「クリシュナムルティー」の本を読んで、自由とは何か考えていたときがあった。
その頃はずいぶん難しくて意味がわからなかったけれど、今はずいぶんわかるようになった。(o^-')b
「言葉や思考にとらわれている間は自由になっていない。愛が姿を現すためには、思考が沈黙していなければならない」 参考(クリシュナムルティーの瞑想録)p174
思考が沈黙するとは、なんの思惑もなくあるがままを見ているときだ。まるで幼子のような無邪気さ。o(^▽^)o
私: ねえ、何を考えているの
夫: 何も考えていないよ。ただ目をつぶってボーっとしていただけさ。
私: えっ、何も考えていないって そんなのウソでしょう?何か考えてい
たんじゃない
夫: あなたねえ、自分がいつもあれこれ考えているからって、人もそうだと
思わないで。
ずいぶん昔の夫とのやり取り。
私はいつも何かしら頭の中に言葉が渦巻き、静まっているときなどなかったとき、ボーっとして何も考えていないということがわからなかった。
瞑想をするようになり、自分の意識にフォーカスするといろんな思いが出るわ出るわ。
絶えず思考が渦巻いている状態だった。
出てくる思いをただ黙って出るままにしていると深い意識から少しずつ泡のように浮かび上がって消えていくと教えられ、ひたすら自分の思いを出るに任せていた。( ̄* ̄ )
すると次第に泡のような思いは静まり、何も考えない状態に浸ることができるようになった。(o^-')b
起こってくることをそのまま見るようになるにつれて、さまざまにとらわれていた思い込みも少なくなってきたように思う。
いつも頭が静まっていると、今という時間にそのまま行動を起こしている自分がいるだけ。まるで子供のような自分だ。それこそ本当に素直に行動している自分。 幼児返り?かもしれないが..........。(^▽^;)
でもみんな昔は子供時代にそうだったはず。
それがいつのまにか、思考のカスとなり自分や人を制限し裁き出す。
支配と競争と戦争の文化を築き上げたのは思考に他ならないというのに、その同じ思考が秩序と平和を希求しているのである。しかしどうあがいても、思考は決して秩序と平和を見出すことはできないであろう。
愛が姿を現すためには、思考が沈黙しなければならない。 (クリシュナムルティー瞑想録、平河出版社)
いまはいつでも「何か考えていなさい」と絶えず頭を働かすことばかり教えられる。ボーっとすることは罪悪だと教えられていないか
あなたは自分を裁くことなくボーっとする時間を大切にできますか(o^-')b