日本経済の成長を徹底的に阻むもの 田村秀男×宮崎正弘 [現代日本経済史]




解体されていく日本列島  田村秀男×宮崎正弘 [現代日本経済史02]




【井上正康】レプリコン×IHRの組み合わせが生む、日本の未来



朝から、図書館に行かずにここら辺の動画を見ていた私。


元旦の能登半島地震では、毎日のように死者数の発表を事細かにやる母親が見ているNHKにとても強い違和感を感じる私。

地震の大災害で死ぬ命も、あのワクチン後遺症で死んでいった命も変わりがないはずなのに。


その違いは、利権~カネ。





身体を鍛える意味でも、市内を歩き回っている私。

そこで、小休憩しようと、公園に立ち寄ろうとすると、バリケードで入れないようになっている公園が少なからずある。

千秋公園には元の城跡で、大きな門構えの場所は、落雪注意でいちいち迂回路を作ってあり門をくぐれない様にしてある~大して雪もないのに。


地震で死ぬ人間。

ワクチン接種の後遺症で死ぬ人間。

公園で、雪かきで危険回避できずに死ぬ人間。


そこには、同じ人間様の死があるのみ。


そして、死んでしまったらそこでお終い。

そこには、

運、不運を含めて、個々の自己責任があるのみ。





だが、ここにカネ~利権が絡むとその危険回避する為情報と死後の原因を含めた死の真相を含めた国民に向けた情報開示の仕方が総理大臣が家畜の家畜の国では可笑しい。



その意識の向いている方向が、この国の政治家、官僚役所組織、大手メディアは、大多数の国民を守る事に必要な情報開示の仕方ではないが容易に理解できる。




子供への極度な危険を回避させる自己責任の場を大人が悉く奪うような社会は、結果、無責任、無関心な大人を多数生む社会になっていく。




そうした、大人が実権を握るような国は自ずと、国全体の自立を目指すはずが無くなり、結果、自分を諦め、自分以外ばかりに意識を向けるしかできない家畜奴隷の道をひた走るようになる。


そいつ等の唯一の心の拠り所が、利権~カネカネ社会~極度な依存体質。







PSY-TRANCE◈Naturlize - Party Girl [Lyrics]


一つ前のブログのいいねの付き方が凄かった。

私の予想に反してww


今現在の著名人でも、あれほどの簡単な表現でこの国の体質を書ける人間はいないきがする~私のブログには一切のカネが絡まないからこういう書き方ができる。

そこで、思うのは、ある時期が来たら顔出しで、私が核になり様々な方面の人間を繋げる事ができるのでは? と思い始めてきた。


まあ~実行に移すは何時かは分からんがww




本日のタイトルは、ワクチン関係の動画を久しぶりに診て、むか💢っと来て衝動的につけたものww


反対にすると


極度な従属は、極度な依存心を生む。


極度な依存心に育った家畜奴隷は、頭の中の檻を重視し~自立を阻害する規則決まりが正しいと洗脳され、それ以外は悪とする。

あの風邪の対処の仕方もそう。

そうした細菌が悪であり、そこを排除するが第一となる。


だが、本質は真逆。

心身共に自立した健康体の人間にとっては細菌の存在よりも、自分自身の在り方。

自分以外の命を脅かす危険よりも、そこを賢く対処する己自身の在り方を重視する。


ただ単純に、その意識が外より内なだけ。



只々、支配側に都合の良い家畜としての枠の中に居て、その規則を破る事にビクビクするのではなく、その枠を多少はみ出ても、


己自身の自己責任において命の危機に晒され、心にも身体にも傷を負ってもその度に立ち上がり続け、生き続ける~決して、自分を諦めることはない。




長く続いた徳川幕府の平和な時期に武家で行われていたのは、めかけ、後妻制度。

最終的な大奥制度は行き過ぎているが、今現在の不倫に対する異常で過度な報道の仕方にも意図を感じてしまう私。

有能な血を残すという意味合いでは、この国は民族としての群れとしては、滅びの道をひた走る象徴とも受け取れるかもしれない。

少子化時代では尚更、矛盾している。




経済的にも、国の安全保障的にも、今年来年以降と今迄通りの枠内の意識考えでは、この国は生き残る事さえもできない事が色々と起こるであろう。


反逆は自立覚醒の芽生え。


先ずは、群れとしての大枠の論理を疑い、自分自身の中にある「無駄な檻」の存在を認める。



大枠としての矛盾は今のカネカネ社会は、至って簡単。

何故にそれが見抜けないか?


視点が、近いだけかもしれない。

生きる手段として必要なのはカネではなく、衣食住。

そして、あの地震でのメッセージは死んだらお終い。

いくら手段をわんさか蓄えても、死んだらお終い~死に対する防衛本能を失うまで、自分を失っては本末転倒~民族としての崩壊するらあり得る段階への突入。


手段は手段としての道具に過ぎない。