それぞれの庭に、風が吹く
第一章 除草剤という小さな怒り
「うちの人、ほんとに簡単なこともやってくれないんです」
春まだ浅い午後、縁側に腰を下ろしながら、**和奏(わかな)**はそう言った。
その声には、怒りというよりも、疲れがにじんでいた。
「庭に除草剤をまいてって言ってるだけなんですよ?
たったそれだけなのに、全然やってくれないんです」
向かいに座る**風間(かざま)**は、黙って湯のみを回していた。
湯気がふわりと立ちのぼる。
「そういう人なんだね」
風間は、あっさり言った。
「……え?」
「やりたいなら、君がやればいい」
和奏は、むっとした。
「私は家事もあるし、子どものこともあるし、忙しいんです。
時間がないんですよ」
胸の奥で、小さな棘が動いた。
第二章 比較という名の物差し
「よその旦那さんは、お願いすれば簡単なことならすぐやってくれるって聞きます」
和奏の声は、少しだけ強くなる。
「うちの人は、ぐうたらというか……正直、ダメなんじゃないかって」
風間は、ふっと笑った。
「すごい偏見だね」
「偏見ですか?」
「うん。かなり」
和奏は唇を噛んだ。
自分が責められている気がして、胸がきゅっと縮む。
「でもさ」
風間は庭先に目をやった。
「君のご主人、魚釣りが好きだったよね」
第三章 北風の中の釣り人
「そうなんです!」
和奏は、思わず声を上げた。
「寒い日でも行くんですよ。
『家事する暇なんてない』って言いながら、魚釣りには行くんです」
「普通の人、こんな北風の日に釣りに行くと思う?」
「行きませんよね」
和奏は即答した。
風間は頷いた。
「俺も行かない。
でも、庭に除草剤をまくくらいなら、やってもいい」
「ほんと、師匠を見習ってほしいです」
そう言いながら、和奏の胸に、なぜか小さな違和感が生まれていた。
第四章 やってもいいこと、やりたくないこと
「じゃあさ」
風間は、穏やかな声で続けた。
「次はこうお願いしたらどう?」
“そろそろ魚なくなったから、釣りに行ってきて”
「え?」
和奏は目を瞬いた。
「やってほしいのは除草剤ですけど?」
「君の旦那さんが“やってもいい”のは魚釣り。
俺が“やってもいい”のは除草剤。
君が“やってもいい”のは家事」
風間は、まるで当たり前のことを言うように話した。
「人それぞれ、無理なくできることって違うんだよ」
和奏は、言葉を失った。
第五章 もしも、立場が逆だったら
「君はさ」
風間は静かに尋ねた。
「寒空の下で、魚釣りに行きたい?」
和奏は、想像した。
凍える指、冷たい風、長い待ち時間。
「……行きたくないです」
「じゃあ、もしご主人にこう言われたら?」
“そろそろ魚ないから、今日釣りに行ってきて”
「……買いに行きます」
そう答えた瞬間、
和奏は、自分の胸がざわつくのを感じた。
第六章 同じ形の思考
「多くの人がそうする」
風間は言った。
「でもその理屈だと、
庭の除草剤も業者に頼むことになる」
「それは……お金がもったいないです」
和奏は、はっとした。
風間は、優しく問いかける。
「それ、同じだって気づく?」
「全然同じじゃありません」
反射的に否定したが、
言い切る自信はなかった。
「違うのは、やる“内容”だけだよ」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
第七章 庭が教えてくれること
「このままだと、庭は草ボーボーになりますよね」
和奏は、少し力なく笑った。
「相談して損した気分です」
「ならないよ」
風間は、梅の木を見上げた。
「草が嫌なら、いくらでも選択肢がある」
人に頼むこと。
お金を使うこと。
子どもと一緒にやること。
誰かにお願いすること。
「それでも、気が引けるなら……」
風間は、言葉を切った。
第八章 無意識の期待
和奏は、その夜、庭を眺めていた。
自分は、何を期待していたのだろう。
除草剤をまいてもらうこと。
それとも――
「大切にされている」と感じること。
気づいた瞬間、胸が少しだけ熱くなった。
自分の中にあったのは、
相手を変えたいという思いではなく、
分かってほしいという、静かな願いだった。
第九章 それぞれの“今ここ”
翌週、夫はまた釣りに出かけた。
和奏は、庭で子どもと草を抜いた。
風は冷たく、
でも、不思議と心は穏やかだった。
(私は、ここにいる)
誰かを責めるためでも、
我慢するためでもなく、
ただ、自分の選択として。
その感覚は、初めてのものだった。
終章 梅の花の下で
梅は、誰に頼まれなくても咲く。
誰かと比べることもなく、
自分の季節に、ただ花開く。
和奏は、ふと思った。
人も同じなのかもしれない。
それぞれの庭で、
それぞれのやり方で、
それぞれの“やってもいいこと”を生きている。
理解できなくても、
違っていても、
それでいい。
風が吹き、
花びらが静かに舞った。





