ゆとり世代はゆとり教育を受けたくて受けたのではない。全国の幼稚園の年長、小学六年生、中学三年生が集まって、自分の受けるべき教育を議論したのではないし、その中から代議士を立てて討議させた結果、ゆとり教育が採択され、入学時に同意書に署名捺印したわけではない。ゆとり世代が受ける教育を決めたのは大人たちである。


  そして、もし、全国の子供達がゆとり教育の問題点に気づいたとしても、全員が私立の学校に入れるわけではない。子供は大人の選択を受け入れざるを得ないのである。

  

  もし中学生の子供か孫がいて、「日本は平和を訴えているのに、なぜすぐ近くにある北朝鮮の核開発を止められなかったの?」と聞かれたら、大人の事情があって云々と言ってやり過ごすだろうが、子供がさらに踏み込んで、「なんで何もしなかったの」と言われたらあなたは困るだろう。自分一人の力で、自分一人の責任でどうにかできるものではないからである。ゆとり世代に対する批判も同じではないだろうか。幼稚園や小学生の時の判断力で適切な選択ができるのか。そして、できたとしても先に述べたように大人が決めたゆとり教育を受けざるを得ない状況が出来上がっているのだ。





  ゆとり教育で学力が下がったというが、授業数が多かった頃の基準で見るならば、学力が下がるのは当たり前である。なぜなら、ゆとり教育は、授業数と科目を減らして、そのかわり学力以外の多様な価値観を育むために企図されたものであるからである。


  東大の数学科の教授が、生徒の計算能力が下がって驚いたといっていたが、その驚きに対して私は驚いている。授業数を減らして子供に詰め込むことをやめさせたのだから当たり前の結果である。開き直っていると思われるかもしれないが、授業数と科目を減らしたのに、減らす前の授業数、科目、学力水準で比べることに全く問題がないと言えるのだろうか。


  また、なぜ勉強しないのかと思うかもしれないが、わざわざゆとりを作ったのにそれを勉強のみに充てていたら、詰め込み教育と何の違いもなく、なぜゆとり教育を採用したのか分からないではないか。ゆとり教育を評価するなら学力だけでなく、それ以外の面でも評価をすべきだ。そもそも、ゆとり教育の目的はそこにあったのではないか。しかし、残念ながら、詰め込み教育の抜け切らない日本社会では、本来の目的が貫徹されず、勉強する子供と勉強しなかった子供、勉強以外で活躍の場を見つけた子供とそうでない子供で格差が広がる結果に終わったようだ。





 また、学力以前に一般常識がないという声も聞く。聞いた話だが、給食で魚をそのままあげた唐揚げが出た時、それが魚だと分からなかった子供がいたそうだ。その子はスーパーで売られている切り身の魚しか知らず、海や川で泳いでいる魚の姿を見たことがないのだろう。しかし、川をコンクリートで固めて魚が住めなくしたのは誰か。近くの川に行こうとしても、汚いとか危ないとか言って行かせないのは誰なのか。その子供に「あなたは非常識だ」というのはどこまでが正当なのか。


  また、最近の身の回りのものは、昔からあるものでも、分業が進み、高水準の技術が使われ、仕組みがわからないものばかりである。スマートフォンの使い方がわからない人は少ないだろうが、それがどういう仕組みで動いているのか理解できている人がどれだけいるのか。ものを知ったような顔をしている人も、この10年20年で新しくできたものについてどれだけのことを知っているのか。身の回りのものの仕組みを一つ一つ調べ理解しようとしたら、それだけで一生を終えることだろう。昔のように歯車が見える機械とはわけが違うのである。そして、こういった高度な分業と技術水準の社会は、全国の子供達が、こうしようと決めて作ったものなのか。





  若者は年長者に比べ知識も経験も少ないのは当たり前であるが(だからこそ学ぶ姿勢が大切である)、若者が育ってきた環境を作ったのは若者ではなく年長者である。ゆとり世代に対する批判は、どこまでが、若者自身の責任の元で行ったものといえるのか。どの程度まで若者が悪いといえるだろうか。大人たちの選択の結果だとみる向きはないのだろうか。


  最後に、感情的な面から一つ。職場でパソコンやプリンターの使い方がわからず、若者に聞いた時に、「これだから年寄りは」と言われると嫌な気分になることだろう。ゆとり世代が「これだからゆとりは」と言われた時とおそらく同じ気持ちである。