それぞれの庭に、風が吹く

第一章 除草剤という小さな怒り

「うちの人、ほんとに簡単なこともやってくれないんです」

 春まだ浅い午後、縁側に腰を下ろしながら、**和奏(わかな)**はそう言った。
 その声には、怒りというよりも、疲れがにじんでいた。

「庭に除草剤をまいてって言ってるだけなんですよ?
 たったそれだけなのに、全然やってくれないんです」

 向かいに座る**風間(かざま)**は、黙って湯のみを回していた。
 湯気がふわりと立ちのぼる。

「そういう人なんだね」

 風間は、あっさり言った。

「……え?」

「やりたいなら、君がやればいい」

 和奏は、むっとした。

「私は家事もあるし、子どものこともあるし、忙しいんです。
 時間がないんですよ」

 胸の奥で、小さな棘が動いた。

第二章 比較という名の物差し

「よその旦那さんは、お願いすれば簡単なことならすぐやってくれるって聞きます」

 和奏の声は、少しだけ強くなる。

「うちの人は、ぐうたらというか……正直、ダメなんじゃないかって」

 風間は、ふっと笑った。

「すごい偏見だね」

「偏見ですか?」

「うん。かなり」

 和奏は唇を噛んだ。
 自分が責められている気がして、胸がきゅっと縮む。

「でもさ」

 風間は庭先に目をやった。

「君のご主人、魚釣りが好きだったよね」

第三章 北風の中の釣り人

「そうなんです!」

 和奏は、思わず声を上げた。

「寒い日でも行くんですよ。
 『家事する暇なんてない』って言いながら、魚釣りには行くんです」

「普通の人、こんな北風の日に釣りに行くと思う?」

「行きませんよね」

 和奏は即答した。

 風間は頷いた。

「俺も行かない。
 でも、庭に除草剤をまくくらいなら、やってもいい」

「ほんと、師匠を見習ってほしいです」

 そう言いながら、和奏の胸に、なぜか小さな違和感が生まれていた。

第四章 やってもいいこと、やりたくないこと

「じゃあさ」

 風間は、穏やかな声で続けた。

「次はこうお願いしたらどう?」

“そろそろ魚なくなったから、釣りに行ってきて”

「え?」

 和奏は目を瞬いた。

「やってほしいのは除草剤ですけど?」

「君の旦那さんが“やってもいい”のは魚釣り。
 俺が“やってもいい”のは除草剤。
 君が“やってもいい”のは家事」

 風間は、まるで当たり前のことを言うように話した。

「人それぞれ、無理なくできることって違うんだよ」

 和奏は、言葉を失った。

第五章 もしも、立場が逆だったら

「君はさ」

 風間は静かに尋ねた。

「寒空の下で、魚釣りに行きたい?」

 和奏は、想像した。
 凍える指、冷たい風、長い待ち時間。

「……行きたくないです」

「じゃあ、もしご主人にこう言われたら?」

“そろそろ魚ないから、今日釣りに行ってきて”

「……買いに行きます」

 そう答えた瞬間、
 和奏は、自分の胸がざわつくのを感じた。

第六章 同じ形の思考

「多くの人がそうする」

 風間は言った。

「でもその理屈だと、
 庭の除草剤も業者に頼むことになる」

「それは……お金がもったいないです」

 和奏は、はっとした。

 風間は、優しく問いかける。

「それ、同じだって気づく?」

「全然同じじゃありません」

 反射的に否定したが、
 言い切る自信はなかった。

「違うのは、やる“内容”だけだよ」

 その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。

第七章 庭が教えてくれること

「このままだと、庭は草ボーボーになりますよね」

 和奏は、少し力なく笑った。

「相談して損した気分です」

「ならないよ」

 風間は、梅の木を見上げた。

「草が嫌なら、いくらでも選択肢がある」

 人に頼むこと。
 お金を使うこと。
 子どもと一緒にやること。
 誰かにお願いすること。

「それでも、気が引けるなら……」

 風間は、言葉を切った。

第八章 無意識の期待

 和奏は、その夜、庭を眺めていた。

 自分は、何を期待していたのだろう。

 除草剤をまいてもらうこと。
 それとも――
 「大切にされている」と感じること。

 気づいた瞬間、胸が少しだけ熱くなった。

 自分の中にあったのは、
 相手を変えたいという思いではなく、
 分かってほしいという、静かな願いだった。

第九章 それぞれの“今ここ”

 翌週、夫はまた釣りに出かけた。
 和奏は、庭で子どもと草を抜いた。

 風は冷たく、
 でも、不思議と心は穏やかだった。

(私は、ここにいる)

 誰かを責めるためでも、
 我慢するためでもなく、
 ただ、自分の選択として。

 その感覚は、初めてのものだった。

終章 梅の花の下で

 梅は、誰に頼まれなくても咲く。
 誰かと比べることもなく、
 自分の季節に、ただ花開く。

 和奏は、ふと思った。

 人も同じなのかもしれない。

 それぞれの庭で、
 それぞれのやり方で、
 それぞれの“やってもいいこと”を生きている。

 理解できなくても、
 違っていても、
 それでいい。

 風が吹き、
 花びらが静かに舞った。

怒りの温度計

――足りないと思っていた私へ――

第一章 胸の奥がひりつく朝

 朝は、いつも胸が少し痛い。
 理由はわからない。ただ、目が覚めた瞬間から、胸の奥に薄い膜が張ったような違和感がある。

 真城環は、その感覚を無視するのが得意だった。
 無視して、動く。
 無視して、整える。
 無視して、正しくあろうとする。

 靴箱の前で立ち止まったのは、偶然だった。

 左右の靴が、ほんの数センチ、揃っていない。

 その瞬間、胸の奥の膜が、じわりと熱を帯びた。

(どうして……)

 言葉になる前に、感情が先に跳ね上がる。

「なんで、こんなこともできないの」

 自分の声が、自分の耳に刺さる。
 低く、冷たく、どこか震えている。

 怒っている――はずなのに。
 その奥に、泣きそうな何かがあった。

第二章 怒りのあとに残るもの

 怒鳴った直後、必ず訪れる静寂。
 その静けさが、真城は一番苦手だった。

 研修生の由香が俯く。
 周囲の空気が、わずかに縮こまる。

(また、やってしまった)

 後悔は、すぐに別の感情に押し流される。

(でも……私が悪いの?)

 胸の奥で、何かが反論する。
 その声は小さいが、しつこい。

(私は、ちゃんとやってる)
(誰よりも、気を配ってる)
(なのに、どうして……)

 その「どうして」に、答えはなかった。

第三章 見えない比較

 真城の中には、いつも「見えない物差し」があった。

 それは誰かに渡されたものではない。
 自分で、いつの間にか握りしめていたものだ。

 世間一般。
 普通。
 常識。
 あるべき姿。

 由香の質問が、その物差しを強く押し当てた。

「一般的には……」

 その言葉を聞いた瞬間、
 真城の内側で、カチリと音がした。

(比べられてる)

 実際には、誰も比べていない。
 だが、心は勝手に裁判を始める。

――あなたは足りない
――まだ不十分
――もっとできるはず

 胸の奥が、ひりひりと痛む。

第四章 怒りは防御だった

 怒りが噴き出すとき、
 真城は一瞬だけ楽になる。

 責められる前に、
 否定される前に、
 先に刃を振るう。

 怒りは、防御だった。

 弱さが見えないように、
 震えが悟られないように、
 必死で張り巡らせた盾。

 だが盾は重く、
 持ち続けるほど、腕が痺れていく。

第五章 ケーキの箱

 久遠が差し出したケーキの箱を見たとき、
 真城の胸が、きゅっと縮んだ。

(また、何か言われる)

 だが、久遠は何も言わなかった。

「疲れている顔だったから」

 それだけ。

 責められない。
 評価されない。
 正されない。

 その事実が、思いのほか胸に響いた。

 涙が出そうになり、慌てて視線を逸らす。

第六章 足りない私の声

「私……ずっと怖かったんです」

 言葉にした瞬間、
 胸の奥で何かがほどけた。

「足りないって思われるのが」
「役に立たないって思われるのが」

 怒りの奥にあったのは、
 小さく、怯えた声だった。

 久遠は、ただ頷いた。

 否定も、修正も、しない。

 その沈黙が、真城を少しだけ安心させた。

第七章 温度が下がる瞬間

 後日。
 また靴が揃っていない朝。

 怒りの温度計が、上がりかける。

 そのとき、真城は気づいた。

(あ、今、責めてる)

 誰を?
 相手を――ではない。
 自分を。

 胸に手を当て、ゆっくり息を吐く。

(私は、もう十分)

 その言葉は、完璧じゃない。
 自信満々でもない。

 それでも、温度計の針は、確かに下がった。

終章 甘さの余韻

 ケーキを食べたあと、
 真城は少し眠くなった。

 甘さが、体に広がる。

 怒りは、なくならない。
 足りないと思う日も、きっと来る。

 それでも――
 自分を責めていることに、気づけるようになった。

 それだけで、人生は少し、優しくなる。

 靴が揃わない朝も、
 完璧じゃない自分も、
 そのままで、今日を始めていい。

「タオルが彼女を拭いていた朝」


第一章

ものが、黙ってこちらを見ている

部屋は静かだった。
音といえば、冷蔵庫の低い唸り声と、カーテン越しに揺れる朝の光だけ。

白川しずくは、段ボール箱の前にしゃがみ込み、
その中をじっと見つめていた。

フリマアプリで売る予定の、
服、バッグ、小物、雑貨。
どれも一時期は「お気に入り」だったはずのもの。

「……私、ものに愛着なかったのかな」

誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた声は、
箱の中に吸い込まれていった。

次から次へと、
自分の中から言葉が溢れてくる。

「大切にしてるつもりだったけど……」
「考えてみたら、そういう気持ち、なかったのかも」
「ものを大切にするって、どういうことなんだろう」

答えは出ない。
胸の奥に、薄い霧のような違和感だけが残る。

そのときだった。

「よく喋るね」

どこからともなく、声がした。

振り向くと、
そこには、いつの間にかが座っていた。

年齢不詳、
優しいようで、どこか掴みどころのない目をした男。

しずくは、この人のことを、
心の中で勝手に先生と呼んでいた。


第二章

いきなり、風呂の話をしよう

「時間がもったいないから」

先生は、あっさり言った。

「いきなり例え話からいこう」

「……はい?」

「風呂に入って、上がったとき」

先生は、まるで昔話を語るみたいに続けた。

「バスタオルで体を拭くよね」

「はい」

「そのとき普通は、どう考える?」

しずくは少し考えてから答えた。

「私が、タオルで体を拭いている、です」

「そうだね」

先生は頷いた。

「じゃあさ」

一拍、間を置いてから言った。

主客交代してみようか」

「……しゅきゃく、こうたい?」

「うん」

先生の目が、少しだけ光った。

「タオルが主役だったら?」

しずくは、思わず笑ってしまった。

「えっと……」

「『私(タオル)が、この人を拭いてあげている』?」

「そうそう」

先生は嬉しそうだった。


第三章

タオルちゃんの視点

その瞬間、
しずくの中で、何かがすっと切り替わった。

(……私、タオルだ)

白くて、少しふわふわで、
長年使われて、柔らかくなったタオル。

(よし)

(今日も、ちゃんと拭いてあげよう)

水分を吸い取り、
肌を優しく包み、
冷えないように、そっと。

(この人、今日も頑張ったみたい)

(だから、気持ちよくなってもらおう)

しずくは、はっとした。

「……なんだか、楽しいです」

「でしょ?」

先生は、にやりと笑った。

「じゃあ、主客交代した今」

「考え方や、感じ方はどうなった?」

しずくは、胸の内を探る。

「……」

「このタオル、吸水いいな、とか」
「肌触り、すごく気持ちいいな、とか」

言葉にしてみると、
自分でも驚くほど、自然だった。


第四章

愛着は、最初からそこにあった

「そうすると」

先生は、静かに言った。

「ものに対する考え方、変わったよね?」

「……はい」

しずくの声は、小さかった。

「どうなった?」

「……」

しずくは、少し照れながら答えた。

「愛着が湧いてきました」
「大切にしたくなるというか……」
「いとおしい、感じがします」

先生は、満足そうに頷いた。

「もともとね」

「ものとあなたの関係性って、そういうものなんだよ」

しずくは、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

(私、最初から、ちゃんと繋がってたんだ)

ただ、それに気づいていなかっただけ。


第五章

別れを告げる、ものたち

「じゃあさ」

先生は、段ボール箱をちらりと見た。

「もし、ものの方から言われたらどうする?」

「……何をですか?」

「『長い間、使ってくれてありがとう』って」

「『もう、ここまでだよ』って」

「『あなたのところで、やることは全部やったから』
『そろそろ、次の人のところに行きたい』って」

しずくの喉が、きゅっと鳴った。

「……」

「どう感じる?」

しずくは、ゆっくり答えた。

「お別れの時期なんだな、って思います」

「感謝の気持ちが湧いてきます」
「……いとおしくなります」

その言葉を聞いて、
先生は、静かに言った。

「それがね」

「ものを大切にする、ってことなんだよ」

しずくは、段ボール箱の中のものたちを、
さっきとは違う目で見つめた。


第六章

世界は、話しかけてくる

「ほら」

先生は、窓の外を指さした。

向かいの家の庭で、
一人の女性が植木を剪定している。

「こんなに伸びちゃったねー」
「きれいに切ってあげるよー」

そう話しかけながら、
枝を整えていた。

しずくは、思わず笑った。

(ああ……)

世界は、
最初から、こんなふうだったのかもしれない。

ものも、植物も、
黙っているけれど、
ちゃんと、こちらを感じている。

主役と脇役を入れ替えた瞬間、
世界は、やさしく立ち上がる。


最終章

彼女を拭いていたのは、誰だったのか

夜、しずくは風呂から上がり、
いつものバスタオルを手に取った。

ふと、思う。

(……今日も、よろしくね)

タオルは、何も言わない。
でも、確かにそこに在る。

しずくは、
「私が使っている」のではなく、
「使ってもらっている」ような、
不思議な感覚に包まれた。

ものを大切にするということは、
管理することでも、
縛ることでもなかった。

ただ、
立場を、そっと入れ替えてみること。

そうすれば、
世界は、いつでも、
こちらを拭いてくれている。

(完)

「板のあいだで、彼女はまだ立っていた」


第一章

二枚の板と、ため息のあいだで

「……板挟みになってるんです」

その言葉を口にした瞬間、彼女――水原ひかりは、自分の胸の奥で何かがぎゅっと縮むのを感じた。
まるで本当に、二枚の分厚い板に挟まれているみたいに。

古い喫茶店の奥の席。
壁際の観葉植物は少し元気がなく、午後の光だけがやけに優しかった。

向かいに座る男は、相変わらず柔らかい表情で、コーヒーを一口すする。

「職場の上司と、現場の上司のあいだで……」

言いながら、ひかりは自分でも不思議に思っていた。
この話を、何度繰り返してきただろう。

友人にも、家族にも、同僚にも。
けれど、誰に話しても、胸の重さは変わらなかった。

「それぞれ言うことが違うんです」

男は頷いた。

「あらあら。それは大変だねえ」

その言い方が、妙にあっさりしていて、ひかりは少し苛立った。

「……本当に困ってるんですよ」

「うん」

「何だか疲れてしまって。頭も回らないんです」

「だろうねえ」

男は笑った。

「頭を回すから、疲れるんだよ」

ひかりの眉がぴくりと動いた。

「……もうっ。真面目に話してるのに」

「ふざけてないよ?」

男はそう言って、また少し笑った。

「笑ってるからですよっ」

その瞬間、男はふっと息を吐いた。

「ああ……迷い子だなあ」

その言葉が、なぜか胸に刺さった。

迷い子。
確かに、今の自分は、どこに向かえばいいのか分からない。

「どうにかしてくださいよ」

そう言ってから、ひかりは慌てて言い足した。

「……どうせ、言っても師匠には関係ない話だから、仕方ないんですけど」

男――彼女が「師匠」と呼ぶこの人は、目を細めた。

「早い決断だねえ」

その言葉に、ひかりは思わず苦笑した。

(決断なんて、できていないくせに)


第二章

迷いは、いつ始まったのか

「あのね」

師匠は、テーブルに指を軽く置いた。

「板挟みになるのはね」

ひかりは身構えた。
また、難しい話が始まる気がしたからだ。

「あなたの中では、もう答えが決まっているからだよ」

「……え?」

思わず声が漏れた。

「決まってないから、板挟みになるんじゃないですか?」

師匠は首を横に振った。

「もともと、最初から決まっていたんだよ」

その言葉は、ひかりの記憶を静かに揺らした。

(最初から……?)

「でもね」

師匠は続ける。

「後から、比べるものを持ち込んだから、迷ってしまった」

ひかりの胸に、じわりと熱が広がった。

「あれも正しいかもしれない」
「こっちの言い分ももっともだ」

そうやって、いくつも、いくつも、選択肢を頭に並べた。

「悩んでしまって、どうしようってなる」

師匠は、まるで昔話を語るみたいに言った。

「それをね、板挟みって言うんだよ」

ひかりは、黙り込んだ。

悩み。
ずっと、悩みは「解決すべき問題」だと思っていた。

「悩み事っていうのはね」

師匠は少し声を落とした。

「病気でもない限り、だいたい同じ仕組みでできてる」

「……仕組み?」

「うん」

彼は微笑んだ。

「答えがないから悩むんじゃない。
答えがあるのに、それを疑い始めるから、悩むんだ」

その言葉は、ひかりの胸の奥で、小さな音を立てた。


第三章

仕事じゃないものを、抱えていた

「じゃあ……私は、どうすればいいんですか」

ひかりは、ほとんど祈るように尋ねた。

「はじめに決めていた方を、選べばいい」

あまりにも、あっさりした答えだった。

「後から出てきた話題や課題は」

師匠は指を一本立てる。

「その上司に、説明すればいい」

「それで……拒否されたら?」

「それでは困る、って言われたら?」

師匠は少しだけ、真面目な顔になった。

「そのときはね」

彼は静かに言った。

「『では、上司同士で調整をお願いします』って伝えて、身を引いていい」

ひかりの目が見開かれた。

「……そんなこと、言っていいんですか?」

「もちろん」

「でも、『あなたの仕事だ』って言われるんですよ?」

その瞬間、師匠は声を上げて笑った。

「ははは」

「自分の仕事じゃないから、悩んでるんでしょう?」

その一言は、雷みたいにひかりの中を走った。

(あ……)

「悩むのも、板挟みになるのも」

師匠は、ゆっくりと言葉を置く。

「あなたの仕事じゃない」

ひかりは、なぜか涙が出そうになった。

「そういうことを解決するために」

「直属の上司がいるんだよ」

自分は、いつの間にか、
誰かの仕事まで背負っていたのだ。


第四章

答えが出ないときの、唯一の方法

「でも……」

ひかりは、まだ不安だった。

「その上司に聞いても、なかなか答えを教えてくれないんです」

師匠は、静かに頷いた。

「だから、ここに来たんだよね」

ひかりは、小さく頷いた。

「それで」

師匠は、じっと彼女を見つめた。

「自分なりの答えは、見つかった?」

「……なんとなくは」

そう答えた瞬間、ひかりは、自分が逃げているのを感じた。

師匠は、ため息をつくでもなく、責めるでもなかった。

「頭の中で考えても、答えが出ないならね」

「先に、行動するんだよ」

「……行動?」

「うん」

「そうすると」

師匠は、優しく笑った。

「また、新しい世界が開けてくる」

その言葉は、どこか夢みたいで、現実味がなかった。


第五章

食べるか、食べないか

師匠は、ふいにこんなことを言った。

「食べようかなあ……」

「太るから、やめとこうかなあ……」

ひかりは、思わず吹き出しそうになった。

「……何の話ですか」

「でね」

師匠は、ひかりを見た。

「あなたは、どっちをやりたかった?」

ひかりは、答えを知っていた。

(食べる方……)

「どう考えたって、食べる方でしょう?」

師匠は、にやりと笑った。

「食べてから、悩みなさい」

その言葉に、ひかりは目を丸くした。

「食べた後だと、悩めないじゃないですか?」

「そう」

師匠は、深く頷いた。

「だから、あなたは悩むんだよ」

その言葉は、不思議と優しかった。

「食べた後はね」

「次は控えめにしようかな、とか」

「そろそろ運動しようかな、とか」

「そういうふうに、考えるんだ」

ひかりは、ふっと肩の力が抜けた。


第六章

板が消えた日

その日から、ひかりは少しずつ行動を変えた。

上司の指示を整理し、
自分が最初に「正しい」と感じた方向を選び、
淡々と伝えた。

責められても、
困った顔をされても、
「では、調整をお願いします」と言った。

不思議なことに、
世界は壊れなかった。

板は、最初から、
存在していなかったのだ。

挟まれていたのは、
他でもない、
自分自身の思考だった。


最終章

立っていたのは、わたしだった

喫茶店を出ると、夕暮れの空が広がっていた。

ひかりは、ふと立ち止まった。

(ああ……)

自分は、ずっと、
板のあいだで、倒れそうになりながら、
それでも、ちゃんと立っていたのだ。

悩みは、敵ではなかった。
ただ、立ち止まる合図だった。

答えは、いつも、
最初から、胸の奥にあった。

ひかりは、ゆっくりと歩き出した。

板は、もう、ない。

あるのは、
次の一歩だけだった。


(完)

「良いことをしている人」


第一章 その一言だけで

「私は、ボランティアをやっているんです」

 その一言だけで、
 私の中の何かが、わずかに身構えた。

 声の調子は穏やかだったし、
 表情にも悪意はなかった。
 むしろ、誠実で、まっすぐで、
 「良い人」として不足のない人だった。

 それなのに。

 胸の奥に、
 薄い膜のような違和感が、すっと広がった。

 ――なぜだろう。

 私は、ボランティアをしている人を
 尊敬しているはずだった。
 自分にはできないことをしている人だと
 思ってきた。

 それなのに、
 その言葉を聞いた瞬間、
 心のどこかで、距離を取ってしまった。

 自分でも気づかないうちに。


第二章 嫌悪の正体

 帰り道、
 私は何度も、その場面を思い返していた。

 自慢に聞こえたから?
 上から目線に感じたから?

 ――違う。

 もっと、別のものだ。

 私は、
 「良いことをしている人」を前にすると、
 いつも少しだけ息が詰まる。

 まるで、
 見えない点数表を突きつけられたような気持ちになる。

 何点だ。
 あなたは何点だ。

 誰もそんなことは言っていないのに、
 勝手に、そう聞こえてしまう。

 私は、自分の胸に手を当てた。

 この感じは、
 あの人への嫌悪ではない。

 ――私自身への、だ。


第三章 先生という人

「それで、何が嫌だったと思う?」

 先生は、いつものように
 淡々と、しかし逃がさない目で聞いた。

「……わかりません」

「本当は?」

 私は、言葉を探した。

「私は、
 そんなふうに胸を張れることを
 何もしていない気がして」

 言葉にした瞬間、
 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 先生は、うなずいた。

「なるほど。
 つまり、君はその人を嫌ったんじゃない」

「自分を責めただけだ」

 私は、息をのんだ。


第四章 助けるという幻想

「人助けには、段階があると思ってる?」

 先生は、唐突に言った。

「段階……?」

「直接現地に行く人が一番偉くて、
 間接的な支援は二番目で、
 何もしない人は最下位、みたいな」

 私は、答えなかった。

 答えなくても、
 図星だと分かっていたからだ。

「でもね」

 先生は、コップの水を見つめながら言った。

「その序列、
 誰が決めた?」

 私は、言葉を失った。


第五章 自分のため、人のため

「自分のためにやるボランティア」
「人のためにやるボランティア」

「違いは、行動じゃない」

 先生は、静かに言った。

「意識だ」

「自分の欠けた部分を埋めるために
 『良いこと』を使う人もいる」

「それは、悪いことじゃない」

「ただし」

 先生は、少し間を置いた。

「それを“正しさ”に変えた瞬間、
 世界は分断される」

 私は、はっとした。

 正しい人。
 足りない人。

 善。
 不善。

 その線を引いていたのは、
 他でもない、私自身だった。


第六章 罪悪感という装置

「楽しいことをしていると、
 落ち着かない人がいる」

 先生は続けた。

「何か、
 もっと苦しむべきなんじゃないかって
 思ってしまう」

 私は、黙ってうなずいた。

「それはね、
 優しさの仮面をかぶった自己否定だ」

「『私は、こんなに楽をしていていいのか』
 『誰かの役に立っていないんじゃないか』」

「そうやって、
 自分を裁く装置を、
 自分で作ってしまう」

 胸が、ぎゅっと縮んだ。

 あまりにも、覚えがありすぎた。


第七章 野焼きの煙

 遠くで、白い煙が上がっていた。

 野焼き。

 環境に悪い。
 危険。
 時代遅れ。

 頭の中には、
 決まりきった言葉が並んだ。

「でもね」

 先生は言った。

「理由は、一つじゃない」

「害虫駆除」
「土地の管理」
「地域の循環」

「正しさは、
 いつも単純な顔をして近づいてくるけど、
 現実は、もっと重なり合っている」

 私は、煙を見つめながら、
 自分の思考の薄さに気づいた。


第八章 統合の感覚

 その時、
 不思議な感覚が訪れた。

 「助ける人」と「助けない人」
 「正しい人」と「足りない人」

 そうやって切り分けていた世界が、
 静かに溶け始めた。

 誰も、
 完全に利他的ではない。
 誰も、
 完全に利己的でもない。

 ただ、それぞれの場所で、
 それぞれの仕方で、
 生きているだけだ。


最終章 良いことをしている人

 もう一度、あの言葉を思い出す。

「私は、ボランティアをやっているんです」

 今なら、分かる。

 あの言葉が刺さったのは、
 その人が正しかったからじゃない。

 私が、
 自分に厳しすぎただけだ。

 良いことをしている人は、
 声高に語る人だけじゃない。

 笑うこと。
 生きること。
 楽しむこと。

 それを自分に許すことも、
 世界を少し、やわらかくしている。

 そしてきっと――

 本当に静かなボランティアほど、
 誰にも「私はやっている」と言わない。

 なぜなら、
 やっているという感覚すら、
 もう、ないのだから。