【シオンの議定書】#00:序

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◇序・・『シオンのプロトコール』の英訳者 
ビクター・E・マースデン Victor E Marsdenの事・・

 (英訳時期:1934年頃)
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有名なプロトコールの翻訳者は、革命の犠牲者であった。彼は多年に渡ってロシアに居住した事があり、ロシア婦人と結婚した。

ロシアにあった当時の彼は、長らく『モーニング・ポスト』誌のロシア通信員であった。

ロシア革命が失敗する迄その仕事に従事していた彼がロシアから送った生き生きとした記事は、同誌の読者には今もって思い出となって留まって居るだろう。

推察される様に、彼はソビエト政府に狙い打ちされた。

クロミー船長がユダヤに殺されたその日、ビクター・マースデンは逮捕されペテル・パウル監獄に投監され、処刑執行に自分の名を呼ばれるのを日々待つ身となった。

だが、彼は脱走し、甚だしく肉体を損傷してイギリスに戻った。しかし、彼は妻と友人達の献身的な看護で健康を回復した。

仕事ができる様になると直ちに手を就けた事の一つが、プロトコールの本翻訳だった。

マースデン氏はこの仕事には抜群に打って付けの人だった。

ロシアとロシアの生活とロシア語に造詣が深い一方で、簡潔で要を得た英文スタイルは巨匠の域にあり、何人かが、この仕事に名乗りを挙げたとしても、彼に優る適任者は居なかった。

その結果、彼の訳文により、優れて読み易い訳文に接し、整理されていなかった感のある主題に、マースデン氏の筆致により、24のプロトコールを流れる脈絡を読んで取る事ができる。

彼自身が各章の最初に掲げた要約は、プロトコールの概観を得るのに極めて有用であろう。
 
この労作はマースデン氏自身の血をあがなって実現したというのが真実である。 

英訳し様と云う、使命感に駆られて、無理を重ねた事が明らかに彼を病気にさせ、彼はこの序文の筆者に、最早、大英博物館の中で1時間と続けて仕事をして居られないと語った。 

マースデン氏と『モーニング・ポスト』誌との関係は、英国に帰国してからは緩やかなものになったが、彼はプリンス・オブ・ウエルズ殿下海外旅行の同誌随行特派員を快諾した。

明らかに、良い健康状態で、殿下との旅行から帰国した彼は、上陸して数日を出ずして突然発病し、短時日病床に就いて死亡した。

彼の突然の死は今以って謎である。 

この労作が彼の栄誉を飾る記念碑とならん事を!

この作品を通じて、彼は英語を話す世界に、計り知れない貢献を果した。

本書が『シオン長老のプロトコール』の英訳書の中で、第一級に位置付けられる事は、疑う余地がない。 

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◇ユダヤ教パリサイ派 
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ユダヤ教とは、ユダヤ人長老のモーゼス・メンデルスゾーンがこの様に言っている・・・

「ユダヤ教は宗教ではなく、宗教化された法である」。

この定義は、非ユダヤ人の間に広まっている、ユダヤ教は宗教であるという誤った観念を是正するのに有効である。

ユダヤ人もキリスト教徒も同じ様に、ユダヤ人は最初の一神教者であるとしばしば声高に説いているにも関らず、ユダヤ人のエジプト行きよりも遥か以前に、メンフィスの僧侶の高位の秘義を受けた者は一神教

徒であった事が証明されている。 

ユダヤ教は祭儀もしくは典礼書としては最も詳述されているものと考えてよいが、ユダヤ立法者モーゼが実在の人物だとするならば、モーゼは最初エジプトの高位秘義伝授者の間で修業を積み、後に、黒人が行

う魔術儀式であり祭儀の由来となっているブードゥー教の父と呼ばれる事もある、エチオピアの黒人魔術師ジェトロの弟子かつ養子となった事を記憶に留めなければならない。 

ユダヤ人の歴史を更に詳しく見れば見る程、ユダヤ人はまとまった宗教的な統一体でも民族でもない事が見えてくる。

一部のユダヤ人指導者が世界の全ユダヤ人を一つの民族的統一体に結び付け様とがむしゃらな努力をしたシオニズムが絶対に誤りである事は、その範囲がパレスチナに限られている事を見ても、その様な努力の

無意味さを露呈しているのである。 

ユダヤ教は宗教ではなく、ユダヤ人は民族ではなく祭儀としてのユダヤ教の一宗派である。 

ユダヤ人大衆にとっての義務と典礼は、タルムードとシュルハン・アルーフ[用意のできた食卓の意]に含まれているが、高位秘義者の奥義伝授ならカバラに載っている。 

そこには神降ろし、超自然力に働きかける呪文の使い方、数秘術、占星術その他神秘的な諸術が入っている。 

カバリストは幾星霜にも渡ってその秘術を使い、非ユダヤ人の上流社会にも大衆にもユダヤ人の優越性を見せつけている。

君主も法王も、一人かそこいらのユダヤ人を占星術師か相談相手として雇うのが常だったし、内科医としてユダヤ人を抱え入れ生命を委ねる事もしばしばであった。

ユダヤ人が非ユダヤ人の国々で、経済力と平行して政治的な力も付ける様になったのは、そう云う次第だった。

以来、ユダヤの宮廷銀行家達が、政府の公債や税金を意のままに操った。 

幾星霜を重ねて、パリサイ派の影響力は広がり続けたが、秘密の破壊的な集団が浸透し社会を破滅へと陥れて行く恐しい行状が気付かれた事はなかった。 

指導部としてブナイブリス最高会議を頭に頂き、全ての政府に蝟集するパリサイ派は、あらゆる国の政府を支配し、政治、経済、宗教、教育を牛耳る専政勢力となった。

『ニコライ2世とユダヤ人達』でネチェボロドフは次の様に説明している。

「バビロン捕囚時代に、ユダヤ人法師達が入手したカレドニアの科学によって、聖書と捕囚(紀元前606年)後にユダヤ人歴史家が僅かに残した文書にその名が見えているパリサイ派を誕生させる事になった。高名な科学者のムンクは、パリサイ派は疑いなく捕囚時代に形成されたと書き残している」


「カバラやパリサイ派の伝承教説はその時代に遡る。すこぶる長期に渡って彼等の規範は僅かに口承によって伝えられていたが、後にタルムードを形成し、最終的には『セフィー・ハ・ゾハール』という書物にまとめられた」。(ネチェボロドフ著、前掲書)
 
パリサイ人達は、あたかもユダヤ人の中の一種知的貴族といった観があった。 

最初は彼等は「ハブラー」という一種の血族集団をなし、その成員は「ハブリム」即ち兄弟と呼ばれていた。

彼等はサドカイ人の聖職者達を放逐する事を目的とした破壊分子であった。

サドカイ人聖職者達は血と出自の良い貴族階級である事を誇りとしたのに対し、パリサイ派は知的貴族である事をもって対立した。

パリサイ派が挑戦した戦闘は長きに渡り、抗争は熾烈を極めた。

パリサイ派は、重要な教義の一つが「アム・ハレツ」即ち単純な人々を甚だしく軽蔑する事にあるのは自ら語っている事であるが、自分達の目的達成の為には大衆の支持が必要である事を見過さなかった。

彼等はサドカイ人が多くの場で律法を厳しく守ろうとするのに反対し、積極的に安息日を遵守した。 

サドカイ人の勢力はティトゥス神殿の没落と共に衰退に傾いたが、それ以後、パリサイ派がユダヤ人の間で覇権を握った。 

ユダヤ教の有名な権威フラヴィアン・ブレニエ氏の言葉を引いて、ネチェボロドフ提督は、パリサイ派の方針を更に詳しく次の様に述べている。

「ユダヤ人の熱望が誇らしげに表明されるまでに、パリサイ派の伝承教説は深刻な難関を克服しなければならなかった。最たるものは捕囚によってユダヤ人が正統的な信仰に戻ろうとした傾向だった。

長期の国外生活の間に、エルサレムの神殿が没落した事を嘆き、故国の不幸が終る様にエホバに乞うたが、単なる幻であったエホバの啓示は、ある種の挫折感を招いただけでなく、ユダヤ人がイスラエルに対するあらゆる権威を失うやも知れぬ決定的な破滅の淵にまで身を曝す事態となった。

「その時、パリサイ派は事態を抜け目なく判断し、宗教運動のリーダーシップをとる事によって同胞の信頼をかちとり、好んで律法の最も些細な指示でも良心的に遵守し、こみいった儀典のあれこれを設け、それらと全く平行して秘密の聖域で新しい教義を磨き上げた。

それが捕囚の時期に2、3百人の識者によって結成された本格的な秘密結社であった。最も隆盛を誇ったフラビウス・ジョセフスの時代でも、その数は6千人かそこいらを数えただけだった。 

「汎神論者達のこの一派が、やがてユダヤ民族に直接的な影響力を振う事となった。

加えるに、彼等の教義程民族感情を害するものは現われた事がなかった。

しかしながら、カルデアの汎神論に押し流されたかも知れぬパリサイ派は、人種の誇りを無傷のまま保っていた。

彼等はバビロンで吸収した、人間に神性を与えたこの宗教を、専ら他よりも優越して神に運命を授けられたユダヤ人に利益をもたらすものと考えた。

伝統的なユダヤ人が律法の中に見ていた全世界の支配という約束を、パリサイ派は民族に対するモーゼの神の領域という意味には解釈しなかった。

来たるべきメシヤは原罪を購う者などではなく、世界を導く精神的な勝利者、戦いで血ぬられた現世の王であった。

その王がイスラエルを世界の主にし、〝全人民を戦車の車輪の下に引きずり込む〟のである。

パリサイ派は全世界の国々が謎めいたエホバの奴隷になる事は[表立っては]要求せず、世間一般に譲歩して人々に信仰させ続けた。

というのは、何世代にも続くイスラエルの忍耐力と人間的な手段とを使って、行く行くは自分達の計画が達成する事を期待していたのである。

「この様な信念は古代の律法とは著しく異なるものであるが、彼等は何事も気付かれぬ様に、この馴染めない思想を一滴一滴フィルターを通してユダヤ人に浸透させて来たのである。」

「パリサイ派が編み出した仕組は、やがて実を結ばない筈はなかった。

「イエス・キリスト以前のユダヤ社会では、この様な事は片鱗を見付け出す事もできない」と、フラビアン・ブレネは言う。

「現代社会でこれに類するものはフリーメーソンぐらいなものである」。 

「注意深く制限された結束固いメンバーに〝秘密〟の教義が注ぎ込まれ、パリサイ派は2つの目的を容赦なく追求した。即ち・・
 
1、政治的に重要な公職(再編成されたユダヤ民族にとっては凄まじい影響力があった)に就く事によって政治権力を掌握し、サンヘドリン(ユダヤ人の議会)を征服する。 

2、彼等の極秘の教義に沿う様に人民を次第次第に教化する」。 
 
これらのうち第一の目的は、ダビデの末裔と自称するバビロンのパリサイ派ヒルレルが、サンヘドリンの会頭に選ばれた時に達成された。

この事はパリサイ派対サドカイ派の抗争に厳しい結着を付けた。

ヒルレルに対抗したのはサドカイ人で議会の主席裁判官だったサドカイ派の高位聖職者を支持していたシャンマイだった。

2人がお互いをどう見ていたかは、タルムードに延々と記録がある。

パリサイ派で最も有名な人物には、ヒルレルのほかには・・ヤムナイ学校の創立者ヨハン・べン・ザッカイ、バル・コフバとともにユダヤ人離散の命令を覆させた反乱、ハドリアヌス皇帝治下でローマ人に対し

て蜂起(紀元一32年)を組織したアキバがいる。

また、シモン・ベン・ヨハイは、魔術師またカバラの父として、また、後にはバビロニア・タルムードを編纂したユダ王子として挙げられ様。

これら先達の下に、パリサイ派勢力はサンヘドリンの支配権を確立するに至った。

サドカイ派の伝統に固執したユダヤ人の中には、パリサイ派の専制を拒んだ反体制者がいた。

それがタルムードを拒絶したサマリア人とカライーム派ユダヤ人である。 

第2の目的とその達成方法が、『イスラエルの秘密の教義』の末裔達が声高に非難する、所謂『シオン長老のプロトコール』に露呈されている。

ここで言うイスラエルとは、宗教的共同体としてのユダヤを意味するのだが、ユダヤ人の多くは複雑で破壊的な計画の事はまるで知らないままに置かれている。 

パリサイ派に対するイエス・キリストの態度は、新約聖書に明確に示されている (ルカ伝十一章、ヨハネ伝8章)。
 
20世紀にも行われているユダヤ人の宗教、表向きのユダヤ教は、旧約聖書と、それと同じく何世代にもわたる口承の記録、前に述べたよく知られている総称タルムードという古代の解説書を根本教典にしている。

この書物全巻は、1306年、フランス国王の公正王フィリップ五世の命令で焚書にあったが、全滅から逃れた書冊があった。

ユダヤの神は、全人類の父でも理想の愛や正義や哀れみでもなく、キリスト教徒の神でも[ゾロアスター教の]アフラマスダでも[ヒンドゥー教の]ブラフマンに類するものでもない事は明らかである。

全く逆に、この神は彼の民に対してのみ正義であり慈悲深いが、その他全ての民の人間の権利を否定し、イスラエルこそが富者にふさわしく支配に値し、その他の民は奴隷になれと命じる仇敵であり、曾孫や玄孫の代にいたるまで復讐する神である。
 
その事を物語る文書を以下に引用しよう・・

  • 「主は貴方の意のままにあしらわせ、貴方が彼等を撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申命記、07章02)

 

  • 「貴方は、貴方の神、主の聖なる民である。貴方の神、主は地の面にいる全ての民の中から貴方を選び、御自分の宝の民とされた」(申命記、07章06) 


タルムードはこの点について次の様に述べている。

  • 「汝らは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、146-06)。

 

  • 「ゴイ(非ユダヤ人)の家には、一群の家畜が住んでいる」(トセフタ、エルビン、08章)。


タルムード(過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)から、

 

  • 「神よ、あなたを信ずる事なく、その御名を称えざる民どもの上に、貴方の怒りを注がしめ給わん事を。かかる民どもの上に貴方の怒りを下らしめ、貴方の怒りもて屈伏せしめ給え」

 

  • 「かの民どもを貴方の怒りもて追い散らし、粉々に打ち砕き給え。おお神よ、かの民どもの骨を全て抜き取り給え」

 

  • 「貴方の民に敵対するもの全てを瞬時に殺傷し給え」
  • 「これら存在の価値なき民どもを根絶、四散、殱滅し給え。誅殺し給え!今直ちに誅殺し給え!」

(プラナイティス、クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム、『シナゴーガ・ジュダイカ』2一2頁、『ミンハギン』23頁、『クラチ・シャイム』480頁)。

「ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。
 〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。
 そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。
 〝復讐の神が顕現されたのだ〟」
(バビロニアン・タルムード、ベラチョット、56-06)。

「トーラーを持たざる者と予言する者とを、
 全て殺さなければならない。
 彼等を殺す力ある者は、
 剣あれば憚る事なく剣もて殺せ。
 剣なければ策略もて放逐せよ」
(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、425-50)。 

ユダヤの似非賢人達は、いにしえの律法に対するキリストの解釈では、異国の民に対する憎悪に代わって神の前では全ての人間が平等であり兄弟の想いを抱く事が説かれ、その教えによればユダヤが世界の主人

になるという特権的な地位が否定される事に気が付いた。
 
同時に、キリストが刷新した旧約聖書の素朴だが確固とした道徳観念は、生存闘争の場では自分の都合次第でころころ変える、破廉恥なユダヤの2重道徳を放逐した。

キリスト教信仰に対するユダヤの憎悪は、次に引用するタルムードの文言に顕著に語られている・・

「ゴイの土地は荒野のごとし。
 最初に鍬を入れた者に所有権が帰する」
(ババ・バトラ、14-b)。

「ゴイの財産は主なき物品のごとし」 
(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、116-05)。

「ユダヤ人がゴイの土地に鍬を入れれば、
 その土地全部の所有者となったのである」
(ババ・バトラ、55-a)。
 
キリスト教徒も等しく認めていた旧約の権威を高めんが為に、それと平行してタルムードとラビの権威を増大させる為に、タルムードの解釈と筆者達は、次の様に述べた・・

「律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、
 長老方が聖典に記された言葉は常に重要である」

「ラビの言葉に背く事はトーラーに背く事よりも、更に悪い」
(ミズナ、サンヘドリン、10-03)。

「ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである」
(エルビン、21-b)。

「タルムードの決定は、生ける神の言葉である。
 エホバも天国で問題が起きたときは、現世のラビに意見を聞き給う」
(ラビ・メナヘン、第05書の注解)。

「エホバは天国にあって刻苦勉励してタルムードを学び給う。
 それ程この書物に敬意を払われているのである」
(メチラ訳)。

宗教的ドグマの威厳を増す為に、次の教義が授けられる・・

「ユダヤの民は神に選ばれたる唯一の民にして、
 爾余の民は軽蔑に値する不快な民である事」

「他の民の資産はなべてユダヤの民に属し、
 必然的にいかなる良心の咎めもなく占有する権利がある事」

「正しきユダヤの民は他の民の人々に与えられた道徳原理にも拘束されぬ事、 一方では正しきユダヤの民は、あたかも自分自身やユダヤ人自身の利益にな  るかの様に、道徳に反対する事」

「ユダヤ人はゴイから奪ってよい。
 (ゴイとは不潔を意味し、非ユダヤ人に対する蔑称)
 ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。
 ゴイは金を持つべきではなく、

  持てば神の名において不名誉となるだろう」
(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、348)。 

「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、
 イスラエル人がゴイに損害を負わせる事は差支えなし。
 汝の隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、
 ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない」
(ミズナ、サンヘドリン、57)。

「ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、
[ユダヤ人が]ゴイに返す事は禁じられている」
(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、266-0一)。

「ゴイに向って誓いを立てた者は、
 盗賊であれ税吏であれ、
 責任を取らなくてよい」
(トセフタ・スゼブノット、11)。

「結婚、誓約、約束を取り消すには、
 ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、
 ラビが不在の場合は、
 他のユダヤ人を3人呼び集め、
 彼等に残念ながら取り消すと言えばよい。
 そうすると3人は〝汝は許された〟と言う」
(シュルハン・アルーフ、02、01-247)。

ありとあらゆる種類の誓い事をあらかじめ御破算にし無罪放免とする様に願う、最後の審判のコル・ニドルの祈りというのがある。

「神にかけし誓い、
 人にかけし誓い、
 物にかけし誓い、
 和解のその日よりかけし誓いのくさぐさを、
 我等果たす積りで居りましたが、
 最早その時は尽きたので、ここにお願い申し上げます。

 くさぐさの誓いを一切取り消し、
 取るに足らざるものとなし給わん事を。
 我等の誓約は一切誓約に非ず、
 我等の宣誓はいっさい宣誓に非らざらん事を」
(シュルハン・アルーフ、編Ⅰ-136)。

「もしも律法の法廷で、
 ユダヤ人に対する証言をゴイに求められたユダヤ人は、
 明白に証言可能だとしても、それを行う事は禁じらる。
 だが、類似の事例で、
 ゴイに対する証言を求められたる場合は、進んで行ってよい」
(シュルハン・アルーフ・・Ch.Ha.、338)

「何者かが3度ユダヤ人を裏切るか、
 もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡した事が疑いない場合は、
 賢人会議はその男を放逐しなければならない」

「裏切り者を放逐せんが為に、
 何人も共同体に寄付をしなければならない」
(前掲書)。

「その場所を問わずユダヤ人を非難した者は殺して宜しい
 …… その人物が非難しない内に殺して宜しい ……
 しかしその人物に〝非難するな〟と警告する必要はある。
 にも関らずその人物が〝非難してやる〟と言った場合は殺さなければならず、
 真先に殺した者には大きな手柄が与えられるだろう」
(前掲書、388-10)。

「〝盗賊〟という言葉の解釈。
 ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、
 盗む事奪う事女奴隷を使う事は禁じられる。
 だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じられているこれらの全ての事を
 為しても禁じられない」 
(トセフタ、アボダ・ザラ、Ⅷ-05)。

「ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばなら
 ぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず」
(前掲書、Ⅷ-05)。
 
この戦慄すべき道徳律を発布し、あらゆる種類の犯罪を無罪としたタルムードの筆者達は、彼等の民に対する異邦人との闘争を容易にする為に、その内容を極秘にする必要を感じ、次の様な掟を設けた。

「ゴイに我等の信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。
 もしもゴイが我等の教説を知ったならば、
 彼等は公然と我等を殺すだろう」
(リブル・デヴィッドの書、37)。

「律法の秘密を公にする事は禁ぜられる。
 これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である」 
(ジャクトゥ・ハダズ、171-02)。

こういう意図をもった掟や戒律が、信仰ドグマの権威を高めた。

この様な禁制に直面しては、タルムードの秘密が他の国々、取分け西欧に殆ど知られる事がなかったのは驚くには当たらないし、今日に至るまで、最も進歩的で市民的なユダヤ人でさえも、タルムードの原理を公開する事は最も無法で許し難く、ユダヤ人の宗教に対する攻撃だと考えている。

ユダヤ民族と他の民族とを分かち、2つを混ぜ合わせない様にし、他国民の特徴を失わせる為に、日々の生活を律する儀式と規則と云ったおびただしい規範、偏見と迷信、野蛮時代の遺物、そして難解さが、タルムードに結集され、教典として崇められた。

東方のユダヤ人が今日まで遵守しているその教典は、文化や衛生についての最も素朴な観念までを軽蔑する。

例えば、次の様に申し渡す。

「ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら、
 只々嘘の説明をするべきであり、
 本当の事を教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。
 この律法を破る者は生かしておいてはならない」
(リブル・デイヴィド、37)。

「律法の秘密を暴く事は禁じられている」

「ゴイが我等の書物には
 何かゴイを害する事が書いてあるのではないかと聞いたら、
 偽りの誓いを立てなければならない。
 そして、その様な事は誓って書いてないと言わなければならない」
(ザーロット・ウザボット、ジュル・ダの書、一7)。

「タルムードを学ぶゴイ、
 それを助けるユダヤ人は尽く生かして置いてはならない」
(サンヘドリン、59、ア・アボダ・ゾラ、8の6。ザギガ、一3)。

「ゴイの耳は不潔である。
 彼等の浴槽、住居、田園は不潔である」
(トセフタ・ミクワト、v-0一)。 

「9歳と一日以上のゴイの少年と、
 3歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる」 
(パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、一一頁)。 

これらの原理は、諸国の政府が司法や軍事の地位にユダヤ人を就け
ない理由の説明になる。

そしてまた、かの〝反ユダヤ主義〟として知られる神秘な現象の説
明にも・・。 

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◇如何にしてプロトコールはロシアに来たか 
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〝プロトコール〟〈原注01〉という言葉は公的文書の最初の頁に糊付けして、開巻の決まり文句だとか参考に供する為に内容の要約だとかを書いた見返しの事を意味するのが普通だった。

条約の草稿は普通、署名人が署名する前に正式文書に誤りがないかどうかを検する為に、こういう糊付けをしたのである。

草稿そのものは会議で論じられた事をもとにしたので、この言葉は議事録の事も意味する様になったのである。

『シオン長老のプロトコール』の例では、ユダヤの指導者達による「行動計画草案」という意味になる。

ディアスポラ[バビロン捕囚後のユダヤ人離散]以来、ユダヤの歴史では異なる時期にこの様な草稿が数多く存在したが、一般に流布されたものは僅かしかない。

全体を通じて、その原理と道義性は、この種族と同じくらい古くから変りない。

挿入図に示したのは、15世紀にあった一例である。

1492年、スペインのラビの長キモールがグランド・サンヘドリンに手紙を出した。

スペインの法律によって追放されそうになった彼が、コンスタンチノープルにあったサンヘドリンに助言を求めたのである。

次がその返書である。〈原注02〉

「愛するモーゼの兄弟よ、
 貴下が心労と災厄を忍ばれる書簡を受理した。
 貴下同様我等も大いなる心痛に胸を刺さるる思いである。 
 大地方総督とラビの助言は次の通りである。
 

  • 1.スペイン王〈原注03〉にキリスト教徒にならん事を強要さるる件に関して。他に途なき以上、そうされよ。 
  • 2.貴下の財産の没収命令が出さるる件に関して。貴下の子息らを商人となし、キリスト教徒より少しづつ没収せしめよ。 
  • 3.貴下の生命が脅迫さるる件に関して。貴下の子息らを医師または薬剤師となし、キリスト教徒どもの生命を奪え。 
  • 4.貴下の礼拝堂破壊の件に関して。貴下の子息らを、キリスト教教会を破壊すべく、大聖堂参事会員ならびに聖職者にせよ。 
  • 5.その他、貴下が訴願されたる心労の種諸々に関して。貴下の子息を弁護士ならびに法律家となす様手配し、常に国事に親ませ、貴下らの支配世界実現によりキリスト教徒に軛をつなぎ存分に報復せよ。 
  • 6.貴下に送るこれらの指図を逸脱してはならない。なんとなれば、屈辱を蒙りし貴下の経験を通じ、貴下は現実の支配力に到達されるであろう。 

   
(署名) コンスタンチノープルのユダヤ王子 


ニールスが世に出したプロトコールは、ユダヤ指導者の計画の最新版に過ぎない。

如何にしてそのプロトールが広く知られるに至ったかの物語は、極めて興味深い。
 
1884年の事、ロシアの一将軍の娘、ジュスティーヌ・グリンカ嬢が、パリで政治情報を収集する任務を帯びて勤務中の事だった。

彼女はセント・ペテルブルグのオルゲフスキー将軍〈原注04〉と連絡をとっていた。

この任務の為に、彼女はジョセフ・ショールストというユダヤ人を雇った。

ある日、パリの[フリーメーソンの]ミズライム・ロッジの一員であるショールスト〈原注05〉が、ロシアにとって非常に重要な文書を提供するから2500フラン出さないかと話を持ちかけてきた。

セント・ペテルブルグから到着した全額が支払われると、問題の文書はグリンカ嬢に手渡された。
〈原注06〉 

嬢はフランス語の原本に前書きを付け、ロシア語訳を添えてオルゲフスキーに届けた。

オルゲフスキーは今度は皇帝に届く様に、上官のシェレーヴィン将軍に手渡した。

だが、シェレーヴィンは、裕福なユダヤ人から負債を負っていた為、握り潰してただ資料保管所に保存しただけに終った。〈原注07〉

一方、パリではロシア宮廷生活の事を書いた書物〈原注08〉が出版され、ロシア皇帝の不興を買った。

皇帝は秘密警察に著書を見付け出してくる様に命じた。
 
この事が、恐らく意図的にねじ曲げられて〈原注09〉、グリンカ嬢が著者であるという事にされ、彼女はロシアへの帰途、彼女の農園があるオレルに追放の身となった。

グリンカ嬢は、この地方の貴族であるアレクシス・スホーティンに、プロトコールの写しを一通渡した。

スホーティンはこの文書を、ステパーノフとニールスという2人の知人に見せた。

ステパーノフは1897年、密かにこの文書を印刷し配付した。

ニールスは、初めはツァルスコエ・ツェロ(ロシア)で1901年に、『卑小の内なる偉大』という書名で出版した。

次いで、同じ時期に、ニールスの友人G・ブトミもまた写しを一部持ち出し1906年8月10日、大英博物館に寄託した。

その間、ロシア警察のユダヤ人達〈原注10〉を通じて、1897年のバール[バーゼルの古名]会議〈原注11〉の議事録が入手され、その文書がプロトコール〈原注12〉の内容と酷似している事が判った。

1917年01月、ニールスは改訂増補版を出版する準備をしていた。

だが、同書が市場に出回らないうちに、1917年03月の革命が起こり、政権を取ったケレンスキーはニールスの本を全冊処分する命令を出した。

1924年、ニールス教授はキエフでチェカに逮捕投獄され拷問を受けた。

ニールスは首席裁判官のユダヤ人に、この処分は「プロトコールを出版する事で測り知れない損害を人々に与えた事」に相応する措置であると言われた。

数ヵ月後に釈放されたニールスは、今回はモスクワで再びGPU(ゲーペーウー、チェカ)に逮捕され監禁された。


1926年に釈放されたが、ニールスは追放先のウラジミールで亡くなった。

時に1929年01月13日だった。 

ニールスの第2版は数冊押収を免れ、外国へ持ち出され刊行された。

ドイツではゴットリート・ツム・ビーク(1919年)、英国ではザ・ブリトンによって(1920年)、フランスではジュアン氏が『秘密社会国際評論』で、また、ウルバン・ゴイェが『ラ・ヴェーユ・フランス』、アメリカ合衆国ではスモール・メイナード会社(ボストン、1920年)である。後には、イタリア語、ロシア語、アラビア語、そして日本語でも刊行された。
 
以上が、プロトコールが如何にロシアにやって来たかの手短かな物語であり、以来、広くこの書が読まれる様になっている。
 
この点に関するステパノフ氏の調書<原注13>を裏付け証拠として、ここに掲載する。

「1895年、トゥーラ地方の私の知人、元市長のアレクシス・スホーティンが、私に『シオン長老のプロトコール』の手書き原稿をくれました。

スホーティンは、パリに居住する知り合いの女性が、その女性の名前は言いませんでしたが、ユダヤ人の友人の家で見付けたものだと言いました。

パリを立つ前に、彼女は密かに翻訳して、その一部がロシアに来て、スホーティンの手に渡ったと言いました。初め私はこの翻訳を謄写版で印刷しましたが、読みにくいものでした。

それで活字印刷する事にしましたが、何時だったかどこの町の何という印刷所だったか覚えておりません。
この件に関しましては、その頃、セルギウス大公の執事長だったアルカディ・イッポリットヴィッチ・ケレポフスキーに手伝って貰いました。

彼がこの文書を地方の印刷所に印刷させたのです。それは1897年の事でした。 

セルギウス・ニールスは彼の著作の中にこのプロトコールを入れ、彼自身の注釈を付けました。

 


 
署名:フィリップ・ペトロヴィッチ・ステパーノフ 
元モスクワ長老教会事務弁護士、式部官、枢密院委員、
現在(一897年)オレル町所在モスクワ・カーク鉄道代表。
1927年4月17日。 
証人 ディミトリ・ガリツィン王子 
スタリ・フォンタク所在ロシア移民居留地代表 

 

 


〈原注01〉ギリシャ語のprote(最初)+ kolla(にかわ、接着剤)。 

〈原注02〉この返書は、16世紀のスペインの書物、フリオ・イニゲス・デ・メドラーノ著『ラ・シルヴァ・クリオサ』(パリ、オリー出版社、1608年)の156頁から※156頁にかけて掲載されている。 

〈原注03〉フェルディナンド王。 

〈原注04〉当時の内務大臣シェレーヴィン付き秘書官。 

〈原注05〉別名シャピロで、彼の父親はロンドンでこの2年前、偽造罪で10年の懲役宣告を受けた。 

〈原注06〉ショルストは、エジプトに逃亡したが、フランス警察の記録では、同地で殺害された。 

〈原注07〉1896年、彼は死に際してプロトコールを含めた自分の回想録をニコラス2世に遺贈した。 

〈原注08〉〝ヴァシーリー伯爵〟の偽名で発行されたこの本の真の筆者はジュリエット・アダム夫人で、デミドフ・サン・ドナコ王女、ラジヴィル王女その他のロシア人の提供した資料を使って執筆した。 

〈原注09〉パリのロシア秘密警察にいたユダヤ人にマニウロフがいて、この憎むべき人物はM・パレオローグの『回想録』に描かれている。 

〈原注10〉明らかにエノ・アゼフとエフロムである。エフロムは、以前ラビであって1925年に逃避先のセルビアの僧院で死没した。彼はよく修道僧に、プロトコールは世界を支配し様とするユダヤの計画のほんの一部であって、異邦人に対するユダヤの憎悪を弱々しく表現したものに過ぎないと語っていた。 

〈原注11〉上記、第01部34頁。 

〈原注12〉ロシア政府は、ブナイ・ブリスが1893~4年にニューヨークで開いた会議で、ヤコブ・シフ(上記、63、64頁)がロシア革命運動委員会代表に選ばれた事を知った。 

〈原注13〉著者訳。