【シオンの議定書】#15

□世界同時クーデター(革命)□処刑□ゴイム・メーソンの将来□権威の神秘性□メーソン・ロッジの増加□メーソン長老の中央支配機構□全秘密結社の指導者また指標としてのメーソン□拍手喝采の意味□集産主義□犠牲□メーソンの処刑□法と権威の威信失墜□選民としての我々の地位□未来の王国における法の簡潔明晰さ□秩序への服従□権威乱用の人士□峻厳なる懲罰□裁判官の年齢制限□裁判官と権威者達のリベラリズム□メーソンの絶対主義□控訴権□未来の『支配者』の力は家父長的な『外観』を提する□支配者の神格化-唯一の権利としての強者の権利□イスラエル王□全世界の父として

 

世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的に我等が王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落した事が明らかになった時(これが実際に起こるには少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、我々に対する陰謀の類いは絶対に存在を許さない様に監視する仕事がある。

この為には、我々の王国到来に反対しいやしくも武器を執る(手にする)者は一人たりとも容赦なく殺戮する。

秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処する。 我々が認めている現存秘密結社は、役立つものも役立った事のあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放する。

余りにも事情をよく知り過ぎたゴイのメーソン員にも同断の処置を執る。何等かの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておく。

 

我々の支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布する。 

この決定は変更できず、これに対する控訴は許さない。 

ゴイの社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るより他はない。

 

苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福の為に苦しみを引き受けさせるのである。

いかなる犠牲を払ってでも福利を達成する事こそ、どんな政府でも自分達の存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行しなければならない義務である。

支配を揺ぎないものとする原則は、力の後光を輝かせる事にあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるという様な、不退転の威厳に満ちた力を発揮している事が要諦である。

近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れなければ、帝政ロシアが我々の唯一の競敵であった。

記憶に留めて頂きたいのは、イタリアである。
 
流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れる事ができなかったのである。

彼は人民を虐げていたにも関らず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、人民の目には神と崇められたのである。

人民は大胆勇敢な者には催眠術を掛けられて、指一本触れないものなのである。 しかしながら、我々の王国を実現するまでの期間は、我々は正反対の事を行う。

フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。

それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。

 

メーソンの全支部は、我々だけが承知していて他には絶対に誰も知らない中央管理機構の下に置く。その機構を構成するのは、我等の学織ある長老達である。

支部には代表者がいるが、彼等は上記のメーソンの真の管理機構を覆い隠す為に置かれるものであり、標語や計画は蔭の管理機構から発せられるのである。

これらの支部に、革命的分子やリベラル分子を全て集めて確り結び合わせる。この中には社会の全階層が含まれるのである。

極秘の政治計画なるものも我々は熟知しているし、計画が立てられたその日のうちに我等の指導部の手に入手される。

国際警察や各国警察の代理人は殆どこれら支部に参加しているが、彼等は不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、我々の活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、我々にとってはかけがえのない存在である。 

秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りが巧く出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、彼等を御して我々が仕組んだ事を片付けさせるのは、さして苦労のいる事ではない。

その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、余りにも強固になった団結を破るべく我々が少々撹乱しなければならなかった場合である。

だが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいないという我等の下僕が先頭に立っている。

我々だけがメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせないのは、極めて当然の事である。ゴイムに至っては無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は何であるかを知っているのは、我々だけだからである。

ゴイムは、通常、彼等の考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。

しかも、その自説たるや、我々が彼等に吹き込んだものであって、本当に自分が考え出したものではない事に気が付きもしない。 

ゴイムは、物好きからか、或いは、大きなパイに一口あずかる手段としてメーソンに入ってくる。中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させる為に、耳よりな情報を仕入れ様として入ってくる者もいる。

彼等は成功と拍手喝采に飢えているが、その成功や拍手喝采こそは、我々が気前よく振る舞ってやつているのである。

我々がそう云う大盤振舞いをするのは、彼等が持っている鼻持ちならぬ自惚れを利用する為である。

その自惚れというのは何が原因かというと、自身が口に出している思想は絶対的に自分のものであり、借り物などという事は有得ないと自信満々で、我々が示唆した事を丸呑みにする傾向に起因する……

 

諸氏の想像を越える事であるが、ゴイムの最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いともたやすい事である。

同時に、拍手が止まったに違ぎないといった些細な不成功であっても彼等は簡単に落ち込みもするし、次の機会には成功させてやると言えば、すぐ奴隷の様に卑屈になってくる……際立って我々は計画を実行さえできれば成功不成功を問わないのに、際立ってゴイは成功さえすれば計画はどうなっても構わない。

この様な彼等の心理のお陰で、我々は大いに易々と思うが儘に彼等を操れる。彼等は見た目には虎だが中味は羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのである。

我々は彼等に〝集産主義〟という一種の思想の玩具を宛がって、個性の違いをその玩具に吸収同化させてやった。 

彼等は、この玩具が最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものである事を、一度も考えた事がなかったし、これから先も考えようともしないだろう。 

天地創造の初めから、自然は明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのである…… 

こんなにも我々が彼等を明きめくらにさせられるというのは、ゴイムの頭が我々と比較してお粗末である証拠、それも明々白々の証拠ではないだろうか。我々の成果が約束されているのは、主にこの為である。 

それにつけても、なんと我等の古代の賢者長老達には先見の明があった事か。
 
長老がたは言われた、大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と……我々はゴイという家畜の群に如何程犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。

さりながら、わが民の犠牲も数多くに上ったが、今日我々はこの地上で夢見る事のできなかったような位置を獲得した。我々全体の数から言えば、我々の犠牲者の数は比較的少ないが、彼等のお陰で民族の破滅は免れたのである。 

何人も避けられない終局は死である。どうせ避けられないものならば、新秩序の建設者である我々よりも、建設の邪魔をする人間に早く回してやった方がよろしい。

我々は、同胞の他には誰も気付かないように、本人自身でさえも死刑宣告された事が判らない様に巧みにメーソンを処刑する。必要とあれば全員あたかも自然死の如く息を引き取るのである……その事が解っていても、同胞は敢て抗議はしない。

この様な方法を用いて、我々はメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こそぎにして来たのである。

我々はゴイムにはリベラリズムを説くけれども、同時に一方では、わが民や我等の代理人達にはひたすら恭順に服させる。 

我々の力が及ぶところでは、ゴイムの法律は最小限度にしか適用しない様にしてきた。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだリベラルな解釈を駆使して存分に失墜させてきた。

最重要かつ根本的な事項や問題は、我々の口をはさんだ通りに裁判官が決定し、我々がゴイムの政府機関に示した事に従って事を裁定する。

勿論、我々が直接彼等と接触するのではなく、我々の道具である人士・・新聞その他の意見として・・であるが……上院議員や内閣の中にも我々の助言を一も二もなく聞く者がいる。

ゴイムの空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、増してや事態がどういう結果になるかを予測する能力は更々ない。 

ゴイムと我々の間のこの能力の差違こそが、ゴイムの空っぽ頭と対比して、我々が神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められている所以が明白に証明される。

ゴイムの目は開いていても何も見ていないし、何も創造しない(恐らく物質的なもの以外は)。この事をもってしても、自然は我々が世界を導き支配する様に創造した事が明白である。 

我々が公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、我々の法律は全て、いかなる余計な解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるだろう。そこに貫徹させて置くべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなる。

こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の乱用は行われなくなる。次席以下の権力乱用は、一人の例外もなく到底再犯ができない程容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。

我々は国家機構の円滑な運営をはかる為に、官憲に対しても事細かに点検するであろう。一部分の腐敗はあらゆる所での腐敗を惹起する。一片の不法行為、一片の権力乱用といえども処罰の見せしめを免れさせはしない。 

犯罪の隠蔽、行政の怠慢・・この種の悪事は全て、最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影を潜めるであろう。我々の政権の後光は適切な罰則即ち、至高の威信に対しての侵害は軽微なものであっても、取分け私利と結びついた場合は、厳罰を課する事でなければならない。

厳罰を蒙る者は、例え過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、どんな人間であろうとも許されないのである。

例えば、裁判官達は寛容なところを見せたくなるが、それは法の正義を破る事になるという事を弁えなければならない。

法は逸脱堕落に罰を課して見せしめにする為に作られたのであって、裁判官の徳性を引けびらかすためのものではない……そんなに徳性を引けらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではない。 

我々の法曹人は55歳に達すれば現職を退くのである。

第1の理由は、老人は年をとる程先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなる事。 

そして第2には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つ事、それによって我々の強制力が更に容易に働く様になるからである。自分の椅子に留まりたい者は、留まるに値する様に盲目的に服従しなければならないだろう。

概して言えは、我々は次の様な人々の中からのみ裁判官を選ぶ。

即ち、自分の役割は法を執行し違反する者を処罰する事であって、当今のゴイムが空想する様に、国家の教化的な仕組を犠牲にしてリベラリズムの夢の間に間に彷徨う事ではないという事を完全に理解している人間からである……この人事刷新の方法は、同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっている政府の全問題に彼等の関心を結び付ける。

若い世代の裁判官には、人民の間に確立した我々の秩序を乱す畏れのある事は、どんなものでも見逃さない様に訓練する必要がある。 

当今ゴイムの裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しているので、犯罪といえば情状酌量する。
今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まないから、こういう事になるのである。
 
野獣が餌を探しに子供に出してやる時の様なもので、ゴイムは職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまう。それで彼等の政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでいるのである。 

彼等がやっている事の結果を、我等の政府の教訓とし様ではないか。 

我々の国家体制の為には、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、リベラリズムを一掃する。かかる位置には専ら行政支配の為に我々が訓練してきた人間のみを据える。

古い官吏を解雇したら大蔵省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対してはこうお答えしよう。 

第1に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやる。
第2に、世界中の金は我々の手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのである。 

我々の絶対主義は万事に渡って論理が貫徹しているので、どの判決一つをとってみても、我々の最高意志は尊重され一点の疑念もなく遂行される。

あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には制裁を加えて見せしめにする。 

我々は控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄する。そう云う事は専ら我々の一存・・支配する者の判断に預けられる。

我々が任命した裁判官が誤った判決を下す事がある、という様な考えを人民に与える事は断じて許してはならない。

しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は、我々自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に2度と同種の過誤を犯さない旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする……

 

重ねて申し上げるが、我々の行政においては一段階ごとに、一応は我々を満足させてくれている人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるという事を銘記していただきたいのである。 

我々の政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するだろう。

我々民族と我等の国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民が望む事、国民がやっている事、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るだろう。

安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、取分け、我々が任命した者達が私利私欲の為にではなく、ひたすら誠実に命令を実行しているだけである事を知ったときには、我等が王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うであろう。

彼等は、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなす様に、我々が彼等の生活万般を取り締まる事に欣喜雀躍するであろう。

我々の秘策という視点から眺めると、世界の人民達はまだまだ成年にも達しない子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階である。 

先刻御承知の様に、私は権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げた。 

義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務である。
人類を天然が定めた秩序即ち服従に立脚させる事は、強者の権利である。

この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっと強い者に服従させられている。

であるからこそ、善を実現する為には、我々は更に強い者になろうではないか。 

我々は確立した秩序に違反する者は何びとでも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。

見せしめに悪に懲罰を加える事は、一大教育課題である。 

イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるだろう。

そこに達するまでに王が王が供する犠牲は、ゴイム政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。 

我等の王は絶えず人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は全く同時間に全世界に報道されるだろう。