数字でも評価でもなく、短い言葉。

「今日はまあまあ」
「理由はわからないけど、気分がいい」
「よくわからないまま進んでいる」

「ここは?」

「状態の部屋」

彼女は言った。

「ぽんぽこ教団はね、結果じゃなくて“状態”にコミットする」

「状態……?」

「安心してるか。
疑ってるか。
疲れてるか。
面白がってるか」

彼女は私を見た。

「人生を形づくってるのは、出来事じゃなくて、そのときの“状態”」

私は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

確かに、同じ出来事でも、心の状態で意味はまるで変わる。

「結果はね」

彼女は、ぽんぽこ狸を撫でながら言った。

「あとから勝手についてくる」


第五章 答えのない出口

帰り際、私は振り返った。

「結局……答えは?」

彼女は、にやりと笑った。

「答えが欲しいって思ってる状態、どう?」

私は、少し考えてから言った。

「……なんだか、重たいです」

「でしょ」

「今は?」

「軽い」

「それが、成果」

私は、思わず笑ってしまった。

商店街に出ると、世界は何も変わっていない。
駅も、人も、夕焼けも。

でも、胸の奥だけが違っていた。

答えを探さなくても、今はちゃんと立っている。

そのことに、初めて気づいた。


最終章 ぽんぽこ教団の正体

後日、あの場所を再び訪れたが、店はなくなっていた。

貼り紙も、狸も、彼女も。

ただ、壁にうっすらと残った文字だけがあった。

「結果にコミットしません」

私は、その言葉を見て、もう疲れなかった。

答えを探す人生から、
状態を味わう人生へ。

ぽんぽこ教団は、きっと今もどこかで、
答えを売らずに、笑っている。

そして気づけば、
私の人生は、少しだけやさしくなっていた。