娘が高校生になりましたが、でも行きたかった全日制高校には進めませんでした。
本来なら、普通に学校へ通い、友達と笑い、部活や恋愛をして、よくある高校生活を送っていたのかもしれません。
勉強もできる子でした。
だからこそ、今でも時々考えてしまいます。
「もし、あの時――」
と。
娘が中学校で問題を起こした時、私はずっと理由を探していました。
ASDなのか。
ADHDなのか。
HSPなのか。
あるいは、そういう名前では説明できない苦しさだったのか。
AIと何度も対話しながら整理していく中で、強く印象に残った言葉があります。
「助けを求めている子どもに対して、“居場所を奪う”ことは最もやってはいけない対応の一つ」
もちろん、娘の行動で傷ついた子もいたと思います。
でも、その後に行われた対応は、本当に“子どもを立て直すため”のものだったのでしょうか。
学校に来させない。
強い制限をかける。
問題児として扱い続ける。
その結果、娘はさらに孤立していきました。
学校は「安心できる場所」ではなく、「自分を拒絶する場所」になっていったのです。
私は悔しかった。
でも、学校に強く言えば言うほど、娘がさらに学校から嫌われ、居場所を失う気がして怖かった。
だから耐えていました。
「モンスターペアレント」だと思われたくなかったからです。
けれど今振り返ると、あの時、もっと声を上げるべきだったのではないかと思っています。
忘れられない言葉があります。
教頭先生が、こう言いました。
「私たちは、生徒だけでなく、その後ろにいる“親”も見ています」
その瞬間、胸が苦しくなりました。
結局、強く出られる親。
声を上げられる家庭。
影響力を持つ家庭。
そういうものが、現実として子どもの未来に影響してしまう。
逆に、静かに耐えている家庭の子どもほど、置き去りにされやすいのではないか。
そんなことを考えるようになりました。
今、日本では不登校の子どもが35万人を超えています。
でも、多くの人は、その子たちがどんな毎日を過ごしているのかを知りません。
普通に学校へ通えている家庭なら、できれば自分の子どもをそんな世界に近づけたくないと思うでしょう。
それは自然なことです。
だからこそ、不登校や非行の問題は社会から見えなくなっていく。孤立していく。
ニュースで16歳の事件が起きれば、多くの人は「犯罪」として評価します。
でも、その背景に何があったのか。
どれだけ孤独だったのか。
どこで居場所を失ったのか。
そこまで語られることは、ほとんどありません。
最近、公立高校の定員割れのニュースをよく見ます。
私はそれを、「今の教育への静かな不信感」の表れでもあるように感じています。
もちろん、学校の先生たちも苦しいと思います。
現場が限界なのも分かります。
でも、その結果として、義務教育を受けられなくなる子どもたちが大量に生まれている現実があります。
学校へ行けない。
それは、大人で言えば「会社へ行けない」のと近い苦しさだと思います。
毎日、周囲から置いていかれる感覚。
友達を失っていく怖さ。
時間だけが過ぎていく焦り。
そして、「自分だけが社会から落ちていく」という感覚。
不登校の子どもたちの多くは、決して楽をしているわけではありません。
むしろ、見えない場所で、強い孤独と不安と戦っています。
義務教育は、本来、すべての子どもに与えられるべき“生きる土台”のはずです。
でも今、その土台からこぼれ落ちてしまう子どもたちが確実に存在しています。
問題なのは、その子たちだけではありません。
そういう状況を生み出している学校や社会の側にも、向き合うべき課題があるのではないでしょうか。
このテーマについては、また改めて書こうと思います。