ホラーク先生は、1012歳と言う思春期前のもっとも大事な時期に、私のために、音楽的にも人間的にも最も必要なことをして下さった。



それはその時期にその子に最も必要なのことのみを行うということ。


自分は表に出ず、徹底的に縁の下の力持ちに徹すること。


周りの理解のない批判を全て自分が甘んじて受け、子供を守ること。



目先の子供向けコンクールで華を求める代わりに、大事な時期に技術的な基礎固めをし、将来困らないように根をしっかり張らせること。




ホラーク先生は言っておられた。


目先の子供のコンクールにそんなに振り回される必要はないということ。それより基礎を固めるほうが大事だということ。



それより、将来「本当に音楽がわかる人」の前で演奏した時、恥ずかしくない演奏ができるようになることの大事さ。



「本当に音楽のわかる人」というのは、こわいものなのです。1曲弾いただけで、あなたのことが全てわかってしまいます。何のごまかしもききません。あなたの経験してきたこと、勉強してきたこと全てが、さらけだされます。

だから、基礎をきちんと身につけなさい。音楽だけでなく、絵画、文学、一流の芸術にたくさんふれなさい、芸術だけでなく、たくさん勉強もして、教養を身につけなさい。

将来「本当に音楽のわかる人」の前で弾いた時、恥ずかしくないように。

1曲ですべてがばれるのだから。"



先生は、技術的には本当に厳しかったが、それとは対照的に、音楽的、芸術的表現については、ほとんど一切と言って良いほど干渉して来なかった。自立して自分自身の表現をしていけるように、と言うこと常に念頭に導いてくれた。決して教えず、どう弾くかと言うことをいっさい指図せず、自分自身の解釈を押し付けず、自分で考えさせた。常に「あなたは、どう弾きたいのですか?」と問い続けた。


ホラーク先生以後、1年だけ附属音楽教室の別の先生に習った後、またしても父に、今度は音楽教室そのものを強制的に辞めさせられてしまった私は、その後は、中3ぐらいの時に数ヶ月別の先生に習った他は、ずっと趣味として独学でピアノを弾いてきた。


しかし、ホラーク先生のレッスンから20年以上の時を経て、ピアノを諦めきれなかった心理士の私が、ヨーロッパのある音楽院を、音大卒業という必須前提条件をクリアしていないまま受験した時、ホラーク先生に習っていた当時は誰一人理解できなかった、音楽の専門教育の指導者としてのホラーク先生の正しさ、先見性が、明らかになるのである。


心理療法としての価値と先見性は後に述べるとして、まずは音楽の専門教育という観点から見た正しさと先見性について、次回書いて行くことにする。